とあるスナックで
小林
では、ローの話の続きを読んでいきましょう。 P-179
ローにとって必要だったのは、銀行券発行の裏付けとなる現金収入源でした。といっても、この現金収入源は、実際に収入を稼ぎ出していなくとも、人々がそう信じていてくれさえすればよいのです。そうすれば、破綻寸前の国家財政を再建することも夢ではありません。そして、それを可能にするためにローが考え出した巧妙な方法こそ、後に「ロー・システム」呼ばれることになったものなのです。それは、国民を欺き、彼らの現金を搾り取り、国家債務を解消しようという、いってみれば国家規模での詐欺行為を完成させる企てであるといってもいいでしょう。
具体的にはこうです。莫大な利益を生み出す(と考えられてる!)特権会社を設立し、そこが王立銀行券を引き受けて、これを国家に貸し出します。政府はこれを財政支出や債務償還金として使用しますから、銀行券が市中に出回ります。さらに、こうして流通する銀行券を、この特権会社の株を上場することによって吸収してしまおうという二段構えのスキームです。確かに、この特権会社の予想収益を人々が信じさえすれば、銀行券と引き替えに受け取るでしょう。ただし、この株券の価格が上昇しているの間は、という留保条件がつきますが。
当時、フランスが新大陸に有していた植民地は「ルイジアナ」と呼ばれており、メキシコ湾から西はロッキー山脈、北は五大湖にいたるまで達する広大な領土を誇っていました。当時の入植状況はまったく悲惨という他のないもので、北米の厳しい自然と黄熱病、マラリアなどの風土病により、入植者の多くが一年ももたないうちに死んでしまったといいます。
いつの時代も一般大衆は未知の世界に対してバラ色の夢を描くものですが、ルイジアナには金。銀、エメラルドなど貴金属や宝石が大量に埋蔵されていると信じ込んでしまう人々は当時少なくなかったのです。「危険があるからこそ、得られる利益も莫大である」という、もっともらしいイメージが欲深い人々の心をとらえることに見事に成功したわけです。
「ルイジアナ会社」の株狂乱
ローの考えは、このルイジアナに埋蔵されているに違いない近郊の探査や採掘を目的とする「ルイジアナ会社」を設立し、この株式を上場しようというものです。本当に金が発見されるかどうかは問題ではありません。投資家がそれを信じて、発行株式を買ってくれるかどうかだけが問題です。政府はこの会社設立を認め、同社がルイジアナ領土を25年間賃借し、独自の軍隊を創設する特権を与えたのです。早速、ルイジアナ会社は、600人のフランス人と1000人の奴隷を入植させることを決めました。
ルイジアナ会社は、当時普及していたタバコの栽培と販売の独占権を取得し、さらに、東インドや中国関連の企業を次々と買収しました。そして。社名も「インド会社」と変更して、フランスの外国貿易を独占していきました。また、このインド会社は貨幣鋳造権も獲得したため、瞬く間に世界最大の企業となったのです。
しかし、一株500リーブルで20万株売りに出されたインド会社の株は、人々の疑念から1718年の暮れには半値にまで下げていました。そこで、翌年、王立銀行は銀行券を三割増刷しました。その一方で、インド会社について、新たな買収、輝かしい事業展望といった投資家の気を惹くようなニュースが次々に流されました。実際、8月にインド会社は9年間の国税徴税権をも獲得することとなったのです。
たちまち「ルイジアナ会社」ブームに市場は揺れ、株価は急騰を続けました。8月末には、当時の販売価格の10倍である5000リーブルにまで達し、10月には8000リーブルまで跳ね上がりました。前年の安値で株を買っていれば、すでに32倍になっていたのです。ところが、相場は休むどころか、ますます加熱していきました。さまざまな特権がインド会社に与えられる中で、株価はほとんど狂乱状態になりました。時期を逃した投資家がジェットコースターのような相場に飛び乗ろうとし、30万人以上の人々がパリに押し寄せたといいます。カンカンポア通りでは、カフェ、レストラン、街路など、ありとあらゆる場所がインド会社株の取引場と化し、誰構わず売買が行われるといった有様でした。(コー注:まるでチューリップ球根の時と同じようだ)
ローは、インド会社を実際に稼働させるために、フランス人をミシシッピーへ移住させる計画をいちおう考えてはいたようです。しかし、当時、フランスからミシシッピーへ移住するのは、おそらくいまで言うと月に移住するぐらいの困難と危険が伴うものと考えられていたと言ってもいいでしょう。応募してくるのは犯罪者や売春婦ばかりでした。こんな植民計画が成功するわけがありません。
インド会社の株は、結局、1719年の末頃に天井をつけました。この時の株価はなんと2万リーブルというから驚きです。当初、500リーブルで売り出された株が、わずか3年もたたないうちに40倍にまで膨らんでいたのです。ローが編み出した国家債務の返済方法はまんまとうまく行きました。政府は年利3%の国債を発行すると同時に、その国債でインド会社の新規発行株の払い込みができると宣言しました。こうして、国の借金はいつしか紙切れになる運命の株券にうまく化けてくれたのです。(コー注:このようにしなければ、当時のフランスの国債はなかなか売れなかったのかな?)
