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大久保バプテスト教会 聖書の学び

大久保バプテスト教会で祈祷会に配信されるメルマガを掲載しています。
聖書の学びを御一緒に

コロサイ人への手紙 1章1節から8節

2010-04-14 18:40:22 | 聖書

コロサイ教会は、 エパフラスという伝道者によって開拓された教会で、

パウロは コロサイ教会の兄弟姉妹に会った事はありません。

しかし、パ ウロは弟子テモテとの共同作業で彼らに手紙を出します。

パウ ロたちは挨拶の後、コロサイ教会のことで神に感謝し、祈って いると言います。

エパフラスを通して「福音」を聞き入れて以 来、

コロサイ教会の兄弟姉妹はイエス・キリストを信じる信仰 に立ち、

キリストに根ざした「愛」をもって互いに愛し合い、

キリストのからだとして「成長」し、

神が望んでおられる「実 」を結んでいると聞きます。

コロサイ教会は、健康な教会であ ったのです。

キリストを救い主と信じる信仰に堅く立ち、

神と救い主イエ スを心から愛し仕え、

兄弟姉妹の中で互いに愛し仕え、

そして 「福音」を隣人に伝えることで多くをキリストに導き、

教会の 家族に加えていった。

それが彼らの結んだ「実」です。

私たちも健康な教会へなるように、

神とキリスト・イエスを 愛し、

隣人を愛し、

福音の種まきを続けましょう。

主を信じ、 主の声に聞き従い、

互いに愛し合う事で隣人たちに証ししてゆ きましょう。

主の日の礼拝を守り、

日々聖書を読み、

いつも喜 び、

たえず祈り、

すべてのことに感謝しましょう。

大久保教会でも苦しみの中にある方々が多くおられます。

上 記の「教会の祈り」にある方々だけでなく、

他にも祈りを必要 としている方々が多くおられます。

キリスト教会の特色の一つ は、

「他の人のために祈る」こと、

「私たちが人のためにでき る最大のことは、祈ることではないか」と

榎本保郎牧師は言っ ています。

確かに「祈る」ことは隠れたクリスチャンの業です

から人から感謝されるものではありませんが、

しかし「一生懸 命に祈ることは、

価を求めないで愛していくということ」その ものとも

榎本牧師は言っていました

私たちも互いに祈り合う ことから始めましょう。

週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致し ます。

主に在りて  大久保教会牧師 河野信一郎


木曜 聖書の学び 4月15日より

2010-04-01 14:24:59 | 聖書
現代を生きる、わたしたちの学び

聖書の信仰と祈りと知恵

木曜:聖書の学び

午前10時30分~12時

4月15日より

大久保バプテスト教会 協力牧師 牧野伊



大きな事を成し遂げるために 
力を与えてほしいと神に求めたのに  
謙虚を学ぶようにと弱さを授かった  


より偉大なことができるようにと健康を求めたのに 
より良きことができるようにと病弱をあたえられた 

幸せになろうとして富を求めたのに
 賢明であるようにと貧困を授かった  

世の人の称賛を得ようとして成功を求めたのに
得意にならないようにと失敗を授かった

 求めた物は一つとして与えられなかったが
 願いはすべて聞き届けられた

 神の意に添わぬ物であるにかかわらず  
心の中で言い表せないものは全て叶えられた 

私はあらゆる人の中で  
最も豊かに祝福されていたのだ




河野牧師不在の時、「木曜、聖書の学び」をすることになりました。

わたしは、歳を重ねる今、

過ぎてきた人生を振り返り、私は何をしてきたのだろうと反省し、

また残されるわずかな時間に何をしなければならないのかと自問しています。

どの人もこの世に生まれ、この世を去るまでの生涯は、

誕生という始めと、死という終わりとに区切られる限られた人生であります。

人の生は、誰も限られた制を生きるのですが、
その中で様々なことが起こり、いろんなことを人は経験するのです。

もちろん、嬉しいこと、幸なことだけが待っているとは限らないし、
苦しいこと、悲しいことも起こるのです。

でも人は、それらのことを前もって決めていくことは出来ないのです。

私たちはどのように、それらに対処したらよいか、
そこに、宗教・信仰という事が生の根源として、
私に、あなたに問い掛けてくるはずです。

イエスは「悲しむ者は、幸いである。あなたは慰められるであろう」と云われ

悲しむ者を、幸いとしてしまう。

逆説(そんなばかなといわれる)言葉で語りました。

上に揚げた詩は、まさに逆説の幸いです。

主イエスの言葉は、きっと、私たちの貧しい心を豊かにされます。

そのように聖書を学び、真実の幸いを受け取りたいのです。

混迷に満ちた世ですから、なおさらに、私たちを生かす聖書の言葉を学びたい。

どなたでもいらしてください。教会は「扉」をあけています。

メルマガ 受難週編

2010-03-31 14:02:20 | 聖書
 主の御名を讃美いたします。
 月曜日から寒い日々が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。主の伴いと恵みとがあるようにお祈りいたします。
 明日(木曜日)の受難週祈祷会では、主の晩餐式が守られます。
もしご都合がつけば、ご出席ください。


