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華の会

日本文化を考える

一葉と桜 半井桃水

2005年04月30日 | 文学
一葉と桜4:上野車坂・半井桃水

山櫻今年も匂う花影に散りて帰らぬ君をこそ思へ

この歌は明治24年4月、19歳の一葉が詠んだ歌である。
一葉はこの年から本格的に日記を書き始め、
その日記の最初の日に書かれた歌でもある。

この頃の一葉は
①明治20年一葉の兄泉太郎が24歳で死去
 二番目の兄寅之助は染付けの職人の修行中の身、
 その上徴兵逃れのために別の家の戸籍になっていた。
 一葉の父は頭が良く、しっかりしている一葉に期待したのだろう、
 樋口家では一葉を樋口家の相続戸主にした。

 戸主として母や妹の面倒を見なければならないという
 責任感が後に一葉が文学を書き始める原動力になった。

②明治22(1889)年父の事業の失敗と死 父享年58歳
 樋口家に多額の負債を残したという。

 一葉の家が貧しくなった第一の原因である。

③阪本(渋谷)三郎との婚約破棄事件
 渋谷三郎は一葉の父が江戸に出てから世話になった郷里の先輩
 真下専之丞の孫で早稲田大学に通っていた頃、一葉は婚約をしていたが
 父の死後、樋口家にお金がない事を理由に渋谷家から、婚約を解消された。
渋谷三郎は後に検事や早稲田大学の法学部長に出世した。

 この事は一葉の心を傷つけ男性への不信感が生まれたが
 一葉の結婚への願望は生涯消える事はなかった。
 一葉の初期の作品「闇桜」等身分違いの片思い文学が多い。

④萩の舎での住み込みの助手への幻滅
 一葉は父が死んでから5ヶ月ほど歌塾「萩の舎」に住み込み、 
 内弟子生活をした。
 あまり家事が得意でない一葉には辛かったようだ。
 師匠の中島歌子は女学校の教師の口を紹介してくれる 
 約束であつたが学歴のない一葉には無理な話である。
 住み込んでいれば歌塾や中島歌子の実像がみえてしまい、
 その花鳥風月的な歌に疑問をもち批判や幻滅が生まれた。
 又、歌子に付き添い上流階級の家に出稽古に行くなかで
 上流階級の家の裏側を見てしまう。

 小説「おおつごもり」は萩の舎の住み込み体験談。
 一葉はその後,社会の底辺に住む人にも目をむけ
 人間の本質を見つめることができるようになり
 一葉の文学は花開くことになったが
 一葉の上流階級への憧れは消えなかったと思われる。

⑤父親の死後母親と妹邦子は染付け職人の修行中で
 高輪に住んでいた次男寅之助と同居するが母親の気性と
 芸術家肌の寅之助と折り合いが悪く同居がうまく行かない。

 一葉の小説「うもれ木」のモデルとなった。

明治23年9月本郷菊坂70番地(現在の本郷4丁目32番地1)に
母の滝、一葉それに妹の邦子の3人は家を借りる。
現在の東大の赤門と後楽園との中間地点で
菊坂から中程の一段下がったうなぎの寝床のように谷間である。
現在も一葉も使ったという井戸がそのまま残っている。
菊坂の中程には樋口家が通った『伊勢屋質店』の建物がある。

本郷菊坂周辺地図
http://homepage3.nifty.com/namm/index2.htm
http://www.kitada.com/keiko/ichiyou.html
http://fkoktts.hp.infoseek.co.jp/1203.html

本郷の菊坂に越して借家住まいの始めたが
針仕事,洗濯の仕事和服の仕立てや洗い張りで
生計を立てる状況で、樋口家の生活は苦しかった。
 当時の仕立賃は、袷(あわせ)1枚、15ー20銭、
3人で収入は月5円から6円程度と計算される。
そのうち家賃が2円50銭必要であつた。
一葉は博覧会の売り子にも応募したがうまく行かなかった。
自分で歌塾を開けるほどの資金はなかったし、
一葉が歌塾を開くことは中島歌子に反対された。

参考
明治23年、漱石、子規は東大の英文科に進む、
       漱石は奨学金を年額85円貸与された。
       子規は松山藩の給費生として月額7円が給付されていた。
明治21年9月鴎外、ドイツから帰国、
明治23年鴎外「舞姫・うたかたの記」を発表

その頃、萩の舎の先輩田辺花圃が「藪の鶯」という小説を書き
原稿料33円を貰ったことを聞く、一葉は花圃が書けたなら、
自分も小説を書いて、親子3人の生活費を稼ごうと考えた。

一葉の家では妹邦子の女友達の野々宮きくの紹介で
東京朝日新聞の小説記者:半井桃水の家の洗い張りの仕事を頼まれていた。
一葉は花圃が坪内逍遥を師として、小説を書いたように
自分も桃水を師として小説を書こうと考えた。
野々宮きくを通して、半井桃水に弟子入りの希望を伝えると
桃水から、「今、東京朝日新聞に「月黄昏」という連載小説を書いていて、
4月12日に連載が終わるから、4月15日にお会いしたい」という連絡を受けた。

半井桃水の写真
http://fkoktts.hp.infoseek.co.jp/09.html
朝日新聞で売れている小説を書いている桃水に弟子入りできれば、
自分も小説が書けるに違いない、
桃水は5代目歌右衛門に良く似た美男子だという。
一葉の心には不安よりも、期待のほうが大きく膨らんでいった。
一葉にも心のゆとりが生まれたのだろう。

