大分発のブログ

由布・鶴見やくじゅうをメインにした野鳥や山野草、県内四季折々の風景などアウトドア写真のブログです。 

純粋経験/直接経験

2021-06-26 21:08:00 | 仏教の大意
  仏教のほうで使われる「般若」という言葉がありますがこれはサンスクリットのプラジュニャーprajñā,パーリ語パンニャーpaññāの音写語ですのでそのままではなんのことか意味が全くわかりません。

〈慧(え)〉と漢訳され〈智慧〉という意味ですが、ほかに無分別智という訳もあります。この無分別智という語は他の仏教語や西洋哲学との関連もよく、般若の訳としては一番わかりやすいのではないかと思います。無分別智とは無分別の智慧のことで思慮分別によらない智とのことです。
 言葉がちがうと最初は違和感がありますが、よく読めばこれも無分別智のことだとわかります。西田幾多郎著「善の研究」の冒頭の章。読みやすく編集しています。

✧純粋経験

 経験するというのは事実を事実そのままに知るということです。 全く自己の細工を棄てて、事実に従って知るのです。 純粋というのは、普通に経験といっているものもその実はなんらかの思想を交じえているから、全く思慮分別を加えない、真に経験そのままの状態をいうのです。

 た とえば、色を見、音を聞く瞬間、未だこれが外物の作用であるとか、私がこれを感じているとかいうような考えのないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのです。それで純粋経験は直接経験と同一です。

 自己の意識状態を直下に経験したとき、未だ主もなく客もなく、知識とその対象とが全く合一しています。これが混じりけない、経験の最も純粋な状態です。
   「善の研究」第1編第1章


✧具体的なもの

 純粋経験の直接にして純粋なるゆえんは、それが単一であって分析ができないとか、瞬間的であるということにあるのではなく、それが「具体的なもの」であるということにあるのです   (同1編1章)


✧直覚

自分で自分の意識現象を直覚すること、この純粋経験の事実のほかに実在はありません。  (1編2章)

 厳密なる純粋経験の立場より見れば、経験は時間、空間、 個人等の形式に拘束されるのではなく、これらの差別はかえってこれらを超越する直覚によりて成立するものです。また実在を直視するというも、すべて直接経験の状態においては主客の区別はありません。実在と面々相対するのです。  (1編4章)


✧知的直観
 わたしがここに知的直観 intellektuelle Anschauung というのはいわゆる理想的なる、普通に経験以上といっているものの直覚である。弁証的に知るべきものを直覚するのである。
 たとえば美術家や宗教家の直覚のごときものをいうのである。直覚という点においては普通の知覚と同一であるが、その内容においてははるかにこれより豊富深遠なるものである。
 知的直観ということはある人には一種特別の神秘的能力のように思われ、またある人には全く経験的事実以外の空想のように思われている。しかしわたしはこれと普通の知覚とは同一種であって、その間にはっきりした分界線を引くことはできないと信ずる。
西田幾多郎「善の研究」一篇四章より
【知的直観】
〘名〙 (intellektuelle Anschauung の訳語)
〘哲学で、事物の本質をじかにとらえる精神的、超感性的な働き。主観・客観の対立を越えて、ものをあるがままに認識する神のような知性の直覚作用。カントでは、本体をとらえる超感性的な悟性の働きとして神にあるとして人には認めないが、フィヒテ、シェリングでは、人知の最高段階とされた。超感性的直観
    日本国語辞典より

素朴な考え

2021-06-18 21:18:00 | 仏教の大意
常識的には、まず心と物とが相対立し、知るというのは心の働きと考えられます。しかしこのような考えはあまりにも素朴的であると彼は言います。

  
   西田幾多郎

    *
 我々の常識では意識を離れて外界に物が存在し、意識の背後には「心」なる物があっていろいろの働きをなすように考えています。
またこの考えがすべての人の行為の基礎ともなっています。

 しかし物心の独立的存在などということは我々の思惟の要求によりて仮定したまでで、いくらでも疑えば疑いうる余地があるのです。

     *
 普通には何か活動の「主」があって、これより活動が起こるものと考えています。しかし直接経験よりみれば、活動そのものが実在です。この「主」というのは抽象的概念なのです。

 私たちは統一とその内容との対立を、互いに独立の実在であるかのように思うから、このような考えを生じるのです。

 普通わたしたちは主観と客観とを別々に独立できる存在であるかのように思っています。そしてこの二つの作用により意識が生じるかのように考えています。つまり精神と物質の二つの実在があると考えていますが、それはまちがいです。

 主観・客観というのは一つの事実を考察するさいの観点の相違なのです。精神と物体の区別もこの見方から生じるのであり、事実そのものの区別ではありません。

 たとえば実際の花は単なる物体ではありません。色や形をそなえかおりのする美しく愛すべき花なのです。真の実在は普通に考えられているような冷静な知識の対象ではありません。

