一葉と桜5 桜の花との決別
第一章 日記「塵の中」の序文
明治26年初夏、一葉は22歳 、父が亡くなってから、まる4年が経ち、
裁縫等の賃仕事だけで、一家三人が食べてゆくには収入が足りなかった。
樋口家の貧困から脱出する方法として、一葉は職業作家になるという,
たぶん、日本で最初の無謀な決意をした女性となった。
雑誌に一葉の小説は掲載されたが、期待するほどのお金にならなかった。
明治26年7月から書き始めた日記「塵の中」の序文に一葉は書いている。
「人 常の産なければ常の心なし。
手をふところにして月花に憧れぬとも、
塩噌なくして天寿を終らるべきものならず。
かつや文学は糊口の為になすべき物ならず。
思ひの馳するまゝ、心の趣くまゝにこそ筆は取らめ。
いでや、是れより糊口的文学の道をかへて、
浮世を算盤の玉の汗に商ひといふ事始めばや。
もとより桜かざして遊びたる大宮人のまどゐなどは、
昨日の春の夢と忘れて、
志賀の都のふりにし事を言はず、
さざなみならぬ波銭小銭、厘が毛なる利をもとめんとす。」
と「塵の中」日記に書いた。
簡単な意訳?
人は一定の収入がなければ、平常心ではいられない、
働かないで、月よ花よという暮らしに憧れていても、
食べ物がなければ、まともな一生を終える事はできない。
又、文学は「糊口(糊=かゆ=生計)のために書くものではない、
自分の書きたい事をそのまま書くのが本当の姿ではないだろうか。
さあー これからは職業作家を目指していた道を捨て、
算盤を片手に、商いという事を始めよう。
もう,桜を見て、歌を詠む雲上人の真似のような事は春の夢と忘れて、
「さざ波や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」 とも歌わず、
千載和歌集. 読み人知らず(平忠度)
さざ浪ではないが浪銭小銭の一厘という、わずかな儲けを求めていこう。
と「塵まみれ」日記に書いた。
第二章 桜の花との決別
日記「塵の中」の序文から、当時の一葉の気持ちが読み取る事が出来る。
1、歌塾「萩の舎」の世界との決別
①一葉は古文や和歌を学ぶ事が好きで、萩の舎では優秀な生徒であった。
萩の舎という限られた世界で、一葉は精神的な優位性を持つことが出来た。
②一葉は将来、歌や書道の先生になろうと考えていた。
③一葉は父が亡くなってから,5ヶ月程、萩の舎に住み込み、
師の中島歌子の内弟子兼女中のような生活をしていた。
中島歌子に付き添い上流階級の家に出稽古に行くなかで、
上流階級の家の裏側を見てしまうとその贅沢な暮らしぶりに憧れる反面、
妻妾同居のような乱れた家庭生活に違和感を憶えた。(注1)
又、中島歌子の私生活を見て、歌塾の実態を知り幻滅してしまう。
④萩の舎は上流階級のお嬢様におべんちゃらを使い機嫌を取る世界だった。
和歌の勉強方法も,あらかじめ歌の題を決め、古歌を真似る方法だった。
一葉は萩の舎の花鳥風月的な作風に疑問を持ち、批判を持つようになった。
⑤半井桃水との交際を中島歌子や親友の伊東夏子に反対されてしまう。
桃水との事で、萩の舎の仲間達の棘のある噂話に一葉は傷ついた。
⑥一葉は生涯に渡り、「萩の舎」を心のよりどころにしていたと思われるが
この時は「萩の舎」の世界から離れようと考えた。
(注1)後に、一葉は23歳の時、小説「十三夜」で上流階級に嫁いだ女姓が
必ずしも、幸せになるとは限らないという物語を書いた。
2、半井桃水が教えてくれた「売れる小説」への疑問
①明治時代,男でも職業作家として,生きてゆくことは難しかった。
②半井桃水は一葉に「売れる小説」の書き方を教えた。
読者は物語の筋に関心を寄せるから、筋の展開を面白くしろと言う。
