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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-鮎川誠

2021-03-18 07:46:09 | MUSIC

 「鮎川誠」

 1948年5月2日生まれの72歳

 

 「東京に行くのはカッコ悪いと思っていた」 シーナ&ロケッツ誕生まで

 1960年代、イギリスやアメリカから流れ込んできた音楽の洗礼を受け、70年代は「日本のロック」が一気に花開いた。ビートルズやストーンズに衝撃を受けた鮎川誠さんは、自らもバンドを組んで音楽ざんまいの日々を送っていた。運命の出会いを経てシーナ&ロケッツが誕生するまでの、熱くてロックな日々に思いをめぐらせる。(文=中津海麻子、トップ写真=山田秀隆)

 米軍人だった父の蓄音機やレコード
 ――音楽の「原体験」は?

 福岡県久留米市で生まれ、母と二人で暮らしていました。家には米軍の軍人だった父が残していってくれた蓄音機やSPレコード、コンパクトラジオもあり、物心つく前から音楽はよく聴いていたね。『オールド・ブラック・ジョー』とか『マイ・オールド・ケンタッキー・ホーム』とか、アメリカのスティーブン・フォスターという作曲家の曲とかやったと思う。

 小学校の何年生だったか、母に初めて日本のレコードをおねだりしました。石原裕次郎の『嵐を呼ぶ男』と『紅の翼』のSP盤。10歳の誕生日にはガットギターを買ってもらった。母はオレがギターに興味を持ったのがうれしかったみたい。安物やったけど、教則本もついていて。でも、教則本を読むのは苦手やった。三日坊主ならぬ二日坊主で、その後はしばらく壁の飾りになりました(笑)。

 中学に入ると、音楽好きな友達と、ラジオで聴いた外国の曲についてワイワイ話すようになった。ステレオを持っているヤツもいて、僕もレコードプレーヤーがほしかったけれど、うちはやっとテレビが来た頃で。テレビにプレーヤーをつなげばレコードがかけられると知り、安いプレーヤーだけ買ってレコードが聴けるようになった。ラジオで聴いたレイ・チャールズの『ホワッド・アイ・セイ』をどうしてももう一度聴きたくて、自転車で久留米中のレコード屋さんを探して回ったこともあるよ。ようやっと見つけたレコードは売れ残りやったみたいで、外側のビニールが手あかで半透明にくすんでた(笑)。日本語で『なんと言ったら』というタイトルが書いてありました。

 ビートルズを聴いて、「これだ!」と
 高校の受験勉強が始まるころから、米軍のラジオ放送FENを聴くように。毎週土曜日の夕方に全米トップ40というヒットチャートが流れ、アメリカではやっている音楽を、久留米にいながらにしてリアルタイムで知ることができた。いい環境やったねぇ。ある日、ある曲がラジオから流れてきたんです。リトル・リチャードやレイ・チャールズと同じ匂いがあるのに、エレキの音がビンビンに響いて、リズムが良くて歌が若い。無鉄砲で衝撃的。「これだ!」と思ったね。それがビートルズとの出会いやった。

 学校でも話題になったけど、それが誰の曲だか、皆わからなかった。そしたら、隣の席のヤツが昼休みに弁当箱を包んでいた新聞に、イギリスの長髪の4人組の若者にアメリカの女の子たちが熱狂してる、という記事が載っていたんです。そこに「ザ・ビートルズ」と書かれていて、あ、これや! と。1964年、ビートルズが登場して世界の音楽は一変した。僕もその洗礼を受け、その流れの上を滑り出した。そんな感じやったね。

 ――自分でも音楽をやってみたいと思ったりは?

