大分発のブログ

由布・鶴見やくじゅうをメインにした野鳥や山野草、県内四季折々の風景などアウトドア写真のブログです。 

ルーミー/ギリシャの絵描きと唐の絵描き

2020-11-27 21:31:00 | イスラム/スーフィズム
  
 ギリシャの絵描きと唐の国の絵描き

 その昔、唐の国の絵描きが言うことには、「我らの技術に敵う者は無し」。
応えて、ギリシャの絵描きが言うことには、「我らはさらに優れている」。

「ならば双方、腕試しにひとつ描いてもらおう」、スルタンは言った。「果たしてどちらの言い分が正しいのか、その出来栄えを見て決めようではないか」。

 回廊を間に、扉と扉が向かい合う部屋の、片方を唐の国の絵描きが使い、もう片方をギリシャの絵描きが使うことになった。唐の国の絵描きはスルタンに、絵の具を百色、用意してくれるよう願い出た。そこでスルタンは、絵の具を調達するために自らの宝物倉を開けた。そしてそれ以降、唐の国の絵描きの部屋には、毎朝必ず絵の具が届けられた。

 ギリシャの絵描きは言った。「私どもの作品に、絵の具は必要ありませぬ。色彩を必要としておりませぬゆえ。きれいさっぱり、錆を落とすことー やらねばならぬ仕事はそれだけです」。彼らは扉を締め、部屋の中を磨き始めた。すっかり汚れの落ちた壁は、まるで晴れた空のように明るく輝いた。

 色彩を多く取り入れれば取り入れるほど、鮮やかさは失われ薄暗くなることがままある。色彩が雲ならば、無彩は月だ。たとえ雲がどのような色に染まろうとも、たとえ雲が輝いて見えようとも、その色も光も、雲ではなく雲を照らす星や月、太陽から来るものであると知らねばならぬ。

 仕事を終えると、唐の国の絵描きは太鼓を打ち鳴らしてその出来栄えを喜んだ。完成した絵画を見ようと、スルタンは部屋に入ったが、描かれた絵画の素晴らしさに、ただ唖然とするばかりであった。

 心ゆくまで堪能してから、今度はギリシャの絵描きの部屋を訪れた。ギリシアの絵描きが、唐の国の絵描きの部屋と、彼らの部屋の間を遮っていた緞帳を引き上げた。するとどうだろう、唐の国の絵描きの描いた景色が浮かび上がったー それは彼らが磨いた壁に、反射して映し出された鏡像であった。先ほど見たばかりの絵画が、より美しく、輝いて見えた。それはまさしく眼を奪うような光景であった。

 このギリシャの絵描き達を、スーフィーと呼んでも間違いではなかろう。学問も無ければ書物も読まず、また博識というのでもない。しかし心がある。嫉妬や憎悪、貪欲や強欲を、回を重ねて何度でもたゆまず拭い去ることにより、磨きに磨かれた純正な心がある。

 純正な心というものは、磨き抜かれてくもり一つ無く、従って疑う余地も無い鏡である。その鏡は無数の、ありとあらゆる種類のヴィジョンを受け取って映し出す。精神におけるムーサーの胸とはいつもそうしたもの。彼の心の鏡には、不可視の領域から送り届けられる無数のヴィジョンが映し出されているのである。
     『スーフィーの寓話』第9話
      画:トルコの細密画





ルーミー/不老不死の樹を探す話

2020-11-27 20:20:00 | イスラム/スーフィズム
 生命の樹-カルパヴリクシャ(如意樹)はインド・ヒンドゥー神話に登場する空想の木で、宇宙を統括する帝釈天(インドラ神)の楽園に生えていると言われています。高さは10ヨージャナ(由旬)〈1ヨージャナ≒14.4km〉あり、願をかけるとどんな望みでも叶えてくれる力があると信じられてます。稔り多い豊かさと幸福の象徴といえます。

  カルパヴリクシャ


 果実は黄金色をしてとても香りがよく、この木からその果実を受領したものは神々と同じように永遠の命が約束されると考えられています。


 不老不死の樹を探す話

 学問を修めたある者が、ある日ある物語を語って言うには、「インドに、かくかくしかじかの樹がある。その樹にみのる果実を手に入れて食した者は、決して年を取らず死ぬこともなくなる」。
 ある王が、ある正直者からこれを聞き、たちまち木の実が欲しくてたまらなくなった。そこで学問所に勤めるある優秀な者を選び出し、探索のためにインドの地へ使節として赴かせた。

