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縄文人(見習い)の糸魚川発!

ヒスイの故郷、糸魚川のヒスイ職人が、縄文・整体・自然農法をライフワークに情報発信!

ユニークな活動をしている人々の集いに呼ばれたっちゃ・・・何故か糸魚川弁

2014年12月04日 09時28分05秒 | 日本海縄文カヌープロジェクト

 

知人の市議会議員から、隣の上越市で開催されるシンポジュームのパネルディスカッションに出て欲しいと頼まれた。

社民党関係の主催といっても、オラは無党派。

あえていえば縄文原始力党だな。

ゲスト参加者には糸魚川関係者がいないので、糸魚川の議員さんが糸魚川からもゲスト出さんならんという事になったらしい。

オラが糸魚川代表・・・しょうしくっれたい!(恥ずかしいの糸魚川弁)

関係ないけんども、糸魚川弁の「しょうしい」は、笑止千万の笑止が語源のような気がする。

ご存じの片、教えてくんない。何故か今日は糸魚川弁で文章を書きたいっちゃ。

参加メンバーの顔触れを見たら、テレビや新聞などで一度はみたことのある人ばかりで恐縮。

「日本海縄文カヌープロジェクト」の山田 修さんっちゃ、オラの事。

農家の天明さんは、上越市大潟区にある「朝日池総合農場」で研修を受けた先輩である。つまり兄弟子ですな。

朝日池総合農場での研修中は、直売所のお客さんから「テレビ見たよ~!」なんてよく言われとった。

ヒゲ・短髪・眼鏡という共通のルックスから、天明さんと間違われっとんだわ。


会ったことないケン、十日町市の門脇洋子さんは、敬愛する民俗学者の姫田忠義先生の記録映画の上映会をやっとる人らしい。

オレが都会に住んどった時には、姫田先生の民族文化映像研究所によく通っとった。

丁度、友達から12月の姫田作品の上映会に誘われていたのである。

糸魚川では民俗学を共に語り合える知人がまだおらんので、門脇さんとは何時か会って話がしてみたいと思っておった所。

神奈川県藤沢市からUターン帰郷して五年目・・・やっとネットワークが出来て来たって事か。

近くの人、お暇なら来てくんないっちゃ!

 

 


丸木舟大会顛末記・・・惜しくも準優勝

2014年09月16日 23時21分44秒 | 日本海縄文カヌープロジェクト



福井県若狭町主催の「若狭縄文丸木舟競漕大会」に参加してきた。
前日までは晴れ時々雨という天気だったが、当日はピーカン。

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オープンセレモニーで選手宣誓をさせてもらい、大会の間は「新潟県糸魚川市、ヒスイ、日本海縄文カヌープロジェクト」という
場内アナウンスを何度もしてもらったし、中日新聞、福井TVからも取材を受けたので、糸魚川の宣伝になった。



結果は日本海縄文カヌープロジェクトとして2組参加したうち、私と竜太組が準優勝。

赤野、天野組が予選敗退。
竜太・山田艇は準決勝でのタイムは二位に2秒の差を付けていたので、実に惜しい準優勝だった。
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レースは三方五湖に流れ込む「はす川」を会場に、五隻同時に80m先にあるブイを回ってラスト20mの直線までの順位を競うというもの。
手前は赤野さん(後ろ)と天野さんのチーム。

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若狭の縄文人が「行くでえ~!」と声をかけてから竹竿をパシャンと水面に打ち付けるのがスタートの合図。気の毒に炎天下で一日中この作業をしていた。
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竹パッシャンの合図で一斉にスタートするが、五隻が綺麗にスタートできるのは稀(笑)。スタートできても途中から迷走する艇が続出していた。

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中にはスタートと同時にコースを外れて、あらぬ方向に進む艇も。
手前の艇は、縄文人に扮装した地元の介護職員で、バランスを崩して沈没してやんやの喝采を浴びていた。
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80m先のオレンジのブイを周って、コースを20m折返してゴール。
1個のブイを5艇が周るので、転覆やコントロール不能になって対岸へ行ってしまう艇が続出・・・DJが面白おかしく実況中継していた。

片側だけを漕ぐシングルパドルは難しいし、使用艇も縄文時代の丸木舟のFRP製レプリカだから舵など無く、直進すら難しいのだ。



決勝での竜太・山田艇は、準決勝二位通過の京都から参加した林さんの艇の出鼻を抑えるべく、コースを左に寄せて時計周りに最初にブイを周ることができた。

ここまでは作戦成功・・・ブイを周った時には優勝を確信したが、好事魔多し!
なんと
遅れてきた二隻が半時計周りでブイに殺到してきたので、ブイを周って直線コースに入る直前の我々の艇の横っ腹に乗り上げてきた。