ルイジアナ会社の株の売却代金も、ルイジアナ開発のためではなく、もっぱら政府の負債の返済に充てられました。王立銀行の銀行券は政府に対して貸し付けられ政府はそれを経常支出や国債返済に使ったのです。人々の手に渡った銀行券は、さらに政府に貸し付けられます。
こうして、銀行券の膨大な発行とその還流を通じて生じた「信用膨張」は、あたかも風船のように膨らみながら、人々の持っていた現金をバブル化した株券に置き換えてしまったのです。
ロー・システムの終わり
どんなバブルでも、いつか弾けるときがやってきます。ロー・システムが作り出したバブルはいかにして崩壊したのでしょうか。ロー・システムによるインド会社株の高騰がいつまでも続くはずがありません。インド会社に対する人々の信用が崩壊すればこのロ-・システムも終わりを迎える運命にあります。(コー注:社会全体の<信用膨張>の量には、限界があるということではないんだろうか?いつの時代にでも)
1720年にその時がやってきました。どの場合も、バブルの崩壊は、気が熟すれば、ほんの些細な事をきっかけにして始まるものです。その年の1月、コンデ王子とコンティ王子はインド会社の株を売却して換金しました。3台の馬車が金貨を積んでいったといいますから、相当の額だったに違いありません。この噂を耳にして恐れをなした投資家たちは我も我もと株の売却に走りました。
これに対して、リーブル紙幣がさらに増刷されましたが、金への兌換を要求する人々が増えるにつれ、その価値は下落していきました。また、500リーブル以上の金銀の所有を禁止し、100リーブルを超える支払いは紙幣によるべきという命令も出されましたが、これは逆効果で、信用危機をかえって広げただけでした。いわば株や紙幣にはもはやなんら価値もないことを宣言してしまったようなものだからです。あちこちに金銀のブラックマーケットが立ち、換金を求める人びとの列が以前にもまして長くなりました。
いまの時代にも、リーマンショックのような世界的な金融危機が起こったり、世界経済の不安定さが増してくると、より安全な資産を求めて現金を金へと交換する資産家たちがいます。国が発行している貨幣といっても、ひとたび「信用危機」が雪崩のように起これば、人々はそれ自体に価値がある本位貨幣、あるいは土地など実体のあるものを追い求めるようになることは,変わりがありません。
失墜したインド会社の信用をなんとか回復しようと、一芝居打ったこともあります。ある日パリで大量の浮浪者を雇い、いまからルイジアナへ金を採掘にいくかのようにシャベル片手に町の大通りを行進させました。これは、一時的には功を奏しました。しかし、何週間もして、彼らが元の浮浪者に戻っているのが目撃されました。しかも、金がまったく届いていません。この事を知って、人々の不安は一気に広がります。王立銀行には、銀行券を金貨へ交換するよう求める人々が殺到しました。いわゆる取り付け騒ぎの発生です。この年の7月には、1万5000人以上の群衆が王立銀行の前に押し寄せ、16人が圧死するという惨事も起こったたほどです。
結局、1720年6月17日、王立銀行券の兌換が停止されたため、株は転げ落ちるように大暴落し、他の多くの商品の価値が崩壊することになりました。その結果、経済活動は鈍化し、恐慌が発生したのです。
フランス財務総監にまでのし上がり栄華を極めたローも、いまや万人から呪われ、怒りの的になりました。身の危険を感じたローは、ついにオランダへ亡命するしかありませんでした。イギリスに4年住み、その後、イタリアのヴェネツィアへ渡り、そこで一人寂しく、誰にも顧みられない余生を送ったということです。
このロー・システムの崩壊のせいで、フランス人は、銀行をその後長い間、信じなくなってしまったといいます。・・・。(続く)
コー
そして次は、イギリスの<バブル>の言葉のもとになった、「サウス・シー・バブル・カンパニー」の話なんだな。しかし、当時それほど政府の債務の返済が困っていたということだろう。なんか今と同じだな。アメリカや日本やヨーロッパの国々の政府債務はこれからどうなるんだろう。結局<債務・借金貨幣システム>は返せないほど借金が積み上げってしまうということだと思う。システム上そうならざるを得ないということだと思う。