みことば:「兄弟たちよ、・・・。(わたしは)死人の甦りの望みを抱いているために、裁判にかけられているのです。」23章6節 岩波訳
パウロが同胞のユダヤ人たちに執拗に訴えられるので、その真相を知りたいと思ったローマの千卒長は、非公式でありましたがユダヤの祭司長と全ユダヤ議会を招集させ、パウロをその議会の中心に立たせます。使徒パウロは、まず自分が良心に少しのやましいところなく神の御前に生きてきたと言うのです。クリスチャンであるパウロが神の御前に正しいということは、訴えているユダヤ教ユダヤ人たちが正しくないと主張していると同じだと聞き取った大祭司アナニヤは、パウロの口を打てと人に命じます。ユダヤ人歴史家のヨセフスは、大祭司アナニヤは歴代の大祭司の中で最も卑劣で、金銭にどん欲な祭司であったと彼のユダヤ歴史書の中で記し、アナニヤがパウロの口を打たせようとした人であった事を裏付けています。
この大祭司に対してパウロは、「白く塗られた壁よ、神があなたを打つであろう」と預言的なことを言います。実際に、10年後のユダヤ戦争勃発前に、ローマとの癒着とどん欲さゆえにローマ寄りであった大祭司アナニヤは、ユダヤの熱心党の手によって打たれて殺されたということです。たとえ表面は白く塗られた壁のようであっても、また敬虔なクリスチャンのように見えても、神様は私たちの心をしっかりと見て、そしてすべてを知っておられる事をここから学び、そしてもし私たちの中に悔い改めるべきことがあれば悔い改めてすぐに主に立ち返りましょう。何故なら、エゼキエル13章10節以降に、偽善のある所には平和はない、すべては神によって明らかにされるとあります。ですから、「いつも塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい」とコロサイ4:6にあるように、この言葉に生きましょう。
アナニヤが大祭司であることを本当に知らなかったのか、嫌みで言ったのか分かりませんが、パウロは大祭司に対し、「あなたは律法に従ってわたしを裁くべきなのに、あなた自身がその律法に背いて私を打てと命じるのか」と問いただします。するとそばに立っていた者が「神の大祭司に対して無礼な事を言うな」とパウロに言います。パウロは、大祭司が偽善者のようであったのでそのように言ったのですが、私たちも気を付けましょう。クリスチャンらしからぬ振る舞いをしていないかを。私たちの主にある価値観、口から出る言葉、そして主と共に歩む行動をもってキリストの香りを醸し出すような者にさせていただきましょう。そのためには主の言葉に聴き従う他にありません。
自分自身が議会に立たせられているのは、死より復活された救い主イエス・キリストを信じ、この救い主にすべての望みを置いているこの信仰のゆえであると使徒パウロは声を上げて叫びます。わたしたちは望み、希望をどこに置くかによってこれからの人生は変わってきます。滅びゆくものにではなく、アルファでありオメガであられる神様に希望を抱きましょう。暗闇に光として誕生し、この光をもって私たちを永遠に守り導き、永遠の命を与えたもう主イエス様に希望を抱いて歩んでまいりましょう。パウロは、主イエス様に希望を置いたのです。
私たちは、人生の暗闇を経験する時があります。人生の危機に直面したり、大きな試練の中に置かれる事がこれからの人生の中でも幾多とあるでしょう。クリスチャンであるが故に苦しむ事があるでしょう。逃げ出してしまいたい様なこともあるでしょう。しかし、11節でイエス様は使徒パウロに臨んでこのようにおっしゃるのです。「しっかりしなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなくてはならない」と。とてつもなく広く、高く、深く、分厚い壁に直面し、それを乗り越えなければならない時、その壁を打ち破ることが唯一できる力ある主イエス様にすべてを委ね、祈ることから始めましょう。どんなに頑丈な城壁であっても、神様の時、神様の御手が傾けられる時に、神様のご意志とご配慮の中で壁は崩れ落ち、私たちは神様の愛、祝福へと招き入れられるのです。
主イエス様から委ねられている私たち大久保教会の使命、それはこの力強き神様、十字架に架かり私たちの罪を贖い清め、三日目に死人の中から初穂として甦られた救い主イエス様を証しすることなのです。まず主に祈りをささげ、主の声に聞きましょう。
週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