 今でこそなんでもすぐに手に入るから、音楽が好き=バンドっちゅう発想になるけどね。当時は自分で音楽をやるなんてエベレストよりも高い山みたいなもので、聴くだけで大満足だった。

 修学旅行のための積立金で、ギターを買った
 高校では新聞部に入部しました。新聞が作りたかったわけやなくて、電源がある部室が目当て(笑)。学校にあれこれ持ち込むことは禁止されてたんやけど、部室だけは無礼講ちゅうか、知らん間に誰かがプレーヤーやらレコードやらを持ってきてかけたり、エレキギターをアンプにつないで順番に触らせてもらったり。そのうちにビートルズやストーンズの曲をなぞりたくなり、自分のエレキがほしくなった。売ってくれるという友達がおったから、修学旅行のために毎月納めていた積立金を先生に頼んで戻してもらい、譲ってもらいました。「テスコ EP8」という、ジョージ・ハリスンが使っているのに形が似ている日本製のエレキ。安もんのせいか、なんか風邪をひいたような音やったね(笑)。

 3年生のときにビートルズが日本にやってきた。教室を抜け出し、友達の家のテレビに釘付けになりました。すごかったねぇ。大好きなバンドが動いている絵を初めて見て、目にも耳にも焼き付いて、演奏するちゅうのはこういうことなんか……と。日本中に同じようにショックを受けた若者がたくさんいて、ロック好きが大量発生したんやと思う。

 その年の夏、久留米の本屋で立ち読みしていたら、昔一緒に野球をしよった仲間に会い、「今から農家の納屋で楽器の練習するから見に来んね?」と誘われて。知らんヤツが4人いて、「ギター弾けるか?」「『デイ・トリッパー』知っとる?」と聞かれ、見よう見まねで弾いたら、ドラムが加わって、鼓膜にビンビンくるほどのボーカルが入って……。初めてのバンド体験でした。音楽の世界の中にいきなり入れたことがうれしくて幸せで、1曲やっただけであっという間に夢を見始めた。

 そのメンバーと一緒にイベントで演奏し、高校の文化祭ではクラスメートを誘いバンドを組みました。バンドに味をしめ、まんまと浪人決定。正直、学校はもういいと思いよったけど、でも、このまま就職したらロックから遠ざかってしまうような気がして。

 ロックをやりたかったから、大学に
 ビートルズ旋風が巻き起こる中、日本の伝統ある武道館をイギリスのバンドが使うなんてけしからん、文化の冒涜(ぼうとく)だという人がおったり、ヒッピーやらフーテンやら長髪やらロックへの風当たりがとにかく強かったりしたんです。大学に入れば文句を言われないだろうと一念発起し、九州大学に進学しました。

 入学式が終わったその足で、浪人時代に知り合ったバンド「ジ・アタック」のメンバーに会いに中洲のダンスホールへ向かいました。彼らが久留米に来たとき、ライブハウスの入り口でブルースハープを吹いてアピールした僕をおもしろがってくれて、大学に入ったら一緒にやろうと誘われたんです。それで、約束どおりバンドに入れてくれた。学生紛争で大学が封鎖されたこともあり、昼間はレコード屋をまわり、夜は中洲のダンスホールでハコバン(ホール専属のバンド)のメンバーとしてギターを弾き、最終電車で久留米に帰る……そんな毎日を過ごしました。

 ブルース好きな友達と「サンハウス」結成
 ――ビートルズが来日し、学生紛争が起こり……。特に若者にとっては価値観が大きく変わるような出来事がたくさん起きた時代だったのですね。

 そうやね。大学2年のころには「ウッドストック」という巨大なロックのお祭りのうわさが聞こえてきた。ジミヘンが象徴的やけど、エレキギターがわずか1、2年の間ですごく進歩して音楽の中での役割が変わり、イギリスではレッド・ツェッペリンが出てきて……と、1970年ごろは本当に刺激的だった。