 それはわたしたちの情意より成り立ったものです。単なる存在ではなく意味をもったものです。ですからこの現実からわたしたちの情意を除き去ったなら、もはや具体的な事実ではなく単なる抽象的概念になります。

 それは学者の言う世界であり幅のない線、厚さのない平面と同じで、「実際に存在するもの」ではありません。この点より見て、学者よりも芸術家のほうが実在の真相に達しています。

 西田幾多郎『善の研究「実在」より

人間本来の心

2020-09-07 21:49:00 | 仏教の大意
国宝・一編上人絵伝

 ✧人間本来の心  

 およそ、大乗仏教の仏法は、心の外に別の世界を考えることはない。すべてのものは始めもなければ終わりもない本源的で清浄なる心である。ところが、我に執着する妄心に覆われて、その実体が現れにくい。

 そのような人間の清浄なる心が、アミダ仏の本願の力によってアミダ仏と一体になるとき、人間の本来の心が開くのである。
   
 極楽浄土がこの世界から10万億の仏国土を過ぎた彼方にあるということは、実際には距離のことではなく、人々の妄執がいかに浄土とかけ離れているかを示している。

 それで善導はいっている。「人々は迷妄愛執が深いため、浄土との隔たりが実際には竹の皮ほどのものなのに、まるで彼此の間を千里もあると思っている。」だから「観無量寿経」にも『アミダ仏は此を去ること遠からず』と説いている。これはアミダ仏が人々の心から遠く離れていないということである。

 一遍上人語録 巻下72

一遍(1239 - 1289)は鎌倉時代中期の僧侶。時宗の開祖。
  

 ✧外道

 心の外に真実を求めるのを外道という。
心の外に対境を置いて念を起こすのを迷いという。

 対境をなくした
 「一なる」ところの
 本来の心は妄念なし。

心と対境がそれぞれ別であり二つあると思うから生死流転するのである。

 一遍上人語録 巻下66

国宝一編上人絵伝


 ✧畑に隠された宝

 ひとりの貧しい女の畑に宝が埋まっていた。家族は誰もそのことを知らなかった。そこへ旅人がやってきて、告げた。「あなたの宝をほり出してあげるから、草を刈ってほしい」。
 女は 
「できません。もしあなたが私の息子に宝の埋まっている証拠を見せてくれるなら、あなたのために働いてもよいのですが」という。
その人は「私はやり方を知っているから、きっと見せてあげられます」という。
 女は
「家の者が知らないのにどうして、あなたのようなよそ者に分かるのですか」といぶかる。

 そこで、その人は実際に畑を掘って宝をとり出したので、その女は大へん喜び、まことに奇特なことと思って、その人を尊敬した。

 あなたたちの内なる仏性もこれと同じことだ。誰もそれを見ることができないが、ただ如来だけがそれを知っている。畑に埋まっている宝とはあなたたちの内にある仏性をいうのである。
        涅槃経




妙好人

2020-09-07 19:10:00 | 仏教の大意
「アフロ阿弥陀」
京都・金戒光明寺の「五劫思惟阿弥陀仏」
  

 妙好人(みょうこうにん)とは、浄土教の篤信者、特に浄土真宗の在俗の篤信者を指す語で、他力の信心を得たすぐれた念仏者。また、念仏者をほめていう語です。そのほとんどは農民を中心とする庶民的な念仏者です。以下はそのような妙好人の一人である森ひなさんの歌です。読みやすく編集しています。

 無題

 アミダと親子でありますが、時どき煩悩になやむのは避けられません。本当になんと恥かしいことでしょう。ナムアミダブツ。

 煩悩を持たないように努めてみても、ますますたくさん心の中に押し寄せます。本当になんと恥ずかしいことでしょう。ナムアミダブツ。

 邪悪の自己を見てみれば、いかに哀れなものかわかります。かわいい我にも愛想が尽きます。なんと恥ずかしいことでしょう。ナムアミダブツ。

 まことに私は醜い老婆、いやになるような悪いやつ。でも私は親さまと一緒、決して離れぬ親さまよほんとになんとありがたいこと。ナムアミダブツ。

 悪の道を避けんとし、常に浄土を希いつつ、この心そのものがまったく自力にほかなりません。私は今なんとありがたいことでしょう。

 まったく盲目でしたのに、私はそれを知りませんでした。大丈夫だと思って来たのは何と恥ずかしいことでしょう。

 私の称える念仏は私のものだと思っていました。しかしそうではありません。それはアミダの喚び声でした。本当になんとありがたいことでしょう。ナムアミダブツ。

 必ずや悪道に落ちるに決っているので、私には浄土も悪道も無用です。

    妙好人 森ひな

  