③桃水の指導方法は萩の舎の和歌の勉強方法と同じように
先ず、売れる小説を書くために小説の趣向、組み立てプランを考える。
そのプランについて桃水に相談し、それから作文という方法である。
学生が卒業論文を書く時のような指導方法だった。
④一葉は桃水の読者に媚びる小説の書き方に疑問を持つた。
3、一葉の考える文学の目的
①一葉は桃水から売れる小説を書く訓練を受けている内に、
売れる小説を書くために、小説の筋や趣向を凝らす事よりも、
文章の中に自分の気持ちを吐露して、自分の悩み、人生の問題を
取り上げる事が、文学にとって大切なことだと考えるようになった。
②一葉が19歳の時に書いた最初の小説「闇桜」は片思いの女性、
すなわち一葉の桃水に対する気持ちを反映する小説を書いた。
現在、台東区の一葉博物館にある「闇桜」の一葉自筆の原稿を
桃水は「字があまりにもきれいだったから」と大切に保管していた。
4、戸主として、母や妹を養う責任・金銭問題
①一葉は上野の図書館に通い、桃水のもとで、小説書きの勉強をした。
②桃水の創刊した「武蔵野」に最初の小説「闇桜」を発表してから
萩の舎の先輩三宅花圃の紹介で「都の花」に、又「文学界」にも執筆したが
当時の原稿料システムでは多額の収入に結びつく事は難しかった。
③半井桃水はその頃、神田三崎町で葉茶屋「松涛軒」という店を開いた。
④一葉もどこかで商売を始めよう。そして、生活が落ち着いたら、
商売の合間に自分の本当に書きたい文章・文学を書いて行こうと
今までの職業作家を目指す生活と決別する事を決意する。
第三章 作家一葉の誕生
Ⅰ下谷竜泉町に小間物屋開店まで
明治26年6月29日の日記で
家、ますます困窮し、遂に借金をするあてもなくなるような貧乏生活から、
脱出する為、母と妹三人で「此夜一同熱議 実業につかん事に決す」と
小商いの小間物屋を開く事を決意した。
そうと決まれば一葉と妹の邦子は素早く行動する
早速、物件探し、二人で牛込,神楽坂,飯田橋,御茶ノ水まで探すが
家賃が安くて、しかも知り合いの居ない所は中々無かった。
最後にたどり着いた場所は遊郭吉原の裏にある二軒長屋の店だった。
内容は、下谷龍泉町(現住所:台東区竜泉3-15-2)
間口3間、奥行き6間の二軒長屋の片方、
店は6畳、他に5畳、3畳、敷金3円 家賃1円50銭
明治26年7月20日、一家は本郷菊坂の家から、竜泉の家に引越した。
萩の舎の親友、伊東夏子には「竜泉の家に来たら、絶交よ。」と知らせ、
明治26年8月6日、荒物や駄菓子を売る小間物屋を開いた。
店を開いた直後は物珍しさも手伝って,お客も来た。
1日40銭から60銭の売上で、一ヶ月5円くらいの利益しかならなかった。
年が明けると、近所に同業者の店が出来,店の売上は減ってしまう、
竜泉の店は開店から10ヶ月で閉店してしまう事になる。
Ⅱ 作家一葉の誕生
1、異文化体験
一葉がそれまで住んでいた上野、高輪、本郷は住宅地である。
家には門があり、庭のある生活で外から家庭を覗く事は出来難い。
竜泉の家は一日中、車や人通りが途切れない町のなかで、
壁一つ隔てて、隣の生活を伺うことが出来る生活であった。
人間の素顔が丸出し、丸見えの生活環境に変わる事となった。
2、主客の立場が逆転する。
それまで、一葉一家は客として、商人に接していた。
竜泉では立場が変わり、どのような人でも、店に来る人は客となった。
彼らの機嫌を損ねないようにしなければならなくなった。
今まで、接する機会のなかつたかも知れない人に客として接する体験は
個人の立場からだけでなく、相手の立場から人を見る事になった。
3、様々な階層の人々の生活実態を知る。
①一葉は僅かな期間にいろいろな階層の生活実態を見る機会が出来た。
