日々の思い

日常の出来事、思いを書き続けて、自分を見つめて行きたいと思っています。

同窓生

2013-02-28 10:25:21 | 日記
人生の海の嵐に もまれ來しこの身も 不思議なる神の手により 命拾いしぬ いと静けき港に着き われは今安ろう 救い主イエスの手にある 身はいとも安し(新聖歌248番) 

昨日は今年の小学校同窓会の幹事4名が、伏見の料亭に集まりました。3年前にも幹事やったのにまた!今回はリーダーは別のK君がやってくれるので、まぁ楽か。

ここの料亭は以前の方がやったので、みな来やすいでしょう。案外安くて、経費としても楽かもしれない。小さいけどなかなか洒落た部屋に案内され、雑談に花が咲く。Mさんのみ卒業した小学校の区域に住んでるけど、他は大津や京都市、私は宇治市。話ばかりして、肝心の計画がなかなか出来ない。

5月が実施日で料理はこれ。役割はK君が往復はがき。私が住所録。Mさんが席の係り。U君が案内。何とか決まった。

昨年、出身地の男子2名が無くなった。また賑やかなYちゃんが癌の転移があって、直る見込みが難しいらしい。悲しい。
誰はどう、かれはどう、と話は尽きない。他の話に飛び、お寺の坊さんが祇園で芸妓、舞子と遊んでる、と言う話で、驚く。京都市のお寺の坊さんは収入がワンサカあって以前から聞いてはいます。こんな田舎のお寺まで!?ある人が祇園の道で坊さんが芸妓、舞妓を連れて歩いてるのにバッタリ会ったとか。またその寺で餅つきがあり、その時芸妓、舞妓が来て、奥さんの顔が急に怖くなった、とのこと。そして信徒の数人も怒って帰ったとか。あの坊さんがとは思う。税金が無税なのでお金があって仕方ないのでしょう。アー教会は牧師は月給で、税はバッチシ払ってられるし、薄給。えらい違い。いや怖い。宗教を隠れ蓑で儲けるとこが多いかも?

2次会にコーヒー店へ。他の同窓生も色んな人生。噂話の好きなMさん。よく知ってる事。私は余り噂話に興味はないので、また教会ではめったに話さないので、久し振りに耳にする。噂話でその人の人生が解るしいいか。何はともあれ、元気で何とか生かされて来て良かったと思える。

自分の命

2013-02-24 21:36:15 | 日記
わたしが世にいる間、わたしは世の光です。(ヨハネの福音書9章5節)

毎日よく冷えるし寒いな、と感じる。間もなく3月で、梅の花も咲いてるはずが今だ咲いていない。庭には確かに山野草のミスミ草は咲いて来た。実に可憐な花でほっと癒される。

同窓会の打ち合わせと試食の電話があった。2年前に幹事をしたのに何故また?と思うけど、それだけ元気な人が少なくなったのかな。高校なんて全国に散らばってるのでもう7年はクラス会はやっていない。小学校は近くに住んでるので集まりやすいのでしょう。

昨年二人の同窓生がこの世を去った。教会のまだ私より若い人が急に天に昇った。自分の命なんて神の手の中だから、全く解らないけど、10年や20年は瞬く間に過ぎる。今まで、教会で何度も死について学んで来たが、切実に心の準備をしなくてはいけない。

今まで、漠然と準備はしたけど、切実にはしてなかったかも知れない。昨夜息子に大方は片付けてるけどどうやろう?と言ったら、そんなの何とかするから大丈夫、という。そういった目の前の事は何とかなるでしょう。

問題はいざとなればどうして、死を受け入れられるだろうか。そういう状態になれば、生への未練を捨て、本当にイエス様を見上げ、天の希望だけを望んで、この身をお任せしたい。そして体の苦しみを主の十字架の苦しみを思い耐えられる様に祈りたい。この世の未練は一切無い。

この体もこの心も全てイエスキリストに任せ、真っ直ぐ天の御国に託し、永遠の命の約束があるから、喜びを持って、最後を迎えたい。

集い

2013-02-20 08:47:57 | 日記
それから、たらいに水を入れ、弟子達の足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。(ヨハネの福音書13章5節)

昨日は我が家で月1度の家庭集会でした。用事で休む方もありましたが、また違った方を送って下さって、家庭集会に丁度良い人数と牧師先生が来て下さり、良い学びと楽しい交わりの時が与えられました。

