goo blog サービス終了のお知らせ 

華の会

日本文化を考える

太宰治 「桜桃忌」

2005年06月08日 | 文学
太宰治 「桜桃忌」
太宰治は昭和23年6月13日深夜、
山崎富栄と三鷹市の山本有三の家の近くの玉川上水に入水した。
二人の遺体は6月19日に、
入水場所から1キロ程下った所の橋げたに絡んでいたのが発見された。
二人の遺体が発見されたのが6月19日なので、
彼のお墓のある東京・三鷹の禅林寺では
毎年、法要が催され、沢山の太宰ファンが訪れる。
この日を「桜桃忌」というのは
死の直前に発表された彼の短編「桜桃」による。
尚、太宰治の生誕地、青森県金木町では
太宰の誕生日が奇しくも遺体発見日と同じ、
6月19日であった事から、
最近、桜桃忌から、「生誕記念祭」と名前を変えて開かれている。

東京・三鷹の禅林寺の太宰治の墓の斜め前には明治の文豪森鴎外のお墓がある。
又、瀬戸内寂聴が昭和20年代、
夫と別れて、一人で暮らしていた下宿も禅林寺の近所である。

5年程前、二人が入水したと推定される場所に自然石の記念碑が建てられた。
20年程前までは二人に縁のある建物が三鷹市に残っていたが今はほとんどない。
山崎富栄が下宿していた葬儀屋も建て直され、
太宰がよく訪ねたという「美登利寿司」も一昨年、春に閉店した。
以上

桜桃とさくらんぼ

2005年06月07日 | 
1、桜桃と「さくらんぼ」
中国で漢字の「桜桃」は日本の「さくらんぼ」ではなく、
「ゆすらうめ」の実の事である。
ユスラウメは中国原産の植物で日本には江戸時代初期に渡ってきた。
ユスラウメの語源について、二つの見解がある。
①牧野富太郎博士の「枝をゆさぶって果実を落とした」からという説と
②深津正の朝鮮名の「移徒楽(いさら)」「イスラ」がなまったという説がある。

日本のほとんどの桜の木に実がなる。
黒く熟したのを噛むとサクランボの香りがするが食べるほどの大きさではない。

木で黒く熟した実を少し湿り気のある所に保存しておいて、冬に撒くと芽がでる。
実の部分に発芽抑制作用があるから、
種を良く洗って,実をきれいにしたほうが良いという説もある。
種を撒く冬まで保存する時、種をあまり乾燥させてしまうのは良くないようである。
瓶に入れて置くと3%くらいのアルコール分の酒が出来るが
その種では撒いても発芽がしないという。

2、食用のサクランボの種類

中国では生食用のサクランボとして2種類ある
①中国桜桃 シナミザクラ(支那実桜)
        カラミザクラ(唐実桜)
②白花中国桜桃シロバナカラミザクラ(白花唐実桜)の二つある。
  どちらも普通のサクランボよりも小さい粒で黄色のサクランボがなる。
  普通のサクランボは夏、涼しい地方が栽培に適しているが
  この種類は暖地でも栽培可能な東京でも実るので、見かける事ができる。


セイヨウミザクラには三つの種類がある。
Ⅰ.カンカオウトウ(甘果桜桃) 西洋実桜
  Ⅰ-1.果肉が軟らかいハート群
  Ⅰ-2.果肉の硬いビガロー群
Ⅱ.サンカオウトウ(酸化桜桃) 酸味実桜の3種類である。

セイヨウミザクラは西アジアが原産地である。
鳥の糞で運ばれたのか、人為的かまだ結論は出ていないが
ヨーロッパ全土で有史以前から野生化していた記録が残っている。

Ⅰ.カンカオウトウ 甘果桜桃は2種あり、
 Ⅰ-1.果肉が軟らかいハート群の品種は
    ①ナポレオン   18世紀初めヨーロッパで栽培
               日本には明治初めに輸入された。
               晩生種 実は大粒、淡黄に赤斑
    ②キダマ(黄玉) アメリカのオハイオ洲で交配
    ③ジャンブレー  仏のリヨン付近のジャンブレーで作出された。
               明治後期輸入
          などが代表的な品種である。

       日本でサクランボは佐藤錦・蔵王錦や
       米国産の高砂(伊達錦)の品種が有名である。 
       国産サクランボの代表的品種 
    ④ 「佐藤錦」は育成者が山形県の佐藤栄助氏 
       砂糖のように甘いので名前は佐藤錦 
       1912年ナポレオンと黄玉を交配から作出された。 

    ⑤「蔵王錦」は1935年頃、山形県の上山市で
        ナポレオンの交雑種から生まれた              
   
    ⑥「アメリカン・チェリー」日本に輸入されているさくらんぼ
          1875年アメリカのオレゴン州で交配された。
          黄色地に赤斑⇒濃赤⇒赤黒色で大粒の「ビング」
          という種類のようだが。まだ確認は取れない。

Ⅰ-2果肉が硬いビガロー群は
   アメリカのカリフォルニア洲などで栽培される
    「ブラック・タータリアン」などがある。?

Ⅱサンカオウトウ 酸果桜桃 果実がすっぱい
   さくらんぼでドイツが本場である。
   果実は缶詰やリキュール酒の加工用になる。
   チェーホフの「桜の園」の桜はこの桜
以上



宇野千代と桜模様

2005年06月03日 | 文学
「宇野千代展ー書いた、恋した、生きた。」
 「書いた、恋した、生きた」はスタンダールの墓碑銘です。

会期:平成17年4月29日~6月12日
場所:東京・世田谷文学館
年譜:明治31年(1897)11月28日 山口県岩国市生まれ
    平成8年(1996)6月10日 98歳で永眠


世田谷文学館HP宇野千代のページ
http://www.setabun.or.jp/unochiyo.htm
世田谷文学館見学者の感想
http://www.setabun.or.jp/chiyo_report1.htm
宇野千代さんの生家のHP
http://www.joho-yamaguchi.or.jp/mac/040114-unochiyo-seika.htm

宇野さんというと晩年の着物姿を思い浮かべますが
昭和11年6月 39歳の時に、スタイル社を設立して、
日本最初のファツション雑誌「スタイル」を創刊しました。
当時は珍しい、お洒落に関する記事が評判となり、人気がありました。
宇野さん自身もモデルとして雑誌に登場しています。
スタイル社は昭和34年(1959)4月に倒産。
若い頃の洋装の宇野さんも素敵です。
女優の藤真利子さんに面影が似ています。

会場には宇野千代さんが大好きだった
桜模様の和服が沢山展示されていました。

桜に対する宇野さんの文章から、

1、書いた  いくつもの恋
     モデル    作品
   ①父親    「おはん」「風の音」
   ②尾崎士郎 瀬戸内寂聴に「尾崎さんが一番好き」と告白
   ③東郷青児 「色ざんげ」
   ④北原武夫 「刺す」「雨の音」
   ⑤自叙伝  「或る一人の女の話」「生きてゆく私」

「私は夢を見るのが上手」から
いくつもの恋をした。そしてそれと同じ数だけ失恋したのであつた。
いつの場合も経緯は同じであつた。
私の恋は、考へる隙のないほど素早く始まり、そして終はるのであつた。
 好きな人が目の前に現はれると,私は忽ちにして、その人のとりこになり、
前後もなく考へずに行動を開始するのだった。
何を逡巡する事があらう,私はその人の目を真つすぐみて、
「私はあなたが好きです。」と言った。
好きだと言はれて不愉快に思ふ人はゐなかつた。恋は成就した。
             平成4年(1992)「私は夢を見るのが上手」

ファツション雑誌「スタイル」の協力者、北原武夫との出会いから
別れまでの日々をもとに小説「刺す」「雨の音」を書きました。

「雨の音」から
 或るとき、私の作った着物が、世にも美しく染め上ったと思われ、
思わず私はそれを、吉村のいる所へ持って行って、見せないではいられなかった。
「ね、同じ花びらだけを,繰り返して置いたものなのよ。」と説明した。
私が美しいと思ったものが、そのまま吉村にも伝わらない筈がない、
と思ってでもいたのだろうか。
「きれいだね。配色が美しい。」吉村はちらと見て、
さう言ったが、それはただ、隣人の批評でしかなかった。
私はすぐに、そのことを了解した。
                昭和49年(1974)「雨の音」
「刺す」
 私たちの別離は、極く自然に行われた。
秋になって、木の葉がその枝から落ちるのと同じように。
そのことに苦悩があったとしても、それは木の葉の枝から離れる瞬間の、
あの、微かな痛みに似たものであった。
             昭和41年(1966)「刺す」より

