9.11について

2001年の9.11事件や、その他色々な感想、思い、などを書いていけたらなと、思っています。

9.11について <貨幣の謎>西部忠(にしべまこと)著 その10

2018年01月19日 | 日記
とあるスナックで

小林
しかし<バブル>という言葉は、300年前のイギリスの<サウス・シー・バブル・カンパニー>が元だったというのは、知らなかったですね。ではこの本の続きを読んでいきましょう。 P-191

バブルに振り回された天才たち

この相場に手を出した者の中に、万有引力の法則を発見した有名な物理学者であるアイザック・ニュートンも含まれていました。彼は晩年、造幣局長官や王立協会会長などの要務を努めましたが、サウス・シー・バブルに遭遇してしまったのです。
ニュートンは、最初7000ポンドを投資して倍になったところで売却して利益を上げたのに、その後、高値づかみをして結局2万ポンドも損しています。この金額はいまの1億円以上に相当するといいますから、彼も相当痛手を被ったのでしょう。「物体の運動を測定できても、人間の狂気を予想することはできない」と語ったと言いますが、ここには自省も込められているのでしょう。

バブル相場の渦の中に飲み込まれてしまうとき、彼のような天才ですら愚かな行動にでてしまうものかと考えさせられます。しばしばこのエピソードが引き合いに出されるので、彼にとっては気の毒な話ですが。

ちなみに、経済学者の中で相場で財をなしたというものはそう多くありません。19世紀初めのイギリスの経済学者であるリカードは、経済学者になる前に証券業者として、あるいは株の相場師として、一時は、あのロスチャイルド家と張り合うほど活躍していました。リカードが事業をやめて経済学者になっていなかったら、もしかしたら、現代国際金融の一大勢力になっていたかもしれません。

また、20世紀のケインズも、第一次大戦後、相場の失敗で破産寸前の窮地に立たされましたが、死ぬまでに投機により一財を成していました。しかし、これらは例外といった方がよく、本当は相場に手を出して痛い目を見た学者の数の方が多いはずです。こちらの方は大損しても人に話さないはずですから、歴史に残っているものは当然少ないからです。

物価問題の研究者として名高い20世紀アメリカの経済学者フィッシャーが、1929年の大恐慌のとき、株式相場で破産しかかり、大学から借金をしたのは有名な話です。

天才であろうとなかろうと、人はバブルからそう簡単には逃げられないようです。



コー
うーん、なるほどね。なかなか難しいね、やっぱり。
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9.11について <仮想通貨 暴落>

2018年01月17日 | 日記
とあるスナックで

コー
いやー、きょう仮想通貨市場が暴落だね。

仮想通貨市場に参加する人は、本当にいろいろ考えて、参加しなければならないということだと思う。

僕はこの人の意見に賛成だな。

やっぱり、宝くじを買う位の金額でいいんだと思う。

なくなってもいいんだというくらいの金額だな


小林
本当にそう思いますね。
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9.11について <貨幣の謎> 西部忠〔にしべまこと)著 その9

2018年01月17日 | 日記
とあるスナックで

小林
では、バブルという言葉がが使われるようになったイギリスの話ですね。 P-186

バブルの生みの親「サウス・シー・バブル・カンパニー」

オランダのチューリップバブル、フランスのロー・システムに続いて、次のバブルはイギリスです。

フランスでロー・システムがうまく行くかに見えた頃、イギリスでもそれを真似して国家の債務を奇跡的に返済しようという計画が練られていました。当時のイギレスはフランスとの長期にわたる戦争のために巨額の借金を抱えていました。国が債務返済に苦しんでいるのはさきほど見たフランス政府と同じですが、イギリスではこの債務をジェントリーや貴族が嫌っていたという点で違います。というのも、政府の借金は自分らが所有する土地を担保として借り入れられていたものであると考えられていたからです。政府債務の中でも特に99年間という超長期の年金公債は、所有者の同意なしに完済できない仕組みだったので、政府を悩ませていました。そこで一計を案じたのです。

大蔵大臣を中心とする財務担当者は、当時、「サウス・シー(南海)」と呼ばれていたカリブ海諸島、スペイン領中南米、太平洋諸島との貿易独占権を持つ会社設立を構想していました。この「サウス・シー・カンパニー(南海会社)」は悲惨な運命をたどり、後に「サウス・シー・バブル・カンパニー(南海泡沫会社)」と呼ばれることになります。そして、ここから「バブル」という言葉が生まれたわけです。