4月11日「萩の舎」の同僚、吉田かとり子の向島の隅田川のほとりの家で
開かれる花見の宴に出かける余裕がうまれた。

一葉が本格的に書き始めた最初の日記「若葉かげ」は
明治24年4月11日
「花にあくがれ月にうかぶ折々の心をかしきもまれにはあり、」
という書き出しで始まる。

その日、向島の吉田かとり子の家に行く前に、一葉は
久しぶりに妹を連れ出して、二人で上野の山に桜見物に出かける。

樋口家は父の在世時代、下谷御徒町(現在の御徒町駅付近)や
下谷黒門町(現在の上野駅付近)に住んでいた事がある。
明治24年の9月には上野~青森間全線が開通するので
上野駅の周りも父と住んでいた数年前と比べて大きく変化した。

上野の山の桜を見てから、向島に行くため、車坂に通りかかる。
(車坂は上野駅の公園口からアメ横の入口までの坂道)
父と住んでいた数年前の面影は上野駅のまわりには残っていない、
あの頃、父と一緒に櫻の花を良くながめたねと妹の邦子が語る、
一葉は日記を続け、一首を詠む

「 むかしの春もおもかげにうかぶ心地して、

山櫻ことしもにほふ花かげにちりてかへらぬ君をこそ思へ

心細しやなどいふま々に、朝露ならねど二人のそではぬれ渡りぬ」

福岡哲司さんの詳細な上野浅草散歩レポートです。
2005年4月11日の一葉と同じ散歩コースが楽しめます。
http://fkoktts.hp.infoseek.co.jp/ichiyounikkisanposumidagawa.html


日記は続く、
一葉は4日後の4月15日、
雨が少し降る、昼過ぎ、半井桃水の家に
小説書きの弟子入り願いのために
芝の南佐久間町の家まで一人で行く。
(現在の山の手線新橋駅の近く)
一葉は桃水の前で完全に上がってしまう、日記には
 「耳ほてり唇かわきて、いふべき言もおぼへず」と
述べるべき挨拶の言葉も出てこない、
状態になってしまった、と書く。
さらに、一葉は日記に桃水の印象を書く。
 「色いと白く面おだやかに少し笑み給へば
  誠に三才の童子もなつくべくこそ覚ゆる」

一葉は桃水に対して,憧れ以上の感情を持ってしまった。
これは一葉の父離れの瞬間であり、
少女から、恋する乙女へと変化する動きを
一葉が自らの日記のなかに書きとめた事になる。

半井桃水は一葉が生涯忘れられない恋人となった。
一葉の小説家としての才能を最初に見つけた人である。
一葉に対して,小説の書き方を直接指導し、
翌年、3月には桃水が発行した同人誌「武蔵野」に
一葉の最初の小説「闇桜」が掲載される事になる。
小説家「樋口一葉」誕生の第一歩に
大きな力を貸した人となる。

以上


桜の花の色について

2005年04月23日 | 
桜花の色による分類方法
1 .白色の桜 
        ①「太白」 タイハク 大輪一重の代表
           日本で消滅、英国から里帰りした桜
        ②「白妙」 シロタエ 大輪八重 
          「駒繋」コマツナギ 親鸞上人が馬を繋いだ桜
          白妙と駒繋は近い品種

2.淡紅色の桜 一番種類の多い色
        ①「兼六園熊谷」 ケンロクエンクマガイ 中輪一重
           兼六園で生まれた桜
        ②「東錦」 アズマニシキ 大輪八重
          東錦」と「江戸桜」は同じ種

3.紅色の桜
        ①「寒緋桜」カンヒザクラ 一番紅色が濃い桜
        ②「関山」 カンザン   大型八重
          桜湯その他食用桜の原料になる

4.緑や黄色の桜
        ①「御衣黄」ギョイコウ  中輪の八重 
            花弁は緑の濃い緑黄色
            開花後花弁中央に赤色の線が出る。
        ②「鬱金」 ウコン 中輪八重で淡黄色
            名前の由来はカレーの原料のウコンから。

   名前が「緑桜」という桜
         ③『緑ガク桜」 リョウガクザクラ 白色小輪一重
            豆桜の変種 花弁は白く、ガクが緑色

5.紫色の桜 「紫桜」 花弁は5個 中輪一重 淡紅紫色

6.墨染の桜 花の名前に墨とつき、花色が墨色ではない。
    墨染めの名前の由来
        1. 若芽が茶色で暗い感じがするからといわれる。
    

東京足立区荒川堤の「五色桜」 
     戦前の荒川堤は桜の名所で
     そこに五色の桜が植えられていた。
http://www.adachi.ne.jp/users/bnbku/gosiki.html

五色桜の種類
   1、白が白妙
   2、紅が関山
   3、黄が鬱金
   4、黒が墨染
   5、紫が紫桜




①桜の花の色は咲いてから散るまで同じ色ではなく
  染井吉野は咲き始めは淡紅色から白色になり
  散る頃には花の付け根が紅色に染まります。
②同じ種類の桜でも、東北や北海道の桜は関東の桜よりも
  花の色が濃いといわれている。
③海辺や平地の桜よりも山地の桜で咲く桜のほうが
  花の色が濃いといわれている。
④同じ桜でも若木のほうが色が濃いという。
  東京で咲いているエドヒガン桜は花の色が濃いのに
  各地にあるエドヒガンザクラの古木は花の色が白い。