 一方、福岡ではバンドの拠点だったダンスホールがどんどん廃れ、閉店していった。バンドも次々と解散しよる。僕はブルースが好きな友達と「サンハウス」というバンドを結成。当時、白人が黒人のブルースを聴いて自分たちの音を作る「ホワイトブルース」が流行し、レコードもたくさん出て、それらが僕らのバイブルに。黒人のブルースをプログレッシブにアレンジするツェッペリンみたいに、古い素材を見つけてきて、自分らの好きな感覚でやるというのも一つのお手本にしてね。サンハウスも、ただコピーするだけでなくオリジナルを模索するようになって。

 1970年にウッドストック・フェスティバルのドキュメンタリー映画が公開され、新しい夢のイメージがより身近に感じられるようになった。そのころ、井上陽水や海援隊、チューリップなどフォークの人やバンドが次々とデビューし、九大では今でいうイベンターみたいなことをする仲間も出てきて、ロックとフォークが合体したコンサートなどを開いて交流が始まったんです。

 自分が生まれた街で、音楽をやりたかった
 ――福岡の音楽シーンはものすごく勢いがあったんですね。

 本当やね。みんな次々とデビューしてヒットを飛ばしたこともあり、福岡はとても恵まれた場所になったんです。サンハウスもファンが増えた。細野晴臣さんがいた「はっぴいえんど」やジョー山中さんの「フラワー・トラベリン・バンド」など、自分たちのオリジナルを作るロックバンドに影響され、オレたちはブルースの世界でオリジナルを生かそうと日本語の歌を作り、75年にメジャーデビューすることになりました。

 ただ、あのころの僕たちは「福岡でやる」ということに意固地にこだわっていた。東京の一極集中にロックを感じなかった。ビートルズはリバプール、ストーンズはロンドン、アメリカだってLA、サンフランシスコ、NY、メンフィスと、それぞれの街でそれぞれのロックやブルースが生まれている。自分たちが生まれ育った街で音楽ができたらどんなにステキやろうと夢見た。東京に行くのはカッコ悪いとメンバー全員が思っていました。

 サンハウスを結成した年に、一人の女の子がふらっとライブを見にきました。家出同然で東京などのライブハウスをまわり、北九州に帰る途中に立ち寄ったと。音楽が大好きで、ものすごく詳しくて話が尽きない。その日から僕らは一緒に暮らし始めました。「私がサンハウスの一番のファン」「サンハウスは私が見つけた」とまで言いよった。うれしかったね。それが、シーナとの出会いでした。

 シーナと東京へ
 ――その後、結婚されます。

 双子の女の子が生まれ、シーナのご両親の「一緒に暮らそう」というお言葉に甘えて、北九州の若松という町でシーナの実家に居候しました。シーナは専業主婦として子育てを、僕は福岡まで「通勤」して音楽をするという毎日。ところが、サンハウスもオリジナルメンバーがどんどん抜けていき、解散することになってしまった。どうしようかと迷っているオレを奮い立たせてくれたのは、シーナの親父さんでした。「音楽をやめるなら、何かほかの仕事をして家族を養わなきゃならん。でもあんた、バンドに未練あるけ、音楽で勝負かけた方がいい」と。福岡におれば、ぬるま湯の中でダラダラ音楽活動もできるやろうけど、それを仕事にするのは難しい。はっきりさせる場所として、東京は最高や。東京行ってはっきりさせてこんね!……と。

 うれしかったし、ありがたかった。モダンなお父さんで、サンハウスのこともいつも応援してくれた。だから、お父さんのいうことならオレはなんでもよく聞きよったんです(笑)。ちょうど東京でレコードを作らないかというオファーが来ていたので、それを受けて一人、東京へ向かいました。

 そしたら1週間もしないうちにシーナが東京にやって来た。お父さんに「マコちゃんがおらんと上の空で、手にならん。お前も行ってこい」と言われたと(笑)。レコーディングに連れていったら、僕が作った曲を歌う予定だった歌手の方が突然、「あなたのほうが歌えるんじゃない?」とシーナにマイクを振ったんです。「いいよ。1、2、3、ゴー!」と歌い出した。その歌声に周りがみんな驚いて「すごくいい!」と。

