大分発のブログ

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ヘーゲルの論理

2019-09-28 18:08:15 | 心の哲学・心身問題
  

「心の哲学」のまとめによく整理された記事があったので紹介します。
ヘーゲルは心身問題について、『精神現象学』『精神の哲学』『エンツュクロペディー』において述べている。

■反省作用による分裂

 我々は子供の頃には心身二元論者ではなく、自然との統一を直感的に、当然のこととして感じている。しかし、我々は成長するに従い、自分の経験を合理的に反省するようになる。この反省作用こそが、主観的で心的実体としての自己と、客観的で物理的実体としての自然、という見かけの分裂を生じさせるのである。また反省作用によって主観と客観という二つのものが存在するよう思えるのである。

■心身二元論は幻想

 ヘーゲルにとって反省作用は自己意識の構造のひとつである。「ほとんどの場合、自己や主観、観察している自分は意識に現れない」と彼はいう。自己意識という作用が働いている間だけ「自己」は現れるのである。それを前提に、二元論は自己意識に依存していると考える。また反省から生まれた心身二元論は、幻想であるという。


■カテゴリーの錯誤

 ヘーゲルは心的なものと物理的なものがいかにして相互作用するかを説明するのは誤りだと考える。ひとたび心身二元論を認めてしまえば、相互作用の説明は不可能なのである。よって二つの実体が存在するのを否定する。二元論の誤りは心を一種の「物」として考えたことにある。こうした考えに至らせた作用が反省である。ヘーゲルによれば反省は「悟性」に属する。悟性の役割は経験世界、つまり時空にあるものごとを理解することである。その悟性を心的なものを理解するため、つまり「物」「不可分性」「統一」といった概念を心に用いるからデカルト主義の誤りに陥るのである。
 
■相互依存の論理

 ヘーゲルは観念論と唯物論をそれぞれ批判していた。それらは非弁証法的で一方向的だからであり、また観念論は物理的実在の意味を最小にして、それを心に還元する試みであり、唯物論は心的実在の意味を最小にして、それを物質に還元する試みなのである。実はそれらはお互いに依存した理論である。観念論は唯物論の否定として定義され、その逆も真だからである。

■絶対的観念論

「物質的なものと非物質的なものとの区別は、根本的な両者の統一をもとにしてはじめて説明しうる(『精神の哲学』)」という。これはヘーゲルの方法論である弁証法的な主張である。

 二つの要素が対立状態にあるよう見えるのは、実は心身が一つの根本的実体の二側面だという考えである。これは中立一元論的な考え方のようにも思えるが、ヘーゲル自身は自分を「絶対的観念論者」であると言っている。ヘーゲルにとってその根本的実体とは精神的なものである。バークリーの唯心論との違いは、心的なものと物理的なものが「精神」という新たな綜合において存在しているという見方であり、これがヘーゲルの「絶対的観念論」の特徴である。

(ヘーゲル 心の哲学 wiki) 


心身問題と縁起の法

2019-09-12 19:34:12 | 心の哲学・心身問題
 仏教といえば「悟り」の宗教ですが、その悟りの内容を簡潔に説いたとされるのが縁起の法です。難しい命題ではないので覚えていれば役に立つものです。経典によれば、ブッダは縁起について次のように語っています。
   

 縁起の法

“私の悟った縁起の法は、深くして微妙であり一般の人々の知り難く悟り難いものである。” 
 (南伝大蔵経12巻、234頁)

 またこの縁起の法は、

“これは私の作ったものでも、また誰かの作ったものでもない。私が世に出る出ないに関わらずにこれはこの世界の真理なのである。私はこの法を自ら悟ったのであり、正しく理解したのであなたたちにも“見よ”と示すのである。

 縁起を表現する有名な詩句として、「自説経」では、 

“此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す。”と説かれています。
 (自説経1, 1-3菩提品)