有名な岐阜・根尾谷の「薄墨桜」
        種類は「江戸彼岸桜」白色の小輪一重
  名前の由来
   1.散り際の花が淡墨色に見えるという
   2.伝説で継体天皇のお手植えの桜
    この地で不遇な生活をしていた継体天皇が
    都に帰るおりに詠まれた歌の中の「薄住」が
    淡墨に転化したという。

前田利行、宇野千代が守った日本で2番目に古い桜
    羽田澄子が1976年に記録映画を作った。

薄墨桜のアドレス
http://nishi525.cool.ne.jp/tabisaki/neotani.html

http://www.city.motosu.gifu.jp/neo_web/index.html

桜守





桜の木の増やし方。

2005年04月20日 | 
桜のふやし方。
1、挿し木
桜の挿し木の適月は3月と6月

3月(前年枝さし) 芽が膨らむ直前が良い。
前年に伸びた花芽の無い、少し太めの枝を使用

6月(緑枝さし) 今年のびた緑色の枝を使用
今年伸びた枝で成長が止まり、中ば固まった枝が良い。

1、さし穂   枝を10cm前後に鋏で切り、束ねる。
    6月は 上部の葉を2枚残し、他の葉は切り落とす。
2、枝の水揚げ さし穂の下半身を約3時間、新鮮な水につける。
3、発根ホルモン さし穂の下部を鋭利なナイフで斜めに切り戻し、
           切り口に発根ホルモンをつける
4、さし方 細竹でさし穴を作り、
       さし穂を斜めにさす(深さ6センチ前後)
       株元を指で押さえる。
       さし穂は3~4センチの間隔でさす。
5、水を十分に与える

さし床
① 高さ10センチ位の植木鉢や木箱を用意する。
② 用土は底に2~3センチ位桐生砂を敷き
  その上に鹿沼土(中粒)を5~6センチ位入れ
  鉢の上部は1~2センチの空きを残す
  鹿沼土(中粒)だけでも良い

発根ホルモン、発根促進剤
①住友化学園芸の「ムートン」15g 420円位
②バイエルンの「オキシベロン」1800円位が代表的な製品です。
大きな日曜大工センターの園芸売り場にもっと小分けにした製品があるとおもいます。

大島桜は一割位の割合で発芽した。
豆桜の系統は挿し木が可能で、
盆栽に多い「富士桜」系統
秋に咲く「十月桜」は挿し木した年に咲いた。
その他に「菊桜」や「ウコン桜」なども
挿し木の発根率が高いという。

春まだ早く、花屋さんで見かける「啓翁桜」は
花が終わって,直ぐに挿し木すれば発芽するそうだ。

2、取り木は
桜の取り木の適期は5月末~6月に掛けて、
少し古い、幹がひび割れをしているような桜の枝を
水を含ませた「水ごけ」をボール状に包み、
上から、黒い油紙か黒いビニールで包んで、
ひもで結び、水ごけの水が乾燥しないようにして、
次の年の6月まで置いておくと、
水ごけで包んだ枝に髭根が出てきている。
その枝を切り取って、土や鉢に植えれば
翌年から桜の花が咲きます。

3、種の撒き方
桜は自花不稔性(自家受粉しない、同一品種間では受精しない)ので、
種から育てた桜の木はすべて新種になる可能性があります。

種の撒き方
1  成熟果実(黒紫色になったもの)を採取
2 果皮や果肉を水洗いして良く取り除く。
種の周りの実の部分に発芽抑制剤があるので、
実の部分を良く洗って取っておいたほうが良い。

種の保存方法
1、湿った腐葉土の中で埋蔵するか
2、湿った紙に包み、0℃~3℃の冷蔵庫に貯蔵する。

桜の種は
①種を湿めらせて10度以下の温度に2ヶ月間曝し、
②種の発芽に適した温度が5~10度だという。
以上のような条件が揃わないと発芽しないという。

実生、種まき期
1、保存して置いた種を12月頃までに畑や庭に撒く。
2、鉢などに蒔く方法
 ①蒔き床は赤玉土7、川砂3の混合土を10~12㎝の深さにする。
 ②冷蔵庫に保存しておいた種を一昼夜、水に漬ける。
 ③一粒、2~3㎝間隔にばら撒く。
 ④1~1.5㎝の厚さに覆土する。
 ⑤その上に腐葉土を蒔き土が見え隠れするように敷く。
 ⑥以後、乾かない程度に潅水する。
 ⑦鉢は陽だまりのなるべく暖かい所に置く。

花が咲くのは早くて5年、10年以上掛かる場合もある。
                       桜守

一葉の名前の由来と一葉桜

2005年04月18日 | 
樋口一葉の名前の由来と一葉桜
1、一葉のペンネームの由来
① 達磨大師がのる芦の葉
樋口一葉のペンネームは昔インドの達磨大師が、中国の揚子江を一葉の芦の葉に
乗って下ったという故事に因んだもので一葉は「達磨も私も、おあし(銭)がない」
からだと貧乏をしゃれのめして友人に答えたという。

 「我こそはだるま大師に成にけれ 
   とぶらはんにもあしなしにして」 一葉の歌

明治27年4月、萩の舎の親友伊東夏子に送った手紙に次のような文章と歌がある。
「芦の一葉にのりて舟遊山をしたる達磨大師さへ御座候ものをや
   行く水の浮き世は何か木の葉舟 流がる々ままにまかせてをみん
 かくうたひたる時我は笑ひしか なきしか君こそ思ひやらせ給ふべけれ」

