それにしても、ヨブと三人の慰め手の討論は首尾一貫して励まされないですね。ただ、ヨブの発言の内の最初の言葉、「わたしたちは[まことの]神から良いことだけを受けて,悪いことは受けないのだろうか」(2:10)と、最後の言葉、「わたしは息絶えるまで,自分の忠誠を自分から奪い去らない!」(27:5)だけは、燦然と輝いています。
一体、どこが悪いのでしょうか。間違いないことは、60年代の「塔」の記事にも何度か指摘されていますが、ヨブが受けた災難が、神からの罰であったという前提で話が進められているということでしょう。
単純な勧善懲悪の倫理観でヨブを裁いているエリパズたちは、全くの大間違いでした。たとえば、「いくらヨブに多少の罪があったとしても、愛ある全能の神が、こんなことをなさるだろうか」とか、「『神をのろって死ね』と言った妻こそ背教者なのに、その妻は元気で、忠誠を保とうと決意しているヨブが死にそうなのはおかしくないか」といった話題が一切聞かれなかったのは、彼らが真の神を知らないことを証ししているように思えます。
一見、エホバを最高度に高めているようで、実は、エホバはヨブなど虫けらのようにしかご覧になられていない、といったような発言で、エホバを誤り伝えて恐ろしく低めているのは、いかにもバビロン的ですね。
一方、ヨブに関しては、どのように応対すべきだったのでしょうか。「どこが悪いのか私に答えよ」と挑戦的になってしまったのは、確かにまずかったでしょう。これも、たとえば、「わたしには思い当たるとがは浮かびませんが、どこか神の不興を買う点があったのであれば、お許しください」とか、「私には理解できませんが、すべてはあなたがお許しになっている事ですから、忍耐する力をお与えください」とか言えれば良かったのでしょうかね。
一体、どこが悪いのでしょうか。間違いないことは、60年代の「塔」の記事にも何度か指摘されていますが、ヨブが受けた災難が、神からの罰であったという前提で話が進められているということでしょう。
単純な勧善懲悪の倫理観でヨブを裁いているエリパズたちは、全くの大間違いでした。たとえば、「いくらヨブに多少の罪があったとしても、愛ある全能の神が、こんなことをなさるだろうか」とか、「『神をのろって死ね』と言った妻こそ背教者なのに、その妻は元気で、忠誠を保とうと決意しているヨブが死にそうなのはおかしくないか」といった話題が一切聞かれなかったのは、彼らが真の神を知らないことを証ししているように思えます。
一見、エホバを最高度に高めているようで、実は、エホバはヨブなど虫けらのようにしかご覧になられていない、といったような発言で、エホバを誤り伝えて恐ろしく低めているのは、いかにもバビロン的ですね。
一方、ヨブに関しては、どのように応対すべきだったのでしょうか。「どこが悪いのか私に答えよ」と挑戦的になってしまったのは、確かにまずかったでしょう。これも、たとえば、「わたしには思い当たるとがは浮かびませんが、どこか神の不興を買う点があったのであれば、お許しください」とか、「私には理解できませんが、すべてはあなたがお許しになっている事ですから、忍耐する力をお与えください」とか言えれば良かったのでしょうかね。