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釋守成の転居物語(旧タイトル・GONTAの東京散歩)

またまた転居を目論んでいます。
5年間で5回の転居。
6回目の転居の経緯を書いていきます。

晴れた日に

2013年01月29日 19時57分44秒 | お散歩日記/東京地名の話
スカイツリーの下からのんびりと散歩。

まず、浅草通りを西へ。

平日でも歩いている人がたくさん。

スカイツリー近くには、普通の商店がお土産物を売っていたり、スカイツリー開業に合わせて開店した新しい飲食店がいくつも。
こんだけ客がいれば間違えて入ってくる人もいるのかも。

吾妻橋を渡ったら、撮影ポイントでパチリ。
さすがに平日は撮影する人はいません。
休日はすごい人なんだけど。
人力車のお兄ちゃんもヒマそう。

でも、水上バスの待合室はたくさんの人。

外観が昔に戻った松屋で用事をたして、新仲見世を通って西へ。

国際通り、合羽橋を通過。
どこも人が多い。

合羽橋を過ぎると人は少なくなって、お寺の多い下町のいい風情。

下谷神社前から上野駅前へ。
上野の駅周辺は混雑しているので、地下道に入って京成上野駅へ。

外へ出て横道へ入れば冬枯れの不忍池。

そこから湯島駅はすぐそこ。
ポカポカした昼下がりの散歩でした。
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ハチ公バスに乗って

2013年01月23日 04時54分24秒 | お散歩日記/東京地名の話
昨日、生まれて初めて「ハチ公バス」に乗りました。

港区の「ちぃばす」にはよく乗るのですが、「ハチ公バス」は初体験。
渋谷駅東口から恵比寿ガーデンプレースまで乗車しました。

「ハチ公バス」のルートは四つ。
乗車したのは「恵比寿・代官山循環 夕やけこやけルート」です。
渋谷区は、港区と違いルートの運行会社が三社あります。
このルートは東急バスです。

コミュニティーバスはどこでもそうですが、本当に細い路地まで入っていきます。
とくに「ハチ公バス」はすごい、乗用車と行き違えないところまでありました。
そして迂回また迂回・・・・渋谷→恵比寿ガーデンプレース間が約45分。
まぁ、物見遊山や暇人じゃないと長い区間は乗りませんね。


そして、驚いたのはバスの出入り口が一箇所しかないということ。
20分に一本ですが、「ちぃばす」ほど乗っていなかったから、乗り降り同じ口でも大丈夫なのかも。
京王バス東が運行する2ルートとフジエクスプレスが運行する1ルートのバスも調査する必要はありそうです。
この三社のバスは色違い、間違わないようにしているようです。
東急が赤、京王がオレンジ、フジが青となっています。

台東区の「めぐりん」や墨田区の「すみまる・すみりん」など東京には多くのコミュニティーバスが走っています。
知らない街の路地、都バスだけじゃなくて、コミュニティバスの旅も楽しいですよ。

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巳年ネタ

2013年01月19日 14時18分14秒 | お散歩日記/東京地名の話


突然、蛇でごめんなさい。

数年前の初夏、浜離宮の築地川に面した「将軍お上り場」の近くで撮影しました。
「将軍お上り場」は徳川慶喜が鳥羽伏見の戦いで負けたあと、軍艦「開陽丸」で大坂を抜け出し、ここから上陸した場所です。
浜離宮の正門は、浜大手門といいますから、江戸城の海の玄関だったわけですね。

この蛇、



ゆっくり築地川を泳いで行きました。



そして向こう岸の石垣で日向ぼっこ。

東京にもまだまだ蛇の住める環境はたくさんありそうです。


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志村あたり

2013年01月13日 18時30分03秒 | お散歩日記/東京地名の話
今日は板橋へ。
板橋の中山道板橋宿の辺りは何度も訪れたことはありますが、その先の志村は未踏の地でした。
ただし、子供の頃に伯母の一家が住んでいたので行ったことはあるんですが、なにしろ未就学児の時代でまったく記憶がありません。
その頃はたぶん都電で行っていたと思います。