 王の使節は、その樹を探して何年もの間かの地をさまよい続けることになった。町から町へ、島も山も、平野も、ありとあらゆるところを探し尽くした。 ー訪れたことのない場所はもはや残されていなかった。木の実について尋ねると、皆彼をからかって言った、「どこぞへ閉じ込められていた狂人でも無い限り、そんなものを探そうなんて思いつきもしないよ」。誰もが、彼を嘲って軽口をたたいた。ある者は言った、「ご立派なことだなあ。おまえさんほど心の澄んだ賢い者なら、結果を出せないはずがないよ。せいぜいがんばることだな、無駄に終わるってことはないだろうよ」。

 そんな皮肉混じりの誉め言葉に、彼は別の意味で打ちのめされた。彼にとり、それは本当に殴られるよりも耐え難いことだった。皆が皆、揃って嫌みっぽく彼を褒めちぎり、言うのだった、「おお、貴い使節どのよ」「どこそこに、それらしく桁外れに大きな樹があるよ」「いやいや、どこそこの森に青々として高い樹があるよ」「いやいや、どこそこの樹は枝も並外れて大きいんだ」。

 王の使命を果たそうと、一本気に張り切って探索を続けていたこの使者に、あらゆる人々がそれぞれに異なる話を吹き込んだ。彼は数年に渡り旅を続け、その間も王から彼の許へ、絶えず金が送り届けられていた。

 異郷で苦労を重ねるうちに彼はすっかり疲れ果て、これ以上探し続けることは出来ないほど消耗し切ってしまった。探し求めるその樹について何の手がかりもなく、噂話の他は何ひとつ見出せなかったのだ。彼の希望の糸はぷつりと断たれた。彼が探し求めるものは、ついに見出されることなく終わった。彼は王の許へ戻ろうと決めた。帰る旅路で、彼は苦い涙を流した。

 失望しきった使節が帰路で通りかかったある土地に、非常に賢明なシャイフがいた。彼は高潔なるクトゥブの一人であった。彼は言った。「こうして希望を失った身だもの、彼の許を訪ねてみよう。そうして彼の館の敷居をまたぎ、新たな旅路への門出としよう。彼に祈ってもらおう、そうすれば私の再出発にも何かしらご加護があるかも知れない。どう転んでも、私の心を奮い立たせるものはもう何も無いのだから」。目にいっぱいの涙を浮かべ、彼はシャイフのところへ行った。まるで雲のように涙の雨を降らせつつ、「おお、シャイフどの」、彼は叫んだ、「どうかお情けを。憐れんで下さい、私は絶望の淵におります、慰めが必要なのです」。彼(シャイフ)は言った、「遠慮なく話すがよい。おまえ様を絶望させているのは何なのか、おまえ様自身は何を望み、何を考えているのか」。

 彼は答えた、「私はいと高き王に選ばれて、ある特別な樹を探し出すよう命じられた者です。世界中の何よりも珍しく、その果実は生命の水を湛えているという樹を。私は何年もその樹を探しました。ですが何の手がかりも得ることはできませんでした。お調子者たちのからかいとあざけりの他は、何ひとつ残らなかったのです」。これを聞いたシャイフは声をあげて笑った。「おまえさま、ちと迂闊じゃったの。知らなんだか、樹は樹でもそれは賢者の知識の樹のことじゃ。確かに飛びぬけて高く、飛びぬけて大きく、飛びぬけて広く枝を伸ばす樹ではあるがの。神の大いなる海を目指して四方八方に根を張り巡らせ、生命の水を吸い上げて育つ、いわば生命の水そのものの樹じゃよ。
  