転覆は免れたが、竜太君の脇腹に相手の艇の船首が当たり、肋骨骨折の危険もあったのだ。


海上では右側通行であり、衝突の危険においてはお互いに右に回避するのが国際的なルールだ。

またヨットやウインドサーフィンなどのレースでは、先行している艇の針路妨害はしてはいけないことになっているが、この大会は海や水上レースに詳しい人のいない行政主催だから、大雑把なルールしかない。

お遊びのレースと言えども全国大会と銘打ったレースなので、ルールの不備が非常に残念。

転覆だけなら笑えるが、実際に骨折の危険もあったので、今後は改善は必要だろう。

有り得ない追突事故で漕げないでいる内に、林艇に追い抜かれてしまったのである。
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表彰式。右から3人目が喋りっ放し、立ちっぱなしで大会を盛り上げていたDJさん。


後から動画を観ると、林艇とのゴールでの差は3mほど。
タイム差にして1秒くらいのものなのだ。

我々のロスタイムが3秒くらいだったので、追突が無ければ準決勝の順位と同じく、2秒くらいの差で優勝できたのだ。
勝負に勝ってレースに敗けたというのが実感。

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チーム日本海縄文カヌープロジェクトの面々。来年の雪辱に向けてみんな燃えている。準優勝の賞金3万円は交通費として一部分配して、残金は活動費として貯金。
副賞の地酒は慰労会で飲むことになった。

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パフォーマンス賞があるので、ウケ狙いの参加者も多かった。
フンドシ組は隣町の役場職員。
行政マンがこんな姿で参加しているのも、新潟では有り得ない光景。
福井の人達は明るいのだ。
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フンドシ組はレースの後に、ずれて大事な部分が観えていると指摘され「ヒャー!」と慌てていた。微笑ましい風景。
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縄文人に扮した介護施設の職員。
縄文人というよりは昔のゴジラ映画に出てくる南洋の土人でしょ?って突っ込みも(笑)。転覆してやんやの喝采を浴びていた。
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日頃鍛えたパワーにものを言わせてガシガシと漕いでいた自衛隊組。



町役場職員、介護施設職員、自衛隊といった公務員や団体職員の仮装参加には、非常に好感が持てたし、オープニングセレモニーも新潟よりは手短で好印象。

新潟のイベントでは、偉い人たちが次々と出てきて、大上段に構えた長い演説をするのが恒例だ。
その点、福井はザックバランでヨロシイ。
竜太君も福井県は優しい人が多いと実感したようだ。

敗退した参加者が勝ち残った参加者に頑張って下さいと握手して激励したりと、大会も和やかな雰囲気。

大会の間中、プロレス中継のような快活なアナウンスをしていたDJさんも、大いにそんな雰囲気を盛り上げてくれていた。

嬉しいことに後日、優勝した林さんから、10月に糸魚川の雨飾山に登山に来るとメールを頂いた。

こうやって縄文、パドルスポーツをきっかけに、各地と繋がっていく事こそが、この大会、そして日本海縄文カヌープロジェクトの存在意義だと思うのだ。

来年はリベンジせねば。
打倒、林!
若狭町のみなさん、ご苦労さん。佳き大会を有難う。
また来年お会いしましょう
ゴキゲンヨ~!










全国初の縄文丸木舟競漕出場!・・・優勝候補???

2014年09月07日 19時06分12秒 | 日本海縄文カヌープロジェクト


9月14日に、福井県若狭町主催の「縄文丸木舟競漕大会」というイベントに出場する。

若狭町には「鳥浜貝塚」という縄文前期(六千~五千年前)の遺跡があって、完全な形を保つ六千年前の丸木舟が出土している。

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そこで若狭町は、三方五湖という大きな汽水湖と丸木舟をテーマにした地域活性化活動をしており、今回はその一環として出土した丸木舟のFRP製レプリカでのレースをすることになったのだ。

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大会は二人一組でのトーナメント方式のレースで、
日本海縄文カヌープロジェクトからは二組が参戦。
優勝すれば、初代丸木舟王者の称号賞金5万円!

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大会事務局からは、当日の選手宣誓を頼まれた。

もしや優勝候補と目されている?

事務局にアウトリガーカヌーやシーカヤックなどのアスリートクラス、経験者出場の有無を尋ねたら、詳細不明だが成人男子クラス30組程の出場予定のうちにはいないらしい・・・優勝するかも!

