大分発のブログ

由布・鶴見やくじゅうをメインにした野鳥や山野草、県内四季折々の風景などアウトドア写真のブログです。 

ハスの花が開花

2021-06-27 17:57:00 | 季節の花と山野草
臼杵石仏でハスの花が開花していました。2021.6.27


満月寺の石仏(木原石仏)。


満月寺(まんがつじ)の庭のハズ花。




ハス畑のハスは咲き始め。




まだアマガエルは一匹も現れていませんでした。これはヌマガエルのようです。

今年のハズ畑は一部スカスカでやや淋しい感じです。


臼杵石仏入口前を流れる臼杵川にいたカワセミ。

"石仏カワセミ”と名前を付けています。


水路にいたゴイサギ。そして昨年ヤマセミのいた少し上流に行くと、この日もまたヤマセミがいましたがこれは撮れず。

ネムの花も咲き始めました。









純粋経験/直接経験

2021-06-26 21:08:00 | 仏教の大意
  仏教のほうで使われる「般若」という言葉がありますがこれはサンスクリットのプラジュニャーprajñā,パーリ語パンニャーpaññāの音写語ですのでそのままではなんのことか意味が全くわかりません。

〈慧(え)〉と漢訳され〈智慧〉という意味ですが、ほかに無分別智という訳もあります。この無分別智という語は他の仏教語や西洋哲学との関連もよく、般若の訳としては一番わかりやすいのではないかと思います。無分別智とは無分別の智慧のことで思慮分別によらない智とのことです。
 言葉がちがうと最初は違和感がありますが、よく読めばこれも無分別智のことだとわかります。西田幾多郎著「善の研究」の冒頭の章。読みやすく編集しています。

✧純粋経験

 経験するというのは事実を事実そのままに知るということです。 全く自己の細工を棄てて、事実に従って知るのです。 純粋というのは、普通に経験といっているものもその実はなんらかの思想を交じえているから、全く思慮分別を加えない、真に経験そのままの状態をいうのです。

 た とえば、色を見、音を聞く瞬間、未だこれが外物の作用であるとか、私がこれを感じているとかいうような考えのないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのです。それで純粋経験は直接経験と同一です。

 自己の意識状態を直下に経験したとき、未だ主もなく客もなく、知識とその対象とが全く合一しています。これが混じりけない、経験の最も純粋な状態です。
   「善の研究」第1編第1章


✧具体的なもの

 純粋経験の直接にして純粋なるゆえんは、それが単一であって分析ができないとか、瞬間的であるということにあるのではなく、それが「具体的なもの」であるということにあるのです   (同1編1章)


✧直覚

自分で自分の意識現象を直覚すること、この純粋経験の事実のほかに実在はありません。  (1編2章)

 厳密なる純粋経験の立場より見れば、経験は時間、空間、 個人等の形式に拘束されるのではなく、これらの差別はかえってこれらを超越する直覚によりて成立するものです。また実在を直視するというも、すべて直接経験の状態においては主客の区別はありません。実在と面々相対するのです。  (1編4章)


✧知的直観
 わたしがここに知的直観 intellektuelle Anschauung というのはいわゆる理想的なる、普通に経験以上といっているものの直覚である。弁証的に知るべきものを直覚するのである。
 たとえば美術家や宗教家の直覚のごときものをいうのである。直覚という点においては普通の知覚と同一であるが、その内容においてははるかにこれより豊富深遠なるものである。
 知的直観ということはある人には一種特別の神秘的能力のように思われ、またある人には全く経験的事実以外の空想のように思われている。しかしわたしはこれと普通の知覚とは同一種であって、その間にはっきりした分界線を引くことはできないと信ずる。
西田幾多郎「善の研究」一篇四章より
【知的直観】
〘名〙 (intellektuelle Anschauung の訳語)
〘哲学で、事物の本質をじかにとらえる精神的、超感性的な働き。主観・客観の対立を越えて、ものをあるがままに認識する神のような知性の直覚作用。カントでは、本体をとらえる超感性的な悟性の働きとして神にあるとして人には認めないが、フィヒテ、シェリングでは、人知の最高段階とされた。超感性的直観
    日本国語辞典より