足を洗う、、、当時のイスラエルは何処でもですが、埃っぽく、汚い環境。足は最も汚れ、臭い。イエス様は弟子の最も汚い足を洗われた。弟子達は恐縮し、緊張するが、この事も後で解ります、と主は言われる。

どの事を指すのでしょう。人の最も汚いところまで主は愛される、という事です。そしてその模範を示され、その御手本を示された訳です。私達もお互いに足を洗いあって、その御手本に習いたいですが。
愛の無い人間。でも主は人間の罪からの解放という、十字架の愛により、私達も救われ、主の愛の中に過ごさせて頂いている。本当に愛のお手本に少しでも習いたいものです。

メッセージの後はテイタイム。何とある姉妹が大きめのおはぎ一人当たり2個。そして先日に伊勢丹で買った、バウムクーヘン(抹茶と柚子入り)、果物といういつもと違い豪華版のデザート。手作りのおはぎはやはり美味しい!棚からぼたもちとはこの事です!

話題にも花咲き、楽しい時と交わりを過ごせました。午前、宇治田原に積雪があると解ってたのですが、残念ながらこれは行けなかったです。でも余りある至福の時でした。午後宇治田原へ行けば山は少し雪だけど、平地は無くて、何も撮らず帰りました。

写真展へ

2013-02-16 20:59:09 | 日記
彼はこう言った。主、わが力。私は、あなたを慕います。主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。 (詩篇18篇1~3 節)


今日はカメラマンの仲間が京都駅の美術館へ集まり、フランスの有名な写真家ロベール、ドアノーの展示会へ集う事が出来ました。生誕100年記念で、戦時中、戦後のパリの街を隈なく人々の生活を描写しています。作品全体に愛を感じます。20世紀という時代を表現してられると感じます。

また生活感が満ち溢れ、スナップの原点に感じ、私には学ぶべきものが多く有意義でした。スナップ、、、慣れない世界ですが、本当は街中へ出かけ、生活感のあるショットを撮りたいですが、肖像権等の問題、大都会に行けないし、歩き、良い場面に出会えるのは、やはり何回も出かけ、充分知ってる必要があるでしょう。風景や花とは視点を変えないといけないでしょう。構図は同じでも、人を入れるには早い操作も必要と思えます。私には田舎のスナップを探すのがせきの山かな。

ドアノーの作品で印象的だったのは、戦争中、地下鉄の駅で空襲警報が鳴り、人々が固まって伏せてる情景が緊迫していました。またエデイットピアフの舞台で、真っ黒の中スポットが当たるピアフを左隅に小さく配置し、作品を印象つけていたのや、何気ない犬と道歩く人が普通のパリの生活感があって良かったです。私が日頃撮る世界と違う面白さもあります。

こういった外国の方の写真展を見れるのも、ネットの中に入り込んだ御縁。これは凄く感謝しています。皆で食事して親交を暖めました。いつも車で京都へ行きますが、めったに乗らない電車に乗れ、電車も色んな人々に出会えこれもこの頃珍しく感じられ不思議です。


浅春

2013-02-12 18:33:09 | 日記
「今や私は、きょうでもう85歳になります。しかもモーセが私を遣わした日の様に、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。(ヨシュア14:10~12)

昨日の集会で、I兄が喜寿の祝いを子供や孫が集まり、食事会をされたお証をして下さった。その席上、長男さんが神様から示された聖書の相応しい言葉の披露です。ヨシュア記からです。イスラエルの民がエジプトでの奴隷生活からモーセによる先祖の地、イスラエルに45年かけて砂漠を彷徨いようやくイスラエルの地に近くなりました。もうヨシュアの代になった時の事です。他のイスラエル人は強い民族が住んでる地を通るのを怖がったが、ヨシュアは勇気があり、神様に祈り、その地を超え、今のイスラエルという先祖の地を取り返す事が出来たのです。上の御言葉はその時の祈りの言葉です。

喜寿となれば、体力気力も落ちて来て、やる気を無くすが長男さんは、出来る限り命が与えられてるのだから用いられるように、と励まされたのだと思います。

命は解らない。先日急に天に召された姉妹もありました。I兄の3男はあと半年の命と宣言されたのに、16年になるけどこの頃よく肥えて、頗る元気。病気をした人に見えない。教会の役員もして下っている。手術をしても半年。しなくても半年。本人にどうするか?と問われ、「やって下さい。」と宣言。胃から下お腹が空になる程摘出された。「僕程、多くの人に祈られてる者はいない。」と言ってられたものです。

