goo blog サービス終了のお知らせ 

釋守成の転居物語(旧タイトル・GONTAの東京散歩)

またまた転居を目論んでいます。
5年間で5回の転居。
6回目の転居の経緯を書いていきます。

節分のお化け

2010年02月03日 07時24分08秒 | 季節
今日は節分。
節分については以前「亀戸天神で節分を考える」で詳しく考察しました。

さて今日は「節分のお化け」の話。

節分の日に、仮装をすることを「お化け」といいます。
京都などでは少し前までそんな風習が残っていたようです。
この日は、年越しといわれ、この日の夜に魑魅魍魎が跋扈するので、それを退治するのが、豆まきです。
そして、魑魅魍魎を驚かせる、または魑魅魍魎に仲間だと思わせて、取り付かれないように仮装したのが、お化けです。

事の起こりは、年配の女性が子供の髪型である「桃割れ」を結い、子供が成年女性の髪形の「島田」を結うということのようです。
ですから「お化け」は「お化髪」であるという説もあるくらいです。

特に関西では、花街(花柳界)に今でもその風習が残っているようです。
東京でも、松竹衣裳さんでは節分には多くの花柳界や社交場の女性が扮装をしにくると、以前聞いたことがあります。

お父さんが鬼に扮するのもそんな仮装の一種なのかもしれません。

仮装して化け物に紛れるという発想はちょっとハロウィンに似ていますね。
立春の前夜が節分で、万聖節の前夜(イブ)がハロウィンなわけです。

節分の暗闇に紛れて、災いがら身を隠すもよし、豆をぶつけられて、災いから逃れるのもよしということです。

さてもう1つの節分の風習の「恵方巻き」ですが、私がそれを最初に目撃したのは、1982年頃大阪の持ち帰り寿司屋でした。
もともと船場の風習だったといわれていますが、復活したのは1970年代の終わり頃だそうで、海苔の消費拡大を図った業界の戦略だといわれています。
まさしく最近の風習で、大阪の人も「昔はなかった。」と首をかしげるようですね。

今年の恵方は「西南西」福を呼び込むようにしゃべらずにお食べください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

七草粥

2010年01月07日 19時30分04秒 | 季節
今日は五節句のひとつ『人日』。
またの名は『七草』。

大学の授業で『小松引き』という行事でこの節句を知りました。
最初は若松を根こそぎ引き抜いたようですが、後には野に出て若菜を摘む行事になったようです。
その若菜で羹(あつもの・スープのようなもの)をいただいたのが七草粥の始まりのようです。

ここ数年、お客さんに少量食べていただいています。

お米2カップに、水7カップ。
洗って30分ほどざるに上げ。
ゆっくり(30~40分)炊いてお粥を作ります。
そして、出来上がり寸前に七草を下茹したものを刻んで加えます。
その時に少し塩を加えます。

デパートの七草はさすがにしっかりしていました。
前にスーパーで買った七草はハコベばっかり。

ちなみにセリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ(カブ)・スズシロ(ダイコン)が七草です。

なかなかおいしく出来上がりました。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

富士山の山開き

2009年07月02日 06時29分24秒 | 季節
七月になりました。七月一日は富士山の山開きです。
富士山信仰が盛んであった江戸時代、富士山に登りたくても登れない庶民は、江戸市中各地に富士塚といわれる擬似富士山をたくさん作りました。都内だけでもその数100に及び、現存する80以上が現存しているようです。

富士山の山開きは五月晦日から六月朔日に登山して、六月朔日の御来光を拝むというのでした。現在では月遅れで七月朔日(一日)に行われています。
今年の富士山は残雪が多く、頂上までは登れなかったようですね。

東京各地の富士神社や浅間神社、また富士塚でも山開きの行事やお祭りが行われています。

特に有名なのが、浅草浅間神社のお祭りで、通称「お富士さんの植木市」と呼ばれいます。開催日は少し変わっていて、もともとの山開き直前の五月最終土日(旧暦の名残)と月遅れの六月最終土日(現在の山開き)の四日間に行われるというかたちで残っています。