②一葉万里説
浮き世という荒海に「漂う舟」という表象したものという説
「なみ風のありもあらずも何かせむ
    一葉(ひとは)のふねのうき世なりけり」 一葉の歌

この2説は一葉の名前がペンネームとして定着してからの文章である。

③西川佑子の説
大正11年(1921)山梨県塩山市慈雲寺に一葉の碑が建立された時、
式典に出席した半井桃水が寄書帖に
「一葉散りて秋知る文の林かな」と記している事と
萩の舎の親友伊東夏子から一葉にあてた手紙の一節に、
「武蔵野にもえ出し一葉比林の花も紅葉もしのぎて茂りゆかん事遠からず存候」とある。
この二つを受けて、桃水が発行する同人誌「武蔵野」に一葉の最初の小説「闇桜」
を掲載する時、桃水は「若い女が実名で小説を発表すれば、不便が生じるであろう」と言い、
ペンネームを「文の林に萌え出つる一葉はどうか」と薦めたのではないかと
いう説を述べている。

④杉山武子の説
一葉が萩の舎に入ったばかりの頃、
例会で先輩たちに鮨を配っていた皿に「前赤壁の賦」の一節が書いてあった。
姉弟子の田辺龍子が読んでいるのを聞いて一葉はすらすらと
その後のの一節を口ずさんだという有名な話がある。
杉山武子はこの話を受けて、「前赤壁の賦」の一節からではないかと言う。

『一葉は歌塾に入る前から蘇東坡の詩「前赤壁賦」を暗誦していましたが、
その中には「駕一葉之扁舟」の一節があり、
また小説習作の余白に「一葉舟士」の書き込みがあることや、
未完成作品に「棚なし小舟」があり、
他の作品や日記にも舟や浮き草のイメージを繰り返し描いています。』
http://www5a.biglobe.ne.jp/~takeko/mamechishiki.htm#mame24

中国の古典「一葉落ちて天下の秋を知る」や
坪内逍遥の「桐一葉」は明治29年の作なので関係はないようだ。
O・ヘンリーの短編「最後の一葉」とも関係ないと思われる。

2.「一葉」という名前の桜

 山桜の名前は「江戸彼岸桜」「大島桜」「山桜」と最後に桜が付き、
 里桜の名前は「染井吉野」「普賢象」と最後に桜が付かないのが原則。

この原則に従い、里桜の中に「一葉」という八重桜がある。
東京の公園ではよく見られる種類で、4月中旬
ソメイヨシノが散り終わった頃から咲き始める。

大きな特徴は
下半部が葉化した緑色の雌しべが普通一本突き出て咲くので
「一葉桜」と呼ばれている。よく見るとめしべが2本ある花もある。
オシベは退化して短い、垂れるように咲く。
花経が5センチ、花弁は20から25枚もある八重の大輪、
花の形は円形で色が咲き始めは淡紅色、
花びらの内側の弁が白いために満開時は白色に変化する。
若芽は少し褐色を帯びた黄緑色、
樹形は杯状形で直立して生育よく、
幹の皮が所々縦に裂けるので鑑別し易い品種。
樹勢強く栽培しやすい。
山桜の一種「大嶋桜系」の変種だという。

国立遺伝研究所のHPの一葉桜
http://www.genetics.or.jp/sakura/htmls/ichou.html
http://www.genetics.or.jp/sakura/PCD/PCD3832/pages/14.html


平成15年、東京都台東区では一葉が21歳の時10ヶ月ほど住み
小説「たけくらべ」の舞台になった所の近くの通りを
(台東区浅草5-11~浅草6-35)
「一葉桜 小松橋通り」と名前を代えて、
八重桜のイチヨウ(一葉)を道の両脇に130本植えた。
http://www.city.taito.tokyo.jp/taito-co/tosizukuri/kouen/ichiyouzakura/ichiyouzakura.htm

先日、一葉や荷風も母上のために買い行ったという、
向島の長命寺の桜餅を浅草から言問橋を渡って買いに行った。
ソメイヨシノは散り始めていたが、八重桜は咲き始めていた。
言問橋のたもとの公園には八重桜の「一葉」が沢山咲いてた。

この他に里桜でわかりやすいのは

八重の大輪で花びらが深紅色の「関山」(カンザンともセキヤマ)
http://otakara-souko.net/sakura/archives/05-0330-211144.php

子房が葉化した一本に雌しべが2本あって、
花びらの中から象が顔を出しているような「普賢象(フゲンゾウ)
http://homepage1.nifty.com/morino/sakura/data/fugenzo/02fugenzo.html

花の色が淡緑黄色の「ウコン」
http://www2.jyose.pref.okayama.jp/cec/kdss/13_jumoku-u/1_ukonzakura/idx0313165025.htm

御衣黄
花弁の数は13個,ごく淡い緑色の花の色で花の終わりに近づくと紅色の線が入る。
http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/HTMLs/gyoikou.html

以上



一葉の父樋口則義 桜木の宿

2005年04月17日 | 文学
一葉と桜3 「桜木の宿」

一葉の父大吉と母あやめの山梨の故郷の村を出てきてからの
江戸での軌跡を書いてみる。

「私の力不足から、一葉の父の評価が纏まりませんでした、
 面倒かもわかりませんが簡単な略歴を読んで見てください。
 江戸から明治という変革の時代に生きた一人の男の姿が浮かび上がります。
 江戸末期の1両は現在の10万円位と考えられます。
 一両と一円は同じといいますが当時の一円は現在の3万円位でしょうか。」