『樹』と聞いて、おまえさまは形ある樹を追い求めてしまったのじゃな。それでは迷うのも道理じゃ。形あるものを追い求めた時点で、真理に背いてしまうことになるからのう。真理を置き去りにしたのでは、何を探そうが見つかりはせぬ。ある時には、それは『樹』の名で呼ばれる。またある時には、『太陽』の名で呼ばれる。ある時には『海』とも名づけられ、またある時には『雲』とも名づけられておる。どの名も、たどれば同じひとつの根源から生じる無数の働きに対して与えられたものじゃ。そうした無数の働きのひとつに、永遠の生命というのも含まれておる。根源はたったひとつじゃが、そこからもたらされる働きは到底数えきれるものではない。更にその働きのひとつひとつが、数えきれないほど多くの名で呼ばれておる。出来る限り、ふさわしい名で呼ぼうと考えてのことではあろうがの。おまえさまにも『父』と呼ぶ人がおるじゃろう?だがおまえさまが『父』と呼ぶその人も、別の者からすれば『息子』であったりするじゃろう?それと同じことじゃ。

 ここにある人物がいるとしよう。誰かからは極悪人だ、敵だと思われておる。しかし別の誰かからは、恩人だ、友だと思われておる。百人いれば百人が、それぞれ思った通りの名で彼を呼ぶ。しかし彼という人物はたった一人じゃ。加えてこれほど多くの呼び名があるにも関わらず、『これぞ完全に彼を説明した名』と言うに足る名はひとつもないときている。名なるもの、かくも頼りなきものなのじゃ。かようなわけで、名などというはかなきものを、しかも自ら課したのでもない、誰ぞ他人に課された使命として追い求める者は、やがては挫折し失望することになる、ちょうど今のおまえさまのようにな。さておまえさま、何故にいつまでも『樹』などという名にしがみつき続けるのじゃ?

『名』にこだわるな、形あるものを追い求めるな。そちらへ行けば、待ち受けるは苦い失意と悪しき運命のみ。名など捨て置け。働きそのものを見よ。そうすれば、あらゆる働きをもたらすたったひとつの根源へと至る道も見えてこようぞ」。

 人類の不和は、常に「名」と「名」の差異によってもたらされる。「名」ではなく、「名」が指し示す「実」を知り、そちらへと向かって一人ひとりが歩みを進めるとき、そのときこそ平和がもたらされることだろう。

精神的マスナヴィー」2巻3641ー3680
 見出し画 カバラ生命の樹




ルーミー/群盲象を評す

2020-11-27 19:30:00 | イスラム/スーフィズム

 群盲象を評す(ぐんもうぞうをひょうす)という有名な寓話があります。


 パーリー経典ウダーナなどに収められている説話で、ジャイナ教、仏教緒派、イスラム教、ヒンドゥー教などでも教訓として使われています。
 この話には数人の盲人(または暗闇の中の男達)が登場します。盲人達は、それぞれゾウの鼻や牙など別々の一部分だけを触り、それについて語り合います。しかし触った部位により意見が異なり、それぞれが自分が正しいと主張して対立が深まり、やがて互いにはげしく争うようになります。


 
 目には見えぬ象

 暗い小屋の中に、一頭の象がいた。見世物にしようと、インドの人達がはるばる連れて来たのだった。目で見ることは出来なかったので、暗がりの中、人々はそれぞれ自分の掌で象に触れ、感じる他は無かった。

 ある人は鼻に触れ、「象とは、まるで水道管のような生き物だ」と言った。別のある人は耳に触れ、「いやいや。象とは、まるで扇のような生き物だ」と言った。また別のある人は脚に触れ、「私は象を知っている。あれは柱のような生き物だ」と言い、また別のある人は背中に触れ、「誰も分かっちゃいない。本当のところ、象とは王座のような生き物だ」と言った。

 小屋から出て来た人は皆、口々に違う言葉で説明し合った。もしも彼ら一人ひとりが、その手に蝋燭の明かりを持っていたなら、言葉の相違など生じなかったことだろう。
   ルーミー「スーフィの寓話」33話