2、恋した   桜模様

「私は夢を見るのが上手」
 私は桜が大好きである。その単純明快な形が好きである。
いつのまにか私の本はさくらの装丁が多くなった。
又,私のデザインする着物,ハンカチ,陶器も、桜の模様が特徴になつてゐる。
 さくらの単純明快な形が、その組み合わせによって、
さまざまな表情を生み出す面白さ、その美しさ、
そこに私は尽きることのない魅力を感じるのである。
              平成4年(1992)「私は夢を見るのが上手」

3、生きた  「根尾村の薄墨桜」
http://www.mirai.ne.jp/~hasegawa/usuzumi/

宇野さんは昭和42年、小林秀雄の紹介で
岐阜県根尾村に「薄墨の桜」を見に行きました。
その頃の薄墨桜は枝が二つに裂け、見るも無残な姿でした。
それを見た宇野さんは何とかして、桜を助けたいと、
桜の惨めな姿を本に書いたり、色々な人に相談しました。
やがて、沢山の人々で桜を守るための協力体制ができ、
薄墨桜は再び美しい姿に生まれ変わりました。
その後、映画監督の羽田澄子さんが「薄墨桜」の
記録映画を撮りました。

「薄墨の桜」
 春の日には珍しく、雲ひとつない青空の下でした。
私たちは思わずそこに立停まりました。枝はのびのびと拡がっていました。
どの小枝の先にもぎっしりと、薄墨色の花がもぶれついて、
二反歩の空間を埋め尽くしている壮観は,見事でした。
それはあの、老婆の非業の死によって、
私たちの念願が勝利をしめした事の、その結果だと言えましょうか。
        昭和50年(1975) 「薄墨の桜」

 おまけ 
① 恋愛するにも「練習」が必要です。

②今、あなたの上にあらわれている能力は
 氷山の一角 真の能力は、水中深く深く隠されている。

③幸福は、遠くにあるものでも、
 人が運んでくるものでもない
 自分の心の中にある

④能力というものは
  天与のものではなく
  自分で作るものである

⑤自分の幸福も 人の幸福も 同じように
 念願する境地まで歩いて行きたい

⑥好奇心は人間を生き生きさせる。

⑦一握りの仕合せを求めて、生きるのが人間である。

⑧人生はいつだって、今が最高のときなのです。

⑨この頃、思うんですけどね、
  何だか私 死なないやうな気がするんですよ  
   は は は は は
           宇野千代 95歳

番外 「私は過去を振り返らない、反省するけど、後悔はしない」
        テレビ番組のインタビューで

以上



河竹登志夫氏 歌舞伎講演会のお知らせ

2005年06月02日 | 歌舞伎
歌舞伎講演会のお知らせ  「花の会」20周年記念講演会

    古典芸能研究会「花の会」の20周年を記念して、
    偉大な歌舞伎作者,河竹黙阿弥の曾孫で、
    演劇研究の権威でいらっしゃる、
    河竹登志夫先生の御講演をお願いしました。

   日時  平成17年7月14日(木)午後2時~4時 
   演題  「世界に羽ばたく歌舞伎」
         歌舞伎の海外公演を中心に戦後歌舞伎の思い出 
   講師  早大名誉教授 河竹登志夫氏
   会費  900円
   会場  世田谷区 烏山区民センター3階集会室にて

        東京都世田谷区南烏山6丁目
        京王線 千歳烏山駅北口1分
http://www.city.setagaya.tokyo.jp/cgi-bin/sisetu/sisetu.cgi?mode=view&no=57

連絡先  nmwtg303@ybb.ne.jp 長谷川まで


石橋健一郎氏歌舞伎講演会のお知らせ

2005年06月02日 | 歌舞伎
中村座を中心に江戸三座のお話
花の会20周年記念講演会
Ⅰ 日時  平成17年6月16日(木)午後2時~4時
   演題  「座元の人々」
   講師  国立劇場芸能部次長石橋健一郎氏
   会費  900円
   会場  烏山区民センター
        東京都世田谷区南烏山6丁目
        京王線 千歳烏山駅北口1分
http://www.city.setagaya.tokyo.jp/cgi-bin/sisetu/sisetu.cgi?mode=view&no=57

連絡先  nmwtg303@ybb.ne.jp 長谷川まで


ワシントンの桜

2005年05月29日 | 
ワシントンの桜といえばポトマック河畔の桜が有名

衆議院議員で東京市長の尾崎行雄(安政5年1858~昭和29年1954)が
明治45年アメリカのワシントン市に桜の苗木(3000本)を送りました。

尾崎行雄が昭和29年10月6日に神奈川県の逗子で亡くなられてから
平成16年で50年、これを記念して国会前の憲政記念館では
平成16年5月20日~6月11日まで、
「尾崎行雄と議会政治特別展」が開かれました。

特別展でワシントン市に桜を送った経過が展示されていました。

1909年(明治42年)8月18日
 衆議院議員で東京市長の尾崎行雄はその頃、
日露戦争を講和に導いてくれたアメリカの恩義に報いようと考えていた。
丁度、アメリカのタフト大統領夫人が日本の桜を
ワシントンに植樹したいとの希望があることを知り、
尾崎行雄はワシントン市に桜の苗木を贈る事を決めた。
10種2000本の桜の苗木をワシントンに贈った。
しかし、桜の苗木は病害虫のため、防疫検査が通らず、
全て焼却処分された。この失敗から尾崎は健全な苗木の育成を考え、
当時の農商務省興津園芸試験場に委託して、
苗木を育て3年後の明治45年(1912年)
染井吉野ほか9種類3000本の苗木をワシントンに贈った。
その桜はポートマス河畔で見事に開花した。
贈られた苗木は染井吉野1種類ではなく、
10種類もの種類があつたために桜の交雑があり、
アメリカの気候風土に適合した二代目、三代目の桜が生まれた。
ポトマック河畔を始め、全米各地に広がり日米親善のシンボルとして
今日に至っている。

特別展で配られていた無料の小冊子に
尾崎行雄の三女 相馬雪香さんの
「父・咢堂の思い出の数々」が載っていました。
その中で尾崎行雄が娘相馬雪香さんに与えた言葉は
尾崎行雄の優しさと心の広さがにじみ出ていて、
今の世界を考える一助になると思い取り上げます。

「尾崎行雄と議会政治特別展」編集・発行・衆議院憲政記念館 
相馬雪香「父・咢堂の思い出の数々」  10ページ

 「父は東京市長時代、アメリカに桜を三千本寄贈しました。
それは、日露戦争の折、アメリカのルーズベルト大統領の
好意に満ちた講和斡旋に対する感謝の気持ちからでした。
時の米大統領タフトの夫人が、
沼地の多かった当時のワシントン市を美化するために
日本の桜を植えたい希望をもっている事を知り、
市民を代表する意味で行った事でした。
しかし、私が小学校の地理の時間に先生が「桜は日本の魂だ、
それを外国に売ったヤツがいる」と言われたのです。」 同書10ページ

この桜の返礼にアメリカから30本のハナミズキの苗木が贈られました。
日比谷公園など日本全国16箇所の公園に植えられました。
ワシントン市のポートマス河畔の立派な桜並木に比べて、
この時、桜の返礼にアメリカから贈られた「ハナミズキ」の木は現在、小石川植物園
や世田谷の都立園芸高校の校庭の裏のほうに人目を避けるように植えられています。
しかも数本しか残っていないのです。
相馬雪香さんの文章でその理由が少し判ったように思いました。

尾崎行雄の記念展覧会に配られた小冊子に
政策研究大学院教授 伊藤 隆氏が
「政治家 尾崎行雄について」という文を書いている。

尾崎行雄は慶応義塾で学び、福澤諭吉の推薦で
明治12年「新潟新聞」の主筆となりました。
翌年、統計院権少書記官となりましたが明治14年の政変で退官し、
その後、政治家になりました。