今日は、三田線で本蓮沼。
この辺りから志村坂上までは旧中山道が新道と一緒になっているので、板橋宿辺りのような風情はあまりありません。
でも、一歩裏道にはいると寺や神社が多く歴史を感じさせるものが多くあります。
また、武蔵野台地が新河岸川、荒川の氾濫原に接する場所に当たり、起伏にとみ、いくつもの湧き水が見受けられました。

部分的に残った旧道の清水坂、志村一里塚や志村城あとの高台など、中世から江戸時代の遺構も見受けられ楽しい街歩きとなりました。


志村一里塚


見次池

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歌右衛門桜

2010年04月28日 01時21分58秒 | お散歩日記/東京地名の話
早稲田大学演劇博物館に「六世中村歌右衛門展」を見に行きました。



演劇博物館は正式名称「早稲田大学坪内博士記念演劇博物館」といって、1928年(昭和3年)に坪内逍遥の古希とシェイクスピア40巻の訳が完成したことを記念して設立され、建物はイギリスのエリザベス朝(16世紀)の劇場を模して作られたものです。

私が在籍していた前進座とも関わりがあります。
1947年(昭和22年)11月9日にこの建物も前で、野外劇「ベニスの商人」を上演しているのです。
もちろんこの時のことは知りませんが、前進座の座史には必ず出てくる項目なので、演劇博物館というと野外劇が思い出されます。

さて、六世歌右衛門は、昭和を代表する立女形です。
六世歌右衛門と演劇博物館は、父の五世歌右衛門が坪内逍遥と交友があり、さらに当人も、逍遥作「沓手鳥孤城落月」の淀君を当たり役にし、第一回坪内逍遥賞を受賞するなど深い関わりがありました。
その縁から、遺愛の品々が演劇博物館に寄贈されているそうです。

寄贈品の中には、歌右衛門の世田谷区岡本の自宅の庭にあった「桜」も含まれています。

歌舞伎で「岡本町」といえば六世歌右衛門を指したほど、岡本という地名と歌右衛門は深く結びついていました。
六世のご子息の梅玉丈がその自宅を手放すときに、そこあった「桜」を寄贈なさったそうです。
桜は演劇博物館の前ではなく、大学の14号館の前にあります。
土壌や日照の関係でそこに植えられたということです。



桜は里桜の「鬱金(うこん)」で、ソメイヨシノに比べると遅咲きです。
さらに今年の不順な天候で、四月も末でしたが、まだ十分楽しめました。



この桜を六世は日々楽しんでいたのだと思うと、いいものを拝見できたと感激でした。
「鬱金」は最初は薄い緑色の花ですが、時が進むとほのかに赤味が増してきます。ほんのり赤くなった花は、歌右衛門丈の頬紅の色を思い起こさせて、不思議な色気を感じます。

私がうまれて初めて見た歌舞伎が「妹背山女庭訓」で、その時の後室定高は歌右衛門丈でした。花渡しから吉野川と満開の桜とともに話は進みます。
美しい歌舞伎でした。
私が後年芝居の道に進んでだのは、この歌舞伎との出会いがなければなかったと思います。

その後も、「道成寺」花子、「金閣寺」雪姫、「関の扉」小町と墨染、「女清玄」の新清水など歌右衛門丈の舞台には桜が良く似合いました。

2001年(平成13年)3月31日、六世歌右衛門は岡本の自宅でこの世を去ります。
その日は、満開の桜に雪が舞ったそうです。それで、歌右衛門丈の命日は「桜雪忌」。

本当に桜に縁の深い役者さんです。

そうそう、墓所は青山霊園にあるということで、来年の命日には、桜の下でお参りしてみます。


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東京なのに東京じゃない

2010年04月17日 05時36分02秒 | お散歩日記/東京地名の話
昔から不思議に思っていたことがあります。

千葉県松戸市に「都営八柱霊園」があること・・・・・・。

東京なのに東京じゃない?
そこは東京都の飛び地なのだろうか?
子供心に不思議でした。

行ったことないし、桜もきれいらしいから、行ってみようか・・・・と出かけました。

降り立ったのは、北総線の松飛台駅。
松飛台って、これも不思議な名前ですが調べてみると、陸軍松戸飛行場があった場所にちなんでつけられた地名のようです。
それにしても北総線は運賃が高い!