ルーミーの「マスナヴィー」から類話をひとつ。
   

トルコ 1978年 200リラ プルーフ銀貨 ジャラール・ウッディーン・ルーミー没後705周年記念コイン


 四人の男と仲介者

 四人の男が金貨を一枚与えられた。一人めのペルシア人が言った。「この金貨で、アングールを買うとしよう」

 二人めのアラブ人が言った。「いやいや、私はアイナブが欲しい。アイナブを買おう」

 三人めのトルコ人が言った。「アイナブなんてやめてくれ。私はウズュムを買いたい」

 四人めのギリシア人が言った。「私はスタフィルを買いたいのだが」

 それぞれの呼び名の背後に何が控えているのかも知らず、四人の男は喧嘩を始めた。情報だけが先走りし、肝心の知識を得ていなかったためである。

 そこへ賢い仲介者が現れ、四人を和解させた。仲介者は言った。

「あなた方四人全員の必要を満たして差し上げましょう。私を信頼して、一枚の金貨を預けて下さい。四つのものを、一つにして差し上げましょう」

 賢い仲介者は、それぞれの呼び名の背後に控えているものについて知っていた。一枚の金貨で葡萄を買い、四人に与えた。それで初めて、四人は自分達が欲していたものが全く同一であったことを知った。
『精神的マスナヴィー』2巻「四人の男と金貨」より

仏典からも類話をひとつ。

 キンスカの木

 むかし、インドのバーナラシーの王様に4人の王子がいました。ある日、仲のよい4人がいつものようにいろんな話をしている時、「キンスカの木を見たことがない。ぜひ見てみたい」ということになりました。

 そこで、何でも知っている年老いた執事に、キンスカの木を見に連れて行ってほしいと頼みました。

 すると執事は「ああ、そうですか。キンスカの木でしたら、あの森のおくのほうに大木がございます。わたしがご案内いたしましょう。ただし、わたしの馬車は2人乗りですから、おひとりずつ、わたしの都合のよい時にご案内いたしましょう」といいました。

 こうして4人の兄弟は、年老いた執事に連れられて、「キンスカの木」を見に行くことになりました。ただし、見に行ったのは同じ季節ではありませんでした。

 まず長男が連れて行ってもらったのは、冬の終わりのころでした。黒っぽい大きな枝一面に赤い小さなつぼみがいっぱいならんで春のおとずれをまっていました。

 次男が連れて行ってもらったのは、春のはじめのころでした。手の形をした赤い花が咲きほこっていて、藤の花のようにたれ下がっていました。

 三男が連れて行ってもらったのは、夏のはじめのころでした。青々とした若葉が下から上まで生いしげっていました。

 そして、四男が連れて行ってもらったのは、秋のはじまりのころでした。葉はすべて落ちて、大きなつつのようなさやが実を結び、枝一面にぶらさがっていました。

 

 4人は「キンスカの木」について、それぞれ感想を言い合いました。長男は「キンスカの木は黒くて大きくて、まるでもえた柱のように赤いはんてんがいっぱいついていたよ」と言いました。

 すると次男は「ちがうよ。真っ赤な肉のかたまりのようたったよ」と言いました。

 ところが三男は「変だなぁ!ぼくが見たのは菩提樹のように青々と葉っぱが生いしげる大きな木だったよ」と言いました。

 最後の四男は「みんなが言っているのとぼくが見たものはちがうよ。葉っぱは1枚もなく、さやの形をした実のようなものでおおわれていたよ。ネムの木のようだなと思ったけどね」と言いました。

 4人は同じ案内で、同じ森の同じ木を見てきたのに、答えがどれも違っていたので不思議に思いました。

「どうしてなんだろう。父上に聞いてみよう」と、4人は一緒に王様のところへ行きました。

「王様、このたび、わたしたちは執事に案内してもらい、はじめてキンスカの木を見せてもらいました。ところが、同じ場所の同じ木なのに、わたしたちはまるで別々の木を見せてもらったように、まったくその感想が違うのです。キンスカの木は本当はどんな木なのでしょうか?」とたずねました。

 王様は4人の顔を見て、
「おまえたちが見てきたものは、どれもみなキンスカの木なのだよ。しかし、学習の仕方がまちがっている。王子たちよ、ただ自分で見ただけでは自分の考えが中心になって、物事を正しく判断できないのだ。

 おまえたちを案内した執事は、おまえたちより、よくキンスカの木を知っている。いわばおまえたちの先生だ。

 ならば、『この木はいつもこのすがたをしているのですか?』と聞くようにしなければならない。おまえたちは季節によって変化するキンスカの木のすがたを理解していなかったのだ。

 これからはもっとすべての面において、学ぶ心を大事にして、物事の本質、実体を正しく判断できるようにしなさい」と、さとすように言いました。       ジャータカ248

類話(サンユッタニカーヤ35・204話。雑阿含経12。)