大正8年(1919)3月、尾崎行雄は第一次世界大戦後の
欧米の情勢を視察するため、横浜を出航しました。
この視察の途中、尾崎がワシントンで桜と再開した時詠んだ歌

「異国(とつくに)の春の光を添へなんと
        寄せし桜の花 この日咲く」       咢堂翁61歳

尾崎は戦争に荒廃した戦渦のあとのヨーロッパを目のあたりにし、
あの大戦は何のための戦争であつたのかと疑問を強く持った。
「全然無意味、無目的の悪戦苦闘に過ぎなかったのだ、
幾百万の戦死者こそ、気の毒なれ」尾崎行雄著「軍備制限」
尾崎行雄は戦争の悲惨な現場を見た事で
人間として、政治家として大きく成長したのでした。
この経験から尾崎は軍備縮小論者となり、
軍縮決議案を第44議会大正10年(1921)に提出しました。

同書 56ページには
「昭和19年6月、尾崎は大審院で不敬罪事件の無罪判決を受けるが、
その政治活動は閉ざされてしまっていた。
尾崎は敗戦に至る間、池の平の山荘にこもり、わが国の敗戦を見越して、
日本の休戦と新世界の建設を提案する論文を執筆した。
終戦後、尾崎は議会に未発表の論文を基にした世界連邦建設に関する
決議案を提出した。」 咢堂翁87歳
これは世界連邦の提唱であるとともに、
国際社会での日本のあり方を示すものでした。

つぎの文章は尾崎行雄が娘さんの相馬雪香さんにお話したことです。

同書 相馬雪香「父・咢堂の思い出の数々」から

「大正12年の関東大震災の時、私どもは軽井沢にいました。
たまたま父を訪ねて来た人が、不逞朝鮮人が井戸に毒を入れたということで、
自警団が組織されて大混乱だという話をしていました。
父は「(毒を入れたなどということは)流言飛語だと思うけれど、
一歩譲ってそうだとしたら、なぜ、そのようなことをするほど追い詰められた
気持ちにさせられたか、こちら側に反省が無いとだめです」と言っていました。
相手だけを責めるのではなく自分を省みるということも
私の心のどこかに根づいたと
言えましょう。何年か経って、排日運動が中国に起こり、
こらしめるべきだという意見がマスコミを賑わした時も、
父は「排日になるようなやり方を反省しないのはおかしい」と言っていました。
物事は一方からだけ見て判断するのではなく、
両方から公平に見ることが父の特長だったと思います。」 同書10ページ

尾崎行雄が娘さんの相馬雪香さんにお話した事はこれからの日本の問題について、
私たちが考え行動するために大切な事だと思うので、ここに書き留めておきます。





歌舞伎講演会のお知らせ

2005年05月20日 | 歌舞伎
花の会20周年記念講演会

Ⅰ 日時  平成17年6月16日(木)午後2時~4時
   演題  「座元の人々」
   講師  国立劇場芸能部次長
                          石橋健一郎氏
   会費  900円
   会場  烏山区民センター
   
Ⅱ 日時  平成17年7月14日(木)午後2時~4時 
   演題  「世界に羽ばたく歌舞伎」
         歌舞伎の海外公演を中心に戦後歌舞伎の思い出 

   講師  早大名誉教授 河竹登志夫氏

   会費  900円
   会場  烏山区民センター
        東京都世田谷区南烏山6丁目
        京王線 千歳烏山駅北口1分
http://www.city.setagaya.tokyo.jp/cgi-bin/sisetu/sisetu.cgi?mode=view&no=57

連絡先  nmwtg303@ybb.ne.jp 長谷川まで

櫻と桜

2005年05月06日 | 
櫻と桜
中国では漢字の「櫻」は日本の「さくら」ではなく
バラ科の落葉高木「ユスラウメ」の木をいう。

ユスラウメは中国原産の植物で日本には江戸時代初期に渡ってきた。
ユスラウメの語源について、二つの見解がある。
①牧野富太郎博士の「枝をゆさぶって果実を落とした」からという説と
②深津正の朝鮮名の「移徒楽(いさら)」「イスラ」がなまったという説がある。

櫻の中国での意味は
「嬰(えい)」の字は
①みどりご(子供の泣き声がえんえんと続くさま)
②首飾りの事
③つなぐ、たてこもる等の意味があり
④音楽では「半音あげる」ことをいう、語源は雅楽から出た。
この場合は「赤い貝の首かざり」を意味する。

日本語の「みどり」は「みずみずしい」から
新芽・若芽を意味し、「みどりご」とか
「みどりの黒髪」とか使われる。
赤子の事を「嬰児(みどりご)」と言うが
中国では女の赤ちゃんが生まれると
赤い貝の首飾りをつけて
その子の健やかな成長を願う行事がある。
「櫻(ユスラウメ)」の赤い実のつき方が
ちょうど赤子の成長を祝う時の
赤い貝の首飾りに似ているからだと言う。

「ゆすらうめ」の写真
http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/HTMLs/yusuraume.html

日本で最初に「さくら」という言葉が出るのは
「日本書紀」で弁恭(いんぎょう)天皇が
衣通郎姫(そとおしのいらつめ)を思って詠んだ歌
弁恭天皇は仁徳天皇の息子
(日本書記巻13 弁恭8年2月)

花ぐはし 佐区羅(さくら)の愛(め)で、こと愛でば、
早く愛でず 我が愛づる子ら 

「花が美しい桜のめでたさ、同じめでるなら
 早くめでればよかったのに
 遅すぎたことだ、私の愛する女よ」

日本の「さくら」の語源は
①作 楽(さく ら)説と
②佐 案(さ くら)説
③佐神説の3つある。
①の(さく ら)説は海彦・山彦の母上
木之花之佐久夜毘売(このはなさくやひめ)の
木の花「さくや」がなまって「さくら」になった。
「咲く」と
「たから」「ちから」「はしら」「かしら」等の語尾の
大切なもの、貴重なもの、中心となるものを意味する
「ら」と結びついて「さくら」になったという説

②は「早苗」「早乙女」と農業に関係する「さ」と
座 蔵 倉 鞍などの神が宿る「くら」が結びついて
「さくら」になったという説がある。
和歌森太郎氏の説

③佐神説
慶応大学名誉教授西岡秀雄先生が昭和25年に
発表され、学界で認められている説
西岡先生は世界中のトイレット・ペーパーを集めて
授業の材料した「トイレット博士」として著名な先生。

「佐」は太古における山の神の呼び名
クラは「高御座(タカミクラ)」のクラで
神が依り鎮まる「座」を意味している。
古代人の生活は何かと神に頼る事になる、
特に農作業の開始にあたって神事が行われる
「佐下ろし、田の神おろし」の行事がある。
佐の神は「さくらの木」に宿り、桜の花が咲く、
桜の花の咲く状況から農作業の手順を決めたり
その年の豊凶を占った。


各地の鎮花祭(はなしずめまつり)
奈良県桜井市の大神神社
滋賀県大津市の長等神社(三井寺)
「幣として 桜の花を枝ながら 
  山の主に今ぞ手向ける」
埼玉県大宮市氷川神社
京都市今宮神社の「安良居祭」

この他に
「サキムラガルがちぢまって桜になった」
「サクウルワシキに由来する」
「樹皮が荒くさけるゆえサクアラから桜になった」
などの説もある。

永井陽子と桜・アンサンブル・ゼフィロ

2005年05月06日 | 文学
歌人 永井陽子と桜 アンサンブル・ゼフィロ

海のむこうにさくらは咲くや 春の夜のフィガロよフィガロさびしいフィガロ

むかしむかしの木のこゑ風のこゑ ひそとしづけし木管四重奏曲        
                             永井陽子

4月8日(金)の日は朝早く、車で都心に出かけた。
お堀端は満開の桜で道路には花びらが舞っていた。

病院に入院中の知り合いの老人を迎えに行くためである。
病室から老人を車に乗せるため、初めて「車椅子」を押した。
病院の前の道には段差があり、神経を使う。
老人を乗せてから、車椅子を車のトランクに載せる時、
車椅子が以外と重く、しかも大きく、トランクにのせるのに苦労した。
こういう事は実際にやってみないとわからない事だ。
もう一度「福祉住環境コデネーター1級」の試験を受けるために
基礎から勉強し直そうかとも思った。

その老人の50歳の息子が老人の同意を得ずに勝手に印鑑証明を取って、
老人所有のアパートを売却しようとしているという、それを阻止する為に、
印鑑証明書が発行される前の朝一番に老人の住んでいる町の区役所に行き、
印鑑証明書の発行を停止するための手続きをする事になった。