主に在りて
大久保教会 牧師 河野信一郎
パウロが同胞のユダヤ人たちに執拗に訴えられるので、その真相を知りたいと思ったローマの千卒長は、非公式でありましたがユダヤの祭司長と全ユダヤ議会を招集させ、パウロをその議会の中心に立たせます。使徒パウロは、まず自分が良心に少しのやましいところなく神の御前に生きてきたと言うのです。クリスチャンであるパウロが神の御前に正しいということは、訴えているユダヤ教ユダヤ人たちが正しくないと主張していると同じだと聞き取った大祭司アナニヤは、パウロの口を打てと人に命じます。ユダヤ人歴史家のヨセフスは、大祭司アナニヤは歴代の大祭司の中で最も卑劣で、金銭にどん欲な祭司であったと彼のユダヤ歴史書の中で記し、アナニヤがパウロの口を打たせようとした人であった事を裏付けています。
この大祭司に対してパウロは、「白く塗られた壁よ、神があなたを打つであろう」と預言的なことを言います。実際に、10年後のユダヤ戦争勃発前に、ローマとの癒着とどん欲さゆえにローマ寄りであった大祭司アナニヤは、ユダヤの熱心党の手によって打たれて殺されたということです。たとえ表面は白く塗られた壁のようであっても、また敬虔なクリスチャンのように見えても、神様は私たちの心をしっかりと見て、そしてすべてを知っておられる事をここから学び、そしてもし私たちの中に悔い改めるべきことがあれば悔い改めてすぐに主に立ち返りましょう。何故なら、エゼキエル13章10節以降に、偽善のある所には平和はない、すべては神によって明らかにされるとあります。ですから、「いつも塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい」とコロサイ4:6にあるように、この言葉に生きましょう。
アナニヤが大祭司であることを本当に知らなかったのか、嫌みで言ったのか分かりませんが、パウロは大祭司に対し、「あなたは律法に従ってわたしを裁くべきなのに、あなた自身がその律法に背いて私を打てと命じるのか」と問いただします。するとそばに立っていた者が「神の大祭司に対して無礼な事を言うな」とパウロに言います。パウロは、大祭司が偽善者のようであったのでそのように言ったのですが、私たちも気を付けましょう。クリスチャンらしからぬ振る舞いをしていないかを。私たちの主にある価値観、口から出る言葉、そして主と共に歩む行動をもってキリストの香りを醸し出すような者にさせていただきましょう。そのためには主の言葉に聴き従う他にありません。
自分自身が議会に立たせられているのは、死より復活された救い主イエス・キリストを信じ、この救い主にすべての望みを置いているこの信仰のゆえであると使徒パウロは声を上げて叫びます。わたしたちは望み、希望をどこに置くかによってこれからの人生は変わってきます。滅びゆくものにではなく、アルファでありオメガであられる神様に希望を抱きましょう。暗闇に光として誕生し、この光をもって私たちを永遠に守り導き、永遠の命を与えたもう主イエス様に希望を抱いて歩んでまいりましょう。パウロは、主イエス様に希望を置いたのです。
私たちは、人生の暗闇を経験する時があります。人生の危機に直面したり、大きな試練の中に置かれる事がこれからの人生の中でも幾多とあるでしょう。クリスチャンであるが故に苦しむ事があるでしょう。逃げ出してしまいたい様なこともあるでしょう。しかし、11節でイエス様は使徒パウロに臨んでこのようにおっしゃるのです。「しっかりしなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなくてはならない」と。とてつもなく広く、高く、深く、分厚い壁に直面し、それを乗り越えなければならない時、その壁を打ち破ることが唯一できる力ある主イエス様にすべてを委ね、祈ることから始めましょう。どんなに頑丈な城壁であっても、神様の時、神様の御手が傾けられる時に、神様のご意志とご配慮の中で壁は崩れ落ち、私たちは神様の愛、祝福へと招き入れられるのです。
主イエス様から委ねられている私たち大久保教会の使命、それはこの力強き神様、十字架に架かり私たちの罪を贖い清め、三日目に死人の中から初穂として甦られた救い主イエス様を証しすることなのです。まず主に祈りをささげ、主の声に聞きましょう。
週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
主に在りて
大久保教会 牧師 河野信一郎