みっともない姿を見せられないので、クルーの竜太と泥縄式のトレーニングをした。
なんたって優勝候補だからさぁ・・・。


課題は、レースに使用する丸木舟が椅子無しで直に船底に座るらしいので、漕ぐ時の適正な座る形の確認とクルーとのピッチを合せること。

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往年のウインドサーフィンの名艇、ウインドサーファー艇でトレーニング。
開発されてから50年も変わらないデザインは、初心者から上級者まで幅広く楽しめるという証し。
シングルパドルのトレーニングのみならず、立って漕げるほどの浮力と安定性があるので、サップが買えない人のトレーニングにも最適だ。
この艇は世界で一番売れたウインドサーフィンの板だから、バブル期の流行時に買って現在は不要になった艇がゴロゴロしている。
正座だと前傾姿勢が取り易く、左右バランスも取りやすかった。
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胡坐だと前傾姿勢が取れずに、生の腕力による手漕ぎになってしまうようだ。
パドルスポーツは、いかに腕以外を上手に使うかで艇速と持久力が違ってくる。P9051071
正座に次いで良かったのが、片膝を立てた座り方。


もう一つの課題は、今回は50mの直線コースの折返し100mのタイムレース方式なので、速度を落とさずにブイを回る訓練も必要だ。
能生町の弁天岩~とっとこ岩までの往復と、艇速を落とさずに岩を回る訓練を半日みっちりやった。
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竜太が空気を入れて膨らませる方式のiSUP(インフレータブル・スタンドアップ・パドル・ボード)を買ったので、二人で乗ってトレーニング。
大人二人が乗っても余裕の浮力なので、色んな遊び方ができそうだ。
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とっとこ岩。とっとことは、糸魚川方なのだ。
言でニワトリのこと。
この岩の周辺は浅いから、泳ぐかパドルボードじゃないとアクセスできない所がいいところ。
ジェットスキーなどが来ないので静かなのだ。






「海のヒスイ・ロード」・・・今度は佐渡?

2014年08月18日 11時58分10秒 | 日本海縄文カヌープロジェクト



軽トラに乗って、三内丸山遺跡に保管して貰っていたシーカヤックの引取りの旅から戻った。
行きは海旅では訪れるとこの出来なかった内陸の遺跡や埋蔵文化財センター、博物館のフィールドワーク。



何時もながら頭が下がるのは、各都道府県の埋蔵文化財センターや教育委員会の学芸員さん達の対応である。
素人の質問に丁寧に答えてくれるのだ。

例えば秋田県埋蔵文化財センターを訪れた時のこと。
展示品を見学していたら、学芸員さんが「何かお調べですか?」と優しく声をかけてきた。
「海のヒスイ・ロード」の事を話すと、奥からヒスイに詳しい学芸員を呼んでくるからと、栗澤先生を連れてきてくれた。


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右側は秋田県埋蔵文化財センターの栗澤光男先生。突然の訪問にも関わらず、わざわざ暑い収蔵庫に入ってヒスイ出土品や報告書を出してきてくれたので、恐縮した。

栗澤先生の「秋田県のヒスイ出土遺跡」という報告書は事前に読んでいて、「海のヒスイ・ロード」では秋田の寄港地として参考にしていたので感激、そして恐縮する。

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縄文晩期(三千~二千五百年前)のヒスイ出土品。
晩期のヒスイ出土品を手に取って観察するのは初めての経験。
勾玉の孔の開け方は、現在とは逆で、裏側から孔開けしている出土品が多いようだ。

栗澤先生は私の話を聞くと、あの報告書は古いですからと恐縮されて、せっかく遠くから来られたんだからと、収蔵庫の奥からヒスイ出土品を沢山出してきてくれて説明までして頂いた。
収蔵庫は鉄骨造で蒸し風呂のように暑いのだ。

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そしてあろうことか、周りの学芸員さん達に声掛けして、「この人は新潟から三内丸山遺跡までシーカヤックで旅をした、糸魚川市のヒスイ職人さんです。滅多にないことだから話を聞きましょう!」と、ちょっとだけヒスイや海旅の話しなどさせて頂いた。

 

私レベルの素人の話しでも、東北の学芸員さんにとっては、ヒスイの現場の話しは新鮮で面白いらしい。
例えばヒスイに光を透過させて鑑定や写真を撮る方法や、具体的な採取、加工方法など。

 

山形県、青森県でも随分と色んなことを勉強させて頂いた。
ここに協力していただいた学芸員さん達に、改めてお礼申し上げます。

  

三内丸山遺跡でシーカヤックを引き取った後は、日本海沿岸を南下して海旅を逆に辿る。

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青森県の七里長浜は25キロもある砂浜だから、シーカヤックで漕ぐだけでは面白くないところ。今回は軽トラ旅だから、海岸を丹念に歩いて面白そうなモノを見つけた・・・それは赤い土質が露頭した崖地。
近くには遮光器土偶で有名な、縄文晩期(三千~二千五百年前)に栄えた亀ヶ岡遺跡がある。

