みことば:「そこで、千人隊長が(パウロに)応じた、『私はかなりの金額を払って、この(ローマ)市民権を手に入れたのだ』。パウロは言った、『私は生まれながらのローマ(帝国の)市民です』22章28節 岩波訳
ユダヤ人の暴徒たちの手からローマ兵たちによって救い出された使徒パウロは、それでも諦めずに最後の最後までユダヤ人たちに弁明、証ししたことを先週学びました。クリスチャンたちを迫害していた者がイエス・キリストに出会って、まったく新しい人へと変えられ、キリストの福音を力強く語る者となったということを告白するのですが、ユダヤ人たちはパウロが「行きなさい。わたしがあなたを遠く異邦の民へつかわすのだ」と主イエスがおっしゃったと聞いて怒り心頭となり、大声で「こんな男は地上から取り除いてしまえ。生かしておくべきではない」と叫びだし、パウロに襲いかかろうとします。
何故ここまで使徒パウロはユダヤ人たちに嫌われたのか。それはパウロの心が柔らかく、広く、深かったからです。神様の愛、キリストの福音はユダヤ人だけでなく、すべての人々に注がれているとパウロは信じていたからです。ユダヤ人たちはパウロの心の広さが気に食わなかったのです。これは何を物語っているのか。当時の情勢は、ユダヤ人たちのナショナリズム・愛国心が高まっていた最中でした。パウロはユダヤの律法を疎かにしていた訳では決してありませんが、ユダヤ人たちの目には律法を軽んじていると映ってしまったようです。しかし、究極的には、ユダヤ人の心は頑なで、狭く、傲慢であったということです。ですから、命は神から等しくすべての人に与えられているのに、「こんな男は地上から取り除いてしまえ。生かしておくべきでない」と気が狂ったかのように叫ぶのです。
私たちの心はどうでしょうか。問うてみたいと思います。そして、イエス様の心はどうであったかを聖書から聞いてゆきたいです。イエス様の心と愛は、特に世の中で蔑まれている人々、この世の隅に追いやられている人々、弱っている人々、小さくさせられている人々に豊かに注がれました。私たちの心は、何に注がれているでしょうか。わたくしたちもこのアドベントの期間、心を柔らかくされてゆきたいと願います。頑なで、狭く、傲慢な心には主イエス様の愛が宿る余地はないのです。
パウロは、心頑なユダヤ人たちに再度襲われそうになりますが、またここでもローマ兵たちによって命が守られます。しかし、今度はこのローマ軍の千卒長からパウロは尋問を受けることになりました。しかし、普通の尋問ではありません。ローマの尋問のスタイルは、むち打ちによるものでした。パウロは近くに立っている千卒長の部下である百卒長に訴えます。「ローマ市民たる者を、裁判にかけもしないで、むち打ってよいのか」と。パウロは、自分はローマの市民であり、市民としての権利を持つ者であると主張します。聖書には、パウロの祖先がユダヤ人であるにも関らずどのようにローマ市民権を得たのかは記しません。ある神学者は、幕屋づくりがローマ軍の遠征などに必要であって、そのような職人たちに市民権を与えたのではと考えています。どちらにせよ、パウロは自分がローマ市民であると主張します。パウロは二重国籍であったのです。神様は、本当に不思議なことをなさいます。当時の常識では考えられないことを備えておられたのです。この時にために主が事前に備えて下さっていたということでしょう。ここから学べる事は、たとえ私たちが人生の危機に陥っても、神様は常識を遥かに越えた備えをもって、私たちを守り、救い出して下さるということです。主を信じて、主に従う者に救いはあるのです。
千卒長は、「わたしはローマの市民権を、多額の金で買い取ったのに、お前のようなユダヤ人がどうして?」と言わんばかりです。すべてはお金ではないのです。すべては神様の愛とお取り計らいであることを覚え、主に感謝しましょう。
現代は、お金を積めば市民権を買える時代なのかもしれません。しかし、それは裕福な人だけに限られた差別です。日本にも二重国籍の人も多くいますでしょう。しかし、国籍の無い人がこの日本にも、世界中にも多く存在し、国外退去命令がいつあるか分からないと身を潜め、不安と恐れの中にあることを覚えましょう。また、貧しい人たちが多くおられます。ハンディーを持った人たちがたくさんおられます。目に留められないような孤独な人たちがおられます。そのような人にイエス様はどのように関っていかれるでしょうか。イエス様の心は。このアドベントの時、イエス様の心は誰に注がれるかを祈りつつ求めてゆき、示されたままに歩みましょう。