区役所に残っている息子が提出した印鑑証明書発行の委任状の筆跡が
老人が書いたものでない事を証明して、息子が印鑑証明書を取りに来ても、
発行をして貰わないようにお願いしようというのである。

区役所の計らいで印鑑証明書の発行を阻止する事は出来そうだが、
今後の対策を取るために鮨屋で昼食を食べながら老人から話を聞いた。
老人はこれから息子を警察に訴えたいという。
無駄な事だと判っていたが老人の気持ちを考え、
午後は老人の住む町の警察署にも行った。

親子の対立で財産が絡んでいると複雑で
他人にはわからない事情もあり、
あまり、深入りすると最後はこっちが恨まれてしまう場合もある。
警察は相手にしてくれなかったが嫌な話だ。

老人を病院に送ってから、時間はあったが
真っ直ぐ、家に帰る気がしない、
皇居や都内の公園の桜を眺めて時間を潰した。

道路は金曜日の夕方で混んでいた。
丁度、飯田橋付近で外堀通りを新宿に向けて運転していた。
外堀の土手の桜並木は満開で
土手の桜並木の奥に時々中央線の橙色の電車が通過した。

カーラジオで夜の7時のニュースが終わると、音楽番組で、
この1月の演奏会で聞いた「アンサンブル・ゼフィロ」の
来日演奏会の録音放送になった。

曲目はモーツァルト作曲の「フイガロの結婚」からと
      セレナード変ロ長調K.361(グラン・パルティータ)

グラン・パルティータは映画「アマデウス」の中で
サリエリがこの曲を聴き、モーツァルトの天才を感じる場面に使われた。

アンサンブル・ゼフィロはイタリアの演奏団体で古楽器で演奏する。
音の柔かさ、自由闊達な演奏、聞いていて楽しくて仕方がなかった。
演奏している人たちはその何倍も楽しそうに見える演奏会だった。

アンサンブル・ゼフィロについてのHP
http://www.allegromusic.co.jp/ENSEMBLEZEFIRO.htm

http://www.arkas.or.jp/event/zefiro-fry.html

カーラジオから「フイガロの結婚」の序曲が聞こえてくると
もうだめ、車の中はたった一人の演奏会場になった。
音量を最大に上げ、どっぷりと音楽の底に沈んでゆくと、
軽快に花びらが風に舞うようなメロディの流れの中で
薄白くなったお堀の桜並木の花が
時々,対抗車のライトに照らされて白く浮かび上がった。
今日一日の出来事のすべてを忘れられるような美しさだった。

8時過ぎに家に着いたのでグラン・パルティータを
最後まで聞く事は出来なかったが
夕飯を食べる前の犬との散歩は近所の団地の桜並木を歩いた。
春の暗い闇のなかに桜が白く浮かんでいた。
永井陽子の短歌のことを思い出した。

永井陽子は1951年昭和26年愛知県生まれ、
惜しい事に2年ほど前に亡くなられた。

10年ほど前、「モーツァルトの電話帳」という題名に引かれて
永井陽子の短歌集を買った。

永井陽子の「モーツァルトの電話帳」から

海のむこうにさくらは咲くや 春の夜のフィガロよフィガロさびしいフィガロ

ゆふさりのひかりのやうな電話帳 たづさへ来たりモーツァルトは

るるるる・・・・・・と呼べども いづれかの国へ出かけてモーツァルトは不在

東洋のれんげあかりの夕暮れに モーツァルトは疲れてゐたり

むかしむかしの木のこゑ風のこゑ ひそとしづけし木管四重奏曲

以上は「モーツァルトの電話帳」から

洋服の裏側はどんな宇宙かと脱ぎ捨てられた背広に触れる

警報機鳴るやもしれぬうつし世の さくらのやみのにほふばかりを

あはれしづかな東洋の春 ガリレオの望遠鏡にはなびらながれ

もうすぐ青空があの青空が落ちてくる そんなまばゆき終焉よ来たれ

永井陽子

桜守

一葉の誕生日

2005年05月02日 | 文学
5月2日は樋口一葉の133回目の誕生日です。
昨年、暮れから、一葉の日記を読み、
一葉の事を考えていたので
一葉さんが昔のクラスメートのような気がします。

4月17日のメールで私は下記のように書きました。

明治5年(1872)3月25日(新暦では5月2日)
    樋口一葉は東京府構内砲地の武家長屋で生まれた。
    現在の「千代田区内幸町 現日比谷シテイ辺り」
    (昔、NHK放送会館.三井物産があった辺り)
    父41歳、母37歳新緑の美しい頃で「なつ」と名付けられた。

この記述は間違いでした。
今年、旧暦で一葉の誕生日に当たる3月25日に
樋口一葉の生誕地である内幸町に記念碑が建てられました。
一葉の生誕地は東京府構内の武家長屋で
現在の千代田区内幸町1-5-2とあります。

http://www.city.chiyoda.tokyo.jp/news/release/20050325/0325_2.htm
http://www.city.chiyoda.tokyo.jp/tokusyu/chiiki/koujimachi/20050414/0414.htm
わたしの持っている多くの本が一葉の生誕地について、
日比谷公園の近く、日比谷シティあたりと書いてあります。
それで良く調べずに記述してしまいました。
まだ、実際に今年できた一葉の記念碑を見ていないのですが
内幸町1丁目5番地2は山の手線の新橋駅の近く、
第一ホテルと東京電力本社の間にある
T&Dファイナンシャル生命本社ビルのあたりのようです。

去年の秋、新5000円札は新渡戸稲造から一葉に変わりました。
5000円札の一葉の肖像を見た時、
普段見慣れている一葉の顔に比べて、
一葉の顔があまりにも痩せていてびっくりしました。
田中優子さんが去年出された本の題名のように、
「お金の肖像だけでも嫌なのに、私ではない いやだ」と
天国でさけんでいるような気がしました。

去年の秋、新5000円札が発行された時、
メールや雑誌で話題になったのは
第一は樋口一葉の肖像の事でした。
第二は一葉の男女関係でした。

①一葉の肖像については
半井桃水や一葉の家に遊びに行っていた「文学界」の仲間の人たちは
追悼文で一葉よりも、妹の邦子さんのほうがきれいだったと書いています。
皆様、家庭を持つ男の身ですから、何となく、わかりますが、
これでは一葉がかわいそうです。
一葉の写真は現在、10枚くらい残っています。
どれも、それほど不美人とは思えません。

医者で歌人の太田正雄(木下杢太郎)のお姉さん太田たけ子と一緒に撮った
おさげ髪に袴の女学生スタイルの一葉が一番現実の一葉に近いと思います。

新5000円札の肖像画は下記の写真3枚の合成のようです。
樋口一葉の肖像
http://fkoktts.hp.infoseek.co.jp/ichiyou_2photos.html

下村為山「一葉像 落花」明治30年
http://fkoktts.hp.infoseek.co.jp/10.html

今でも5000円札の一葉の肖像画になじめません。
私は下村為山が書いた「一葉像」を
そのまま、お札の肖像画にすればよかったと思います。

一万円札の福澤諭吉先生の肖像画は素敵なのですが
私にあまりいついてくれません。
先生にはどうも見捨てられたようです。

②一葉の男女関係について、
これについて、メールや雑誌でいろいろ書かれているのを読みました。
ひどいのは一葉が売春に近い事までしていたという記述もありました。
それまで読んでいた本でつぎのような意見があるのも知っていました。
1、多くの学者は男女の関係はなかった。
2、瀬戸内寂聴さんはあったという、
3、森まゆみさんはあつたかなかったかわからないがあったらよかったのに、
4、田中優子さんはそれが女性に対する偏見であり、女性蔑視、差別だ。
5、田辺聖子さんはそれには触れずにそこまでの過程を上品に詳しく書いています。

瀬戸内寂聴さんの本を読んだ時の印象は強烈でした。

前から一葉に感心があつたので
昨年、暮れから一葉の日記を読み始めました。
私の結論は男女関係はなかったように思います。、
一葉の日記を読んでいると男性や世間に対する評価が
あまりにも原則的できびしいように思うからです。
異性を愛する経験をすればもう少し心に余裕が生まれ
他人に優しくなるのではないかと思うからです。
以上