鈴木大拙

  妙好人

 わたしたちの日常の生活は、言うまでもなく、心配や不安や恐怖に満ちています。わたしたちはこういう難問の只中に安穏ならざる生活をしているのですが、妙好人はそのような困難に少しも影響を受けません。

 妙好人はわたしたちと同じ日常的な問題を持ってはいますが、わたしたちほどそれに縛られません。妙好人は貧困や恐怖を免れてはいませんが、それに束縛されません。妙好人はそういう困難から離脱することができるのです。束縛されながら、しかも自由です。

 彼女が「私はいつもアミダ自身と一緒です」と言っているのはこのことです。
もし不安や恐怖や心配がなかったら、「いつもアミダ自身と一緒です」とは言えなかったでしょう。これが最も大事なところです。あらゆる宗教教義はそういう経験を指し示しています。

 わたしたちは、聖者はきわめて崇高で、ふつうわたしたちが持つような煩悩をまったく持たないと考えがちです。しかしそうではありません。もしある聖者を、世俗をまったく離れているという理由でたたえるならば、きっとその聖者は、「何をおっしゃいますか。私はまったくあなたがたと同様の悪い人間です」と言うでしょう。そして、「しかし、こういうもろもろの煩悩にもかかわらず、私をそれから解き放ち、神とともにあらしめる何かがあります」と言い添えるでしょう。

 この婦人の告白は実にすばらしい。知的な観点からすれば、もし人が常にアミダと共にあり他力の現在を自覚しているのであれば、どうしてその人の心が煩悩をやどしたり自己嫌悪を感じたりするだろうかということになります。それはわれわれの知的な推論です。現実の生活に曖昧と矛盾は常に起こるものです。そういう矛盾にもかかわらず、妙好人は、こういう真に宗教的な人たちは、自らの得たところを喜び感謝するのです。

 慢心が去れば卑謙が生じます。卑謙は他力の認識です。卑謙が体得されれば、すばらしい喜びが出てきます。卑謙はその人をまったくみじめに感じさせるかもしれません。実際そうであります。しかし同時に、その人はみじめさとは正反対の感情を感得するのです。喜びが生まれ満足が来ます。 

 他力

 真宗は自力と他力を区別します。自力はキリスト教の慢心に相当し、他力は卑謙によって来るのです。自力や慢心が打ち砕かれると、人は面目を失います。そしてこの屈辱感がやがて卑謙となり他力に通ずるのです。

 われわれは、本当に謙虚になってこの卑謙の情を経験するには、慢心を棄て謙虚であるように努めねばならないと思いがちです。そのときわれわれは、これは他力によってなされると考えるかもしれませんが、それがもう自力を使っているのです。われわれがすべて他力だと思うとき、その意識そのものが、それが自力だということを証明しているのです。

 他力は実際には思いがけなくやってきます。われわれが本当に他力を得るとき、他力は完全にわれわれの意識を把え、自力は去ってしまいます。他力がわれわれの意識の範囲を全領するとき、それを他力であると認識させるものは何か、と問う人がいるかもしれません。事実、そこには他力の意識すらないのです。なぜなら、他力が偏満してこれに対立するものは何もないからです。ここでは言葉の力は敗北します。他力が現存し、私はそれを意識するのですが、その他力は私の意識全体を私だと見ます。しかし私は現存しています。

 私は私であり、他者は他者でありながら、しかもそこに表現しがたい意識が生じています。表現すれば、それは不条理なものになるのです。だから他力は、自分自身で体得するのでなければなりません。 

 鈴木大拙「真宗入門」第五章・妙好人より

いいこと聞いた/あなたとわたし

2020-09-07 19:05:00 | 仏教の大意
浅原才市(あさはら さいち)は1850年(嘉永3年)島根県の生まれ。浄土真宗の妙好人のひとり。
  

 昭和の妙好人といわれ、町の人々に慕われ尊敬されました。船大工や下駄職人で生計を立てていましたが、晩年に五千とも一万とも言われる句を書き綴りました。

 ある日、才市老人がアミダ様と顔を合わせました。不思議なことにそのアミダ様の顔をよく見るとそれは才市自身の顔でした。

 才市は言いました。

〇わしが親さま、
  見たことあるよ。
 よくよく見れば、
  わしが親さま、
 なむあみだぶつ。

〇あなた顔見りや、
  ふしぎなあなた。
 あなた顔見りや、
  あなたわたしで、
   わたしもあなた。
 なむと、あみだわ、
  あなたとわたし。

〇わたしや、
 あなたに拝まれて、
「助かってくれ」と
  拝まれて。
 ご恩うれしや、
  なむあみだぶつ。

〇聞いた聞いた 
  いいこと聞いた。
 凡夫が仏になると聞いた。

〇風と空気はふたつなれど、
 ひとつの空気、 
  ひとつの風で、

 わしと阿弥陀は
  ふたつはあれど、

 ひとつお慈悲の
  なむあみだぶつ。

〇ええな、
 せかい虚空がみなほとけ。
  わしもその中
   なむあみだぶつ。

〇如来さんよい、
  わしがなむなら、
   あなたはあみだ。

 わしとあなたで、
  なむあみだぶつ。
      浅原才市


  浅原才市は「口あい(くちあい)」と称せられる信心を詠んだ多数の詩で知られ、「日本的霊性」として鈴木大拙によって世界的に紹介されました。  

   鈴木大拙
  

 ✧Shin and Zen
 (浄土真宗と禅宗)