週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
主に在りて
大久保教会 牧師 河野信一郎
ユダヤ人の暴徒たちの手からローマ兵たちによって救い出された使徒パウロは、それでも諦めずに最後の最後までユダヤ人たちに弁明、証ししたことを先週学びました。クリスチャンたちを迫害していた者がイエス・キリストに出会って、まったく新しい人へと変えられ、キリストの福音を力強く語る者となったということを告白するのですが、ユダヤ人たちはパウロが「行きなさい。わたしがあなたを遠く異邦の民へつかわすのだ」と主イエスがおっしゃったと聞いて怒り心頭となり、大声で「こんな男は地上から取り除いてしまえ。生かしておくべきではない」と叫びだし、パウロに襲いかかろうとします。
何故ここまで使徒パウロはユダヤ人たちに嫌われたのか。それはパウロの心が柔らかく、広く、深かったからです。神様の愛、キリストの福音はユダヤ人だけでなく、すべての人々に注がれているとパウロは信じていたからです。ユダヤ人たちはパウロの心の広さが気に食わなかったのです。これは何を物語っているのか。当時の情勢は、ユダヤ人たちのナショナリズム・愛国心が高まっていた最中でした。パウロはユダヤの律法を疎かにしていた訳では決してありませんが、ユダヤ人たちの目には律法を軽んじていると映ってしまったようです。しかし、究極的には、ユダヤ人の心は頑なで、狭く、傲慢であったということです。ですから、命は神から等しくすべての人に与えられているのに、「こんな男は地上から取り除いてしまえ。生かしておくべきでない」と気が狂ったかのように叫ぶのです。
私たちの心はどうでしょうか。問うてみたいと思います。そして、イエス様の心はどうであったかを聖書から聞いてゆきたいです。イエス様の心と愛は、特に世の中で蔑まれている人々、この世の隅に追いやられている人々、弱っている人々、小さくさせられている人々に豊かに注がれました。私たちの心は、何に注がれているでしょうか。わたくしたちもこのアドベントの期間、心を柔らかくされてゆきたいと願います。頑なで、狭く、傲慢な心には主イエス様の愛が宿る余地はないのです。
パウロは、心頑なユダヤ人たちに再度襲われそうになりますが、またここでもローマ兵たちによって命が守られます。しかし、今度はこのローマ軍の千卒長からパウロは尋問を受けることになりました。しかし、普通の尋問ではありません。ローマの尋問のスタイルは、むち打ちによるものでした。パウロは近くに立っている千卒長の部下である百卒長に訴えます。「ローマ市民たる者を、裁判にかけもしないで、むち打ってよいのか」と。パウロは、自分はローマの市民であり、市民としての権利を持つ者であると主張します。聖書には、パウロの祖先がユダヤ人であるにも関らずどのようにローマ市民権を得たのかは記しません。ある神学者は、幕屋づくりがローマ軍の遠征などに必要であって、そのような職人たちに市民権を与えたのではと考えています。どちらにせよ、パウロは自分がローマ市民であると主張します。パウロは二重国籍であったのです。神様は、本当に不思議なことをなさいます。当時の常識では考えられないことを備えておられたのです。この時にために主が事前に備えて下さっていたということでしょう。ここから学べる事は、たとえ私たちが人生の危機に陥っても、神様は常識を遥かに越えた備えをもって、私たちを守り、救い出して下さるということです。主を信じて、主に従う者に救いはあるのです。
千卒長は、「わたしはローマの市民権を、多額の金で買い取ったのに、お前のようなユダヤ人がどうして?」と言わんばかりです。すべてはお金ではないのです。すべては神様の愛とお取り計らいであることを覚え、主に感謝しましょう。
現代は、お金を積めば市民権を買える時代なのかもしれません。しかし、それは裕福な人だけに限られた差別です。日本にも二重国籍の人も多くいますでしょう。しかし、国籍の無い人がこの日本にも、世界中にも多く存在し、国外退去命令がいつあるか分からないと身を潜め、不安と恐れの中にあることを覚えましょう。また、貧しい人たちが多くおられます。ハンディーを持った人たちがたくさんおられます。目に留められないような孤独な人たちがおられます。そのような人にイエス様はどのように関っていかれるでしょうか。イエス様の心は。このアドベントの時、イエス様の心は誰に注がれるかを祈りつつ求めてゆき、示されたままに歩みましょう。
週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
主に在りて
大久保教会 牧師 河野信一郎