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崖地の近くの小川にオレンジ色の泥が堆積していた。落ちていたペットボトルを拾って泥を採集。

 このまま顔に泥を塗れば、「もののけ姫」のフェイスペインティングである。

 すなわちこの泥は、酸化鉄を大量に含んだ泥であって、精製すれば縄文人が好んで使用していたベンガラという顔料の出来上がり。

 亀ヶ岡遺跡には、赤漆を塗った木製品や土器が大量に出土しているのだ。

 彼らはベンガラを塊りで採集して使用していたから、同じベンガラではないと思うが、この辺りの土壌には鉄分が多いのだろう。

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ベンガラ素材を採集した海岸には、黒曜石も落ちていた。


黒曜石は縄文人は矢尻や石槍、ナイフなどを作っていた石材で、溶岩が急冷して出来た天然ガラスである。

七里長浜の黒曜石は、近くにある岩木山の噴火の恩恵である。

 黒曜石の他は、珪質頁岩などの石器素材も簡単に拾えた。

 海岸で採取した漂石だから、拳大より小さく表面も青白く荒れているので、興味がなければ黒曜石には見えないだろう。

漂石では小さすぎて打製石器を作るのは難しいだろうから、亀ヶ岡の縄文人は、もっと大きい原石を谷筋などの露頭から採取していただろうと思う。

 

こんな感じでゆっくり新潟に帰っていった。

旅の途中で、 新潟県庁の広報部からで予期せぬ連絡・・・新潟県のラジオ広報番組で、泉田県知事と対談して欲しいとのこと。

 最初は友達のドッキリ電話かと思ったが、後から県庁からメールがきてホンモンだと分かった。

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8月12日に新潟市に到着して、県庁にある知事公室で泉田県知事と対談。

 泉田知事は、国会や県議会で毅然とした態度で答弁する姿とはまったく別の、気さくで快活なスポーツマンタイプの人だった。

 この振幅の大きさに知事の器の大きさを感じたが、事前に渡された質問表無視で冗談ばかり言う知事に乗せられて、私も発火法実演や石笛演奏などしてしまったので、編集する人は大変だろう。

 放送は以下

 放送局;FM PORT (http://www.fmport.com/ )

 番組名;「ヒロ&ヒロの新潟ステキ☆プロダクション」

 放送日時;8月24日11:45~12:00

  

そんな訳で8月13日に糸魚川市に帰った。

 三ケ月もほったらかしになっていた本職のヒスイ加工販売に復帰しなけりゃならんのだが、旅の資料纏めと報告書作りも急がねば。

高校時代の恩師で、糸魚川で郷土誌を発行している蛭子先生から、原稿用紙50枚くらいの論文書いて欲しいと頼まれているのだ。

それと・・・詳細は未定だけど、今度は佐渡を目指さないか?という話しも浮上してきた。

佐渡の小木からも縄文中期(五千~四千年前)のヒスイが出土しているのだ。

     


「海のヒスイ・ロード」・・・三内丸山遺跡到着

2014年07月22日 23時36分09秒 | 日本海縄文カヌープロジェクト

竜飛岬を越えて、気が抜けてしまった。
旅が終わった感じがする。

平舘からは静かな陸奥湾。
これまでの二ヶ月間は、向い風や追い風でも白波が立つような荒れた海ばかりで、緊張の連続だった。
しかし竜飛からは下げ潮、つまり対馬海流と同じく私の進行方向へ流れる潮が続き、波も立たず、風も弱くなり、旅の最後に神様がご褒美をくれた感じ。

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静かな陸奥湾には、私の少年時代の糸魚川では使われなくなりつつあったガラスの浮き球がまだ使われていて感動した。帆立貝養殖の定置網とのこと。

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改めて数十年ぶりに見るガラスの浮き球は、青一色ではなく、緑や茶色、それらが混ざった色もあったことを知った。再生ガラスが使われているのだ。

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少年時代にやったように、ガラスの浮き球を透かして辺りを見回したら、やっぱり昔と同じく青く歪んだ世界が観えて、この青い世界に入り込んでみたいと思った。

青森港の近くでも、陸奥湾には馬糞ウニがウジャウジャといた。
豊穣の海が縄文王国を支えたのがよく分かる。
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盛夏でも晴れた日の陸奥湾は、こんなに綺麗だ。
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いよいよ沖舘川が近づいてきた。
事前に、青森県土木事務所河川砂防課に問合せたら、沖舘川から三内丸山遺跡遺跡近くの上流4キロくらいまでは堰堤もなく、流速も緩やかであるが、水深計は設置していないので不明とのことだった。

