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大久保バプテスト教会 聖書の学び

大久保バプテスト教会で祈祷会に配信されるメルマガを掲載しています。
聖書の学びを御一緒に

メルマガ#73 使徒行伝21章17節~26節

2009-11-04 21:50:11 | 聖書
 みことば:「パウロは(ヤコブと長老たちに)挨拶してから、自分の奉仕を通して神が異邦人の間でなされたことを、くわしく報告した。」20章19節 岩波訳

 今週の祈祷会は、使徒行伝21章17節~26節を学びます。興味深いことに、17節から23章35節までは、約12日間の中で起こった出来事を記しますが、次の23章36節から26章までは2年というスパンの中の出来事が記されています。

 さて、エルサレムに上った使徒パウロは、エルサレム教会の長老であるヤコブを訪問し、挨拶をした後、ヤコブと他の長老たちにアジア、マケドニア、ギリシャ地方での異邦人伝道の成果を報告をします。パウロは自分の功績ではなく、自分を通して神が大いなる力をもって異邦人たちを救いへと招かれたのかという恵みを事細かにヤコブたちと分ちます。ここで注目したいのは、パウロが「私が神を信じてこういうことをした」とは言わずに、「神が私たちの働きを通してこういうことをしてくださった」という点です。榎本保郎牧師は、「主語が誰であるか。これは私たちの信仰にとって大切なことである。私たちはともすると、私が神を信じることによってこのようなことをしたと言ったり、そういうふうな信仰の状態にとどまりやすい。そうではなく、神が自分を通してなさったことを語るのでなくてはならない。」と言います。また、「大切なのは、わたしたちがどれだけ働くかということでなく、神が、キリストが、(聖霊が)、わたしたちを通してどれだけ働くかである。」と言います。大久保教会の歩みも、宣教の働きも、教会員としての働きも、神様がどれだけわたしたちを通して働いてくださるかが重要なのです。そして聖霊が私たちを通して働いて下さる為には、私たち自身が常日頃から神の御言葉、主イエス様に忠実に聞き従って行く「聴従」という信仰がなくてはならないのです。

 15章12節でパウロが初めて異邦人伝道とその成果を報告した時には、エルサレムのユダヤ人クリスチャンたちは硬直し、沈黙しましたが、今回はパウロからの報告を聞いて一同は喜んで「神をほめたたえた」と20節に記されています。15章の時は依然異邦人伝道への反発と躊躇がエルサレム教会にはありましたが、異邦人教会からの献金や祈りの業を含め、多くの異邦人たちが主イエス・キリストを救い主と信じ、神様に帰依してクリスチャンとなっていると聞いた長老たちは喜びを大いに表します。しかし、パウロたちの異邦人への宣教が豊かな実を結んだ事を妬ましく思うユダヤ人クリスチャンたちが反発し出し、デマを流し始めます。そしてヤコブたちもその反発する者たちを抑えておくことが出来ずにいました。そのデマとはパウロが異邦人たちの中にいるユダヤ人クリスチャンたちに対してモーセの律法から離れ、また子どもたちにも割礼を授けるなと言っているという根も葉もないデマでした。しかし、パウロに対して反感を持つ者たちは多くいました。時代的背景は、西暦56–57頃で、ローマ帝国に対する反感が頂点に達する時期で、またユダヤ人の愛国主義、独立主義が高まっている最中の出来事です。すべての異邦人に対して反感意識をクリスチャンであっても持っていたようで、異邦人たちへ伝道するパウロもユダヤ民族への背任行為をしていると勘違いをするのです。しかし、それはまったくの勘違いです。パウロは「ユダヤ人の中のユダヤ人」、ユダヤ人として律法を大切にする人であり、テモテにもユダヤ人の手前、割礼を受けさせる人でした。しかし、ヤコブたちはそういうデマがエルサレム教会の中にあるので、それが事実でない事を証明するために「ナジル人の誓願」を立てた4人と共にユダヤ人としての「きよめ」に与り、それらの人々の費用をすべて負担して上げなさい、そうすれば反感を持つすべての人はパウロが律法を重んじるユダヤ人だと判るからとパウロに提案をするのです。

 パウロはそこまで遜り、自己犠牲を支払う必要はありませんでしたが、あえてヤコブたちのアドバイスを受け入れました。それは第一コリント9章19節–20節にあるように「わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るため」でした。私たちは、教会の中でも不条理なことを経験します。なぜ教会の中でも利用されるだけ利用され、時には嘘八百を並べられ、うわさ話が流れ、こんなにも自分は苦しみ、我慢しなければならないのかということがあります。しかし、そのような人々のために、教会のために主イエス様が十字架の道を歩まれ、私たちの罪のために死んで下さったのです。また、使徒パウロも自分に苦難が襲いかかって来ると知りつつ、あえてエルサレムへと殉教の道を歩まれるのです。すべては一人でも多くの人が罪を悔い改め、主イエス様を信じて救いに与り、神様に立ち返るためなのです。今、大久保教会は神様からのテストを受けています。この試みに勝利するためには主イエス様を見上げ、主の言葉に聴き従い、聖霊の助けと導きの中で主にある兄弟姉妹たちと共に祈りをし、礼拝と信仰生活を大久保教会で過ごすほかにはありません。一人でも多くの人を主に導くために共に祈り、主に従いましょう。
 週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
 主に在りて
大久保教会 牧師 河野信一郎