さて、元祖バブルの顛末は如何なものだったのでしょうか。
1711年、関連立法が制定され南海会社は設立されました。南海会社は、政府債務1000万ポンドを引き継ぐ代わりに、政府から南海の貿易独占権と年々の補助金を得ることになりました。
1719年には、さらに政府から各種の追加補助と利権を与えられ政府の残債を引き取るという条件で、新株の発行許可を申請しました。1720年2月2日、新株式発行案が下院を通過すると株価は129ポンドから160ポンドへと急騰します。これが上院を通過すると、390ポンドまで一気に跳ね上がりました。4月には、役員会で10%の配当が決議されたため、株価は400ポンドを超えました。あっという間に、株価は3倍以上にもなってしまったのです。

さらに5月には、一般大衆を対象とする初の公募が発表されました。ここには、例の年金公債をうまく引き寄せる次のような罠が仕掛けられたのです。募集期間の最初の一週間に年金公債を持ち込んだ者に対しては、1株375ポンドで割り当てられるというのがそれです。市場価格は、公募開始5日目まで495ポンドに吊り上げられており、公募のメリットは大きく膨れ上がっていました。そのため、残存していた年金公募の半数以上が株式と交換されたのです。

こうした投機的な株価上昇はなおも続きました。5月に550ポンド、6月に890ポンド、夏には1000ポンド寸前にまで達しました。人々がこれに次々と参加し、短期間のうちに大きな富を築いた成金を続出しました。

いかがわしい会社=バブル・カンパニー

この当時、「バブル」という言葉は、株価が実質的な資産価格よりも異常に高くなっている相場の状況を、表すものではありませんでした。アメリカ大陸西岸や南米といった地域の大部分では、スペインが領土と貿易に対する独占権を主張していました。したがって、イギリス政府が南海貿易の独占ををこの会社に許可したにしても、貿易独占の見通しは極めて怪しいものでしかなかったのです。イギリスの国旗を掲げて海をわたる貿易船が、スペイン艦隊により撃沈され海の藻くずとして消えてしまいかねないわけですから。

こうした南海会社のいい加減な事業内容もさることながら、これを模倣し便乗利益を上げようと、それこそ実体のない「泡のような」会社が次から次へと設立されました。こうした正体の定かでない、いかがわしい会社のことを「バブル・カンパニー(泡沫会社)」と呼んでいたのです。

その事業内容は、ほとんど冗談としかいえないものが多かったのです。笑えるところでは、「永久運動が可能な車輪の製造」、「水銀を純銀に変える事業」、「英国中どこでも出張サービスをする葬儀会社」など。極めつけは「最高の利益が期待される事業だが、その内容については後日まで発表を控える」というもので、「1株100ポンド、2%頭金支払い、年100%配当保証」という条件が付いたこの会社の株には、1日あたり1000株の購入申込みがあったといいます。こういった詐欺まがいの名目的な会社にも人々は大金を投じたため、実際、株価もあるところまで上昇しました。

1720年6月、ついにこれらの泡沫会社の設立を禁止する最初の「バブル法」が制定されました。ところが、こうした法律が議会を通過したのは、必ずしも無知でだまされやすい人々を悪徳商法から保護するためではなかったのです。南海会社に多額を投じていた議員たちが、ただ自らの利益を守りたいがためのでした。こうした泡沫会社が続々と生まれてくると、南海会社へ投資するものが少なくなり、株価が値上がりしなくなってしまうからです。

ご多分にもれず、ここでもこのバブル相場は一気に崩壊します。その原因が、インサイダー情報をつかんでいた投資家や目先のきく人々が売り始めたからか、あるいは、バブル法の効果が相場にマイナスに働き始めたからなのかはわかりません。あるいは、バブル法の効果が相場にマイナスに働き始めたからなのかはわかりません。何か小さなきっかけさえあれば、バブルは崩壊するのですから、その直接の理由を言い当てることはできません。

いずれにせよ、相場は天井をつけた後一旦下がり始めると、つるべ落としのようでした。9月175ポンド、11月135ポンド、12月124ポンド・・・。人々の信頼を回復するために、同社役員会は8月に次年度以降10年間5割配当を実施すると発表しましたが、もはや相場には何の効き目もありませんでした。株価は乱高下しながら急落し、結局、140ポンドで安定しました。これは高値の約7分の1の水準です。