一葉と桜 半井桃水

2005年04月30日 | 文学
一葉と桜4:上野車坂・半井桃水

山櫻今年も匂う花影に散りて帰らぬ君をこそ思へ

この歌は明治24年4月、19歳の一葉が詠んだ歌である。
一葉はこの年から本格的に日記を書き始め、
その日記の最初の日に書かれた歌でもある。

この頃の一葉は
①明治20年一葉の兄泉太郎が24歳で死去
 二番目の兄寅之助は染付けの職人の修行中の身、
 その上徴兵逃れのために別の家の戸籍になっていた。
 一葉の父は頭が良く、しっかりしている一葉に期待したのだろう、
 樋口家では一葉を樋口家の相続戸主にした。

 戸主として母や妹の面倒を見なければならないという
 責任感が後に一葉が文学を書き始める原動力になった。

②明治22(1889)年父の事業の失敗と死 父享年58歳
 樋口家に多額の負債を残したという。

 一葉の家が貧しくなった第一の原因である。

③阪本(渋谷)三郎との婚約破棄事件
 渋谷三郎は一葉の父が江戸に出てから世話になった郷里の先輩
 真下専之丞の孫で早稲田大学に通っていた頃、一葉は婚約をしていたが
 父の死後、樋口家にお金がない事を理由に渋谷家から、婚約を解消された。
渋谷三郎は後に検事や早稲田大学の法学部長に出世した。

 この事は一葉の心を傷つけ男性への不信感が生まれたが
 一葉の結婚への願望は生涯消える事はなかった。
 一葉の初期の作品「闇桜」等身分違いの片思い文学が多い。

④萩の舎での住み込みの助手への幻滅
 一葉は父が死んでから5ヶ月ほど歌塾「萩の舎」に住み込み、 
 内弟子生活をした。
 あまり家事が得意でない一葉には辛かったようだ。
 師匠の中島歌子は女学校の教師の口を紹介してくれる 
 約束であつたが学歴のない一葉には無理な話である。
 住み込んでいれば歌塾や中島歌子の実像がみえてしまい、
 その花鳥風月的な歌に疑問をもち批判や幻滅が生まれた。
 又、歌子に付き添い上流階級の家に出稽古に行くなかで
 上流階級の家の裏側を見てしまう。

 小説「おおつごもり」は萩の舎の住み込み体験談。
 一葉はその後,社会の底辺に住む人にも目をむけ
 人間の本質を見つめることができるようになり
 一葉の文学は花開くことになったが
 一葉の上流階級への憧れは消えなかったと思われる。

⑤父親の死後母親と妹邦子は染付け職人の修行中で
 高輪に住んでいた次男寅之助と同居するが母親の気性と
 芸術家肌の寅之助と折り合いが悪く同居がうまく行かない。

 一葉の小説「うもれ木」のモデルとなった。

明治23年9月本郷菊坂70番地(現在の本郷4丁目32番地1)に
母の滝、一葉それに妹の邦子の3人は家を借りる。
現在の東大の赤門と後楽園との中間地点で
菊坂から中程の一段下がったうなぎの寝床のように谷間である。
現在も一葉も使ったという井戸がそのまま残っている。
菊坂の中程には樋口家が通った『伊勢屋質店』の建物がある。

本郷菊坂周辺地図
http://homepage3.nifty.com/namm/index2.htm
http://www.kitada.com/keiko/ichiyou.html
http://fkoktts.hp.infoseek.co.jp/1203.html

本郷の菊坂に越して借家住まいの始めたが
針仕事,洗濯の仕事和服の仕立てや洗い張りで
生計を立てる状況で、樋口家の生活は苦しかった。
 当時の仕立賃は、袷(あわせ)1枚、15ー20銭、
3人で収入は月5円から6円程度と計算される。
そのうち家賃が2円50銭必要であつた。
一葉は博覧会の売り子にも応募したがうまく行かなかった。
自分で歌塾を開けるほどの資金はなかったし、
一葉が歌塾を開くことは中島歌子に反対された。

参考
明治23年、漱石、子規は東大の英文科に進む、
       漱石は奨学金を年額85円貸与された。
       子規は松山藩の給費生として月額7円が給付されていた。
明治21年9月鴎外、ドイツから帰国、
明治23年鴎外「舞姫・うたかたの記」を発表

その頃、萩の舎の先輩田辺花圃が「藪の鶯」という小説を書き
原稿料33円を貰ったことを聞く、一葉は花圃が書けたなら、
自分も小説を書いて、親子3人の生活費を稼ごうと考えた。

一葉の家では妹邦子の女友達の野々宮きくの紹介で
東京朝日新聞の小説記者:半井桃水の家の洗い張りの仕事を頼まれていた。
一葉は花圃が坪内逍遥を師として、小説を書いたように
自分も桃水を師として小説を書こうと考えた。
野々宮きくを通して、半井桃水に弟子入りの希望を伝えると
桃水から、「今、東京朝日新聞に「月黄昏」という連載小説を書いていて、
4月12日に連載が終わるから、4月15日にお会いしたい」という連絡を受けた。

半井桃水の写真
http://fkoktts.hp.infoseek.co.jp/09.html
朝日新聞で売れている小説を書いている桃水に弟子入りできれば、
自分も小説が書けるに違いない、
桃水は5代目歌右衛門に良く似た美男子だという。
一葉の心には不安よりも、期待のほうが大きく膨らんでいった。
一葉にも心のゆとりが生まれたのだろう。

4月11日「萩の舎」の同僚、吉田かとり子の向島の隅田川のほとりの家で
開かれる花見の宴に出かける余裕がうまれた。

一葉が本格的に書き始めた最初の日記「若葉かげ」は
明治24年4月11日
「花にあくがれ月にうかぶ折々の心をかしきもまれにはあり、」
という書き出しで始まる。

その日、向島の吉田かとり子の家に行く前に、一葉は
久しぶりに妹を連れ出して、二人で上野の山に桜見物に出かける。

樋口家は父の在世時代、下谷御徒町(現在の御徒町駅付近)や
下谷黒門町(現在の上野駅付近)に住んでいた事がある。
明治24年の9月には上野~青森間全線が開通するので
上野駅の周りも父と住んでいた数年前と比べて大きく変化した。

上野の山の桜を見てから、向島に行くため、車坂に通りかかる。
(車坂は上野駅の公園口からアメ横の入口までの坂道)
父と住んでいた数年前の面影は上野駅のまわりには残っていない、
あの頃、父と一緒に櫻の花を良くながめたねと妹の邦子が語る、
一葉は日記を続け、一首を詠む

「 むかしの春もおもかげにうかぶ心地して、

山櫻ことしもにほふ花かげにちりてかへらぬ君をこそ思へ

心細しやなどいふま々に、朝露ならねど二人のそではぬれ渡りぬ」

福岡哲司さんの詳細な上野浅草散歩レポートです。
2005年4月11日の一葉と同じ散歩コースが楽しめます。
http://fkoktts.hp.infoseek.co.jp/ichiyounikkisanposumidagawa.html


日記は続く、
一葉は4日後の4月15日、
雨が少し降る、昼過ぎ、半井桃水の家に
小説書きの弟子入り願いのために
芝の南佐久間町の家まで一人で行く。
(現在の山の手線新橋駅の近く)
一葉は桃水の前で完全に上がってしまう、日記には
 「耳ほてり唇かわきて、いふべき言もおぼへず」と
述べるべき挨拶の言葉も出てこない、
状態になってしまった、と書く。
さらに、一葉は日記に桃水の印象を書く。
 「色いと白く面おだやかに少し笑み給へば
  誠に三才の童子もなつくべくこそ覚ゆる」

一葉は桃水に対して,憧れ以上の感情を持ってしまった。
これは一葉の父離れの瞬間であり、
少女から、恋する乙女へと変化する動きを
一葉が自らの日記のなかに書きとめた事になる。

半井桃水は一葉が生涯忘れられない恋人となった。
一葉の小説家としての才能を最初に見つけた人である。
一葉に対して,小説の書き方を直接指導し、
翌年、3月には桃水が発行した同人誌「武蔵野」に
一葉の最初の小説「闇桜」が掲載される事になる。
小説家「樋口一葉」誕生の第一歩に
大きな力を貸した人となる。

以上


桜の花の色について

2005年04月23日 | 
桜花の色による分類方法
1 .白色の桜 
        ①「太白」 タイハク 大輪一重の代表
           日本で消滅、英国から里帰りした桜
        ②「白妙」 シロタエ 大輪八重 
          「駒繋」コマツナギ 親鸞上人が馬を繋いだ桜
          白妙と駒繋は近い品種

