茶山守廣・隠岐三味線ブログ

名残尽きぬに 銅鑼が鳴る今宵

西郷港は 小雨も降らぬに 袖しぼる

        (隠岐民謡・しげさ節)

個性

2007年03月17日 | 気まぐれ日記
 今日は久しぶりにゆっくりと大相撲のテレビ観戦をしました。
高見盛と安美錦の対戦を見ていて、ふっと感じたことがあります。
それは今の大相撲やプロ野球に「個性」のある力士や選手が、私たちの子供の頃と
比べて少なくなったことです。
皆さん方はどのように感じておられますか?
今日の対戦で高見盛は惜しくも敗れましたが、会場での観客を大いに沸かせたのは
横綱・大関ではなく彼でした。
勿論のこと強くあることは大切な要素ですが、プロである以上いかに会場の観客や
視聴者を沸かせることができるかも大切なことだと思う。
その点では彼はまさに素晴らしい”銭のとれる力士”です。
 一方のプロ野球はどうか?同じようなことが言えると思う。
昔のような個性のある選手は少ない、管理型の野球もいいかも知れないが何かしら
大切なことを忘れてはいないか?
もっと個々の選手の個性を尊重し伸ばすべきだと思う、プロなんだから!!
ここ3~4年はテレビのプロ野球を見たことがない、面白くないから・・・

 民謡はどうだろうと考えてみた。
個性のある唄・三味線は大変残念ながら少なくなってきていると感じた。
我が隠岐の島でも昔はそれぞれの歌い手が「自分の節」をもっていたような気がしますがどうでしょうか?
原因はなんだろうか?大会で良い成績を収めるために、いわゆる大会向けの唄になってしまっているのでは?それとも教える人が自分の考え方や節を押し付け過ぎるのではないか?
おしなべて皆が同じような唄や三味線になっているような気がする。
一概にそれが良いとか悪いとかではなく、それぞれの「個性」が無くなってきていることは事実であると思う。
 しかし”言うは易し行なうは難し”のことわざ通り、どうしても知らず知らずの
うちに皆が自分の考え方を押し付けているのは否めない事実だ。
私のところに熱心に通っている将来有望な人がいます、その人に以前に言ったのは
”確かに芸事の初めは真似から始まるが、自分がある程度になったと思ったらいつまでも私の真似ではなく、自分流の何かを見つけろ!そうでないといつまで経っても私を追い越せないぞ!”幸か不幸か?その人はまだ真似をするので、その域には
達していないらしい?・・・
今後はそれぞれの「個性」を伸ばすことを念頭に入れた稽古を心がけようと思う。