駅の北側に出ると坂の上にもう霊園が見えます。
霊園前の通りは桜のトンネル。
今年の持ちのいい桜がハラハラと散っていました。



霊園の塀沿いに東へ向かうと松飛台門。
霊園の東南の角になります。
東側にはでかいマブチモーターの本社に工場。

霊園内にはそんなにたくさん桜はなさそうですが、あちらこちらに見えます。
青山や谷中の墓地とは違って、ほとんど同じ大きさの墓石が整然と並んで、そして樹木が巨大ではないので、広々と空が開けて、まるで巨大な広場か公園のような感じです。
同じ都営霊園でも感じが違いますね。



だいぶ園内を歩いたのに地図を見ると、まだ中央部まで来ていない。
広さ105万㎡、23区内最大の青山霊園が26万㎡だからざっと4倍の広さ。
でかいはずです。
ちなみに都営霊園の最大が多磨霊園130万㎡だそうです。
でも、多磨霊園も巨大な墓や樹木が多いのでそんなに広い感じはしませんが、八柱霊園は本当に広く感じます。

さて、なんで千葉県松戸に東京都営霊園があるかのお話です。
明治になって、旧朱引内(俗に江戸と呼ばれていた地域)内の埋葬が禁止となります。
そこで埋葬地が定められ、青山(立山を含む)、谷中、染井、雑司が谷の墓地が作られます。
大正期には人口増加で、上記四ヶ所の埋葬地も余裕が無くなり、さらに、亀戸や深川にあった埋葬地は廃止となりました。

そこで郊外、西方・東方・北方に新しい市営墓地を作ることになったのです。

大正10年に西方に多磨墓地が完成、昭和10年に東方に八柱霊園が完成しました。
北方の小平霊園が完成するのは戦後、昭和23年のことです。

大正10年は東京市がまだ20区の時代、昭和10年でも35区になった時代で今の東京23区がその市域でしたから、多磨墓地も東京市営墓地でありながら、北多摩郡多磨村にありました。
そして東方の墓地は、東京府内東部には広大な用地が無く、当時の千葉県東葛飾郡八柱村の田中新田に用地を求めたようです。


当時は、市営墓地(都営)ですから使用は東京市民(都民)に限られていたようです。
まるで、東京のベッドタウンというか永眠タウンというか・・・。
現在では松戸市民の利用も認められているようです。

実は面白い事実を発見しました。
東京都営の霊園が松戸にあるのが原因で土地が無かったのか、松戸市の市営霊園は隣の白井市にあるということです。
お墓の玉突き・・・・・。

だいぶ歩くと、北側にある正門に出ます。
正門の辺りは自然の地形を生かしたつくりで、ここが墓地だなんて思えない公園風のつくりです。
そういえば、都営霊園で最初に「霊園」を名乗ったのはここだとか。


正門前の緑地


正門付近の桜は見事でした。

正門前の通りにはたくさんの休憩所や石材店が肩を並べていました。
ここから新京成線の八柱駅までは20分ほど、この駅も昭和30年の完成といいますから、それまでこの霊園はどれだけアクセスが悪かったか想像できます。

東京都の施設にはほかにも、朝霞や三郷の浄水場や山梨県にある東京水道水源林など、都内に存在しない施設が数多くあります。
もちろん、利根川や荒川上流のダムも東京都の施設なのです。(他県と共用ですが・)

東京の暮らしは他県にも支えられているんですね。

帰りは、そばにある常盤平から五香へと続く長い桜通りを楽しんで家路につきました。


常盤平の桜並木







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原宿の逆襲

2010年04月15日 19時46分55秒 | お散歩日記/東京地名の話
東京メトロの3月のダイヤ改正で、休日、副都心線の明治神宮前駅に急行が停まるようになりました。
それと同時に、駅名が明治神宮前(原宿)と変更になったのです。

もともとJRの原宿駅の接続駅としたできた千代田線の駅は、なぜか「原宿」とはならず「明治神宮前」を名乗っていました。

さて、この地域の歴史を振り返ってみましょう。

明治36(1906)年10月30日、原宿駅開業
昭和14(1939)年9月16日、銀座線「青山六丁目」駅を「神宮前」駅と改称
昭和40(1965)年8月1日、神宮前の住居表示施行
昭和47(1972)年10月20日、千代田線「明治神宮前」駅開業、同時に銀座線「神宮前」駅が「表参道」駅に改称
平成22(2100)年3月6日、「明治神宮前」が「明治神宮前(原宿)」に改称

