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大久保バプテスト教会 聖書の学び

大久保バプテスト教会で祈祷会に配信されるメルマガを掲載しています。
聖書の学びを御一緒に

メルマガ #89 使徒行伝28章1~15節

2010-03-10 13:53:35 | 聖書
みことば:「こうして私たちは、ローマに到着した。兄弟たちが私たちのことを聞いて、ローマからアッピ・フォルムとトレス・タベルナの町々まで迎えに来てくれていた。パウロは彼らに会って、神に感謝し、勇気づけられた。」28章14・15節 
岩波訳

 14日間に亘る船の遭難後、276名を乗せた船はマルタ島へ漂着し、船は大破しましたが、全員の命は御使いに告げられた通りに神様によって救われました。難船した人々をマルタ島の住民たちは暖かくもてなし、精神的・肉体的疲労をねぎらってくれ、また励ましてくれました。長時間苦しみと絶望の中にいた人々にとって、マルタ島の人々のもてなしは大きな慰めと励ましとなったのではないかと思います。私たち自身も、また大久保教会も重荷を背負って疲れている人々、困窮している人々、弱り果てている人々を暖かくもてなし、ねぎらい、励ます教会になりたいですね。

 冷たい海を泳いだためにずぶ濡れになって凍えている人々のために、島民はたき火を用意します。使徒パウロ自身も疲労が相当たまっていたはずですが、率先して焚火の火が弱まらないように薪を火の中に入れる作業を手伝います。いつでも「仕えよう」とするパウロの姿勢を通して、自分自身の姿勢を正すべき事が示されますが、ここでアクシデントが発生します。薪の中に冬眠中のまむしがいて、熱さで眠りから覚め、パウロの腕に噛み付きます。周囲の島民たちはこの出来事に対して「この人はきっと人殺しに違いない。海難からは逃れたが、正義の神が彼を生かしておかないのだ。この人がまむしに噛まれて命を失うのは天意だ」と勝手な断定を下します。しかし、パウロの様子に異変は起こりません。神様のご加護があるからです。パウロの体調に異変が起こらないのを見て、今度は「この人は神だ」と彼らは言い出します。人間の考えの身勝手さが良く出ています。私たちは、何か悪い事が自分や誰か他の人々に起こるとその原因などを勝手に結論づけてしまい、人々を容易く裁いてしまったりしますが、そのような軽率さは社会の中だけでなく、教会の交わりをも破壊しますから、信仰をもって祈りつつ、気をつけたいと思います。

 マルタ島に3ヶ月間滞在することになりますが、パウロたちに親切にしてくれた島の首長ポプリオの父親が赤痢を患い、パウロが手を置いて癒します。その癒しの業が島中に伝わり、パウロたちのもとへ大勢の病人が押し寄せてきますが、みなを癒してあげます。もちろん、パウロの同伴者・医者のルカも活躍したことでしょう。パウロたちは島民の信頼を得、尊敬され、マルタ島を出帆する時には旅に必要なものを与えてくれました。主と隣人にいつでも忠実、誠実な人たちの必要を神様は人々を通して満たされることをここから教えられます。

 パウロたちはマルタを出航し、ローマを目指してシラクサ港町、レギオン港町、ポテオリ港町へと進みます。シラクサでは三日間停泊します。マルタから船を運んだ南風が吹き止んだからと言われています。シラクサから次のレギオンへは北西の風に乗って進み、レギオンでは海峡を通過するために都合の良い風が吹くのを一日待ち、南風に乗ってポテオリにスムーズに着きます。ここで注目したいのは、船という乗り物は「風の力」に頼るしかないことです。どんなに前進したくても、風が背後から吹いて船を押し、力をくれないと前進はできません。同じように私たちの信仰、そして大久保教会にも神様の力、聖霊の力が前進するためには必要なのです。人力ではダメなのです。

神様の力、聖霊の風が私たちの信仰の前進には必要です。

 ポテオリ港町でパウロたちは1週間滞在することになりました。百卒長ユリアスの公務のためであったようですが、パウロたちはポテオリのクリスチャンたちと時を過ごす恵みが与えられました。これも神様の備えとお取り計らいでありましょう。