そこで最後のキャンプ地、油川から歩いて沖舘川を遡り、三内丸山遺跡まで偵察。
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最後のキャンプ地の油川海水浴場は、すぐ近くに油川駅があり、青森駅まで電車で20分ほどの距離。

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沖舘川河口。五千年前には、地球温暖化で三内丸山遺跡手前まで陸奥湾が広がっていた。沖舘川は、その時代の名残りとのこと。

最後の1キロくらいはシーカヤックから降りて引いて歩けば、三内丸山遺跡に隣接する遊水地であるリバーランドから上陸できそうなことを確認した。

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上陸地点を三内沢部橋と決め、ゴール当日の取材申し込みがあった朝日新聞社と陸奥新報、受入れをしてくれる三内丸山遺跡の縄文自遊館、それに糸魚川市から650キロも車を飛ばして出迎えてくれるという友人の赤野さん一家に連絡をする。

ゴール日時は、赤野家の都合に合わせて7月19日午前中と決めた。

青森最後の朝、出発準備をしていたら、早朝の犬の散歩で顔見知りになったオバチャンがコンビニ弁当の差し入れを持ってきてくれた。

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青森の人はなんて親切なんだろう。

当日の天候は、天気予報に反して、風も弱く雨も降っていない。

最後の難所は、青函連絡船のフェリーターミナルだ。
沖の離岸堤まで大迂回・・・予想通り、北東のウネリが離岸堤に反射して、1mほどの掘れたウネリがグチャグチャになって待っていた・・・初心者には生きた心地がしないレベル。


そしてついに沖舘川に入った。風もウネリもない水域を快漕!

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二つ目の橋の上から、横断幕を持って手を振っている親子がいた。
横断幕には、「山田さん がんばれ!」と書いてある。
初対面だったけど、青森市在住のフェイスブック仲間のTさん親子だった。

私の通過を、橋の上で2時間も待っていたくれたとのこと・・・これには痛み入った。

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事前の下見通り、河口から3キロくらいでジャングルっぽくなって、水深が浅くなってきた。

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こんな場所ではシーカヤックを降りて引っ張るしかない。探検みたいでワクワクした。

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上陸地点まで500mほどの所で、糸魚川から駆けつけてきた赤野さんが手を振っていた。二ヵ月ぶりの再会。写真は赤野さん撮影。

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上陸地点の三内沢部橋で、赤野ファミリー、縄文自遊館の三浦事務局長、朝日新聞の鵜沼記者、陸奥新報の石橋記者が待っていてくれた・・・沖舘川遡上は4.8キロ。ただ感無量。

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上陸した後は、赤野キッズと三内丸山遺跡まで歩く。

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到着!出発地点の上越市から三内丸山遺跡までのGPS測定距離は、780キロだった。

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熱い日だった。

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三内丸山遺跡出土のヒスイに再会。

20年前に三内丸山遺跡を訪れた時に、このヒスイが五千年前に糸魚川から丸木舟で三内丸山遺跡まで運び込まれたのだと学芸員さんから聞いたことが、日本海縄文カヌープロジェクトを始めるきっかけになったのだ。

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私の愛艇、「縄文人(見習い)号」・・・二ヶ月間も陽に炙られ、潮風に曝され、時化の海を乗り越えて、780キロを共に漕ぎ渡ってきた頼もしい戦友。

今はエアコン完備の三内丸山遺跡縄文自遊館のバックヤードで休憩中だ。

私はひとまず赤野さんの車で糸魚川に帰った。

7月24日に県立海洋高校の授業の一環で、丸木舟でミニ航海が予定されているのだ。

7月27日には、火起こし体験会の講師も頼まれている。

8月になったら軽トラで青森に帰って、シーカヤックの引取りに行く。

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折しもねぶた祭りの頃。

それまでゆっくり眠ってくれい・・・縄文人(見習い)号よ・・・。


「海のヒスイロード」…三内丸山遺跡到着の予定。

2014年07月15日 13時26分29秒 | 日本海縄文カヌープロジェクト


青森市まであと20キロの蟹田で、休養を兼ねた時間調整。
竜飛岬を越えて、抜け殻みたいになっている。

時間調整とは、糸魚川の仲間達が7月19日に三内丸山遺跡まで出迎えに来る事になったのだ。
青森県土木に確認したら、三内丸山遺跡西側にある、沖館川を遡上すれば、遺跡から歩いて直ぐの所までなら行けそうなのだ。

竜飛岬から追風が吹いている。
朝日新聞と、東奥日報さんからも取材を
受けた。
朝日新聞の鵜沼記者は、青森版と新潟版、全国版の夕刊、それとWeb版に記事を出したいと随分と熱心に取材されたので、当該地区のかた、暫く私の記事が載るかも知れませんので、読まれた方はご一報下さい。