現在、住居表示で「渋谷区神宮前」となっている場所の旧町名は、原宿、隠田(おんでん)、竹下町などでした。

おおむね、表参道の東側から外苑西通り辺りまでが、「原宿」。
竹下通り周辺が「竹下町」。
そして、竹下通り、表参道の西側が「隠田」でした。
原宿駅は、旧住所は「隠田」、なぜかというと、原宿駅は開設時は、今よりも代々木駅よりにあったそうで、その場所は「原宿」の区域だったからです。
中世の原宿村は、中心は現在の外苑西通り付近で、鎌倉街道の宿駅だったようです。
私が住む西麻布辺りにも原宿村五反田という飛び地があったようです。

住居表示の話に戻ります。
当時の風潮で、住居表示該当地域に複数の地名があるとその合成地名をつけたり、まったく新しい地名が採用されました。
その結果、歴史を無視した地名や、東西南北、上中下、中央などという、方向地名が出現したのです。

そうなると、この地区も新町名をつけなければなりません。
まず、隠田は読みにくいので却下、そうするともう一方の原宿だけ残すわけにもいかなかったようです。

そこで、新地名の候補に挙がったのが、地下鉄の駅名にあった「神宮前」。
しかし、銀座線の駅は、渋谷区ではなく港区青山にあり、もちろんこの住居表示地区にはありません。
ですから、住居表示施行から「神宮前」駅の改称までの7年間、地名と駅が違う場所にあるという不思議な現象が起こっていました。

渋谷区は住居表示施行前にも愚行に走っています。
昭和40年3月に渋谷区町名で当時の国鉄に「原宿」駅を「神宮前」駅に改称するように陳情を出したそうです。
しかし、あっさり国鉄に断られたということです。
その当時、地下鉄「神宮前」が存在していたのですから、そう簡単に改称はできなかったはずです。
このときに駅名が変わっていなくて良かったんじゃないでしょうか。

しかし、住所「神宮前」はなかなか定着、浸透しませんでした。
今でも一般的に、あの区域は「原宿」あるいは「表参道」と呼び、だれも「神宮前」とは呼びません。

メトロが「明治神宮前」を名乗っても、あそこはあくまでも「原宿」なのです。
副都心線ができ、土日の東上線、西武池袋線方面から乗客を誘導するのに、土休日の急行を停車させても、「明治神宮前」ではどこだかわからないということになったのでしょう。
それで、「原宿」併記が行われたと思います。

これぞ長年、虐げられてきた「原宿」の逆襲。

そんなに客が欲しかったら「原宿(清正井)」なんって改称したほうがいいのかもしれません。


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渓流の宝石

2010年04月02日 20時37分51秒 | お散歩日記/東京地名の話
最近、都内でもカワセミを見かけます。
散歩をしていて、でかいカメラを持ったおじさんがたむろしていたら、間違いなくその付近にカワセミがいるはずです。

先日、武蔵関公園に入るなり、たくさんのおじさんがたむろしていました。
そばには、公園で見られる野鳥の案内板。
それを読んでいたら、にわかにおじさんたちが移動。
看板の先の池の中から出ている枝の先に、カワセミがいるじゃないですが。

魚を捕食する姿も見られ、さらに二匹も・・・・。

私の安いデジカメでも充分撮影できました。

都内ではほかに、小石川後楽園などで見たことがあります。

自然教育園、明治神宮御苑、水元公園なんかにもいるようです。
自然教育園では、モニターカメラで生態観察もできますよ。


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浅草松屋

2010年03月01日 23時47分19秒 | お散歩日記/東京地名の話
浅草の松屋が昨日で4階より上が閉店しました。
愛情をこめて「あさまつ」って呼んでいる下町のデパートです。