2.淡紅色の桜 一番種類の多い色
        ①「兼六園熊谷」 ケンロクエンクマガイ 中輪一重
           兼六園で生まれた桜
        ②「東錦」 アズマニシキ 大輪八重
          東錦」と「江戸桜」は同じ種

3.紅色の桜
        ①「寒緋桜」カンヒザクラ 一番紅色が濃い桜
        ②「関山」 カンザン   大型八重
          桜湯その他食用桜の原料になる

4.緑や黄色の桜
        ①「御衣黄」ギョイコウ  中輪の八重 
            花弁は緑の濃い緑黄色
            開花後花弁中央に赤色の線が出る。
        ②「鬱金」 ウコン 中輪八重で淡黄色
            名前の由来はカレーの原料のウコンから。

   名前が「緑桜」という桜
         ③『緑ガク桜」 リョウガクザクラ 白色小輪一重
            豆桜の変種 花弁は白く、ガクが緑色

5.紫色の桜 「紫桜」 花弁は5個 中輪一重 淡紅紫色

6.墨染の桜 花の名前に墨とつき、花色が墨色ではない。
    墨染めの名前の由来
        1. 若芽が茶色で暗い感じがするからといわれる。
    

東京足立区荒川堤の「五色桜」 
     戦前の荒川堤は桜の名所で
     そこに五色の桜が植えられていた。
http://www.adachi.ne.jp/users/bnbku/gosiki.html

五色桜の種類
   1、白が白妙
   2、紅が関山
   3、黄が鬱金
   4、黒が墨染
   5、紫が紫桜




①桜の花の色は咲いてから散るまで同じ色ではなく
  染井吉野は咲き始めは淡紅色から白色になり
  散る頃には花の付け根が紅色に染まります。
②同じ種類の桜でも、東北や北海道の桜は関東の桜よりも
  花の色が濃いといわれている。
③海辺や平地の桜よりも山地の桜で咲く桜のほうが
  花の色が濃いといわれている。
④同じ桜でも若木のほうが色が濃いという。
  東京で咲いているエドヒガン桜は花の色が濃いのに
  各地にあるエドヒガンザクラの古木は花の色が白い。


有名な岐阜・根尾谷の「薄墨桜」
        種類は「江戸彼岸桜」白色の小輪一重
  名前の由来
   1.散り際の花が淡墨色に見えるという
   2.伝説で継体天皇のお手植えの桜
    この地で不遇な生活をしていた継体天皇が
    都に帰るおりに詠まれた歌の中の「薄住」が
    淡墨に転化したという。

前田利行、宇野千代が守った日本で2番目に古い桜
    羽田澄子が1976年に記録映画を作った。

薄墨桜のアドレス
http://nishi525.cool.ne.jp/tabisaki/neotani.html

http://www.city.motosu.gifu.jp/neo_web/index.html

桜守





桜の木の増やし方。

2005年04月20日 | 
桜のふやし方。
1、挿し木
桜の挿し木の適月は3月と6月

3月(前年枝さし) 芽が膨らむ直前が良い。
前年に伸びた花芽の無い、少し太めの枝を使用

6月(緑枝さし) 今年のびた緑色の枝を使用
今年伸びた枝で成長が止まり、中ば固まった枝が良い。

1、さし穂   枝を10cm前後に鋏で切り、束ねる。
    6月は 上部の葉を2枚残し、他の葉は切り落とす。
2、枝の水揚げ さし穂の下半身を約3時間、新鮮な水につける。
3、発根ホルモン さし穂の下部を鋭利なナイフで斜めに切り戻し、
           切り口に発根ホルモンをつける
4、さし方 細竹でさし穴を作り、
       さし穂を斜めにさす(深さ6センチ前後)
       株元を指で押さえる。
       さし穂は3~4センチの間隔でさす。
5、水を十分に与える

さし床
① 高さ10センチ位の植木鉢や木箱を用意する。
② 用土は底に2~3センチ位桐生砂を敷き
  その上に鹿沼土(中粒)を5~6センチ位入れ
  鉢の上部は1~2センチの空きを残す
  鹿沼土(中粒)だけでも良い

発根ホルモン、発根促進剤
①住友化学園芸の「ムートン」15g 420円位
②バイエルンの「オキシベロン」1800円位が代表的な製品です。
大きな日曜大工センターの園芸売り場にもっと小分けにした製品があるとおもいます。

大島桜は一割位の割合で発芽した。
豆桜の系統は挿し木が可能で、
盆栽に多い「富士桜」系統
秋に咲く「十月桜」は挿し木した年に咲いた。
その他に「菊桜」や「ウコン桜」なども
挿し木の発根率が高いという。

春まだ早く、花屋さんで見かける「啓翁桜」は
花が終わって,直ぐに挿し木すれば発芽するそうだ。

2、取り木は
桜の取り木の適期は5月末~6月に掛けて、
少し古い、幹がひび割れをしているような桜の枝を
水を含ませた「水ごけ」をボール状に包み、
上から、黒い油紙か黒いビニールで包んで、
ひもで結び、水ごけの水が乾燥しないようにして、
次の年の6月まで置いておくと、
水ごけで包んだ枝に髭根が出てきている。
その枝を切り取って、土や鉢に植えれば
翌年から桜の花が咲きます。

3、種の撒き方
桜は自花不稔性(自家受粉しない、同一品種間では受精しない)ので、
種から育てた桜の木はすべて新種になる可能性があります。

種の撒き方
1  成熟果実(黒紫色になったもの)を採取
2 果皮や果肉を水洗いして良く取り除く。
種の周りの実の部分に発芽抑制剤があるので、
実の部分を良く洗って取っておいたほうが良い。

種の保存方法
1、湿った腐葉土の中で埋蔵するか
2、湿った紙に包み、0℃~3℃の冷蔵庫に貯蔵する。

桜の種は
①種を湿めらせて10度以下の温度に2ヶ月間曝し、
②種の発芽に適した温度が5~10度だという。
以上のような条件が揃わないと発芽しないという。

実生、種まき期
1、保存して置いた種を12月頃までに畑や庭に撒く。
2、鉢などに蒔く方法
 ①蒔き床は赤玉土7、川砂3の混合土を10~12㎝の深さにする。
 ②冷蔵庫に保存しておいた種を一昼夜、水に漬ける。
 ③一粒、2~3㎝間隔にばら撒く。
 ④1~1.5㎝の厚さに覆土する。
 ⑤その上に腐葉土を蒔き土が見え隠れするように敷く。
 ⑥以後、乾かない程度に潅水する。
 ⑦鉢は陽だまりのなるべく暖かい所に置く。

花が咲くのは早くて5年、10年以上掛かる場合もある。
                       桜守

一葉の名前の由来と一葉桜

2005年04月18日 | 
樋口一葉の名前の由来と一葉桜
1、一葉のペンネームの由来
① 達磨大師がのる芦の葉
樋口一葉のペンネームは昔インドの達磨大師が、中国の揚子江を一葉の芦の葉に
乗って下ったという故事に因んだもので一葉は「達磨も私も、おあし(銭)がない」
からだと貧乏をしゃれのめして友人に答えたという。

 「我こそはだるま大師に成にけれ 
   とぶらはんにもあしなしにして」 一葉の歌

明治27年4月、萩の舎の親友伊東夏子に送った手紙に次のような文章と歌がある。
「芦の一葉にのりて舟遊山をしたる達磨大師さへ御座候ものをや
   行く水の浮き世は何か木の葉舟 流がる々ままにまかせてをみん
 かくうたひたる時我は笑ひしか なきしか君こそ思ひやらせ給ふべけれ」

②一葉万里説
浮き世という荒海に「漂う舟」という表象したものという説
「なみ風のありもあらずも何かせむ
    一葉(ひとは)のふねのうき世なりけり」 一葉の歌

この2説は一葉の名前がペンネームとして定着してからの文章である。

③西川佑子の説
大正11年(1921)山梨県塩山市慈雲寺に一葉の碑が建立された時、
式典に出席した半井桃水が寄書帖に
「一葉散りて秋知る文の林かな」と記している事と
萩の舎の親友伊東夏子から一葉にあてた手紙の一節に、
「武蔵野にもえ出し一葉比林の花も紅葉もしのぎて茂りゆかん事遠からず存候」とある。
この二つを受けて、桃水が発行する同人誌「武蔵野」に一葉の最初の小説「闇桜」
を掲載する時、桃水は「若い女が実名で小説を発表すれば、不便が生じるであろう」と言い、
ペンネームを「文の林に萌え出つる一葉はどうか」と薦めたのではないかと
いう説を述べている。