 さて、いよいよローマが近づきました。ここに至までパウロには大きな期待の他に一抹の不安があったのではないかと思います。ローマ教会に宛てた手紙から3年の月日が経ち、その中で福音を説き明かし、時には厳しい言葉をもって訓戒してきた自分をどのように受け入れてくれるのかと。しかし、パウロたちがローマに近づいているという知らせは、いち早くローマのクリスチャンたちに届いたようです。彼らは一刻でも早く使徒パウロに会いたかったのでしょう、ある人たちは待ちきれずにローマから徒歩で50キロも南下してパウロたちを出迎え、ある人たちはさらに20キロ南下して出迎えたと15節にあります。初対面であるのに、そのように出迎えてくれた兄弟姉妹たちに会って、パウロの不安はすべて取り去られ、主にある出会いを喜び、神様に感謝し、元気を出したことでありましょう。私たちも主イエス様を中心とした交わりを深めてゆきましょう。
主の備えに感謝します。

 週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
 主に在りて 
大久保教会 牧師 河野信一郎


メルマガ #88 使徒行伝27章33~44節を

2010-03-03 13:48:51 | 聖書
 みことば:「私は、(あなたがたに)食事をとるように勧めます。
それは、あなたたちを救うために役立つのですから。
あなたたちの頭の毛一本ですら失われることはありません。」27章34節 岩波訳

 使徒パウロたちを乗せた船は遭難してから2週間が経過し、人々は精神的に最も苦しい状況に置かれていました。果てしない苦境の中で食欲を失い、体力的にも弱って来た人々にパウロは食事を取って体力をつける事を勧めます。「食事を取ることがあなたがたを救う事になるのだから」とこの部分を直訳すると、「あなたの救いのために食事は必要です」となります。ここにある「救い」という言葉は神様の救いを象徴する言葉です。遭難によって危険にさらされている乗員・乗客を救われる神は、主イエス・キリストによる究極的な救いと永遠の命をお与えくださる同じ神であられることを私たちに思い起こさせるのです。人生の荒波に長時間もまれ、人生の暗闇の中で途方にくれる時、私たちも喜び、感謝、平安、希望を失い、祈ろうという気持も湧かなくなります。次第に信仰の体力が弱くなり、霊的にも飢え渇きを覚えます。信仰の糧を得ようという食欲が湧かなくなることもあります。しかし、神様は使徒パウロを通してそのような私たちに「聖書の御言葉を食しなさい」と励ましを与えてくれます。この励ましの言葉に生きる希望を見出し、力づけられた人々は皆で食事を取ったとあります。パウロの「神は必ず私たちを救って下さる」という揺るがない信仰とその神への信頼からくる自信と言動の模範が人々を励まします。パウロの信仰が275名の勇気の源となったのです。私たちの信仰と主と共に歩む歩みが隣人の祝福と希望をもって生きる力、励ましになったら何という幸いでしょうか。私たちが隣人を励ますためには、まず私たち一人ひとりが最初に御言葉の食事を日々取る必要がある事をこの箇所から示されます。

 夜が明けます。人々はどんなにかこの夜明けを待ちわびていた事でしょう。空が明るくなって数週間ぶりに陸地が目の前に見えました。どこの土地か判らなくても彼らには陸地が大きな喜び、希望に見えたでしょう。入り江に向かって船を進めるのですが、船は浅瀬に乗り上げてしまいます。水夫達が逃げ出そうとした時に小舟をすべて切り離してしまいましたから、陸に上陸するためには泳いで渡るしか方法はありません。しかし、そうなると囚人達が逃走するのではと危惧したローマ兵たちは、脱走すると自分たちが同じ刑に服しなければならいことを重々承知していましたから、囚人達を殺してしまおうとします。しかし、百卒長ユリアスはパウロを救いたいと思っていましたから、ローマ兵たちの意図を退け、泳げる者達には泳がせ、泳げない者たちには浮きになるもので入り江に向かわせます。こうして、276名の者がすべて上陸して救われたと記されています。ここでも、神様は異邦人ユリアスを用いてパウロの命を守られるのです。今までにも使徒パウロの命は幾度となく異邦人たちの働きによって守られてきましたが、すべては神様のお取り計らいであったのです。すべては神様の摂理の中にあったことなのです。私たちの人生も神様のお取り計らいの中にあります。神様の摂理の中に私たちは生かされています。そして主の伴いとお守りとお導きによって前進できています。そのことを神様に感謝致しましょう。時に私たちの信仰は試されます。私たち一人ひとりが主に信頼しているかが苦難を通して試されます。たとえ今苦難の中にあっても、主のご計画と御旨があるのですから、主イエス様に信頼し、主にすべてを委ねましょう。

 「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主イエス・キリストにおける神の愛から、私たちを引き離すことはできないのである。」ローマ8:35、37–39

