みことば:「彼ら(アシア州から来たユダヤ人たち)は先に、エフェソ人トロフィモスが、宮でパウロと一緒にいたところを見かけたので、パウロが彼を神殿(境内)に連れ込んだと思ったのである。」21章29節 岩波訳
アジヤ・エペソ地方からエルサレムに来たユダヤ人たちが、神殿の境内で「きよめの儀式」の7日目を終えようとしていた使徒パウロを見つけます。彼らはパウロを目の敵とし、エペソでも群衆を煽動してパウロ弾圧を試みましたが、エルサレムでも同じことをします。彼らは、先々週学んだ箇所ですが、エルサレム教会に嘘やデマを流して混乱させた者たちと考えられています。彼らは群衆を煽動し、パウロを捕らえるために三つの訴えをします。パウロが各地に離散しているユダヤの同胞やエルサレムの人々に1)ユダヤ人たち(民の歴史と文化)に背き、2)律法に背き、3)神殿に背く事を言い伝えていると言うのです。2と3は、ステパノがユダヤ人たちに訴えられ、殉教した時と同じ訴えです。
もう一つの訴えは、パウロが神殿の境内に異邦人を入れて神殿を穢したというものです。エルサレム神殿の中には「異邦人の庭」という場所があって、そこには異邦人は入れるのですが、その奥には決して入ってはなりませんでした。ローマ人であってもその奥に入った人は死罪とされ、ローマ帝国であっても恩赦を訴えることができなかったそうです。そのような聖域に異邦人をパウロが入れたと彼らは訴えるのです。しかし29節で、パウロがエペソ人と町を歩いていたのを見たユダヤ人たちが「パウロが異邦人を聖所にいれたと思い」、彼らが自分たちのまったくの思い込みを異常なまでに誇張したと記します。彼らのパウロに対する「憎しみ」が身勝手な思い込みを生じさせ、デマを言わせ、人を傷つけ、命をも奪い去ろうとしてしまう。アジヤ・エペソから来たユダヤ人たちの「憎しみ」は、パウロのあらを探し、パウロを陥れる運動の原動力となっただけでなく、30節にあるように、エルサレム全体を混乱させてしまう力となってしまいます。「憎しみ」は命を生かす事も、平和を生み出す事も、大切なものを守る事もできません。命を、平和を、大切なもの全てを奪うものです。イエス様を通して与えられる「神の愛、アガペー」なくしては、命、平和、大切なもの全ては「空しく」なります。パウロは神殿に「きよめ」にあずかるために来たのに、神殿を穢す者として訴えられてしまいます。私たちの心には誰かに対する「憎しみ」はないでしょうか。憎しみのある心では、神様との平和、人々との平和を築くことはできませんし、「憎しみ」のあるところにキリストのからだなる教会は建て上げられないのです。もし、私たちの中に「憎しみ」があるのであれば、悔い改め、その思いを主イエス様に明け渡しましょう。そうでないと私たち自身にも、また教会には神様の祝福はありません。
使徒パウロが捕らえられ、神殿の外に出されたと同時に、神殿の門が「閉ざされた」と30節にあります。ある神学者たちはこの事は一つのことを象徴することだと考えます。何故なら、「神殿/宮」についてはこの箇所が使徒行伝では最後の記述をなっているからです。神殿の門が閉ざしたという行為は、神様から遣わされた使徒を拒絶しただけでなく、神様がエルサレム神殿とユダヤ人に対して委ねられたその使命と目的に対して永遠に心を閉ざした事を象徴すると考える人もいます。その後、エルサレム神殿はローマによって破壊されてしまいます。神様から遣わされた救い主イエス様と使徒パウロを拒み、イエス様を十字架に架け、パウロを捕らえたからです。エルサレムの神殿が閉ざされても、私たちの心と教会の扉はいつも開かれていなければなりません。イエス様と言葉と語りかけに対し、また聖霊の導きに対していつも開かれていなければなりません。また、救い主イエス様を必要としている人々に開かれていなければなりません。しかし、教会に憎しみと混乱をもたらせるオオカミは閉め出しておかなければなりません。お祈りください。
31節以降、パウロはローマに捕らえられ、二重の鎖につながれます。パウロにとって人生の危機です。しかし、パウロは怯む事はありません。主が共にいてくださることを信じ、すべてを神様の栄光のため、またキリストの福音を語る時として主が用いて下さると信じていたからです。その通り、憐れみ豊かな神様はローマ兵士たちを用いてユダヤ人からパウロを救い出し、弁明という方法でパウロ自身の信仰告白の機会を与えます。パウロが生きながらえたのは、イエス・キリストを証しするためでした。来週は、このパウロの弁明を学びます。