④杉山武子の説
一葉が萩の舎に入ったばかりの頃、
例会で先輩たちに鮨を配っていた皿に「前赤壁の賦」の一節が書いてあった。
姉弟子の田辺龍子が読んでいるのを聞いて一葉はすらすらと
その後のの一節を口ずさんだという有名な話がある。
杉山武子はこの話を受けて、「前赤壁の賦」の一節からではないかと言う。

『一葉は歌塾に入る前から蘇東坡の詩「前赤壁賦」を暗誦していましたが、
その中には「駕一葉之扁舟」の一節があり、
また小説習作の余白に「一葉舟士」の書き込みがあることや、
未完成作品に「棚なし小舟」があり、
他の作品や日記にも舟や浮き草のイメージを繰り返し描いています。』
http://www5a.biglobe.ne.jp/~takeko/mamechishiki.htm#mame24

中国の古典「一葉落ちて天下の秋を知る」や
坪内逍遥の「桐一葉」は明治29年の作なので関係はないようだ。
O・ヘンリーの短編「最後の一葉」とも関係ないと思われる。

2.「一葉」という名前の桜

 山桜の名前は「江戸彼岸桜」「大島桜」「山桜」と最後に桜が付き、
 里桜の名前は「染井吉野」「普賢象」と最後に桜が付かないのが原則。

この原則に従い、里桜の中に「一葉」という八重桜がある。
東京の公園ではよく見られる種類で、4月中旬
ソメイヨシノが散り終わった頃から咲き始める。

大きな特徴は
下半部が葉化した緑色の雌しべが普通一本突き出て咲くので
「一葉桜」と呼ばれている。よく見るとめしべが2本ある花もある。
オシベは退化して短い、垂れるように咲く。
花経が5センチ、花弁は20から25枚もある八重の大輪、
花の形は円形で色が咲き始めは淡紅色、
花びらの内側の弁が白いために満開時は白色に変化する。
若芽は少し褐色を帯びた黄緑色、
樹形は杯状形で直立して生育よく、
幹の皮が所々縦に裂けるので鑑別し易い品種。
樹勢強く栽培しやすい。
山桜の一種「大嶋桜系」の変種だという。

国立遺伝研究所のHPの一葉桜
http://www.genetics.or.jp/sakura/htmls/ichou.html
http://www.genetics.or.jp/sakura/PCD/PCD3832/pages/14.html


平成15年、東京都台東区では一葉が21歳の時10ヶ月ほど住み
小説「たけくらべ」の舞台になった所の近くの通りを
(台東区浅草5-11~浅草6-35)
「一葉桜 小松橋通り」と名前を代えて、
八重桜のイチヨウ(一葉)を道の両脇に130本植えた。
http://www.city.taito.tokyo.jp/taito-co/tosizukuri/kouen/ichiyouzakura/ichiyouzakura.htm

先日、一葉や荷風も母上のために買い行ったという、
向島の長命寺の桜餅を浅草から言問橋を渡って買いに行った。
ソメイヨシノは散り始めていたが、八重桜は咲き始めていた。
言問橋のたもとの公園には八重桜の「一葉」が沢山咲いてた。

この他に里桜でわかりやすいのは

八重の大輪で花びらが深紅色の「関山」(カンザンともセキヤマ)
http://otakara-souko.net/sakura/archives/05-0330-211144.php

子房が葉化した一本に雌しべが2本あって、
花びらの中から象が顔を出しているような「普賢象(フゲンゾウ)
http://homepage1.nifty.com/morino/sakura/data/fugenzo/02fugenzo.html

花の色が淡緑黄色の「ウコン」
http://www2.jyose.pref.okayama.jp/cec/kdss/13_jumoku-u/1_ukonzakura/idx0313165025.htm

御衣黄
花弁の数は13個,ごく淡い緑色の花の色で花の終わりに近づくと紅色の線が入る。
http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/HTMLs/gyoikou.html

以上



一葉の父樋口則義 桜木の宿

2005年04月17日 | 文学
一葉と桜3 「桜木の宿」

一葉の父大吉と母あやめの山梨の故郷の村を出てきてからの
江戸での軌跡を書いてみる。

「私の力不足から、一葉の父の評価が纏まりませんでした、
 面倒かもわかりませんが簡単な略歴を読んで見てください。
 江戸から明治という変革の時代に生きた一人の男の姿が浮かび上がります。
 江戸末期の1両は現在の10万円位と考えられます。
 一両と一円は同じといいますが当時の一円は現在の3万円位でしょうか。」

安政4年(1857)6月 母あやめは長女ふじを出産後、娘を里子に出して、
             旗本 稲葉大膳(2500石)の娘鉱の乳母にあがる。
            乳母の給金は月3両・仕着料1両・里扶ち+小遣だった。
       同年7月 26歳の大吉は同郷の先輩 真下専之丞の世話で
             蕃所調所(幕府の西洋学問所)の小遣に採用される。
             大吉はABC(英語)を勉強していると日記に付けた。
             (現在の感覚なら臨時採用のアルバイト)
安政5年(1858)8月 大番組与力 田辺太郎に従い大阪に行く。 
             大阪城の警備の仕事に就く。
             (一年契約の臨時雇い契約社員)
安政6年(1859)10月 御勘定組頭 菊地大助の中小姓になる。
              この時、給料は月4両一人扶ち(私設秘書)
文久2年(1862)    主人の菊池大助が勘定吟味役役料300俵に出世する。
文久3年(1863)   さらに、大目付に昇進,表高壱千石の外国奉行を兼任する。
            それに伴い大吉も出世、公用人(本採用)となった。

 大吉は勤めを替えるたびに出自を偽るためか何度も名前や履歴を変えた。
 しかし、頭も良く、故郷の父への詳細な報告や日記、家計簿が残っているのでも
 判るように筆まめで字もきれい、勤務態度も、誠実で真面目だったのだろう。
 酒色に近づかず、役得の金をコツコツ貯めて武士になる機会を狙っていた。
       
慶応3年(1867)5月、村を出てから10年、36歳の大吉は
 南町奉行配下八丁掘同心浅井竹蔵(30俵2人扶持)の株を入手する。
 同心株100両+浅井家の負債肩代り金300両の合計400両を支払う。
(内250両は50年の分割払い)
(現在の金額に換算すると約4000万円位だという)
八丁堀同心として坪100坪、建坪8坪の大縄組町屋敷に住む。

陸軍奉行並にまで大出世した同郷の先輩真下専之丞の後ろ盾で、
 現在なら4000万円という金の力を借りて農民から武士になれた事になる。

慶応3年(1867)10月徳川慶喜の大政奉還で江戸幕府は瓦解
慶応4年(1868)5月21日官軍の命令で南町奉行所は廃止

  大吉が武士でいられたのは1年足らずだったが、
  明治維新後、横滑りのような形で東京府庁記録方に勤務できた。
  東京府庁、警視庁での大吉の官位は最後まで九等官で終わった。 
  最初の月給は10円、明治20年の警視庁退職時は25円だったという。

漱石の父 夏目直克は大吉よりも15歳年上で警視庁では上司であった。
漱石の家は代々名主の家であつた。
江戸時代の名主は村の行政、治安業務の役目をになっていた。
明治政府は名主の仕事を継続する為、維新後も警視庁で雇ったのである。
夏目直克は警視庁で6等級、月給30円という記録がある。

明治5年(1872)3月25日(新暦では5月2日)に
樋口一葉は江戸から東京になったばかりの東京で生まれた。
幸橋内東京府庁砲地旧郡山藩柳澤邸長屋
東京府第二大区一小区内幸町御門内一番屋敷
(現在の千代田区内幸町1-5-2)
大吉41歳、母37歳次女として、生まれました。
新緑の美しい頃で「なつ」と名付けられた。
二人の間には長女ふじをはじめ、長兄泉太郎、次兄虎之助、
次女奈津(一葉)、三女邦子の計5人の子供に恵まれました。