この縁起の法を心身問題に応用すれば次のようになります。

 身体があれば心があり、
 身体がなければ心がない。
 身体が生じれば心が生じ
 身体が滅すれば心が滅す。

 「心身一如」という言葉がありますが、これは身と心は一つであり、互いに分けてはならない、との意味です。

 二つは盾の両面で、その表は、裏から引き離せない。逆もまた真で、どちらかを片方から切り離すと、盾は消えてしまいます。じつにこれは不可能です。この不可能は観念的には可能にできても、現実にはそれは不可能です。身と心は観念化されたイメージなのです。

 なお、縁起における「心身」は有ると無いだけではなく生じたり滅したりするものなので西洋の「実体」の概念とはまた違ったものです。




心は実在しない

2019-09-08 22:12:07 | 心の哲学・心身問題

 鈴木大拙は日本の禅を世界に広く普及させた仏教学者です。その鈴木大拙の「禅選集」から心身問題に関する記述を3つ選びました。
   
 鈴木大拙

 心は実在しない

 禅は実在としての心の存在を強く否定する。しかし、この否定は、知的判断の結果ではなくして、実際の経験にもとづくのである。

 精神や思想や物質の二元論的観念は、人間意識を毒して、自己をほんとうに理解することを妨げてきた。

 このために、禅は「無心」を主張することきわめて強い。これを論理的に主張するのでなく、事実として主張するのである。「心」という観念に執着する意識の痕跡をぬぐい去ってしまうために、禅は種々な実践的な方法をもちいる。
  禅選集3「悟り」より


 身と心は抽象

 私たちは身体と精神というようなものを区別して、それが別々の個在であるかのように語るが、事実の上では心も身も一種の抽象で、そんなものが個として別在するわけではない。

 ただ、一般的に実用向きに話して便利がよいので、昔からそんな風に見てきただけのことである。これが心で、あれが身だといって、別個の実体を認めるのは、まだ深く考えない結果である。われわれはいずれも無始劫来といってよいほどその迷夢からさめないでいる。

 われらの経験事実そのものには身も心もない、主観も客観もない、我も非我もない。これらはいずれも反省の結果である、再構成である。分極化である

 身と心は概念上、分別上においてこそ、二つの個在と見られるが、経験事実の上では何と区別すべきではないのである。

 話の上で身と心とを分けると、はなはだ便利なので、俗世間のみならず、少し理屈をいうときでも、身といい心というのである。が、これがため、起こさなくてもよい疑問が起こって、かえってそれに迷わされることが多いのである。

 たとえば死んだらどうだとか、身は腐朽するが、心はどこへ行くかというような疑問、これらは最初の第一歩を踏み出し損ねたので次から次へ疑いの雲は重なるばかりで、なかなか晴れないのである。  
  禅選集5「禅百題」より

 未分化の場所

 人間の世界は合理性によってつくりかえられていて、そこには事物がつねに対立し、この対立によって人は考え、その考えが逆に投影されて一切の経験界となり、したがって、両断されたこの世界は無限に倍加していく。禅の方法は論理的ないし哲学的方法に正反対の全く異なったコースをとる。すなわち一切のものが分起する以前の内的自己に還れというのだ。

 普通、人は究極の安息所をもとめるために自己自身から遠ざかってゆくものだ。歩き続けてついに神に到着するが、禅の道は逆に進む。つまり前に進まず、後方に進む。

 その道は混沌とした未分化の場に到達する、禅は一切の二分作用というものがまだ萌芽せぬ以前の世界を見るのである。
    禅選集3「悟り」より
  

心身問題

2019-08-28 09:14:48 | 心の哲学・心身問題
 デカルト式の実体二元論とは心身問題に関する形而上学的な立場のひとつで、心的なものと物質的なものはそれぞれ独立した実体であるとし、またその心的な現象を担う主体として「霊魂」のようなものの存在を前提とする説です。

 この実体二元論を採る人の多くは、宗教上の理由や信仰心との関連からこの立場に立っているようです。実体ニ元論に基づけば、肉体が亡びた後も霊魂は生き続けられるという結論が導かれるからです。死後の世界や輪廻転生があると信じる伝統的な宗教信仰者たちにとっては受け入れやすい説です。彼らは次のように考えます。