以下は、昨日、鯵ヶ沢町教育委員会の中田学芸員からメール頂いた、彼が陸奥新報に連載している随筆の記事である。
ご興味ある方、ご一読のほどを!
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「海のヒスイロード」…竜飛岬越え。

2014年07月13日 13時46分11秒 | 日本海縄文カヌープロジェクト
海のヒスイロード実験航海実験で最大の難所としていたのは、対馬海流が狭い津軽海峡を流れる竜飛岬てある。
旅も後半に入り、竜飛岬が近づいてきて、緊張感が高まってきた。

十三湖で出逢った青森のシーカヤッカーは、竜飛岬の展望台から見下ろすと、凪の日でも白浪が立って渦が巻いているので、あんな恐ろしい所は絶対に行きたくない!と言っていた。

竜飛岬越えのベース基地は、15キロ手前の小泊港。
小泊の漁師達に、竜飛岬周辺の海の情報を聞いてまわり、北西の風の時は時化るので絶対に駄目であり、南西風の時なら下げ潮でウネリも無いとアドバイスを貰う。

折しも巨大台風8号が沖縄に被害をもたらしていた時である。
晴天続きの青森も曇り勝ちになってきた。

しかし漁師の話では、今の曇り空は梅雨前線停滞の影響であり、台風とは関係ねぇ、竜飛岬を渡るなら今だぞ!と励まされる。
漁師達に、十三湖で聞いた竜飛岬の渦の事を尋ねたら、渦は年中巻いているが、磯伝いは静かで台風が九州に上陸する迄は凪が続くだろうとの事。

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小泊の役場の屋上には、イカ釣漁船が乗ってる。
ここは津軽海峡の緊急避難港であり、役場には船員の為の各種申請窓口があった。
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小泊漁港の前には、船具や船に必要な食品、酒タバコ、衣類等が置かれている船具店がある。
青森の漁師が愛用する、間切(マキリ)が売っていたので購入。
間切は、アイヌの鉈であるタシロから派生した片刃平造りの万能ナイフである。
青森の漁師は、イカ切りとも呼び漁船に積込んでいる。
柄が大き目なので、海に落としても沈まないのだ。
中央の内反りのある刃物は、ロープカッター。


竜飛岬を越える数日前から気が昂ぶって眠れなくなつた。
前日は、銭湯で髭や髪を手入れして、不要品を糸魚川に送ったり、処分して身辺整理をした。
シーカヤックに積んでいた20リットル近い水も3分の1程度に減らして軽量化。
少しでも軽くして、一気に竜飛岬を越えるつもりである。

竜飛岬越えの朝、興奮して2時に目覚める。
朝早いほど凪だとのアドバイスだったので、5時に出発。

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漁師のアドバイス通り、ウネリも無く下げ潮でしかも斜め後ろからの追風で快走。
二ヶ月の旅の間、こんなに良いコンディションは初めてで、あつという間に竜飛岬に到達。

しかし岬の2キロ手前から向風が吹き出した。
岬の反対側から吹き込む風なので、不吉な予感。
そして岬に到着した途端に東の出し風、つまり山瀬(ヤマセ)に変わった。
山瀬が吹き出したら、大至急岸を目指すのが鉄則。
これ迄、山瀬では散々な目にあっているのだ。
竜飛岬の西側の入江にたどり着く頃には、風速10メートル越えのブローとなり、命からがら上陸。
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竜飛岬の西側の入江。山瀬が吹くと急激に空が暗くなり、気温が下がったので岩陰で休憩。
この入江のお陰で命拾いした。

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竜飛岬の展望台に登って岬の反対側を偵察。
確かに聞いて通り渦が巻いていたが、漁師の言うように磯伝いはウネリも無いし、風も吹いていないようなので一安心。


2時間程で山瀬が収まってきたので、遂に竜飛岬越えである。
とにかく磯伝い、磯伝いと言い聞かせて岬に近づき、怖気づく気持ちを払拭する為に、ワッショイ!ワッショイ!と声を出す。
ケンカ祭りの掛け声だ。
どんな困難な時でも、この掛け声を出すと祭り仲間と共に在るのという心強さがある。
先祖代々、この掛け声で神輿を担ぎ、走らせてきたのだ。
先祖と共に在る…そう実感出来る。
下げ潮がシーカヤックのケツを押してくれた。
仲間や先祖が力を貸してくれた。
そして左側50メートルに渦を見ながら、竜飛岬を越えた!
最後の岩場を回って安全圏に入った時、竜飛岬の神にお通し下さいまして有難うございました!。と心から礼を言った。
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竜飛岬を越えた時、不意に男泣き。
最大の難所を越えたのだ。
個人の力ではなく、先祖や仲間と越えたのだ。
シーカヤック経験1ヶ月の初心者が、神の加護の元、絶好のコンディションで越える事が出来たのだ。
こんな経験を積むと、無神論者では有り得なくなる。