浅草浅間神社


最寄り駅/浅草駅


祭神はコノハナサクヤヒメノミコト(木花咲耶比売命)で静岡県富士市の浅間神社から蔵前に勧請・分祀され、江戸時代に現在の場所に移されたということです。
ここはもともとここは小高い丘であったので特に富士塚のようなものは作られなかったようです。都内のどこの浅間神社や富士塚からも富士山が望めたそうで、ここからも富士山の姿が拝めたんでしょうね。

画像の社頭の幕に見える神紋の右側は三社祭でおなじみの浅草神社の神紋で、左側が桜紋です。コノハナサクヤヒメは富士山の女神として名高いと同時に、桜の神様としても知られています。
なぜ浅草神社の神紋が描かれているかというと、この神社は現在浅草神社が管理しているからです。

神社の目の前にはご丁寧に「台東区立富士小学校」まであってなかなか芸が細かいです。



「お富士さんの植木市」と呼ばれるように数多くの植木屋が明治以降たくさん出るようになりました。梅雨の時期だから植物の栽培に適していたからとか、「お富士さん」で求めた苗は根付がいいとか言われ盛んになったようです。
今でも60軒ほどの植木屋が並びます。

植木市がたつあたりは浅草花柳界の見番の前の通りで、いぜんにブログで紹介した旧象潟町の六郷家の下屋敷の跡になります。
今年も見事に西施の合歓の花が咲いていました。



象潟や雨に西施がねぶの花(去年のブログ)

ここの神社では麦藁蛇(むぎわらじゃ)というものが売り出されます。



これは昭和初期まで浅草浅間神社の植木市で頒布されていたものを復活させたものだそうです。
江戸時代寛永年間に駒込に住む喜八という人が、駒込の富士浅間神社の祭礼で売った麦わらの蛇を、珍しさから多くの人が買い求めたそうです。その年、夏に疫病は流行ったのですが、この蛇を飾った家からは病人が出なかったそうです。
それでたいそう評判になり、その後は誰もがこの麦藁蛇を買い求めたそうです。
そうしたことから江戸中の浅間神社でも麦藁蛇を頒布するようになって、浅草の浅間神社でも長く頒布されていたようです。



麦藁蛇は前に頂いたことがありましたので、今回はご朱印をいただきました。

さて次は、その麦藁蛇の発祥の地、駒込の富士神社に行ってみましょう。

駒込富士神社



こちらにはご覧のように立派な富士塚があり、その頂上に社殿が建っています。
富士塚には本当の富士山の溶岩などを使って、富士山に行かずとも富士山に登った気分にさせる工夫がいっぱいです。何合目と書いた石の標柱なんかもそれらしくていいですね。



これは境内にあった富士講の幡・・・本物の富士山に登山した時のものではないでしょうか。



この富士神社は
駒込は一富士二鷹三茄子
と川柳で詠まれています。
駒込には幕府の鷹匠屋敷が今の都立駒込病院のところにあり、また江戸野菜のひとつ駒込茄子で知られた土地だったことからです。
おめでたい土地なんですね。

最寄り駅/駒込駅.本駒込駅・文京区

ほかの富士塚も見てみましょう。

品川神社



品川神社自体が高台にあるので、そこに築かれた富士塚は非常に高く、見晴らしもよくなっています。
まさしく山登りの雰囲気です。

最寄り駅新馬場駅・品川区

鉄砲洲稲荷神社



中央区の鉄砲洲稲荷の富士塚はこじんまりしています。
小さいとはいえ登れるようです。

最寄り駅八丁堀駅・中央区



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏越の大祓・茅の輪コレクション

2009年06月30日 21時49分49秒 | 季節
今日は夏越の大祓
茅の輪くぐりで穢れを落とす日でした。
お参りできなかった方のために、都内の茅の輪の画像をどうぞ。