アジヤ・エペソ地方からエルサレムに来たユダヤ人たちが、神殿の境内で「きよめの儀式」の7日目を終えようとしていた使徒パウロを見つけます。彼らはパウロを目の敵とし、エペソでも群衆を煽動してパウロ弾圧を試みましたが、エルサレムでも同じことをします。彼らは、先々週学んだ箇所ですが、エルサレム教会に嘘やデマを流して混乱させた者たちと考えられています。彼らは群衆を煽動し、パウロを捕らえるために三つの訴えをします。パウロが各地に離散しているユダヤの同胞やエルサレムの人々に1)ユダヤ人たち(民の歴史と文化)に背き、2)律法に背き、3)神殿に背く事を言い伝えていると言うのです。2と3は、ステパノがユダヤ人たちに訴えられ、殉教した時と同じ訴えです。
もう一つの訴えは、パウロが神殿の境内に異邦人を入れて神殿を穢したというものです。エルサレム神殿の中には「異邦人の庭」という場所があって、そこには異邦人は入れるのですが、その奥には決して入ってはなりませんでした。ローマ人であってもその奥に入った人は死罪とされ、ローマ帝国であっても恩赦を訴えることができなかったそうです。そのような聖域に異邦人をパウロが入れたと彼らは訴えるのです。しかし29節で、パウロがエペソ人と町を歩いていたのを見たユダヤ人たちが「パウロが異邦人を聖所にいれたと思い」、彼らが自分たちのまったくの思い込みを異常なまでに誇張したと記します。彼らのパウロに対する「憎しみ」が身勝手な思い込みを生じさせ、デマを言わせ、人を傷つけ、命をも奪い去ろうとしてしまう。アジヤ・エペソから来たユダヤ人たちの「憎しみ」は、パウロのあらを探し、パウロを陥れる運動の原動力となっただけでなく、30節にあるように、エルサレム全体を混乱させてしまう力となってしまいます。「憎しみ」は命を生かす事も、平和を生み出す事も、大切なものを守る事もできません。命を、平和を、大切なもの全てを奪うものです。イエス様を通して与えられる「神の愛、アガペー」なくしては、命、平和、大切なもの全ては「空しく」なります。パウロは神殿に「きよめ」にあずかるために来たのに、神殿を穢す者として訴えられてしまいます。私たちの心には誰かに対する「憎しみ」はないでしょうか。憎しみのある心では、神様との平和、人々との平和を築くことはできませんし、「憎しみ」のあるところにキリストのからだなる教会は建て上げられないのです。もし、私たちの中に「憎しみ」があるのであれば、悔い改め、その思いを主イエス様に明け渡しましょう。そうでないと私たち自身にも、また教会には神様の祝福はありません。
使徒パウロが捕らえられ、神殿の外に出されたと同時に、神殿の門が「閉ざされた」と30節にあります。ある神学者たちはこの事は一つのことを象徴することだと考えます。何故なら、「神殿/宮」についてはこの箇所が使徒行伝では最後の記述をなっているからです。神殿の門が閉ざしたという行為は、神様から遣わされた使徒を拒絶しただけでなく、神様がエルサレム神殿とユダヤ人に対して委ねられたその使命と目的に対して永遠に心を閉ざした事を象徴すると考える人もいます。その後、エルサレム神殿はローマによって破壊されてしまいます。神様から遣わされた救い主イエス様と使徒パウロを拒み、イエス様を十字架に架け、パウロを捕らえたからです。エルサレムの神殿が閉ざされても、私たちの心と教会の扉はいつも開かれていなければなりません。イエス様と言葉と語りかけに対し、また聖霊の導きに対していつも開かれていなければなりません。また、救い主イエス様を必要としている人々に開かれていなければなりません。しかし、教会に憎しみと混乱をもたらせるオオカミは閉め出しておかなければなりません。お祈りください。
31節以降、パウロはローマに捕らえられ、二重の鎖につながれます。パウロにとって人生の危機です。しかし、パウロは怯む事はありません。主が共にいてくださることを信じ、すべてを神様の栄光のため、またキリストの福音を語る時として主が用いて下さると信じていたからです。その通り、憐れみ豊かな神様はローマ兵士たちを用いてユダヤ人からパウロを救い出し、弁明という方法でパウロ自身の信仰告白の機会を与えます。パウロが生きながらえたのは、イエス・キリストを証しするためでした。来週は、このパウロの弁明を学びます。