 シーナは僕の前では歌うこともあったけど、人前で歌う夢を語ったことなんて、一度もなかった。でもそのとき、シーナが「歌う」と言うなら歌うてほしいと、心から思った。そんな人が一番近くにいたことが、本当にうれしかった。

 それがシーナ&ロケッツが誕生した瞬間やった。

 

 「ステージに立ち続けると心に決めて」 シーナ&ロケッツ 鮎川誠さん

 ロックでパワフルでセクシーなシーナさんのボーカル、鮎川誠さんの圧巻のギタープレイ。1970年代から日本のロック界を色あせることなく駆け抜けてきたシーナ&ロケッツだが、2015年、衝撃のニュースが走った。シーナさん急逝。最高のボーカル、最愛の妻を失った鮎川誠さんは、しかし、ステージに立ち続けることを心に決める。

 「シーナ&ロケッツ」を結成
 ――シーナさんと一緒にバンドをやろうと?

 うん。どういう音楽をやろうかと、二人の夢が膨らんだね。とにかく、全部自分たちで決めて自分たちでやろう、と。大きな会社やプロダクションに所属し、大勢が寄ってたかって作る音楽じゃなくて、ストリートでインディーズな雰囲気がある音楽。そして当時、パンクロックがイギリスでもアメリカでも大きなムーブメントを起こしていた。考えてみれば僕は久留米時代からそういう音楽をやってきたから、同じやんと。あまり歌詞に重きを置かず、テンポの速いリズムでスピード感と勢いのあるロックが好きやった。だから、「ロック」とシーナの本名の「悦子」を合体して「ロケッツ」でいこう。まだメンバーも決まっとらんかったけど、バンド名が先に決まったんです。

 東京で会った人とやってみようかとも思ったんやけど、僕らがやってるのは譜面を書くような音楽じゃない。「ストーンズのサティスファクションっぽいリズムで」みたいにあれだこれだ言うて、お互いに共有したところから、さぁどうする? と。そういうやり方だったから、東京の人らにうまく説明ができんのです。やっぱり福岡の仲間とやろうと、サンハウスのベースとドラムを誘って4人組の「シーナ&ロケッツ」を結成しました。

 1978年、東京へ。以前僕らを手伝ってくれた仲間のつながりで、海外から進んだバンドを招聘(しょうへい)するトムス・キャビンの麻田浩さんと知り合い、その年のエルビス・コステロの日本ツアーの前座に抜擢(ばってき)されました。シーナの初ステージはコステロの大阪公演の初日やった。シーナは彼女なりのロックへの憧れの像をそのままポーンとステージに出す。その底力ちゅうか馬力ちゅうか、ビックリしたね。

 東京公演のとき、客席に高橋幸宏さんを見つけました。サンハウス時代にサディスティック・ミカ・バンドと何回か一緒になったことがあって、顔見知りやった。「あ、幸宏さんがおる」と苦笑いしながら演奏しました(笑)。公演の後、「君たちの音楽はおもしろい。細野(晴臣)さんにも紹介したいから、みんなで会おうよ」と。本当にすぐに連絡があって、YMOという新しいグループを作ってお披露目のコンサートをするから来ないかと誘ってくれました。

 最初に細野さんに会ったとき、「お、細い」と言われたのを覚えています(笑)。クリスマスに開催する業界向けのライブで2、3曲ギターを弾かないかと言われ、喜んで引き受けました。さらに細野さんが自分たちが所属しているアルファレコードで僕らと一緒に作りたいと言うてくれて、移籍することになったんです。

 『ユー・メイ・ドリーム』のヒット
 ――そして、細野さんがプロデュースした伝説のヒット曲『ユー・メイ・ドリーム』が生まれました。

 レコーディングでは幸宏さんや坂本龍一さんも集まってくれて、さらに新しい機材を使いながら、浮かんだアイデアを全部ぶち込んだ。音楽家たちがただただ純粋な音を出したいという思いで演奏し、ロックとまだ手探りのテクノが融合して、それまで誰も見たことも聞いたこともない新しい世界が生まれた。それが『ユー・メイ・ドリーム』であり、この曲を収録したアルバム『真空パック』やった。