 3週に渡って遭難の箇所を学びました。過去2回の学びの復習になりますが、使徒パウロがその船に乗っていたので275名の人々は救われたのです。パウロにはローマでの宣教の使命があり、また主がパウロと共におられたのですべての乗員・乗客は救われます。使徒パウロは、主が与えられた使命に忠実に生きようとしたからすべての苦しみから守られました。私たちも主がそれぞれに与えてくださっている使命に生きましょう。その時に、家族や友人、隣人が救われるのですから。
 週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
 主に在りて  
大久保教会 牧師 河野信一郎

メルマガ#87 使徒行伝27章21~32節

2010-02-24 21:02:39 | 聖書
 みことば:「ですから、皆さん、元気を出しなさい。私は神を信じています、私に言われたこと(ローマでの使命と乗員すべての救いの約束)はその通りになると、と」27章25節 岩波訳

 使徒パウロの忠告も空しく、乗客・乗員276名を乗せた船は、ピニクス港へ出航しましたが、その船は暴風と荒波によって遭難してしまいます。幾日も太陽も星も見えない暗闇の中で人々は人生の方向性を見失い、助かる希望を失い、不安と恐怖におののき、食事をする気力さえおきません。空しさの中に完全に置かれてしまいます。私たちも不安や苦しみのあまり、食欲が湧かない、何をする気力も湧いて来ないという経験をします。パウロはそのような人々の中に立ち、「あなたたちが私の忠告に従って、クレテ島から出航しないでいたら、このような危険や損失を避けることができたのです」とまず悔い改めることを勧めます。今更そんなことを言っても仕方が無い、今ある現状からどうにか逃れる道を捜すことが先決と私たちは考えてしまいます。しかし、パウロは意地悪でそのように言っているのではありません。同じ間違いを犯さないために、まず自分たちの間違いを悔い改めることが大切だと言っているのです。私たちも主イエス様に出会うまで、主の御声に聴き従うことなく自分勝手に生き、そのような歩みの中で多くの苦しみを経験し、失意と落胆、不安と恐怖におののいてきました。しかし、そのような私たちを神様は憐れんで下さり、救い主をお遣わし下さったのです。主の言葉に聴き従わなかったことへの悔い改めがあって初めて、私たちに主の救いの道が開かれ、神様の愛と赦しと救いと平安が与えられます。

 失意と落胆、不安と恐怖におののいている人々に対してパウロは次に「元気を出しなさい」と励まします。航海を前に人々に警告をした時には、「(もし航海をしようとすれば)積荷や船体ばかりでなく、私たちの命にまで、危険と多大な損害をもたらすでしょう」(10節)とパウロは言ったのですが、今回の苦境の中では「元気を出しなさい。船は失うが、命を失う者は一人もないから」と激励と希望を与える言葉をかけるのです。人々に励ましと希望を与えるパウロの言葉の根拠は、神のみ使いが前夜に告げた主の言葉でした。まずパウロに対して「恐れるな」と主が励ましを与えるのです。そして次にパウロには担うべきローマでの使命があることを再度伝え、その御旨を行なわせる為にパウロだけでなく全ての乗員・乗客の命をも救うとの力強い約束の言葉を神様はパウロにお与えになられるのです。そして今日生かされている私たちにも「恐れるな」、「わたしはあなたと共にいる」と励ましと約束の言葉を、主イエス様がお与え下さるのです。

 パウロの言葉は神様から与えられたものです。彼自身の知恵と経験から出た言葉ではなく、神様の言葉でした。絶望と暗闇の中に置かれている人々への希望の言葉を語る前に、まずパウロ自身が主から励ましと希望の言葉を聞いていったのです。人生のどん底の中で、み使いから神様の言葉を聞いたので、人々に「元気を出しなさい」と言い得たのです。

榎本保郎牧師は、「絶望的な状況の中で、何を見、何を聞き、何に生きる根拠をおくかが重要な事柄なのです。生きる望みを失った人々に『元気を出しなさい』と励ますのがクリスチャンの使命ではないか。そのためには、どんな状況の中にあっても語りかけていてくださる天からの声に耳を傾けつづけねばならない。この天よりの声を聞くことをせずに、いくらこの世のことに献身的にかかわっていっても、その人はこの世の人と全く同じなので何も助けることはできない。この世の人の聞き得ない天よりの声を聞いてこそ、この世の人に力を与えることができるのである」と言われます。今日を生かされている私たちには、聖書を通して主の御言葉に常に聞き、主の御言葉に励まされ、望みを失っている人々を励ましてゆく使命が与えられています。牧師のためにもお祈りください。