今現在、私は陸奥湾に入り、平舘の「ペンションだいば」さんで休養を取っている。
まだ気が昂ぶって熟睡出来ないでいる。

最終目的地は青森市の三内丸山遺跡。
あとは静かな陸奥湾内を南下して、沖館川を3キロ遡上すれば良いだけなので、冒険は終った。
残り数日で旅が終る。

糸魚川の友人達が、7月19日に三内丸山遺跡まで出迎えに来ると連絡があったので、ゴール予定日とした。
別の友人が朝日新聞と東奥日報さんを紹介してくれて、取材も決まっている。
心地良い脱力感、そして寂寥感に浸っている。

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居心地のよさで、平舘で三日間もお世話になった「ペンションだいば」さんの看板娘、キリちやん。
天真爛漫な青森美人で癒やされました(^^ゞ。
一階がレストランで、何を注文しても、納得の味とボリュームで、普通の生活を満喫した。

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ペンションだいばの晩ごはんは、鯨、鯛、ヒラメ、アンコウ、イカ、ムツ、ホタテなど八種類もの地元産魚介類が入っていて、他の宿泊客も豪華さにビックリしていた。

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海まで歩いて三分の位置にあるペンションだいばの部屋からは、平舘灯台が見える。
部屋に居ると、潮騒やウミネコの鳴き声が聞こえ、とても居心地がいいのだ。
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ペンションだいばからは、下北半島が手の届くような位置から見える。
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竜飛岬を越えて疲れたシーカヤッカーにとつて、平舘灯台は静かな陸奥湾内に入った事を教えてくれるサイン。
灯台の後に見えるのがペンションだいば。
灯台の前の浜に上陸すれば、歩いて三分でペンションだいばというアクセスも最高である。
これからシーカヤッカーの憩いの宿になるのではないだろうか?










「海のヒスイロード」…縄文王国青森に到着。

2014年07月04日 18時08分55秒 | 日本海縄文カヌープロジェクト

秋田県境の岩場を越えたら、その名の通り青い森の風景が広がって青森県に入った。
感慨無量。
白神山地を右手に見てひたすらシーカヤックを漕ぐ。
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深浦の手前で難破船がお出迎え。
東日本大震災とは関係なく、去年の台風で難破した外国船籍の船だそうだ。
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子供の頃に好きだったアニメ、未来少年コナンに出てくるような光景。


海の色も濃く、ビー玉越しに海底を見ている感じで感激。
また海辺には、秋田までは無かった流木を集めて薪作りする風景面が頻繁に見られるようになった。
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凸凹して太さも違う流木をこんなにも丁寧に積み上げる技術は凄い。

流木を薪するには、最初に少しづつ砂浜に集めて放置して、雨で塩分を抜く作業をしてからのようだ。
浜辺には流木の小山が点在していた。

そうしないと薪ストーブが塩分で痛みが早い事もあるだろうし、乾燥を早める事にもなるのだろう。
流木を乾燥させた後、家の近くの加工場に運び込んで長さを切り揃えて入るようだ。

今時、そんな手間暇を掛けて薪作りする人々を目の当たりにして感動した。
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浜辺に点在する流木の山。

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それ程の手間暇を掛けて薪作りするのは、お年寄りの仕事。
恐らく、次世代には継承されていかない失われつつある光景。
民俗学者、宮本常一がレポートした、戦前の暮らしが辛うじて残っているのだ。


そして何より感動的なのは、青森の漁師さん達の人懐っこさと優しさ。
休憩に立ち寄った漁港では、どごから来たの?お茶っこ飲んでけ!サザエ食うか?蟹持ってけ!ともてなしてくれるのだ。

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沖では、そんなちっこい船で大丈夫かあ~?と声を掛けてくれる。秋田までは無かった事。

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サザエの刺し網漁師。
バケツ一杯のサザエを持ってけ!と言われて慌てる。

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カニ持ってけ!
漁師さん達が何かをくれる時は、バケツ一杯が単位。
青森の漁師さん達のは、なんて人間臭い人達だろう。
流木の薪作りと同じく、漁師も後継者がいないようだが、あの人間臭い人々が、末永く幸あらんことを切に願う。



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深浦、鯵ヶ沢と、縄文時代のヒスイ出土遺跡が続く。
鯵ヶ沢町教育委員会の中田主任学芸員を訪ねた。