バブルに振り回された天才たち

この相場に手を出した者の中に、万有引力の法則を発見した有名な物理学者であるアイザック・ニュートンも含まれていました。・・・(続く)。



コー
この人も、バブルにはまって、大損したみたいだな。だれでも、はまっちゃうんだな。

でもそこからこの人は、自分のいままでの学説を否定して、<100%マネー>を発表したんだと思う。なかなかできないと思う。
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9.11について <貨幣の謎> 西部忠(にしべまこと)著 その8

2018年01月15日 | 日記
とあるスナックで

小林
では、ローの話の続きを読んでいきましょう。 P-179

ローにとって必要だったのは、銀行券発行の裏付けとなる現金収入源でした。といっても、この現金収入源は、実際に収入を稼ぎ出していなくとも、人々がそう信じていてくれさえすればよいのです。そうすれば、破綻寸前の国家財政を再建することも夢ではありません。そして、それを可能にするためにローが考え出した巧妙な方法こそ、後に「ロー・システム」呼ばれることになったものなのです。それは、国民を欺き、彼らの現金を搾り取り、国家債務を解消しようという、いってみれば国家規模での詐欺行為を完成させる企てであるといってもいいでしょう。

具体的にはこうです。莫大な利益を生み出す(と考えられてる!)特権会社を設立し、そこが王立銀行券を引き受けて、これを国家に貸し出します。政府はこれを財政支出や債務償還金として使用しますから、銀行券が市中に出回ります。さらに、こうして流通する銀行券を、この特権会社の株を上場することによって吸収してしまおうという二段構えのスキームです。確かに、この特権会社の予想収益を人々が信じさえすれば、銀行券と引き替えに受け取るでしょう。ただし、この株券の価格が上昇しているの間は、という留保条件がつきますが。

当時、フランスが新大陸に有していた植民地は「ルイジアナ」と呼ばれており、メキシコ湾から西はロッキー山脈、北は五大湖にいたるまで達する広大な領土を誇っていました。当時の入植状況はまったく悲惨という他のないもので、北米の厳しい自然と黄熱病、マラリアなどの風土病により、入植者の多くが一年ももたないうちに死んでしまったといいます。
いつの時代も一般大衆は未知の世界に対してバラ色の夢を描くものですが、ルイジアナには金。銀、エメラルドなど貴金属や宝石が大量に埋蔵されていると信じ込んでしまう人々は当時少なくなかったのです。「危険があるからこそ、得られる利益も莫大である」という、もっともらしいイメージが欲深い人々の心をとらえることに見事に成功したわけです。

「ルイジアナ会社」の株狂乱

ローの考えは、このルイジアナに埋蔵されているに違いない近郊の探査や採掘を目的とする「ルイジアナ会社」を設立し、この株式を上場しようというものです。本当に金が発見されるかどうかは問題ではありません。投資家がそれを信じて、発行株式を買ってくれるかどうかだけが問題です。政府はこの会社設立を認め、同社がルイジアナ領土を25年間賃借し、独自の軍隊を創設する特権を与えたのです。早速、ルイジアナ会社は、600人のフランス人と1000人の奴隷を入植させることを決めました。

ルイジアナ会社は、当時普及していたタバコの栽培と販売の独占権を取得し、さらに、東インドや中国関連の企業を次々と買収しました。そして。社名も「インド会社」と変更して、フランスの外国貿易を独占していきました。また、このインド会社は貨幣鋳造権も獲得したため、瞬く間に世界最大の企業となったのです。

しかし、一株500リーブルで20万株売りに出されたインド会社の株は、人々の疑念から1718年の暮れには半値にまで下げていました。そこで、翌年、王立銀行は銀行券を三割増刷しました。その一方で、インド会社について、新たな買収、輝かしい事業展望といった投資家の気を惹くようなニュースが次々に流されました。実際、8月にインド会社は9年間の国税徴税権をも獲得することとなったのです。

たちまち「ルイジアナ会社」ブームに市場は揺れ、株価は急騰を続けました。8月末には、当時の販売価格の10倍である5000リーブルにまで達し、10月には8000リーブルまで跳ね上がりました。前年の安値で株を買っていれば、すでに32倍になっていたのです。ところが、相場は休むどころか、ますます加熱していきました。さまざまな特権がインド会社に与えられる中で、株価はほとんど狂乱状態になりました。時期を逃した投資家がジェットコースターのような相場に飛び乗ろうとし、30万人以上の人々がパリに押し寄せたといいます。カンカンポア通りでは、カフェ、レストラン、街路など、ありとあらゆる場所がインド会社株の取引場と化し、誰構わず売買が行われるといった有様でした。(コー注:まるでチューリップ球根の時と同じようだ)