安政4年(1857)6月 母あやめは長女ふじを出産後、娘を里子に出して、
             旗本 稲葉大膳(2500石)の娘鉱の乳母にあがる。
            乳母の給金は月3両・仕着料1両・里扶ち+小遣だった。
       同年7月 26歳の大吉は同郷の先輩 真下専之丞の世話で
             蕃所調所(幕府の西洋学問所)の小遣に採用される。
             大吉はABC(英語)を勉強していると日記に付けた。
             (現在の感覚なら臨時採用のアルバイト)
安政5年(1858)8月 大番組与力 田辺太郎に従い大阪に行く。 
             大阪城の警備の仕事に就く。
             (一年契約の臨時雇い契約社員)
安政6年(1859)10月 御勘定組頭 菊地大助の中小姓になる。
              この時、給料は月4両一人扶ち(私設秘書)
文久2年(1862)    主人の菊池大助が勘定吟味役役料300俵に出世する。
文久3年(1863)   さらに、大目付に昇進,表高壱千石の外国奉行を兼任する。
            それに伴い大吉も出世、公用人(本採用)となった。

 大吉は勤めを替えるたびに出自を偽るためか何度も名前や履歴を変えた。
 しかし、頭も良く、故郷の父への詳細な報告や日記、家計簿が残っているのでも
 判るように筆まめで字もきれい、勤務態度も、誠実で真面目だったのだろう。
 酒色に近づかず、役得の金をコツコツ貯めて武士になる機会を狙っていた。
       
慶応3年(1867)5月、村を出てから10年、36歳の大吉は
 南町奉行配下八丁掘同心浅井竹蔵(30俵2人扶持)の株を入手する。
 同心株100両+浅井家の負債肩代り金300両の合計400両を支払う。
(内250両は50年の分割払い)
(現在の金額に換算すると約4000万円位だという)
八丁堀同心として坪100坪、建坪8坪の大縄組町屋敷に住む。

陸軍奉行並にまで大出世した同郷の先輩真下専之丞の後ろ盾で、
 現在なら4000万円という金の力を借りて農民から武士になれた事になる。

慶応3年(1867)10月徳川慶喜の大政奉還で江戸幕府は瓦解
慶応4年(1868)5月21日官軍の命令で南町奉行所は廃止

  大吉が武士でいられたのは1年足らずだったが、
  明治維新後、横滑りのような形で東京府庁記録方に勤務できた。
  東京府庁、警視庁での大吉の官位は最後まで九等官で終わった。 
  最初の月給は10円、明治20年の警視庁退職時は25円だったという。

漱石の父 夏目直克は大吉よりも15歳年上で警視庁では上司であった。
漱石の家は代々名主の家であつた。
江戸時代の名主は村の行政、治安業務の役目をになっていた。
明治政府は名主の仕事を継続する為、維新後も警視庁で雇ったのである。
夏目直克は警視庁で6等級、月給30円という記録がある。

明治5年(1872)3月25日(新暦では5月2日)に
樋口一葉は江戸から東京になったばかりの東京で生まれた。
幸橋内東京府庁砲地旧郡山藩柳澤邸長屋
東京府第二大区一小区内幸町御門内一番屋敷
(現在の千代田区内幸町1-5-2)
大吉41歳、母37歳次女として、生まれました。
新緑の美しい頃で「なつ」と名付けられた。
二人の間には長女ふじをはじめ、長兄泉太郎、次兄虎之助、
次女奈津(一葉)、三女邦子の計5人の子供に恵まれました。

平成17年、旧暦で一葉の誕生日に当たる3月25日に
樋口一葉の生誕地である内幸町に記念碑が建てられました。
千代田区内幸町1丁目5番地2は山の手線の新橋駅の近く、
第一ホテルと東京電力本社の間にある、
T&Dファイナンシャル生命本社ビルのあたりのようです。
隣の千代田区内幸町区民会館に記念碑があります。
http://www.city.chiyoda.tokyo.jp/news/release/20050325/0325_2.htm
http://www.city.chiyoda.tokyo.jp/tokusyu/chiiki/koujimachi/20050414/0414.htm
 現代風に考えれば大吉は37歳で会社が倒産、運良く、別会社に就職できたが
それまで何かと後ろ楯になってくれた郷土の先輩は幕府の瓦解で隠居をした。
これで出世の望みも絶たれたと大吉は考えた。

 そればかりかそれまでの漢字が中心の社会から、
欧米に追いつこうと英語が重要視される時代になっていた。
大吉は明治という大変革の時代についていけなくなった。

出世の望みのなくなった大吉はそれまで以上に副業に精を出すようになった。
又、自分の出来なくなった夢を子供にかけるようになり、
子供の教育を熱心に行った。

一葉の父は明治になってから、則義と改名届を出している。
これからは一葉の父は則義と書く

第一、一葉の父則義の副業

明治になってから東京府の下級官吏として樋口則義は
戸籍係や屋敷取調係、社寺取調係を歴任していた。
これらの職務には裏収入があったようだ。
①屋敷取調係で得た知識でその頃,藩々置県で
 郷里に帰った武士の屋敷を払下げてもらい
 土地売買をして利益をあげた記録が残っている
②社寺取調係の時に知り合った社寺の借地を管理して、
 借地料や貸家料の1割を管理料として収入を得ていた。
③郷里の知り合いなどにお金を貸し、年3割という、
 現在のサラ金なみの利息を取っていた。
 多い時には月300円も貸していたという。