 禅宗と真宗には共通点があります。禅宗でも真宗でも共に求めるものは、私が「エンライトンメント」と呼ぶもの、日本語でいう「悟り」です。真宗では悟りではなく、ただ「信心」(faith)と呼びます。しかし、「信心」も「悟り」も同じことで、呼び方が違うだけです。

 仏教語の定義では、信心とは、自分以外の何かではなく自分自身を信ずること、それが信心であり、悟りなのです。知的な用語を使えば、自分自身を信ずることは、認識論的には「悟り」であり、宗教的には「信心」です。

 このように信心は、悟りもそうですが、自己を直接、直感的に把握することです。自己がとらえにくいことは、初めに話したとおりです。このとらえがたい自己は、科学的には把握できない。ただ直観的、それもふつうの直観ではなく、私が他のすべての直感と峻別する「般若智」という超越的な直覚によるのです。

 つまり、物事の全体性を全体として把握する。次から次へと個別的に把握するのではありません。この種類の直覚には自己を把握する力があり、自己が把握されるのです。それを、ある資質の人は「信心」と呼び、別の資質の人は「悟り」と呼ぶのです。

 一般に、真宗はアミダ仏による救済を目指すと理解されています。アミダ仏が悟りを得て創った浄土へと導かれる。真宗信者は、浄土へ着いたその瞬間に悟りを得るのです。もはや「信心」とも信仰とも呼ばず、「悟り」と呼ぶのです。

 アミダ仏が我々を浄土へ導く目的は、一人一人に悟りを得させるためで、浄土では、そこに生まれた瞬間に悟りが得られるようになっているのです。

 相対的、限定的なこの世にいる限り、すべて因果律に縛られています。しかし、浄土へ行けば、因果律は無効になって消滅します。この有限の世界が境界線をすべて突破して制約を打破すれば、そこは無限の世界となって、制約はすべて取り払われる。これが悟りの体験です。

 しかし、真宗の人たちは、この世にいるあいだ、自己を限定的な見方に閉じ込めています。そう信じている限り、この限定的な世界からは出られません。しかし死後、つまり生死の束縛から解放されると浄土に生まれる。そうすると、有限の世界は無限の世界へ溶け込み、悟りが可能になるのです。それを真宗では「信心決定」と呼んでいます。
 
 ✧相互融合 
 (con-fusion)

 ある有名な真宗信者がいました。この人はまったく無学でしたが、真宗への信心はほとんど禅と同じで、よくこう言っていた。「浄土にいる瞬間は同時にこの世にいて、この世にいると言った瞬間、浄土にいる」と。

 この人は下駄作りの職人でした。彼はよく言いました。「わしが木を下駄の形に削っているときは、わしの腕も手も動いているが、この手も、この腕も、自分のものじゃない。アミダ仏のものだ」と。

 このアミダ仏を、神とかキリストと呼んでも構いません。そして「このアミダ仏がわしの手も腕も動かしている。アミダ仏がわしの身体で働いている」と言うのです。

 この「自分がアミダで、アミダはこのわしだ。」と同時に、「アミダはアミダ、わしはわしであって同じではない。」

 この混乱―この融合は、ふつうの意味の混乱ではないのです。「相互融合」(con-fusion)です。互いに融合しあうことで、私は「相互融合」と呼んでいます。ただ「雑然とまじりあう」だけならそれは混沌ですが、そうではない。
 
 「わたしはあなた、あなたはわたし。」同時に「わたしはわたし、あなたはあなた。」という世界です。

 ここがきわめて重要です。「わしが働いているとき、それはわしではなく、アミダが働いている。しかし、アミダはアミダ、わしはわし」という世界。このところは混同してはならない。

 そして「わしはアミダで、アミダはわしだ。それと同時に、わしはわし、アミダはアミダ」と言えるとき、そこに真宗の信心があり、本物の宗教的生活の原点が生まれるのです。

 これは宗教的生活を送る上できわめて重要な点です。宗教的人生が可能になるのは、この「融合」が起こり、同時に相互の区別が実際に可能となっているときです。

 アメリカン・ブディスト・アカデミー講演(1957年)CDブック「大拙禅を語る」より