 十字架につけられた主イエスが残された7つの言葉:☆9時から正午までの間に

1)「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23章34節) 自分を十字架につけた者たち、私たち罪人たちのための父なる神への執り成しの祈り、そして私たちへの赦しの言葉。2)「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(ルカ23章43節) イエスと共に十字架にかけられた二人の犯罪人のうちの一人が、自分の罪を認め、罪を悔い改めたことに対する赦しと希望を与える言葉。

3)「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」、「ごらんなさい。これはあなたの母です」(ヨハネ19章26–27節) 主イエスを信じる信仰によって、また主の血潮によって結ばれる主の家族とせられる招きと励ましの言葉。

☆3時すぎ、死の直前に

4)「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)」(マタイ27章46節、マルコ15章34節)主の言葉があまりにも強烈であったために、アラム後で記された。神との断絶という霊的苦しみから叫ばれた言葉。

5)「わたしはかわく」(ヨハネ19章28節)7つの主の言葉の中でもっとも短い言葉。ギリシャ語では一語のみ。十字架上での主イエスの肉体的な渇き、苦しみを示す言葉。私たちの「渇き」、苦しみにも寄り添ってくれる主の言葉。

6)「すべてが終わった」(ヨハネ19章30節)息を引き取られる前に神から委ねられた救いの業、救いの道が完成したという宣言と忠実に使命に生きた満足に主の満ちた言葉。主イエスの終期を支配したのは死ではなく、最初から最後まで、すべて神の御旨と愛によって支配されていることを示す言葉。

7)「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」(ルカ23章46節)神から委ねられた地上での使命を全うし、神から与えられた霊なる力、息を神にお返しする言葉。死の極みにおいて、すべてを神にお委ねした主の私たちクリスチャンに対する究極の信仰のあり方を示す言葉。

 週の後半の歩みも、復活の主イエス様が共に歩み、励ましてくださるように。平安があります様にお祈りしています。

 大久保教会牧師 河野信一郎

メルマガ#91 使徒行伝28章30~31節

2010-03-24 14:01:52 | 聖書
みことば:「パウロは、自費で借りた家に、まる二年間住んだ。そして、彼のもとに訪れて来る者をことごとく迎え入れ、実に大胆に、また妨げられることもなく、神の王国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けたのである。」28章30–31節 岩波訳

 2年間学んできた使徒行伝も、今回で終了となります。

イエス・キリストを救い主と信じる人々が集まり、祈りをささげていた時に聖霊がその一人ひとりに注がれ、初代の教会が誕生しました。なぜ救い主イエスを信じる者たちに神の霊、神の力が注がれ、教会が誕生したのかをこの2年間学んできましたが、その理由が本当にうまく、そして明確に使徒行伝の最後に記されているのではないかと思います。上記の箇所を今一度お読み下さい。

 使徒パウロが伝道者として主に召されたのは、ユダヤ人と異邦人に神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教えるためでした。パウロの宣教活動は、多くの実を結びましたが、ユダヤ人たちの妨害と迫害を絶えず受けました。念願のローマに到着しましたが、身柄は緩やかですが拘束されたままの状態ですので、自分から率先して人々の中に入って行けなくなりました。しかし、彼のもとに訪れてくる人たちをすべて迎え入れ、神の国とイエス・キリストについて妨げられることなく、大胆に語ったとあります。当時のローマは異教の国で、そこでパウロが妨げられることなく大胆に福音を語れたということは驚くべきことです。パウロは鎖につながれていても、キリストの福音は自由であるということを証明しています。パウロが大胆かつ妨げられることなく福音を伝えることができたのは、神の力・聖霊の力によってすべての試みから福音宣教活動が守られ、聖霊の力によって大胆に語ることができたからです。神様のご臨在と力づけがいつもあったのです。

 使徒行伝は、1章3節でイエス様が弟子たちに神の国について語ったところから始まり、使徒パウロが救い主イエス・キリストと神の国について大胆に語ったという言葉で閉じられています。1章6節で弟子たちは「主よ、あなたがイスラエルの国を復興なさるのは、この時なのですか」と主に質問をしましたが、イエスを救い主と信じるすべての人、ユダヤ人と異邦人に「神の国」が備えられ、招かれていると使徒行伝全体は答えます。「神の国」への道は、イエス・キリストの十字架の贖いの死と復活によって整えられました。私たちがイエス・キリストを心に受け入れる時、主が一人ひとりの心をご支配くださり、心に喜びと平安を与えて下さいます。そしてこの地上での使命を私たちが終える時に、私たちは「神の国」へと招かれます。私たちクリスチャン、そして大久保教会の使命とは、救い主イエス・キリストの十字架と復活を証しすることだと使徒行伝は教えてくれます。