高利貸しをしていれば今のサラ金のようなトラブルもあつた。
「明治20年5月31日 関根孝助に貸金取立訴訟に勝つ」という記録がある。
父親の貸し借りによるトラブルを小さい頃から、一葉は見ていた。
後年の一葉が「お金を浅ましいものと」考えた、金銭感覚の育成に
父則義の高利貸しをした事の影響がないわけはないと思われる。

明治初期の日本は江戸から明治への変革期であった。
廃藩置県で江戸を離れた、武士の藩邸が沢山余り、
不動産売買は量も多く、インフレで利ざやが稼げた。
現代のバブル景気の成金のように、
明治初期に土地売買を副業にしていた一葉の父も景気が良く、
その頃、一葉の家に訪ねて来た山梨の郷里の者に、
則義が金の延べ棒を見せて自慢していたという記録がある。

明治14年の政変 
     明治政府は近代国家への社会経済施設の整備
     武士への多額の退職金の支払などで貨幣の発行が急増していた。
     そのため明治初期の経済社会は急激なインフレ経済になった。
     この頃、大蔵大臣になった松方正義はデフレ政策に変更した。
   
明治17年頃の日本は不況が激しくなり、会社や銀行の倒産が多くなった。
   現在のバブル経済の破綻と同じような経済社会になった。

樋口家が貧しくなった理由①この頃から、父の副業もうまく行かなくなった。

明治20年  57歳の則義は警視庁を退職
明治21年6月59歳の則義は自ら荷馬車運送の組合設立に取り組む
  当時,開業した鉄道駅の近くに運送会社を作るという発想は悪くはないが
  当時のデフレ政策の影響を受けた経済情勢と
  一緒に事業を立ち上げた仲間が悪かったようだ。
明治22年2月59歳 荷馬車運送の組合設立事業は失敗に終わる。
明治22年7月    一葉の父則義は病没する。

樋口家が貧しくなった理由② 父の事業の失敗で多額の借金が残ったという。

第二、一葉の父の子供たちへの教育
    一葉の父は子供たちの教育に熱心だった。

①一葉の9歳年上の兄泉太郎の経歴
   樋口家では長男で頭の良かった泉太郎に期待する所は大きかった。
   しかし、病弱で明治17年1月結核療養のため熱海に出掛けた。
明治18年明治法律学校(現明大)に入学した。
   当時、大学進学は珍しいことである。
明治20年6月明治法律学校を中退して、大蔵省に勤める
同年9月 外出先で喀血
同年12月27日 死去 享年24歳

その頃、漱石の父夏目直克は警視庁で一葉の父の上司であった。
明治20年、夏目家でも漱石の二人の兄大助と栄之助を失った。

 漱石の兄・大助 安政3年(1856)~明治20年の経歴
明治12年  肺を病んで東京開成学校(東大)を中退
   同年2月 警視庁翻訳係に勤める       月給40円
明治14年(1881)1月 警視庁から陸軍省に転職 月給45円          
明治20年(1887)3月21日死去 享年31歳

夏目大助が警視庁の翻訳係に勤めていた頃、一葉の父も同じ職場にいた。
その頃、一葉には大助或は漱石との婚約話もあったという話がある。
兄樋口泉太郎の葬儀では夏目直克から香典50銭、という記録がある。

樋口家が貧しくなった理由③兄泉太郎の治療費が家計を圧迫した。

②一葉の教育
一葉は小さい頃から、本を読むのが好きな子だった。
一葉の父は一葉に沢山の読み物を買い与えた。
歌の才能もあったようだ。

ほそけれど人の杖とも柱とも
思はれにけり筆のいのち毛

一葉が小学校の頃に詠んだ歌だと妹邦子が書いている。
あまりにも出来すぎた歌であるが後に社会の底辺を見つめた
一葉の文学の萌芽が感じられなくもない。

一葉は母の反対で小学校を途中退学した。
女には学問はいらないと考えられた時代である。
学校を途中で止めたことはそれほど非難される事ではない。
一葉は家事の手伝いをしながら、
当時の花嫁修業である裁縫などを習ったが裁縫はあまり得意ではなかった。
そのような一葉を見ていた父は古典文学の素養をつけて、
将来、書や歌の先生として生計を立てさせようと考えるようになった。

当時の上流階級の令嬢達が通った「萩の舎」に和歌の勉強に行かせた。
14歳の一葉は源氏物語などの古典文学と和歌を勉強する機会が与えられた。
ここから、後に和文擬古文のような一葉の文体が生れる事になる。
又、萩の舎の同僚は一葉が作家になるための女性応援団になった。

最後に樋口一葉の生涯で一番裕福で幸福であったと思われる
時期と場所について書いておく。
それは一葉が4歳から9歳(明治9年4月から明治14年7月)までの5年間
本郷の東大赤門と道を隔てた法真寺の隣地に住んでいた時代である。

一葉の父は明治7年8月45歳の時
東京府知事から士族であつた代償として476円を受け取った。
内訳は家禄13石の6年分で米78石(右代金220円現金、250円公債証書)
その金とそれまでの蓄えとを加えて、本郷の法真寺の隣で
宅地230坪、建坪45坪の屋敷を当時の金550円で買った。