亀戸天神

最寄り駅錦糸町駅・江東区

浅草神社

浅草寺の隣の通称三社様
最寄り駅浅草駅・台東区

矢先稲荷神社

江戸時代に三十三間堂があって通し矢が行われていたとか。
後に三十三間堂は深川に移転。
最寄り駅稲荷町駅田原町駅・台東区

下谷神社



左側に小さな茅の輪もありました・・・もしかして子供用?
最寄り駅上野駅・台東区

七社神社

最寄り駅西ヶ原駅・北区

浅草浅間神社

最寄り駅浅草駅・台東区

最近、多くの神社で夏越の大祓の茅の輪を設置するようになりましたね。
明日以降神社にいらしても茅の輪はありませんのでご注意ください。

注)画像はここ二、三年間に撮りためたものです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

灌仏会・・・花まつり

2009年04月08日 17時58分34秒 | 季節
4月8日は花まつり、灌仏会(かんぶつえ)です。
そう、お釈迦様の誕生日。
ほかにも仏生会(ぶっしょうえ)浴仏会(よくぶつえ)降誕会(こうたんえ)竜華会(りゅうげえ)花会式(はなえしき)などいろいろな呼び方があります。花まつりは明治以降の呼び方だそうです。

釈迦(ゴータマ・シッダッタ)は現在のネパールのルンビニで、母の右の腋の下から生まれたといわれています。
そして生まれてすぐに右手を上げて天を指し、左手を下げて地を指して、真っすぐに立ち、七歩進み、「天上天下 唯我独尊 三界皆苦 我当度之」といったとか・・・・。
その時、天から2匹の龍が降り、甘露(かんろ)の雨をふらせたといいます。

釈迦の母、摩耶夫人が釈迦を腋の下から生むところは、東博(東京国立博物館)に重要文化財に指定された像があります。
摩耶夫人および天人像

花まつりで、甘茶をかけるお釈迦様の像は生まれたときの再現をしているわけです。お釈迦様の入っている花御堂は、生まれたルンビニの花園を、甘茶をかけるのは龍の甘露の雨を表しているのです。

今ではキリスト様の誕生日よりもマイナーな存在になってしましたが、江戸時代までは、寺子屋は休みになり、公的機関も休みだったようです。
灌仏会が廃れたあたりにも、明治維新後の神仏分離や廃仏毀釈の影響があるのではないでしょうか。まぁ天皇至上主義には、釈迦の誕生日は邪魔かもしれません。



豊島区巣鴨白泉寺の花御堂



上野寛永寺両大師の花御堂



お釈迦様

今年は満開のさくらの下、本当の花まつりとなりました。


さてさて、今日の桜情報です。
青山墓地では「ウコン(鬱金)」が咲き出しました。例年だと「ソメイヨシノ」が散ったあとに咲き出すのですが、今年は同時に見られています。
「ウコン」はサトザクラの一種で、花が黄緑色で、徐々にピンクになってくるのがかわいらしい花です。ターメリックの鬱金に色が似ていることから名づけられたようです。



墓地中央の交差点に二本あります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三月の雪

2009年03月03日 05時26分15秒 | 季節

 「緋毛氈 雛壇の春 外の雪」

「雛の日に 祖母は筑波の 雲になる」

三月三日は雛祭り。
東京では三月に雪が降って積もることがままあります。
それも近年では少なくなりましたが・・・・。
そんな今年の雛祭り、夕方から雪の予報ですがいかがなりますか。

万延元年(安政七年)三月三日、江戸は桜田門外で、上巳の節句(雛祭り)で登城する井伊直弼は水戸浪士らに襲われ殺害されます。皆さんもご存知のように、当日は雪が降っていました。