    
 自分の身の中にひとつの霊があり、それは何かに出会うと、よく好悪を判断し、是非を分別する。痛痒を知り苦楽を知るのもすべてこの霊の力である。しかもこの霊はこの身が死んで滅びるとき、身体を抜け出してまた別の場所で生まれ変わるので、これは永遠の存在なのである・・・と。

 これに対して真っ向から反論するのは道元です。

  

 このような考えは泥や石を黄金の宝と思うより、さらにひどい間抜けなことです。このような間違った教えに耳を傾けてはなりません。

 仏法では身体と心は「一なるもの」であり、二つでないと説きます。生まれて死ぬ、この事実がそのまま涅槃なのだと自覚しなさい。

 生死のほかに涅槃を説くことはありません。ましてや、心は身体を離れて永遠の存在なのだとまちがった理解をして、それが生死を離れた仏の智恵である、などと考えたところで、そう理解し分別する心は、生じたり滅したりして、まるで不変でありません。なんともたよりないことではありませんか。

  道元「弁道話」より

それは「我」ではない。

2019-08-25 20:22:35 | 心の哲学・心身問題
      

 ゴータマ・ブッダは、紀元前5世紀前後の北インドの人物で、仏教の開祖。 

 以下はブッダの思想のもっとも基本的なものである「無我」の教えです。南伝のパーリー経典から幾つか選びました。


 ■ 聞いたことのない教え

 あなたたちよ、わたしの教えを知らなくてもこの<身>のあることを歎き、厭い、解放されたいと願う者は多い。そこに生死老病を見るからである。

 しかし、この<心>と呼ばれるものについてはこれを厭い、これから解放されたいと願う者はいない。

 なぜなら、彼らはそれを「自分」であると信じているからである。しかしながら、この心を「自分」と思うよりも、身体を「自分」と思うほうがまだしもましなのである。

 なぜなら、この身体は50年あるいはもっと長く存続するであろう。しかしこの<心>と呼ばれるものは、日夜に転変し生じては滅するものなのである。

 南伝大藏経13巻 相応部経典12「無聞」


  ■ 砂の城

 あなたたちよ、世間の人々が心といい身体と呼んでいるのは砂で造られた城のようである。それは、まるで子供たちが砂で城をつくって遊んでいるようなものである。

 渇愛のある間は彼らはそれに夢中になっているのだ。しかし、渇愛がなくなれば、彼らは自分の手であるいは足でその砂の城を壊して立ち去るのである。

 相応部 ラーダ相応-2「衆生」

  ■ つながれた犬

 あなたたちよ輪廻はその始まりがわからない。

 無明におおわれ、渇愛に縛られ流転し輪廻する人の過去はしられない。

 まるで彼らは柱に革紐でつながれた犬のようである。
いくら歩いても立っても寝そべってもいつも柱から離れられない。ただ柱のまわりをいつまでもグルグルと回るばかりである。

 私の教えを知らない世俗の人々は、この犬のようである。この肉体を自分だと思い、心や感情の動きや、その思いなどを自分であると考える。

 これが彼らの柱であり、いつもこのまわりをグルグルと回り歩いている。

 相応部 蘊相応100「繋縄」

  ■ 絵の中の世界

「あなたたちはチャラナという絵を見たことがあるか。」そう言ってブッダはビクたちに語りかけた。

 あの絵は、人の心が描き出したものである。あなたたちよ、あの絵より、さらに多彩なものを人の心は描き出す。

 あなたたちよ、絵かきは白い布に絵筆をはしらせ、美しい女の姿やあるいは男の姿を、その顔立ちから身のこなしまで実にたくみに描くものである。

 わたしの教えを知らない世間の人々は、絵かきと同じようにその心の筆で、さまざまなものを描き出しているのだ。そしてそのことに気づいていない。

 相応部蘊相応100「繋縄」


  ■ 重荷

 重荷とはあなたの心であり、あなたの思いであり、あなたの身体である。

 そうとは知らずに背負うのが世間の人である。その世間でも荷物を背負うのは苦といい、荷物をおろすのは楽と言う。

 あなたは重荷を捨てるがよい。重荷を取ってはならない。

 渇愛を根絶したならば人は無欲にして涅槃に入る。

相応部 蘊相応重荷品「重荷」