一葉が住んだ場所、現在の東京都文京区本郷5丁目26
法真寺の玄関前の、現在、駐車場になっている所である。
法真寺の境内には一葉記念館があり、
毎年、一葉の命日には「一葉祭」が開かれている。
http://homepage3.nifty.com/namm/index1.htm
http://www.kitada.com/keiko/ichiyou.html

一葉が住んだ本郷のお屋敷には大きな桜の木があったという。
晩年の一葉は、本郷の家を懐かしみ
自ら「桜木の宿」と命名して随筆に書いている。

「かりに桜木の宿といはばや、
忘れがたき昔しの家にはいと大いなるその木ありき,
狭うもあらぬ庭のおもを春はさながら打おほふばかり咲きみだれて、
落花の頃はたたきの池にうく緋鯉の雪をかづけるけしきもをかしく
松楓のよきもありしかど、これをば庭の光りにぞしける。」
    晩年の手記から  雑記「詞がきの歌」より

法真寺は関東大震災にも、東京大空襲にも焼け残ったという。
一葉が見たままの山門が現在も残り、
一葉が小説「行く雲」の中で
「腰ごろもの観音さま、濡れ仏にておはします御肩あたり、
膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて、
前に供えしシキミの枝につもれるもおかしく」と書いた。

腰ごろもの観音さまは現在、本堂の左脇に置いてある。
本堂の前の桜は里桜(普賢象)なので4月中旬、花開いている事であろう。
花びらが観音様の膝のあたりに、はらはらとこぼれている事であろう。
                            以上


塩山市「慈雲寺の垂れ桜」

2005年04月15日 | 文学
一葉と桜1塩山市「慈雲寺のシダレザクラ」

 大菩薩峠に近い、山梨県塩山市の「慈雲寺」には
樹齢300年以上の見事な枝垂桜がある。
 今から、160年前、小説家樋口一葉の両親は
この寺で農閑期に開かれていた寺子屋で学んでいた。
 160年前、この枝垂れ桜は樹齢150年を超えていたから、
二人が出会った頃も、江戸への駆け落ちに悩んでいた時も
現在と同じように美しく花開いていたに違いない。
そして、東京に住んでいた一葉の両親は折に触れ、
故郷の枝垂れ桜の美しさを子供に語ったのではないだろうか。
 大正5年(1916)一葉の妹邦子が先祖の墓参りをした時、
邦子と故郷の人の間で、一葉の記念碑を建てる話が出た、
樋口家の菩提寺は同じ村の法正寺なのに、
大正11年(1922)10月、慈雲寺境内に、一葉の記念碑が建てられた。
昨年、慈雲寺境内に又新しく記念碑が建てられた。

山梨県塩山市「慈雲寺」の枝垂れ桜
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/jiunji/index.htm

 樋口一葉の父(大吉)は山梨郡中萩村(現塩山市)の
重郎原の農家樋口八左衛門の長男として、
天保元年(1830)年11月28日に生まれた。
 一葉の母(あやめ)は同じ中萩村の青南組で地主格の農家
古屋安兵衛の長女として、天保5年(1834)5月14日に生まれた。
(江戸時代、農民は原則として姓を名乗らなかったが記録は残っている)
 
 その頃の日本の出来事
嘉永6年(1853)6月3日 ペリー提督が浦賀沖に来航
安政元年(1854)4月   日米和親条約12か条を調印
安政2年(1855)11月   江戸は安政の大地震
安政3年(1856)3月   それまでの洋学所を蕃所調所と改称した。
           蕃所調所は幕府直轄の西洋学術学校で、
           幕臣の子弟を集めて外国語を学ばせていた。
           萩の舎の一葉のライバル田辺花圃の父が勤めていた。
           勝海舟、村田蔵六(大村益次郎)、西周等が籍を置き、
           福澤諭吉も蔵書の閲覧のため一日在籍した事がある。
           後に江戸に来たハリス一行と会議する場所にもなった。
           同郷の先輩真下専之丞が蕃所取調役として勤めていた。
           一年後、江戸に出てきた一葉の父大吉が真下の世話で、
           小使として、最初に勤めた所でもある。
           大吉が勤めた頃、ハリス一行が江戸に来ていた。

    同年   9月    米総領事ハリスが伊豆下田着任した。

 今から150年前、安政4年(1857)旧暦4月6日
村一番の秀才であった一葉の父大吉(26歳)は
自らの蔵書150冊を売り3両の金を工面,
村一番の器量良しと言われた、妊娠8ヶ月のあやめ(23歳)を連れて、
両親に無断で故郷の村を棄てた。
 二人は追手を逃れて、通常の青梅街道で江戸に出る事を避け、
御坂峠を越え、川口吉田から小田原に抜けた。東海道を東に、
藤沢の遊行寺、鎌倉、川崎大師、羽田弁天にお参りしながら、
村を出てから7日目の4月13日に
郷里の先輩真下専之丞を頼って、江戸に着いた。