1.一葉は萩の舎の内弟子時代、上流階級の家庭を覗く機会があつた。
2.竜泉で商いをしているうちに働いても働いても楽にならない
庶民の生活を実際に肌で感じるようになった。
3.遊郭は祭りの日に女子供でも門の中に入る事が出来、遊郭内を見学出来た。
遊郭の洗張り裁縫の賃仕事を得るために遊郭内(苦界)に入る体験をする。
遊女という最下層の人間の惨めさを実際に知る事が出来た。
吉原遊郭の裏町に住む人々の開けっぴろげな生活を見ているうちに、
一葉は社会の底辺に住む人にも目をむけるようになり、
そこから、人間の本質を見つめることができるようになった。
②遊郭(苦界)の中に入り、女性の惨めな生活の実態を知る。
1.遊女という社会の底辺で暮らす女性たちと話をするようになる。
2.正義感の強い一葉は逃げ出した遊女を助けたいと巡査に相談した事もあった。
一葉は吉原の遊郭の遊女の話を聞き、彼女たちの姿から女の生き方を考え、
一葉の関心が個人の問題から社会問題へと向う事になった。
③子供の目線でものが見られるようになる。
一葉は店先に立ちながら、子供の会話や一人ひとりの気性を観察した。
店に来る子供を相手にしている内に,子供の世界に興味を覚えた。
やがて、自分の子供の頃の事を思い出していた。
④明治27年2月23日に天啓顕真術会本部を尋ね、久佐賀義孝に相談に行く。
占い師久佐賀義孝に借金の申込に行った事について、様々な説がある。
一葉は「相場の予想が必ず当り、金が儲かる」と言う新聞の広告を見て、
彼から元金を借り、相場を貼り、儲けで、遊女達の一時避難所を作る資金に、
又、先輩の田辺花圃が歌塾を開く事を聞き、自分の歌塾を作るための資金が
出来るのではないか言うと甘い夢を持って尋ねたのではないだろうか?
久佐賀義孝にしても、若い娘が真面目な顔で金を借りにきたのだから、
「まあ、話を聞こうではないか」となるだろう、しかし,詳細は今だに不明。
素人商法は開店から10ヶ月で、店を閉めてしまうような事になった。
商いの為に投資した元手はほとんど回収できなかつたが、
竜泉町での商いの経験は、名作「たけくらべ」が生まれるきっかけになった。
作家一葉から見れば、大きな利益を得る事が出来たのである。
第四章 「塵の中」から,見つけだした「宝石」
「たけくらべの世界」
美登利:子供仲間の女王で吉原一の売れっ子遊女の妹。
長吉 :横町組のがき大将で鳶職の息子、
正太 :表町組のがき大将で質屋の孫、
真如 :寺の跡取り息子の真如
三五郎:貧しい車引きの子
小学校で机を並べている級友が学校から一歩出ると、
横町組と表町組とに分れ、子供同士のけんか仲間として対立している。
吉原遊郭の裏町の子供達の日常生活の一断面を鮮やかに切り取り、
美登利に思いを寄せる少年たちの心の動きを中心に、
少年少女の個性を一人ひとり実に豊に、生き生きと描き、
子供から大人への微妙な心の変化を筆の力で表現する事が出来た。
「たけくらべ」は吉原の裏町の子供達の日常の世界を描いている。
誰でも、このような子供の頃の懐かしく美しい思い出を持っている、
自分だけの思い出として心の奥に大切に保管している。
時々、取り出す事はあつても、ほとんど誰にも見せないでいる。
一葉はこの誰もが持っている子供の頃の思い出という原石を
擬古文という日本語で磨いて、読む者に共感を与える事が出来る、
「たけくらべ」という宝石に磨き上げる事が出来た。
「たけくらべ」は源氏物語などの古典文学の最終点であり、
日本近代文学の出発点となる小説となった。
明治27年5月1日一家はたけくらべの舞台になった下谷龍泉寺町から
一葉終焉の地、本郷丸山福山町(文京区西片1-17)に転居した。
以上