 遭難してから14日目のことです。パウロの励ましの言葉を聞いた人々の中には、悔い改めて神に信頼する人々が起こりましたが、悔い改めることなく自分達だけ自力で助かろうとする身勝手な船員たちがいます。自分たちの命を救う為に乗客たちを見捨てようとするのです。しかし私たちは、主イエス様の贖いの十字架を信じ、悔い改めて主の言葉に聴き従い続けましょう。
 週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
 主に在りて  
大久保教会 牧師 河野信一郎

メルマガ#87 使徒行伝27章21~32節

2010-02-24 21:02:39 | 聖書
 みことば:「ですから、皆さん、元気を出しなさい。私は神を信じています、私に言われたこと(ローマでの使命と乗員すべての救いの約束)はその通りになると、と」27章25節 岩波訳

 使徒パウロの忠告も空しく、乗客・乗員276名を乗せた船は、ピニクス港へ出航しましたが、その船は暴風と荒波によって遭難してしまいます。幾日も太陽も星も見えない暗闇の中で人々は人生の方向性を見失い、助かる希望を失い、不安と恐怖におののき、食事をする気力さえおきません。空しさの中に完全に置かれてしまいます。私たちも不安や苦しみのあまり、食欲が湧かない、何をする気力も湧いて来ないという経験をします。パウロはそのような人々の中に立ち、「あなたたちが私の忠告に従って、クレテ島から出航しないでいたら、このような危険や損失を避けることができたのです」とまず悔い改めることを勧めます。今更そんなことを言っても仕方が無い、今ある現状からどうにか逃れる道を捜すことが先決と私たちは考えてしまいます。しかし、パウロは意地悪でそのように言っているのではありません。同じ間違いを犯さないために、まず自分たちの間違いを悔い改めることが大切だと言っているのです。私たちも主イエス様に出会うまで、主の御声に聴き従うことなく自分勝手に生き、そのような歩みの中で多くの苦しみを経験し、失意と落胆、不安と恐怖におののいてきました。しかし、そのような私たちを神様は憐れんで下さり、救い主をお遣わし下さったのです。主の言葉に聴き従わなかったことへの悔い改めがあって初めて、私たちに主の救いの道が開かれ、神様の愛と赦しと救いと平安が与えられます。

 失意と落胆、不安と恐怖におののいている人々に対してパウロは次に「元気を出しなさい」と励まします。航海を前に人々に警告をした時には、「(もし航海をしようとすれば)積荷や船体ばかりでなく、私たちの命にまで、危険と多大な損害をもたらすでしょう」(10節)とパウロは言ったのですが、今回の苦境の中では「元気を出しなさい。船は失うが、命を失う者は一人もないから」と激励と希望を与える言葉をかけるのです。人々に励ましと希望を与えるパウロの言葉の根拠は、神のみ使いが前夜に告げた主の言葉でした。まずパウロに対して「恐れるな」と主が励ましを与えるのです。そして次にパウロには担うべきローマでの使命があることを再度伝え、その御旨を行なわせる為にパウロだけでなく全ての乗員・乗客の命をも救うとの力強い約束の言葉を神様はパウロにお与えになられるのです。そして今日生かされている私たちにも「恐れるな」、「わたしはあなたと共にいる」と励ましと約束の言葉を、主イエス様がお与え下さるのです。

 パウロの言葉は神様から与えられたものです。彼自身の知恵と経験から出た言葉ではなく、神様の言葉でした。絶望と暗闇の中に置かれている人々への希望の言葉を語る前に、まずパウロ自身が主から励ましと希望の言葉を聞いていったのです。人生のどん底の中で、み使いから神様の言葉を聞いたので、人々に「元気を出しなさい」と言い得たのです。

榎本保郎牧師は、「絶望的な状況の中で、何を見、何を聞き、何に生きる根拠をおくかが重要な事柄なのです。生きる望みを失った人々に『元気を出しなさい』と励ますのがクリスチャンの使命ではないか。そのためには、どんな状況の中にあっても語りかけていてくださる天からの声に耳を傾けつづけねばならない。この天よりの声を聞くことをせずに、いくらこの世のことに献身的にかかわっていっても、その人はこの世の人と全く同じなので何も助けることはできない。この世の人の聞き得ない天よりの声を聞いてこそ、この世の人に力を与えることができるのである」と言われます。今日を生かされている私たちには、聖書を通して主の御言葉に常に聞き、主の御言葉に励まされ、望みを失っている人々を励ましてゆく使命が与えられています。牧師のためにもお祈りください。

 遭難してから14日目のことです。パウロの励ましの言葉を聞いた人々の中には、悔い改めて神に信頼する人々が起こりましたが、悔い改めることなく自分達だけ自力で助かろうとする身勝手な船員たちがいます。自分たちの命を救う為に乗客たちを見捨てようとするのです。しかし私たちは、主イエス様の贖いの十字架を信じ、悔い改めて主の言葉に聴き従い続けましょう。
 週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
 主に在りて  
大久保教会 牧師 河野信一郎