平成17年、旧暦で一葉の誕生日に当たる3月25日に
樋口一葉の生誕地である内幸町に記念碑が建てられました。
千代田区内幸町1丁目5番地2は山の手線の新橋駅の近く、
第一ホテルと東京電力本社の間にある、
T&Dファイナンシャル生命本社ビルのあたりのようです。
隣の千代田区内幸町区民会館に記念碑があります。
http://www.city.chiyoda.tokyo.jp/news/release/20050325/0325_2.htm
http://www.city.chiyoda.tokyo.jp/tokusyu/chiiki/koujimachi/20050414/0414.htm
 現代風に考えれば大吉は37歳で会社が倒産、運良く、別会社に就職できたが
それまで何かと後ろ楯になってくれた郷土の先輩は幕府の瓦解で隠居をした。
これで出世の望みも絶たれたと大吉は考えた。

 そればかりかそれまでの漢字が中心の社会から、
欧米に追いつこうと英語が重要視される時代になっていた。
大吉は明治という大変革の時代についていけなくなった。

出世の望みのなくなった大吉はそれまで以上に副業に精を出すようになった。
又、自分の出来なくなった夢を子供にかけるようになり、
子供の教育を熱心に行った。

一葉の父は明治になってから、則義と改名届を出している。
これからは一葉の父は則義と書く

第一、一葉の父則義の副業

明治になってから東京府の下級官吏として樋口則義は
戸籍係や屋敷取調係、社寺取調係を歴任していた。
これらの職務には裏収入があったようだ。
①屋敷取調係で得た知識でその頃,藩々置県で
 郷里に帰った武士の屋敷を払下げてもらい
 土地売買をして利益をあげた記録が残っている
②社寺取調係の時に知り合った社寺の借地を管理して、
 借地料や貸家料の1割を管理料として収入を得ていた。
③郷里の知り合いなどにお金を貸し、年3割という、
 現在のサラ金なみの利息を取っていた。
 多い時には月300円も貸していたという。

高利貸しをしていれば今のサラ金のようなトラブルもあつた。
「明治20年5月31日 関根孝助に貸金取立訴訟に勝つ」という記録がある。
父親の貸し借りによるトラブルを小さい頃から、一葉は見ていた。
後年の一葉が「お金を浅ましいものと」考えた、金銭感覚の育成に
父則義の高利貸しをした事の影響がないわけはないと思われる。

明治初期の日本は江戸から明治への変革期であった。
廃藩置県で江戸を離れた、武士の藩邸が沢山余り、
不動産売買は量も多く、インフレで利ざやが稼げた。
現代のバブル景気の成金のように、
明治初期に土地売買を副業にしていた一葉の父も景気が良く、
その頃、一葉の家に訪ねて来た山梨の郷里の者に、
則義が金の延べ棒を見せて自慢していたという記録がある。

明治14年の政変 
     明治政府は近代国家への社会経済施設の整備
     武士への多額の退職金の支払などで貨幣の発行が急増していた。
     そのため明治初期の経済社会は急激なインフレ経済になった。
     この頃、大蔵大臣になった松方正義はデフレ政策に変更した。
   
明治17年頃の日本は不況が激しくなり、会社や銀行の倒産が多くなった。
   現在のバブル経済の破綻と同じような経済社会になった。

樋口家が貧しくなった理由①この頃から、父の副業もうまく行かなくなった。

明治20年  57歳の則義は警視庁を退職
明治21年6月59歳の則義は自ら荷馬車運送の組合設立に取り組む
  当時,開業した鉄道駅の近くに運送会社を作るという発想は悪くはないが
  当時のデフレ政策の影響を受けた経済情勢と
  一緒に事業を立ち上げた仲間が悪かったようだ。
明治22年2月59歳 荷馬車運送の組合設立事業は失敗に終わる。
明治22年7月    一葉の父則義は病没する。

樋口家が貧しくなった理由② 父の事業の失敗で多額の借金が残ったという。

第二、一葉の父の子供たちへの教育
    一葉の父は子供たちの教育に熱心だった。

①一葉の9歳年上の兄泉太郎の経歴
   樋口家では長男で頭の良かった泉太郎に期待する所は大きかった。
   しかし、病弱で明治17年1月結核療養のため熱海に出掛けた。
明治18年明治法律学校(現明大)に入学した。
   当時、大学進学は珍しいことである。
明治20年6月明治法律学校を中退して、大蔵省に勤める
同年9月 外出先で喀血
同年12月27日 死去 享年24歳

その頃、漱石の父夏目直克は警視庁で一葉の父の上司であった。
明治20年、夏目家でも漱石の二人の兄大助と栄之助を失った。

 漱石の兄・大助 安政3年(1856)~明治20年の経歴
明治12年  肺を病んで東京開成学校(東大)を中退
   同年2月 警視庁翻訳係に勤める       月給40円
明治14年(1881)1月 警視庁から陸軍省に転職 月給45円          
明治20年(1887)3月21日死去 享年31歳

夏目大助が警視庁の翻訳係に勤めていた頃、一葉の父も同じ職場にいた。
その頃、一葉には大助或は漱石との婚約話もあったという話がある。
兄樋口泉太郎の葬儀では夏目直克から香典50銭、という記録がある。

樋口家が貧しくなった理由③兄泉太郎の治療費が家計を圧迫した。

②一葉の教育
一葉は小さい頃から、本を読むのが好きな子だった。
一葉の父は一葉に沢山の読み物を買い与えた。
歌の才能もあったようだ。

ほそけれど人の杖とも柱とも
思はれにけり筆のいのち毛

一葉が小学校の頃に詠んだ歌だと妹邦子が書いている。
あまりにも出来すぎた歌であるが後に社会の底辺を見つめた
一葉の文学の萌芽が感じられなくもない。

一葉は母の反対で小学校を途中退学した。
女には学問はいらないと考えられた時代である。
学校を途中で止めたことはそれほど非難される事ではない。
一葉は家事の手伝いをしながら、
当時の花嫁修業である裁縫などを習ったが裁縫はあまり得意ではなかった。
そのような一葉を見ていた父は古典文学の素養をつけて、
将来、書や歌の先生として生計を立てさせようと考えるようになった。

当時の上流階級の令嬢達が通った「萩の舎」に和歌の勉強に行かせた。
14歳の一葉は源氏物語などの古典文学と和歌を勉強する機会が与えられた。
ここから、後に和文擬古文のような一葉の文体が生れる事になる。
又、萩の舎の同僚は一葉が作家になるための女性応援団になった。

最後に樋口一葉の生涯で一番裕福で幸福であったと思われる
時期と場所について書いておく。
それは一葉が4歳から9歳(明治9年4月から明治14年7月)までの5年間
本郷の東大赤門と道を隔てた法真寺の隣地に住んでいた時代である。

一葉の父は明治7年8月45歳の時
東京府知事から士族であつた代償として476円を受け取った。
内訳は家禄13石の6年分で米78石(右代金220円現金、250円公債証書)
その金とそれまでの蓄えとを加えて、本郷の法真寺の隣で
宅地230坪、建坪45坪の屋敷を当時の金550円で買った。

一葉が住んだ場所、現在の東京都文京区本郷5丁目26
法真寺の玄関前の、現在、駐車場になっている所である。
法真寺の境内には一葉記念館があり、
毎年、一葉の命日には「一葉祭」が開かれている。
http://homepage3.nifty.com/namm/index1.htm
http://www.kitada.com/keiko/ichiyou.html

一葉が住んだ本郷のお屋敷には大きな桜の木があったという。
晩年の一葉は、本郷の家を懐かしみ
自ら「桜木の宿」と命名して随筆に書いている。

「かりに桜木の宿といはばや、
忘れがたき昔しの家にはいと大いなるその木ありき,
狭うもあらぬ庭のおもを春はさながら打おほふばかり咲きみだれて、
落花の頃はたたきの池にうく緋鯉の雪をかづけるけしきもをかしく
松楓のよきもありしかど、これをば庭の光りにぞしける。」
    晩年の手記から  雑記「詞がきの歌」より

法真寺は関東大震災にも、東京大空襲にも焼け残ったという。
一葉が見たままの山門が現在も残り、
一葉が小説「行く雲」の中で
「腰ごろもの観音さま、濡れ仏にておはします御肩あたり、
膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて、
前に供えしシキミの枝につもれるもおかしく」と書いた。

腰ごろもの観音さまは現在、本堂の左脇に置いてある。
本堂の前の桜は里桜(普賢象)なので4月中旬、花開いている事であろう。
花びらが観音様の膝のあたりに、はらはらとこぼれている事であろう。
                            以上