昭和6年(1931年)11月1日、東武鉄道が浅草駅まで開通したときに駅ビルテナントとして開店したといいますから、もう79年もたっているんですね。

建物は久野節設計で、昭和初期を代表するアール・デコ調の建造物で、外壁は覆いかぶされていますが、階段などにも建築当時の面影を見つけることができます。



階段の手すりもアールデコ

規模縮小の話は、少し前にニュースで聞いていましたが、まだまだ先の話、こんなに早くなると思っていませんでしたから、ちょっとびっくりしました。

三階より下は今まで通りに営業するので、完全に閉店するわけではないんですが、あのゆるい、東京の百貨店とは思えない雰囲気がなくなるのは寂しいものです。

少し前に、衣料品を買いに行くと店員のおば様が、「それは品物が余りよくないから、向こうのにしたほうがいいですよ。」なんてアドバイスしてくれて、ここは大手百貨店なのかと思いつつも、そのフレンドリーさに驚嘆したのを覚えています。

石鹸やタオルのバラ売りなんかも良くやっていて、本当に不思議なお店でした。

最近は屋上からのスカイツリーの眺めが話題になっていました。
4階から上が閉鎖ということは、当分屋上に上れなくなるなと思って、閉店二日前に出かけました。



でも思ったほどスカイツリーの眺めもよろしくなく、少しがっかりしました。

北側はがらんとした広場。夏にはビヤガーデンでにぎわったようです。
端っこには「正一位出世稲荷」が鎮座してます。





でも、不思議な遊具がたくさんある屋上は一昔前のパラダイス。
隅田川や吾妻橋、工事中で覆いがかぶさった浅草寺の本堂や五重塔、昔はさぞかし景色が良かったことでしょう。

屋上から順番に階を降りてくると、食堂に催事場・・・・全館売り尽くしのなのに催事場でまだバーゲンをやってる不思議さ。
うーん、誰が着るのか場末の洋品店にも置いていないような紳士服に婦人服。

食器売場はたくさんの人だけど、元が高いから半額でも高い。
文房具売場は、半額で黒山の人だかりだけど、ペンの類は赤や青ばかりで黒がありません。

十数年前にここで誂えで浴衣を作ったけど、今は呉服売場もなくなって、数年前から、ユニクロや電気店、書店など直営でない店が売場を占めるようになっていました。

最近は、地下の食料品と1階のお菓子売場しか行かなくなっています。
食料品売場の売り子さんに聞くと、地下はそのまま残るということで一安心しました。

いつまでも残って欲しい場所です。
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水が湧く場所なら・・・・・

2010年01月26日 04時10分24秒 | お散歩日記/東京地名の話
もし水が湧く場所がパワースポットであるならば、お勧めの場所を二つご紹介しましょう。

ひとつはあの「ブラタモリ」でさらに有名になった麻布『がま池』。


がま池の水面

この池の持ち主の家に火事の火の手が迫ったときに、大がまが池から出現して水を吹き屋敷を守ったという伝説がある池です。
場所は、麻布の高台・・・・とだけ申し上げておきましょう。
麻布の達人ならご存知のはずの場所。

高校生のころ、塀越しに覗き見した記憶があります。
そのころにはもう家やマンションに周りを囲まれていて中には入れませんでした。
昭和三十年代には池も大きく、近所の子供たちは、ザリガニ取りなどをして遊んでいたようです。

先日の「ブラタモリ」で数十年ぶりに映像を通してご対面しました。
実際に池のそばには近寄れないどころか、水面を見ることも無理だろうとあきらめていましたが、意外にあっさりと水面を見ることができました。
ただし、駐車場から覗き見をしましたから・・・・・。

ここの池は高台のほぼ最上部です。
こんなところにの水が今でも湧いているとても不思議な場所。
すなわちパワースポットです。
伝説から考えても、災難除けなどにご利益があるかも。

さてもうひとつは『根津の吹上の井筒』。
南青山の根津美術館の庭園の中にあり、井筒からはこんこんと水が湧き出しています。
ここは、清正井と同じく古川・渋谷川水系の最上部です。
この谷の上には、古くから麻布大観音をまつる長谷寺があり、園内にも薬師堂や天神の飛梅祠、東熊野、ほたらか山など、霊験あらたかな国内の霊場のミニチュア版もあり、非常にパワーを感じる場所です。
この庭は東の鉄道王、東武鉄道の創始者、根津嘉一郎翁の屋敷跡です。
財を成すという点ではもってこいのスポットではないでしょうか。


吹上の井筒

というわけで、清正井や東京大神宮を上回るパワースポットのご紹介でした。
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