 ただ、僕らはライブは4人だけでやることにこだわっていたんです。コンピューターを使っていろんな音を盛り込んだレコードの再現はできないと細野さんに相談したら、「レコードではレコードでできることをすればいいんじゃない?」と言ってくれて、その通りやなと。ライブやテレビ番組では、レコードとは違う4人だけのシーナ&ロケッツの音楽をやりました。JALのCMソングに採用されたこともあって爆発的にヒットし、あの曲のおかげでいろんな人と出会うことができた。

 ――一昨年、NHKの朝ドラ「半分、青い。」で登場人物たちが劇中で歌い、リアルタイムを知るファンは色あせない曲に涙し、若い世代は新しさを感じ、大きな反響を呼びました。

 たくさんの人に曲を聴いてもらうのが僕らの願いやったけど、40年経っても喜んでもらえるなんて、うれしかった。アルバム『真空パック』のタイトルはシーナが考えたんやけど、まさにそういう思いを込めていたんです。僕らからしたらチャック・ベリーのような何十年前の音楽でも、ロックちゅうのはいつもピカピカで、時代がどうのとか大先生の意見とか関係ない。いつも生きとるし、いつも新鮮。実際、40年経った今でも『ユー・メイ・ドリーム』はカッコいいと思います。

 ――一気にメジャーバンドの仲間入りをしました。取り巻く環境は変わりましたか?

 変わった部分もあったけれど、バンドのスタンスは変わらなかったね。最小限のメンバーで、どこでもポンポンとアンプを置いたらすぐ音が出せる。最小限のセットで一番デカい音を出し、終わったらサーっと片付けていなくなる――。それがオレらが目指したバンドやったし、それしか生き延びられんという思いもあった。サンハウスも最後の方はバンドだけで決められないことが増えてしまっていたから、自分らで決めることができて、方向転換したり止まったり、スピード出したり道草食ったり、いつでもそれができるように自由でありたい、と。気の合う仲間と楽しいから集まって、演奏して一日が終わる。それはずっと大切にこだわっとったね。

 ――それからもシナロケのロックの世界を紡ぎ続けてきましたが、2015年、シーナさんが他界されます。あまりに突然の悲報にファンも言葉を失いました。

 うん。無念やったろうね。僕ら病気には無縁で、ロックに夢中で、だからまったく気づかんかったんです。

 シーナはいつも僕のギターを見守ってくれた。サンハウスというバンドを好きになってくれて、その中でもオレを選んでくれた。「歌う」と言ってくれたのも、今思えばオレを一番近くで応援するためだったと思うんです。一緒に新しい曲を作り、レコードを作り、本当に楽しかった。NYでレコーディングしたいねと言えばその夢がかない、大好きなウィルコ・ジョンソンとレコードを作り、「この人の詞はロックや」と感動した阿久悠先生に詞を書いてもらい……。二人で話していたことが、二人やったからたくさん実現できた。

 オレがギターを弾くのはファンのため、なんてかっこつけて言うたこともあるけど、全然違った。オレはシーナに向けて弾いていた。シーナに褒められることがうれしかったんです。オレよりも5つも年下なんだけど、母親みたいな存在やった。シーナが僕のギターソロに振るとき、「ヘイ!ワオ!」とか言うてくれるその一言一言のおかげで僕のギターがカッコよく聞こえたりする。シーナマジックやった。誰のためにギターを弾くのかわからない。シーナがおらんちゅうことはこういうことなんか——。最初に襲ってきたのはそんな気持ちでした。