 一葉の両親が村を捨て、江戸に駆け落ちをした理由について、
つぎのような事が考えられる。

理由1、母方の親が二人の結婚に反対した。
 ①母方の家は地主格の農家で両家の家格が違っていと考えた。
 ②両親はあやめが村一番の器量良しであるから、大吉の家より
   もっと良い家に嫁に行けると考えていた。
 ③樋口家は代々、らい病や結核の家系であったという。
 ②一葉の祖父八左衛門は嘉永4年(1851)村で水争いが起きた時、
   百姓惣代として、江戸に行き、老中阿部正弘に駕籠訴し、捕まった。
   その為、半年間、江戸、小伝馬町の牢に投獄された後に無罪になる。
   理由が如何であれ、大吉は投獄された人の長男であった。
 ③ 大吉は江戸に出る時、蔵書150冊を売り、3両の金を工面している。
   大吉は生来農を好まず、寺子屋では秀才で読書好きであった。 
   投獄された祖父も、学問好きで漢詩や俳句を嗜んでいた。
    母方は畑仕事に熱心でない父方の家風を嫌ったのではないか?
    これは明治になってからの話であるが
    一葉は学校の成績が良かったのに11歳、高等科4級で退学した。
   父親は一葉を進級させようとしたし、一葉も進級を希望していたが、
   母の「女に学問はいらない」という強硬な反対で進級できず、
   学業を途中で止めさせられた。
    (後に小学校中退という学歴は一葉を苦しませた。)

理由2.父方は大吉の江戸行きをそれほど反対ではなかったのではないか?
   一葉の祖父八左衛門は同郷の同輩益田藤助(真下専之丞)が
   江戸に出て、幕府直参にまで出世したのがうらやましかった。
   その夢を寺子屋で成績の良かった長男大吉に託したのではないか。
   小さい時から、江戸に出て、侍になれと父に言われていた。

理由3.一葉の母あやめが妊娠してしまった。
     村に居ずらくなったあやめが大吉に江戸行きをけしかけた。

    (両親の駆け落ちという苦い思い出は一葉の結婚観にも影響している。)


歌舞伎講座「花の会」のお知らせ

2005年04月14日 | 歌舞伎
「花の会」のお知らせ
2005年第Ⅱ期スケジュール
  日時 原則:木曜日 午後2時~4時
  場所 原則:世田谷区区民センター
          世田谷区南烏山
          京王線 千歳烏山駅北口1分
      
4月7日(木)午後2時~4時
     「絵で読む歌舞伎の歴史」
             講師 千葉大学名誉教授 服部幸雄氏
             会場 烏山区民センター

4月21日(木)午後2時~4時
      「こんぴら歌舞伎」
             講師 歌舞伎研究家 金森和子氏
             会場 烏山区民センター

5月12日(木)午後2時~4時
      「中村勘三郎襲名について」
             講師 松竹プロデュサー 岡崎哲也氏
             会場 粕谷区民センター

5月19日(木)午後2時~4時
      「江戸の判じ絵」
             講師 煙草と塩の博物館 学委員
                           岩崎均史氏
             会場 烏山区民センター

6月16日(木)午後2時~4時
      「座元の家々」
             講師 国立劇場芸能部次長
                          石橋健一郎氏
             会場 未定

7月14日(木)午後2時~4時
      花の会20周年記念講演
         「世界に羽ばたく歌舞伎」
             講師 早大名誉教授 河竹登志夫氏
             会場 烏山区民センター

会費 第二期分会費 4000円
              (単独受講は900円)

   お問い合わせ
       メール nmwtg303@ybb.ne.jp 長谷川まで








梅と桜

2005年04月13日 | 
歌舞伎舞踊の「京鹿子娘道成寺」は
桜が満開に咲いている、道成寺の鐘の供養の日に、
安珍に捨てられた清姫の亡霊が
美しい白拍子花子となって現れ、
踊りを所望し、踊っているうちに次第に本性を表し
大蛇となって、再び鐘に飛び込んでしまうという踊りです。

「京鹿子娘道成寺」の中間で筋とは全く関係なく、中休みのように
「梅とさんさん桜は、いずれ兄やら弟やらわきていわれぬぇ・・・」
と赤い振出笠(仕掛けで三段に変化する笠)を持って踊る
通称「梅さん」という笠踊りがあります。
歌詞は梅の花と桜の花は区別がつかないと言うのです。
(見に来ているお客様を区別は出来ないという意味)

京鹿子娘道成寺の踊りの映像のHP
http://www.hinokinokai.or.jp/appreciation/20000807.html

梅の花と桜の花、それに桃の花と桜の花、
これを間違える方が時々おられます。
先日も「近所の桜が咲いた」と
梅の写真を送ってこられた方がありました。
植物園などにお花見に行くと
桃の花を「桜の花」と間違える方がけっこうおります。

ここで簡単な梅と桜の花の区別の仕方をお伝えします。
桜の花と梅の花を区別する時、
それぞれの果実の形を思い出してください。

サクランボやリンゴには「枝」がついています。
梅や桃には「枝」が付いていません。

リンゴや桜の花には「小花柄(しょうかへい)」という
「枝」が付いて咲いています。
梅や桃の花には「小花柄(しょうかへい)」がなくて
幹に直接に咲いています。

まとめるとバラ科の花のなかで区別する方法は
バラ、梅、杏,桃、ビワの花や実には枝が付いていません。

各花の比較は下記のブログを見てください。
写真付きでとてもよく纏まっています。
http://www.geocities.co.jp/Outdoors-River/9356/ume.html


桜、梨、リンゴ、カイドウ、の花には
「小花柄(しょうかへい)」(枝)がついております。
後は葉の形でそれぞれの種類を区別するのですが
これで大体区別できます。
それに桜の幹にだけ美しいヨコシマがあります。
茶筒など秋田の民芸品に桜の皮が張られています。
これも桜と他の花木と区別する基準になります。
桜守