ローは、インド会社を実際に稼働させるために、フランス人をミシシッピーへ移住させる計画をいちおう考えてはいたようです。しかし、当時、フランスからミシシッピーへ移住するのは、おそらくいまで言うと月に移住するぐらいの困難と危険が伴うものと考えられていたと言ってもいいでしょう。応募してくるのは犯罪者や売春婦ばかりでした。こんな植民計画が成功するわけがありません。

インド会社の株は、結局、1719年の末頃に天井をつけました。この時の株価はなんと2万リーブルというから驚きです。当初、500リーブルで売り出された株が、わずか3年もたたないうちに40倍にまで膨らんでいたのです。ローが編み出した国家債務の返済方法はまんまとうまく行きました。政府は年利3%の国債を発行すると同時に、その国債でインド会社の新規発行株の払い込みができると宣言しました。こうして、国の借金はいつしか紙切れになる運命の株券にうまく化けてくれたのです。(コー注:このようにしなければ、当時のフランスの国債はなかなか売れなかったのかな?)

ルイジアナ会社の株の売却代金も、ルイジアナ開発のためではなく、もっぱら政府の負債の返済に充てられました。王立銀行の銀行券は政府に対して貸し付けられ政府はそれを経常支出や国債返済に使ったのです。人々の手に渡った銀行券は、さらに政府に貸し付けられます。
こうして、銀行券の膨大な発行とその還流を通じて生じた「信用膨張」は、あたかも風船のように膨らみながら、人々の持っていた現金をバブル化した株券に置き換えてしまったのです。

ロー・システムの終わり

どんなバブルでも、いつか弾けるときがやってきます。ロー・システムが作り出したバブルはいかにして崩壊したのでしょうか。ロー・システムによるインド会社株の高騰がいつまでも続くはずがありません。インド会社に対する人々の信用が崩壊すればこのロ-・システムも終わりを迎える運命にあります。(コー注:社会全体の<信用膨張>の量には、限界があるということではないんだろうか?いつの時代にでも)

1720年にその時がやってきました。どの場合も、バブルの崩壊は、気が熟すれば、ほんの些細な事をきっかけにして始まるものです。その年の1月、コンデ王子とコンティ王子はインド会社の株を売却して換金しました。3台の馬車が金貨を積んでいったといいますから、相当の額だったに違いありません。この噂を耳にして恐れをなした投資家たちは我も我もと株の売却に走りました。

これに対して、リーブル紙幣がさらに増刷されましたが、金への兌換を要求する人々が増えるにつれ、その価値は下落していきました。また、500リーブル以上の金銀の所有を禁止し、100リーブルを超える支払いは紙幣によるべきという命令も出されましたが、これは逆効果で、信用危機をかえって広げただけでした。いわば株や紙幣にはもはやなんら価値もないことを宣言してしまったようなものだからです。あちこちに金銀のブラックマーケットが立ち、換金を求める人びとの列が以前にもまして長くなりました。

いまの時代にも、リーマンショックのような世界的な金融危機が起こったり、世界経済の不安定さが増してくると、より安全な資産を求めて現金を金へと交換する資産家たちがいます。国が発行している貨幣といっても、ひとたび「信用危機」が雪崩のように起これば、人々はそれ自体に価値がある本位貨幣、あるいは土地など実体のあるものを追い求めるようになることは,変わりがありません。

失墜したインド会社の信用をなんとか回復しようと、一芝居打ったこともあります。ある日パリで大量の浮浪者を雇い、いまからルイジアナへ金を採掘にいくかのようにシャベル片手に町の大通りを行進させました。これは、一時的には功を奏しました。しかし、何週間もして、彼らが元の浮浪者に戻っているのが目撃されました。しかも、金がまったく届いていません。この事を知って、人々の不安は一気に広がります。王立銀行には、銀行券を金貨へ交換するよう求める人々が殺到しました。いわゆる取り付け騒ぎの発生です。この年の7月には、1万5000人以上の群衆が王立銀行の前に押し寄せ、16人が圧死するという惨事も起こったたほどです。

結局、1720年6月17日、王立銀行券の兌換が停止されたため、株は転げ落ちるように大暴落し、他の多くの商品の価値が崩壊することになりました。その結果、経済活動は鈍化し、恐慌が発生したのです。