万延元年の三月三日は現在の暦で言うと1860年3月24日。三月も終わりのころです。
数年前にも桜の花が咲いているのに雪が降ったことがあります。
南岸低気圧というのが通ると東京で春先に雪が降るらしいですね。それも微妙な位置関係で雨になったり、雪になったりするらしいです。

三月の雪で父が昨日父がこんな話をしていました。
昭和36年3月、祖父がなくなる数日前に「葬式に雪が降ってみんなに迷惑をかけるな。」といったそうで、父は「春なのにそんな馬鹿なことがあるわけがない。」と思ったそうです。
実際、祖父が3月26日に亡くなり、葬式のときに雪が降ったそうです。不思議なこともあるものです。まだ子供だった私には記憶にないことですが・・・。

母方の祖母が亡くなったのは雛祭りのころでした。
母の実家で葬式の日、遠くに筑波山がくっきりと見えていたのを思い出します。その日は雪は降りませんでしたが・・・・。

大学の友人が亡くなったのも数年前の3月でした。
友人の葬儀に向かった北海道も暖冬で雪は少なく、東京から駆けつけた友人が、弔辞を読みながら東京で咲き出した桜の花びらを祭壇に散らしたことが今でも思い出されます。そして葬儀が終わって帰京するころには冷たい雨が降っていました。

そんなこんなことを思い巡らせると私にとって3月は悲しい思い出の多い月です。
だから私の春の雪は儚げで寂しいものなのかもしれません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四万六千日とほおずき

2008年07月12日 05時24分25秒 | 季節
7月9日、10日は浅草浅草寺の四万六千日(しまんろくせんにち)です。
この日に観音様にお参りすると四万六千日お参りしたのと同じ効果があるということなのです。
これは功徳日といって、観音様の縁日とは別に、月に一日設けられた日にお参りすると、百日分、千日分、お参りしたのと同じだけのご利益があるといわれる日です。
一年の中でも7月10日は功徳が千日分と最も多くなっていました。それが享保のころから、「四万六千日」とさらに膨大な日数になったそうです。
どうして46000なのか定説はありませんが、米一升の米粒の数が46000で、一升を人間の一生にかけたという話も伝わっています。
また、本来は7月10日だけであった功徳日が、前の日から人が押しかけて一番乗りを目指すので、前の日も功徳日になったということです。

観音様って本当に融通の効くいい神様です。また庶民の少しでも幸せになりたいという思いは、昔も今も変わらないですね。今の人がバーゲンに押しかけてバーゲンの開場が早まるような微笑ましい話です。


四万六千日だけに授与される黄色いお札

さて、一般ではこの四万六千日という呼び方よりも浅草の「ほおずき市」が開かれる日として知られています。
このほおずき市が開かれるようになったのにも、面白い話があります。



話は浅草から芝に移ります。
芝の愛宕山はNHKの博物館や有名なチーズ屋さんがあるのでご存知の方も多いと思います。愛宕山という名前の由来は、山上にある愛宕神社によるものです。
愛宕神社は、京都の火伏せの神様、愛宕神社を家康がこの山上に勧請したものです。

実はここにも功徳日があって、日にちは多少ずれますが、6月23日、24日に詣でると千日ご利益がある「千日詣り」という行事があります。
この千日詣りで売られていたのがほうずきなのです。
なぜほおずきが売られていたのかにはこんな話があります。

江戸時代、愛宕下に住む人が持病の癪に悩んでいました。薬を飲んだりいろいろと手を尽くしますが一向によくなりません。ある夜、夢枕に一人の老人が立ち、「庭先に生えるほおづきを煎じて飲めば、たちどころに痛みが消え去るだろう。」とお告げをします。長屋には庭もなく、どうしたらいいのだろうかと思いながらも、愛宕神社にお参りをすると、そこにほおずきが生えているではありませんか。
あのお告げは、愛宕の神様であったかと、ほおずきを頂いて帰り、煎じて飲んだところ、癪は不思議と治まったということです。
そんな噂が広がって、疳の虫の強い子に飲ませれば、これもぴたりと治るという具合で、愛宕神社のほおずきは江戸中に知れ渡りました。