 でも、シーナと一緒に作った音楽がこのままでは世界からあっという間に消えてしまう。オレはピンピンしとるんやから、まだまだやれる。うまく言えんけど、それが次の目標になりました。シーナはいなくなったけど、残った3人でシーナ&ロケッツでやっていこう、と。

 シーナの最後のレコーディングを世に
 ――2月に初のライフタイムカバーアルバム『LIVE FOR TODAY!』がリリースされました。

 僕たちは、ビートルズやストーンズ、ウィルコ・ジョンソンにドクター・フィールグッドといったお手本のバンドから、彼らのやり方を盗み、取り入れてきた。細野さんとアルバム『真空パック』を作ったときには、ジェームス・ブラウンやキンクスのカバーを収録した。敬愛してきた音楽やミュージシャンの曲をカバーするのは、ロックバンドとしての正しい「態度」。僕らもそれを実践してきたんです。

 2014年に18枚目のアルバム『ROKKET RIDE』を作ったとき、収録曲のほかに自分らの好きな曲で遊んでみようと、ラモーンズやスクリーミン・ジェイ・ホーキンス、サンハウスが昔作った曲など7曲を録音しました。そのころは僕らはもちろん、シーナも自分の病気に気づいていなくて、発売が決まった頃に体調を崩し発覚した。だから、録音したテイクはそこで立ち消えになっていました。僕は一人で聴いてはシーナの歌いっぷりはスゲエなぁと感心して、でもシーナがいなくなってしまった今は世に出すきっかけもない。自分からアクションを起こす気分にもなれんかったしね。

 それが今年、デビュー42周年のお祝いにと、レコード会社がその7曲を出してくれるという話になったのです。ほかにも録音してあった音源があったので、それを「尾ヒレ」にして(笑)、なんとかアルバムの格好がついた。それが『LIVE FOR TODAY!』です。シーナが歌った最後の7曲を通し、ありのままのバンドの姿、僕らが愛してきた音楽の世界を届けられたらと思っています。

――これからの鮎川さん、そして、シーナ&ロケッツは?

ガキのころに出あって夢中になった音楽のそばにずっとおれてよかったし、好きなことを変わらずにできることがうれしい。シーナにはこれからもそういうオレを見せていきたい。

コステロの前座をやったとき、シーナが「まずは男連中がステージに出て、お客をホットにしてよ。いいところになったら私が出て行くからさ」と言いよった。確かに最初に僕のロックナンバーで盛り上げ、そこでシーナがバーンと登場すると、見栄えもいいし、オレらも楽しかった。ギアが一段上がる感じでね。でも、今はシーナが先にステージに行って温めてくれている気がするんです。最高にホットになったステージでオレらはライブができる。ステージでシーナに会える。それがうれしいから、これからもライブをやっていく。健康第一でね。

    ◇
 鮎川誠(あゆかわ・まこと)
 1948年、福岡県久留米市生まれ。九州大学農学部卒。「シーナ&ロケッツ」のリーダー、ボーカル・ギタリスト。 福岡を代表するバンド「サンハウス」のリードギタリスト・コンポーザーとして活動後、1978年にシーナ&ロケッツを結成。結成以後一切のブランクがなく、以降42年にわたり第一線で活動し、日本のロックのパイオニアとして疾走し続ける。
 2018年にはデビュー40周年を記念して、ビクターとソニーから鮎川誠のプロデュースで最新ベスト盤が連続リリース、デビュー当時を描いたドラマがNHKで放送され大きな話題にも。2019年には日比谷野外音楽堂での35周年記念ライブの模様をノーカットで初DVD化。
 2020年2月14日、19枚目のアルバム『LIVE FOR TODAY!』と42周年記念プレミアムBOXセット『LOVE BOX』をリリースし、4月7日(シーナの日)から全国12都市14公演のLIVE FOR TODAY!ツアーを開催する。

*https://www.asahi.com/and_w/20200318/1300748/

*https://www.asahi.com/and_w/20200323/1304960/ より


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