メルマガ#85 使徒行伝27章13~20節

2010-02-17 23:05:30 | 聖書
みことば:「その時、おだやかな南風が吹いて来たので、人々は彼らのもくろみを達成できると思い、錨を上げ、クレタ島の海岸に沿って航行した。しかし、間もなく『北東風(ユーラキュロン)』という暴風が、島の方から吹き降ろしてきた。船はこれに吹き流され、風に逆らって進むことができなかったので、私たちは流されるにまかせた。」27章13~15節 岩波訳

 短い箇所ですが、ローマへ護送されている最中、使徒パウロたちが乗船していた船が暴風によって遭難する最初の部分です。「遭難」の箇所を3週にわたって学びます。乗客・乗員の数は276名、航海をするには危険な時期なので出航を思いとどまらせようとパウロは警告しましたが、多数決によって東へ45キロ離れたフィニキア港へ向かうことが決定されました。出航時に追い風の南風が吹いたので皆は喜んだのですが、しばらくすると島の方から激しい逆風が吹き、状況は一変します。2000年前の古代の木造船ですから、たとえ270名強の人々が乗船できても、構造上激しい風と波に長時間耐えられるものではありません。島影に一時非難して船に応急処置を試みますが、その後は座礁しないために帆を下ろし、風と波に流されるままになります。乗客・乗員はひどく悩まされ、翌日には積荷をすべて捨て、三日目には船具まで捨てたのです。すべては276人の命を守り、生き延びる為でした。けれども真っ暗な分厚い雲が空を覆い、幾日も太陽も星も見えず、暴風と荒波が人々の体と心を激しく打ち、自分たちがどこを漂っているのかも判らないまま、一人を除いてすべての人は助かるという希望、生きる希望を完全に失います。

 暴風と荒波に長時間さらされても、生きる望み、救いの望みを失わなかったただ一人の人が使徒パウロです。彼には主イエス様からの派遣の言葉と約束の言葉が与えられていましたから、自分は遭難したとしても決して死ぬ事はない、必ずローマへたどり着く事ができると確信していました。私たちも日々の生活の中で、出足は非常に良かったのにその後に状況が変わって逆風に苦しむことがあります。今現在、人生の逆風に苦しんでいる方も居られるでしょう。何をやってもうまく行かない、すべてが空回りという方も居られるでしょう。すべてを失った、失いかけているという方も居られるかもしれません。人生の真っ暗闇の中に置かれて、自分が何処にいて、何のために生きているのか判らないという方も居られるかもしれません。そういう中で、私たちに何ができるでしょうか。一つだけ方法があります。それは使徒パウロのように、イエス様から希望の言葉、約束の言葉、生きる目的を知る言葉を受け、ひたすら信じてゆく以外に救いへの道はないのです。自力で希望を見出す術は、私たちにはないのです。

 今回の使徒パウロたちの遭難の出来事を読んで、旧約聖書「ヨナ書」にある預言者ヨナに起こった出来事を思い起こされる方もおられるでしょう。今回のパウロたちの状況と同様、預言者ヨナが乗っていた船も激しい嵐に遭い、乗員たちがすべての積荷を捨て去りますが、それでも嵐が止まないので生きる希望を失いかけるのです。しかし、ヨナが乗っていた乗客と乗員は最終的には助かります。ヨナの出来事とパウロの出来事には大きな違いがあります。ヨナの場合、ヨナが乗船していたので嵐に遭い、ヨナが海に投げ入られることによってすべての乗員・乗客は助かりました。神様から委ねられた使命に預言者ヨナが生きようとしなかったからです。しかしパウロの場合は違います。来週も学びますが、激しい嵐の中に置かれた275人の人々は、パウロが乗船していたので助けられたのです。パウロには主イエス様から委ねられたローマでの宣教という使命があり、その使命に忠実に生きよう、主の恵みに応えようという強い信仰があったからです。

 私たちは、今日、ヨナでしょうか。それともパウロでしょうか。神様の御旨に生きようとする者でしょうか。それとも自分の思いのままに生きようとする者でしょうか。神様は、御旨を大切にする者、すなわち主イエス様の御言葉に聴き従い、主が与えて下さっている人生の使命と目的に生きる者を祝福し、聖霊によって守り、導き、力づけ、進むべき道を示して下さるのです。

 週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
 主に在りて  
大久保教会 牧師 河野信一郎