フランス財務総監にまでのし上がり栄華を極めたローも、いまや万人から呪われ、怒りの的になりました。身の危険を感じたローは、ついにオランダへ亡命するしかありませんでした。イギリスに4年住み、その後、イタリアのヴェネツィアへ渡り、そこで一人寂しく、誰にも顧みられない余生を送ったということです。

このロー・システムの崩壊のせいで、フランス人は、銀行をその後長い間、信じなくなってしまったといいます。・・・。(続く)



コー

そして次は、イギリスの<バブル>の言葉のもとになった、「サウス・シー・バブル・カンパニー」の話なんだな。しかし、当時それほど政府の債務の返済が困っていたということだろう。なんか今と同じだな。アメリカや日本やヨーロッパの国々の政府債務はこれからどうなるんだろう。結局<債務・借金貨幣システム>は返せないほど借金が積み上げってしまうということだと思う。システム上そうならざるを得ないということだと思う。
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9.11について <貨幣という謎> 西部忠(にしべまこと)著 その7

2018年01月13日 | 日記
とあるスナックで
小林
では、続きを読みましょう。P-175

ジョン・ローという男

オランダに続き、18世紀の初めには、フランスとイギリスでバブルが発生しています。フランスのバブルは、スコットランド出身のジョン・ローという男が主人公でした。ジョン・ローの生み出したバブルは、彼が考案した金融システムがある時期までうまく作動した結果、発生したものです。
ローは、1671年に、金細工師の息子として生まれました。当時の金細工師は、通貨の保管・貸付業務、いまでいえば、銀行のような業務を行っていました。ローは、若くしてロンドンに遊学し、銀行や金融について勉強しました。しかし、彼はまたプレイボーイ、無類の酒好き、賭博師であり、「伊達男ロー」としてもしられました。
ところが、この遊学は1694年のある事件により中断されることになります。ローはたくさんの愛人を囲っていたのですが、もう一人の伊達男ウィルソンの妹がローの愛人をからかったため、ローがウィルソンに決闘を申し込み、剣で相手の腹を突き刺し殺してしまったのです。
ローは逮捕され有罪となって刑務所に送られますが、その後脱獄して大陸へ逃れました。彼は国家財政に興味を示し、アムステルダムの金融街を歩いては、金融制度の研究を進め、1705年には「通貨および商業の考察」という小冊子を刊行するまでになります。

彼はその本の中で、貨幣の不足がスコットランドの不況を招いているから、土地を担保にして通貨量を増やすべきであり、そうすれば、雇用を刺激し、国富の増大につながるという見解を述べています。これは後のケインズの主張に似ています。しかし、あまりに時代に先駆けすぎていたのか、スコットランドでは受け入れられず、大陸のサボイ家にも進言しましたが、やはり無駄でした。その一方で、ブリュッセル、ウィーン、ローマ、を旅して、賭博や投機でで相当の財産を築き上げました。ちなみに、現在の量的緩和(QE)やアベノミクスに通じるこのローの主張とケインズの主張の類似性について、経済学者のハイエクが皮肉交じりに次のように述べています。
「私には、ケインズはいつも新しいタイプのジョン・ローのように見えていた。ケインズと同じように、ローは実際に貨幣理論に貢献した金融界の天才だった。ローは(このような追加的な貨幣は働いていない人を雇用し、すでに働いている人にも大きな利益を与える。このようにして、生産物は増加し、製造業は発展していく)と述べている、ローと同様に、ケインズはこのような誤った、しかし人口に膾炙(かいしゃ)した信念から決して自由になれなかった」(ハイエク全集Ⅱー2「貨幣論集」)

ローの錬金術

さて、当時のフランスでは、ルイ14世の死後、ルイ15世が王位を継承しましたが、彼が5歳と幼少であったため、オルレアン公フィリップ2世が摂政につきます。当時のフランスは、17世紀以来の長期不況下で、貨幣の不足と物価の下落にあえいでいました。また、前ルイ14世による相次ぐ侵略戦争への出費、ベルサイユ宮殿での放蕩三昧、賄賂の横行で国庫はすでに大きく傾いており、財政赤字が30億リーブルをこえていたのです。こうした苦境の中で、国家財政の立て直しを図りたいフィリップ公には、ローの構想に耳を傾ける理由があったといえるでしょう。

ローはいくつかの論文と覚書で、銀行券発行の有効性を財務当局者に説きました。」・・・。(続く)




ママ

今まで随分とバブルってあったんですね。ところで皆さん、ここらで一服しましょうよ。きょうは寒かったんで、熱燗でいいですね。

コー
はいよママ、いつもの純米酒のでお願いしますね。
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