今朝は宇治川縁の小さな花の寺恵心院へ行きました。やっと行けた!というのが現実です。水仙は遅かったかな?侘助は1本の木が綺麗でした。蝋梅も多く咲いている。風景的には撮れない狭さですが、日の光も暖かく、汗ばむ程。もう早春かも、、、淡い色の花と淡い緑で何か希望が湧いて来ました。春はもう近い気がします。そう、どんな絶望の思いの方もあるでしょうが、希望を忘れないで欲しいです。私も自分に言い聞かせています。


試練

2013-02-10 15:25:58 | 日記
 試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。 (ヤコブの手紙1:12)

私の子供達の頃は子供数が極端に多く、京都の高校から大学に入れないと言われてました。全国的に大学の数より生徒数が多すぎて、受け入れられなかったのです。それが過ぎ大学数が多く、生徒数が少なくなってゆき、今では選ばなければ殆どの生徒が入れる様です。しかし1家族の所得額が少なく、私学は親の負担は大変でしょう。

孫は昨年3月に目的の為、塾に入り難関の教育大付属中学を目指す、といって塾へ行きかけました。殆どの中学受験の子は4,5年生から行くのに遅いのではと思うのですが。何とか通い、解ってる問題を良く見ないでペケになってしまう癖があり駄目では?と思ってましたが、11月から急に合格点まで伸び、少し希望が出て来ます。更に伸びたので1月に受験。ここは苦手な音楽まであって不合格。

2月に受けた学校は元々自信があり、現実にスラスラ解けて、作文も得意な分野。音楽は無い。満点に近いかも、と思っていたのに不合格。家族皆ショック!おまけに結果の得点が、塾でも取った事の無い低い点数。これは間違いでは?と疑うのですが、不可解でも仕方ないです。見直しもよくして提出した試験でしたが。大人しく優しい子ですが、クラス委員もやって、前に立って話すのは全く緊張しない性分なんです。祖母や親は緊張して仕方ないのに、、、勉強が特別出来る子では無かったけど、今まで父母の愛を受け、挫折した事がない子なので、神様からの愛の試練でしょうか。10か月の塾生活でしたが、よく頑張った事を褒めてやりたい。

今の教育現場は解らないし、私の子は出来が悪く、そんな難関の学校も受けなかったので、ネット友が教師の経験豊富な方だ、と思いメールで尋ねる。また夫は孫が落ち込んでるし心配や、と言うものですから。

中学入試で失敗した子が公立へ入って来る子も多くなった。でもそいう子は必ず学習を頑張って、次の高校を目指すので心配する事は無い。人生はこれからです。高校大学と門は広がります。唯難関の高校は学校だけの勉強では無理で、やはりしっかりした塾に入るのが大切、と言って下さって、慰められました。これも神様から与えられた試練でしょう。今日の礼拝も明るく参加してました。試練はまた益となります。神様に委ね、試練を乗り越えて欲しいものです。

病気

2013-02-07 21:30:45 | 日記
 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。 (ローマ人への手紙5:35

年と共に色んな体に異常が起きてきます。私は黄斑変性症が1番気になる異常でしょうか。その他にも少しの異常が数個。でも元気に過ごせるのだから、幸せと思っています。

今日はH病院へ眼科の検診に3か月振りに行きました。眼科に凄い人気の病院ですから、9時からの予約でも7時に病院へ着いて、番号カードを取、8時に点呼。機械に診察券を入れます。そして診察室へ。その診察室も15部屋はありそう。患者はエスカレーターの傍まで椅子が並ぶ事もあります。

9時頃来れば順番が段々遅くなり、午後1時頃やっと終わるでしょう。だから早朝家を出て、カードを取、カフエでお茶を飲んで待つのがベスト。幸い夫が車で着いて来てくれるので、大変助かります。両眼瞳孔を開く眼薬をして検査ですから、帰りは眩しくて、バス、電車に乗るので、危なくて仕方ない。

