大分発のブログ

由布・鶴見やくじゅうをメインにした野鳥や山野草、県内四季折々の風景などアウトドア写真のブログです。 

国東・富貴寺〜長安寺ほか

2020-11-28 21:15:00 | 国東半島
午前中は国東の寺社めぐり、昼からは杵築の守江湾で野鳥撮り。紅葉が終わりなので野鳥撮影がメインでした。

まずは日出町に架かる石橋の赤松橋。2020.11.28


柿をついばむカラス。


橋の上流にいたマガモとオシドリ。


なかなかいい雰囲気の場所ですが、遠い。


山香のため池にいたキンクロハジロ。後頭部の冠羽が特徴です。




山香の小武寺。この日は強風だったので境内のイチョウの落葉は積もるほどもなし。


特徴的な仁王像。


目に真鍮製の眼窩を入れている珍しい石造仁王像です。


国宝富貴寺大堂


阿弥陀三尊像ご開帳でした。


富貴寺境内のイチョウの落葉。


前回の予想通り今年の紅葉は全くだめでした。


仁王像




長安寺仁王像


長安寺のイチョウの落葉は半分くらい。


これは金明孟宗竹という種類の竹です。




コットン村から大田を経て杵築へ。

以前は三連水車でした。


大田の比枝神社


国東は神仏習合なので神社に仁王像があったり、お寺に鳥居があったりします。


若宮八幡社






大イチョウ


国東塔


どぶろく祭りで人気の白髭田原神社。




ルーミー/踊れ/音楽の記憶

2020-11-28 18:05:00 | イスラム/スーフィズム
 ルーミーの思想の一つに、旋回舞踏によって「神の中への消滅」という神秘体験の実行が挙げられる。ルーミーの没後、コンヤのルーミー廟を拠点とする彼の弟子たちによって、コマのように回って踊るサマーウ(セマ)という儀式で有名なメヴレヴィー教団が形成された。メヴレヴィー教団では同教団の始祖と仰がれている。


 踊れ

苦行のために、
欲望という傷をむき出しにするために、踊れ。

聖者たちは魂の戦場で、
くるくる回りながら踊る。
彼らは血まみれになりながら踊る。

自我の束縛から解放されると、彼らは手をたたく。
自分自身の不完全さから脱すると、彼らは踊る。

楽師たちは恍惚として心の底から太鼓をたたき、手は砕けて泡となる。

葉の触れあう音は見えない。肉体にある耳ではなく、魂の耳で聞かなければならない。

輝かしい魂の国を見るために、冗談や嘘には耳を貸すな。
 ルーミーの詩/創元社「スーフィー」p5

  

 音楽の記憶 

 ある人は言う、私たちの耳を心地良くくすぐるナイもリュートも、突き詰めればその旋律は、回転し続ける宇宙より受け取るのだと。

 だが信じる者は、あらゆる定理と推論とを軽々と跳躍してしまう、そして宇宙に響く音という音を、甘くするものは何なのかを知る。

 私たちアダムの末裔は、かつて彼と共に天使たちの音楽を聴いた。今となっては、はるか昔の遠い記憶もほころび破けているものの、それでも耳の奥底に残っている、地上の何ものとも無縁の残響が。

 ああ、音楽こそは聖なる晩餐、愛する者全ての血となり肉となる。音楽が鳴り響けば、魂は天上の記憶を恋い焦がれて高みを目指す。

 灰という灰は光り輝き、魂の奥底に不可視の炎が火の粉を散らす。私たちは音楽に耳を傾け、歓喜と平安をその舌に味わって満ちる。

   「精神的マスナビー」より

   

  メヴレヴィー教団




 
  スーフィーの回旋舞踊

 映画「落下の王国」より











ルーミー/一滴の大海

2020-11-28 18:03:00 | イスラム/スーフィズム
 一滴の大海

“You are not a drop in the ocean. You are the entire ocean in a drop.”

あなたは大海の一滴ではなくて、一滴の大海なのだ。
        ルーミー語録

 ルーミーとほぼ同じ時代ドイツではキリスト教のエックハルトがほぼ同じことを言っていました。合わせて読むとルーミー理解が深まると思います。

 マイスター・エックハルト (1260年頃ー1328年頃)は、中世ドイツのキリスト教神学者、神秘主義者です。
  

神は唯一の善である。
すべての個々の善はそこに一緒に含まれている。
そこは満ちたるもの、
神性の世界である。
それは「一なること」である。

大海に比して一滴の水は
取るに足らない。
そのように神に比すれば
万物はあまりに小さい。
魂が神をおのが内に
引き入れる時、
水滴は大海に変ずる。

神には欠如も否定もない。
なぜならその本性は充溢であることだからである。

本当に正しくそれを捉えようとする人は、なお善や真理からも、それにただ観念や名称の中でのみ区別の錯覚や影に煩うだけのものからさえも、縁を切る。

その人は、一切の多様と区別を欠いた「一なるもの」のみを信頼する。この「一なるもの」にあっては、あらゆる規定性と特性が消え去り、そして「一」である。
この一者こそが我々を幸福にするのである。
           エックハルト
ルドルフ・オットー/西と東の神秘主義」p46より