見せて頂いた出土品に、どうも糸魚川産の蛇紋岩製らしい磨製石器を見つけた。
鯵ヶ沢でもご先祖に出逢ったのである。

これから竜飛岬を目指す。
最終目的地の青森市の三内丸山遺跡まで、残り150キロ程。
天気さえ恵まれれば、二週間で到着する位置まで来ているのだ。

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青森の海は、本当に美しい。
そして人々が素晴らしく親切。






「海のヒスイロード」…男鹿半島に首ったけ。

2014年06月23日 17時48分43秒 | 日本海縄文カヌープロジェクト
男鹿半島は風光明媚この上ない。
特に日本海に突き出た西海岸は、海の色も紺碧で、潮の流れもウネリも強く、これまで未体験の外海の感じ。
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岩場には、名前を持つ奇岩が多く、洞窟もある。
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加茂青砂のカンカネ洞。
広さ五十坪あるそう。

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長閑で美しい加茂青砂は、83年の秋田沖地震の津波で、遠足中の児童が津波に飲まれて十三人が亡くなった入り江。
男鹿半島の紺碧の海は、哀しい記憶を刻んだ深い色。
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青砂の名前の通り、加茂青砂付近の砂浜は、グリーンタフの岩盤が風化した石や砂利が多いが、赤系の石も多いので波打ち際は、パステル画のようにメルヘンチックだ。

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地元の人によると、戸賀地区の石には五色あるとの事。
確かにシーカヤックを漕いでいると、岩場毎に色がハッキリ違っているので面白い。

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休息した入江で、漂着したペットボトルを集めてみた。
ベトナム、天津、福建省、台南、ソウル、そして左端はなんとウクライナ産!
男鹿半島には、太古から様々な人やモノが流れ付いていたのだ。ナマハゲも漂着したロシア人という説もある。

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昭和三十年代の風景が残こる加茂青砂小学校は、10年ほど前に廃校になった。
秋田県は、全国一の過疎率だそうだ。

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戸賀湾の各集落には、漁業の神が祀られている。
神の名前も姿も集落毎に各様だが、野太い素朴さに溢れていて見事。ここは民俗資料の宝庫でもある。



しかし、男鹿半島で最も印象深いのは、人々の人懐っこさと親切さ。
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お世話になった一人、戸賀湾の肝っ玉母さん、海菜食堂の女将さん。

男鹿半島の人々は、自然環境が厳しい故に相互扶助の気質があるのか?
様々な国から流れ付くペットボトルの様に、太古から旅人を受入れる気質があるのかも知れない。
とにかく男鹿の人々は、人情味が厚く、面倒見が良いのだ。

初対面の私を、離れた温泉やお店まで車で送迎してくれたり、買物すると野菜やお菓子をサービスして頂くのはしょっちゅうで、連日お世話になりっ放し。

明日には男鹿半島を離れるが、非常に名残惜しい。
男鹿の人々に幸多からんことを心より願う。











「海のヒスイロード」…男鹿半島の先祖の足跡。

2014年06月20日 20時40分50秒 | 日本海縄文カヌープロジェクト
男鹿半島に到着。
男鹿の玄関口の船川港の高台にある、縄文中期の大畑台遺跡からは、糸魚川の長者ヶ原遺跡出土の石棒とそっくりな石棒が出土している。

火炎型土器の破片も出土しているので、ある考古学者は糸魚川の縄文人は、五千年前に丸木舟に乗って確実に男鹿半島まで来ていると推測している。
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秋田県立博物館に収蔵された大畑台遺蹟の石棒。

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県立博物館で対応して頂いた女性や学芸員さんは、時たま「んだすナ!」と秋田弁を混じえて丁寧に説明して頂けた。
方言混じりだと温かみがあって好感が持てる。
各都道府県の博物館は、すべからく方言混じりで説明したらどうだろうか?
人間臭くて旅情を感じて、旅の出会いが印象深くなると想うとのだが。
それにしても、天真爛漫でめんこい女性だった。

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こちらは男鹿市教育委員会の五十嵐主任。
博物館には展示していない石棒と、火炎型土器の破片を男鹿市の収蔵庫で特別に見せて頂いた。
手にしているのは、火炎型土器の破片。

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男鹿市収蔵庫の石棒。


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男鹿半島では昭和三十年代まで丸木舟が使われていたそうで、五十嵐主任の案内で、男鹿公民館に展示された丸木舟も見学。

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男鹿半島をまわれば能代市で、能代川流域からもヒスイ出土の遺跡がある。
シーカヤックから観ている風景は、先祖も観た風景と想うと感慨深い。