御所にも近く、加茂川は清い流れ、比叡山も見え、眩しくなければカメラ持参で行きたいけど、とてもそんな事は無理です。加茂川には鳥がいて面白いですが。

今日の結果は少しづつ良くなって、また3か月後の診察で良いとのこと。結果が解るまではやはり心配です。難病ですから。今のところ直る見込みは無いです。進行を遅らす事は出来ます。これも早く発見出来た人は軽い症状で、私は少し発見が遅かったです。でも両眼の人もあり、また片方でももう片方は緑内障の方もあって、千差万別。

山中教授のIPS細胞でこの病気を癒す手段がありそうですが、いつ実用化されるか解らない。気長に待ちましょう。

同じ思いの人

2013-02-05 10:49:04 | 日記
人の歩みは主によって定められる。主は行く道を喜ばれる。たといその人が倒れても、全く打ち伏せられることはない。主がその手を助けささえられるからである。(詩篇37篇23,24節)

晴れ渡り、それでも寒い冬の日の今日です。友人から頂いた元精神科医、工藤信夫先生の著書を読んでいます。眼に病のある私はめったに本は読まないですが、手持ちブタさで読みかけ、私と同じ思いだ!と感慨深い思いに落ちました。

先生のセミナーを数回受けたこともありますが、証は余り聞いてなかった。東北の医大の学生の時、世界は何処かでいつも戦争がある。歴史学の教授に「人々は世界平和を願っているが、破壊と戦争の声を聞かぬ日は無い。そういった争いが続く歴史が何を教えてるのかを講義するのが、歴史学の目的ではないか。」と詰め寄ったと言われる。その教授は「君より頭の良い人間がいてもどうにもならないのだから、問題は簡単では無い。」と言われた。なかなか明瞭に答えられる人は極少ないと思います。

癌に侵され死んだ若い女性の解剖に立ち会い、自分も死に行く人々に接する医者になるのだから、どんな場面に接しても、揺らぐ事の無い信念を持ちたいと思ったとのこと。文学、哲学、宗教書を読みあさった。そして生きる意味や力を自分のものとして見出せない限り、落ち着けない、と思ったとのこと。(私も先生とは能力が雲泥の差ですが、同じ思いでした!)

教会へ行ったがどうもイメージと違ったらしい。しかし再び訪ねたら「天のお父様。」と言えた。それがキリストとの出会いでした。そして上の言葉が心にしっかりと響き、受け入れられた。それまで自分の道は自分が決めるものと思っていた。その後、精神医学を専攻も、結婚相手、子供も祈りの内に決断した。

その後先生は関西で医師として活躍され、晩年は大学教授や、また後援会等多くの与えられた仕事をやって来られた。一人一人賜物は違う。どうしてこの道だろう、と疑う事もありますが、後でそうだったのだ、これが主が導いて下さり、苦しかったけど、乗り越えさせて下さったのだ!と思える事態はいつも示されています。


ボャーとするのが好き。

2013-02-01 12:54:22 | 日記
平安の内に私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。(詩篇4篇8節)

自分の部屋で一人椅子に座り、ボヤーとするのが大好きです。これ程心地良いものはなくって、こういう時間が無いと生き甲斐が無いと思えます。反面実にグータラだなぁ、と思えるし、グータラな人間に生まれて来たのでしょう。

小さなテレビがありますが、これまたボヤーと見るのが大好き、と来ます。何処までもグータラ。近頃のテレビは放送局はやたら多いけど、好きな番組がないなぁ、と思えます。名作のドラマが好きだけど、なかなか無くて、料金別払いの放送局は映画が多いので良いのでしょうか。

ドラマはやたらサスペンスが多く、そして京都を舞台にしたのが多く、何で京都ばかりが殺人事件が多いの?と問いたい位。以前は犯人は大体解って来るけど、最近は予想外の人が犯人で、頭がゴッチャになりそう。

前日に脳みその足りない頭を使って、精神を使って、という日だと更にグータラとしたくなって、実にボヤーとしている。長い撮影に行き、体力を使っても次は我が部屋でこのボヤーの時間になる。これをしないと病気になるような、、、

だから私は人から見てもボヤーとした人間でしょう。ボヤーが大好き人間。どうしようもありません。
今日は珍しく暖かい冬の日。庭の山野草の蕾が出て来たものもあります。盆栽の梅も蕾はあります。春が近くなった様に感じますが、まだまだそうはいかないでしょう。でも早く来て欲しいです。