ジャラール・ウッディーン・ルーミー(1207〜1273 )はペルシャ語文学史上最大の神秘主義詩人。

    

Out beyond ideas of
wrongdoing and rightdoing,
there is a field,
I will meet you there

        ~Rumi~

善行と悪行、
それらの考えのはるかに及ばぬところ、
そこに一つの場がある。
私はそこで
あなたに会おう。
        ルーミー



  



ルーミー/ただひとつの息がある/わたしはすべてに宿る魂

2020-11-28 07:05:00 | イスラム/スーフィズム
 ただひとつの息がある

私はキリスト教徒ではない、
ユダヤ教徒ではない、
イスラム教徒でもない。

私はヒンズー教徒ではない、
スーフィーではない、
禅の修行者ではない。

どんな宗教にもどんな文化にも属していない。

東から来たのではない 、
西から来たものではない。

海や大地から生まれたものではない 、
天界から来たものではない。

何かの要素からできているものでもない、
この世やあの世に存在するものではない。

アダムとイブのような太古の物語と関係はない。

いいえ
わたしは何者でもない。

居場所は定まらない、
跡を残すことはない、
いいえ 、 
わたしは身体でもない、
魂でもない。

わたしは愛している
あの人のなかにいる。

ふたつにみえて、
世界はひとつ。

そのはじまりもその終わりもその外側もその内側もただひとつにつながる、そのひとつの息が人間の息(いのち)を吹きこんでいる。

「スーフィーの賢者ルーミー《/その友に出会う旅」より


 わたしはすべてに宿る魂

わたしは日にちらちらする塵、わたしは日輪。 

塵に言う、そこに居て、と。
日輪に言う。廻って、と。

わたしは朝の微光、
わたしは夕べの香り。

わたしは森のざわめき、
海のうねり。

わたしはマスト、舵、舵手、船。わたしは船の乗り上げるサンゴ礁。

わたしは生命の樹、そしてそこにいるオウム。

沈黙、思考、おしゃべりと音。わたしは笛の音、人の心。 

わたしは石に散る火花、
金属の黄金の光。

ロウソクと周りを舞う蝶。
バラとバラに酔う夜鳴き鳥。

わたしは物をつなぐ鎖、
世界を結ぶ環。

創造の梯子段、上りと下り。
わたしはあるもの、
そしてあらぬもの。

わたしはーおゝ、
あなたの知っている、
ジェラールッディーンと申す者。

わたしはすべてに宿る魂。

「西と東の神秘主義」p111~112より/R・オットー






ルーミー/魂はただひとつ/光はひとつ

2020-11-28 07:04:00 | イスラム/スーフィズム
  魂はただひとつ 

 信じる者は数多くいても、信仰そのものは唯ひとつ。
体は別々に離れていても、信じる者の魂は唯ひとつ。

 雄牛やロバのそれとは別に、人には人の知性と魂があり加えて人の魂の中にも、聖なる吐息を得た者の魂がある。

 けものの魂は合一を知らず、故に合一を恋い焦がれることもない。弱くはかなきものたちに、合一を理解せよと言うのは無理がある。

 けものの魂の持ち主たちは、誰かがパンを食べてもその隣人は満たされず
誰かが重荷を背負っていても、その隣人が手助けをするということもない。

 否、それどころか彼らのような者たちは、隣人が死ねば喜び、反対に隣人が財を得ようものなら、今度は死ぬほど嫉妬する。

 犬やオオカミどもの魂は離れている。けれど神の獅子たちの魂は唯ひとつ。

 魂という語が複数あるかのように扱われるのは、ひとつの魂に無数の体が連なり関っているから。

 天に唯ひとつの太陽の放つ光が無数の館の中庭を明るく照らす。

 館の壁を全て取り去ってみれば散らばった光も唯ひとつに還る。

 体という館を取り去ってみれば信じる者の魂も唯ひとつに還る。
   『精神的マスナヴィー』4-408

   ラマダンランプ

 光はひとつ

 ランプはそれぞれ違っても、放つ光は同じひとつ。
光、それははるか彼方から届けられる。

 あなたがランプに眼を奪われ続けるのであれば、あなたはあなた自身を奪われてしまう。

 ランプの種類は数限りなく、各人の嗜好もまた然り。あなたの視線を光に転じ、光そのものを見つめよ。そうすれば、あなたは地上における事象に特有の、二元性の限界から解き放たれるだろう。

 そのようにして新たな視線を獲得すれば、イスラム教徒、ゾロアスター教徒、ユダヤ教徒の違いは、依って立つ位置の違いに過ぎないことが理解できよう。
  『精神的マスナヴィー』3-1259. 

 
 神は天と地の光である

 神の光は、ランプの置かれた壁龕のようなものである。
ガラスでできたランプ。
ガラスはあたかも光輝く星のようなもの。
それは祝福された樹、
東のものでも、西のものでもないオリーブの樹で焚かれている。 
その油は、火が触れることがないのに、まさに光輝くばかり。 
光の上に光を加える。
         コーラン24章35節