 キリストの福音は、聖霊の力に押し出されてエルサレムからローマへ、そしてこの日本に伝えられました。使徒パウロがその後どうなったのか等、いろいろと知りたいと思うのですが、使徒行伝は突然31節で終わっています。それは、福音宣教に終わりがないからではないでしょうか。主の再臨まで、私たちには主イエス様の十字架と復活の福音を伝えてゆく使命があるからだと信じます。ご一緒に、神様の愛、イエス様の十字架と復活を聖霊の力を受けて証し続けてまいりましょう。
 週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。主の恵みに感謝しつつ。
 主に在りて 
大久保教会 牧師 河野信一郎

メルマガ#90 使徒行伝28章16~28節

2010-03-17 13:54:02 | 聖書
みことば:「彼ら(ユダヤ人)は日を決めて、もっと大勢で彼(パウロ)の宿にやって来た。彼は朝から晩まで、説明を続け、神の王国のことを力強く証しして、モーセの律法や預言者の書から、イエスについて彼らを説得しようとした」28章23節 岩波訳

 ローマ行きを切望していた使徒パウロがローマに到着したことが16節に記されていますが、これまでのパウロの歩みは神様のご加護とお導きがあってのことです。すべて神様のご計画とご配慮があったことを覚えると同時に、私たち一人ひとりも神様の愛とご加護とご配慮の中に生かされていることを感謝したいと思います。

 ローマに着いたパウロは抑留されましたが、自分だけの家に住むことが許され、家に番兵が一人つく程度でした。皇帝の前で裁かれたということは記されていませんが、2年間、パウロは大胆に福音を伝え、ピレモンへの手紙やコロサイ人への手紙を書きました。

 ローマに到着するや否や、パウロはローマ在住の重立ったユダヤ人たちを自宅に招き、自分の無実とユダヤ人同胞に対する思いを語ります。ユダヤ人に対しても、先祖の慣習に対しても逆らう様な罪を犯さず、ただ単に「イスラエルの希望ゆえに、この鎖につながれている」と力説するのです。「イスラエルの希望」とは復活されたイエス様のことなのですが、ユダヤ人たちにはどうしてもパウロが伝えるイエスを救い主、メシアだと信じる事ができなかったのです。何故なら、十字架という呪いの木にかけられた人が自分たちのメシアだとは信じられなかったのです。ユダヤ社会の重立った指導者たちは、日を改めてパウロに会う事を約束して帰ります。

 数日後、約束どおり大勢のユダヤ人たちがパウロの所にやって来ます。パウロは朝から晩まで熱心にユダヤ人に対する神の救いについて説明します。パウロの宣教の内容は、神の国のことを証しすることとモーセ5書と預言書と詩篇とを用いてイエスがメシアであり、主だと伝えることでした。パウロの宣教の中心点は、神の国とイエスがメシアであるという2点でした。ユダヤ人たちはメシアの降臨と神の国(イスラエルの復興)を待ち望んでいますが、神の国はイエスによって成就したと聖書を用いて説明するのです。パウロが聖書のどの箇所を用いて話したかについてルカは記しませんが、「キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる」と言われたイエス様の言葉(ルカ24:27、44–47)を指し示したことでしょう。私たちクリスチャンと教会の使命は、神の国とイエス・キリストの福音を隣人に伝える事だと示されます。「神の国」と永遠の命の希望は、イエスをメシアと信じる者が信仰によって義とされ、イエスを通して永遠の祝福を受ける事ができます。

 パウロの宣教を聞いた人々の中に福音を受け入れる者もいましたが、拒絶する人が大半でした。ユダヤ人に対するパウロの宣教活動は、いつもこうでした。福音を受け入れるユダヤ人と拒絶するユダヤ人、どちらかと言えば拒絶する人の数のほうがいつも多かったのです。どうぞ使徒行伝13章14節以下を参照ください。パウロの宣教の最初から受け入れる人と拒絶する人がいたのです。

 私たちの場合も同じです。イエス様について証しをしても人は聞いてはくれるが、決して神様の愛を悟ってくれない。すべての創造物と出来事の内に神様のみ業に見えているはずなのに決して神の愛と御業だと認めてくれない。罪ゆえに人々の心は神様の愛に対して心が鈍くなっており、神様の愛の福音に対して耳は聞こえにくく、神様の愛の御業に対して目を閉じてしまっている。悔い改めることなく、心の傷がいやされることなく、罪も贖われない。パウロはイザヤ書6:9以降の御言葉を引用し、ユダヤ人たちの心の頑さを嘆きます。

 イエスの福音を受け入れないユダヤ人たちに対して「神の救いの言葉は、異邦人に送られたのだ。彼らは、これに聞き従うであろう」とパウロは28節で言います。ユダヤ人たちが福音を頑なほどまでに拒絶したので、パウロはこのような決別の言葉を言ったのだと多くの神学者たちは理解しますが、そうではありません。ユダヤ人たちが神の祝福、キリストの福音から排除されるという意味ではなく、ユダヤ人だけでなく、異邦人たちも神の民として永遠の祝福、救いへと招かれているということです。使徒行伝には、すべての人に福音が伝えられ、イエス様による救いはすべての人に与えられていることが記されています。神様の愛とイエス様の救いを共に感謝し、臆することなく福音を伝えて行きましょう。

 週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。

 主に在りて 

大久保教会 牧師 河野信一郎