くじゅう飯田高原と湿原の花

2021-06-22 20:20:00 | 季節の花と山野草
「九重自然観」の池に咲くスイレン。2021.6.22



ニワゼキショウ

ニワゼキショウ白花

この日は広いタデ原には寄らず、長者原の横断道路左側にある小さなほうの「タデ原」に行って来ました。

ウツボグサと黄色はミヤコグサ

イブキトラノオ

ヒメジョオン


オカトラノオ


クサレダマ


カキラン


レンリソウ



飯田高原でイブキトラノオ。まだ夏の花はほとんど咲いていません。


ユウスゲ

由布の草原でクララとウラギンヒョウモン





湿原でトキソウ


今季はこれが初見でした。

今季最後の一株でした。

コバノトンボソウ


ハンカイソウ


この湿原では初見のマイヅルテンナンショウ。


クモキリソウ






道中でホタルブクロ

ホタルブクロ

カワラナデシコ










マイヅルテンナンショウ、ヒメユリ開花ほか

2021-06-21 19:04:00 | 季節の花と山野草
別府市神楽女湖の花菖蒲はただ今満開。2021.6.21




両端はちょぼちょぼ。中央はよく咲いていました。


赤とんぼのショウジョウトンボ。


志高湖はスルーして猪の瀬戸。


ツルテンの愛称で親しまれているマイヅルテンナンショウ。


鶴が舞っているように見えるから舞鶴天南星。


アザミにウラギンヒョウモン。

キキョウソウ。

由布岳山麓に移動してハンカイソウ。

ヤマツツジ


山麓ではおなじみの野生の鹿。


立派な角の雄鹿。


この日は20頭くらいいました。

イナモリソウはこれ一株しか目に留まりませんでした。 


マイヅルテンナンショウ。


彩雲が出ていました。


少し移動してキリンソウ。




ヒメユリが咲いていました。


例年より1週間ほど早い開花です。








素朴な考え

2021-06-18 21:18:00 | 仏教の大意
常識的には、まず心と物とが相対立し、知るというのは心の働きと考えられます。しかしこのような考えはあまりにも素朴的であると彼は言います。

  
   西田幾多郎

    *
 我々の常識では意識を離れて外界に物が存在し、意識の背後には「心」なる物があっていろいろの働きをなすように考えています。
またこの考えがすべての人の行為の基礎ともなっています。

 しかし物心の独立的存在などということは我々の思惟の要求によりて仮定したまでで、いくらでも疑えば疑いうる余地があるのです。

     *
 普通には何か活動の「主」があって、これより活動が起こるものと考えています。しかし直接経験よりみれば、活動そのものが実在です。この「主」というのは抽象的概念なのです。

 私たちは統一とその内容との対立を、互いに独立の実在であるかのように思うから、このような考えを生じるのです。

 普通わたしたちは主観と客観とを別々に独立できる存在であるかのように思っています。そしてこの二つの作用により意識が生じるかのように考えています。つまり精神と物質の二つの実在があると考えていますが、それはまちがいです。

 主観・客観というのは一つの事実を考察するさいの観点の相違なのです。精神と物体の区別もこの見方から生じるのであり、事実そのものの区別ではありません。

 たとえば実際の花は単なる物体ではありません。色や形をそなえかおりのする美しく愛すべき花なのです。真の実在は普通に考えられているような冷静な知識の対象ではありません。

 それはわたしたちの情意より成り立ったものです。単なる存在ではなく意味をもったものです。ですからこの現実からわたしたちの情意を除き去ったなら、もはや具体的な事実ではなく単なる抽象的概念になります。

 それは学者の言う世界であり幅のない線、厚さのない平面と同じで、「実際に存在するもの」ではありません。この点より見て、学者よりも芸術家のほうが実在の真相に達しています。

 西田幾多郎『善の研究「実在」より