またある説には、「ほおずきを水で鵜呑(うの)みにすると、大人は癪(しゃく)を切り、子どもは虫の気を去る」といわれることから、煎じないでそのまま飲んだのかもしれませんが、どちらにしても薬草として評判になったようです。

ほおずきの花が咲き、実のなるこの時期の千日詣りは江戸っ子の欠かせない行事になったようです。

さて、愛宕神社のほおずき市がなんで浅草寺のほおずき市に関係があるのでしょうか?
実は浅草寺のホームページにも書かれているのですが、江戸っ子は功徳日といえば浅草寺を思い浮かべたようです。同じ功徳日なら浅草寺のほうが本家・・・と思ったのかどうかは知れませんが、浅草寺でもほおずきを売り出したようです。

実のところは、愛宕神社で売れ残ったものを売りさばくのに好都合だったのかもしれません。微妙に日にちが違うのもよかったのかもしれません。
そんなこんなで浅草寺でもほおずき市が立つようになったのです。
今では、元祖の愛宕神社を凌ぐほど浅草寺のほおずき市が隆盛になっているのはご承知の通りです。

さて、ほおずきは薬草ということ以外にもこの時期の必需品なのです。
それは盂蘭盆会(お盆)の飾りとして使うからです。

ほおずきは、漢字で「酸漿」とも「鬼灯」とも書きます。
お盆には送り火や迎え火を焚き、盆提灯を燈します。
昔の人は、「精霊が迎え火や提灯の火を頼りに集まる」という教えから、 「ほおずき」を盆提灯にみたて、ご先祖様の魂が迷わずに自宅に帰る目印として飾っていたのです。
「鬼灯」という漢字を使うのは、納得がいきます。いかにも鬼の灯火のような色です。そして霊界からご先祖様を導いてくれる灯なのです。

今のほおずき市の原型は、年末の歳の市のような、盆の市と呼ぶようなものだったのではないでしょうか。今でも鉢植えのほおずき以外に、枝にたわわに実ったほおずきも売られているのは、お盆用の飾りに使うためなのです。

また、赤い色が魔を祓うというエネルギーを感じていたのかもしれません。なぜか魔よけや病気除けの力を感じさせてくれる植物です。


お盆用のほおずき(六本木 朝日神社のほおずき市にて)

さて話は、ほおずきから浅草寺へと戻ります。
この二日間だけ、浅草寺では「雷除(かみなりよけ)」のお札が授与されます。これは江戸時代、落雷があっても「赤いとうもろこし」をつるしていた農家だけが難を免れたことから、文化年間ころから「雷除」として赤とうもろこしが売られるようになったそうです。明治になり不作で赤とうもろこしの出店ができなかったことから、「四万六千日」のご縁日にとうもろこしの代わりに「雷除」のお札が授与されるようになったということです。


四万六千日には雷除がつきもの(浅草寺本堂前のディスプレー)
本物よりも巨大化してます。

我が家でも、数年前にモデムに被雷しましたが、パソコンまでは被害が及ばなかったのは、「雷除」のおかげだったのでしょう。

おしまいに、ほおずき市には子供のころの思い出があります。
田舎から東京にやってきた母方の祖父母を伴って、浅草のほおずき市に行った時に、夜店で売っていた「まわり灯篭(走馬灯)」をやっと買ってもらって、家に帰って蝋燭に点火して楽しんでいたら、突然、燃え出しました。悔しいやら悲しいやら、大泣きしたことが心に残っています。
なぜかその悲しさや寂しさが夏の終わりのイメージとして心に残っていましたが、今考えると夏の初めの出来事だったのですね。
それから何十年、1994年から毎年いっている四万六千日、十五年間で2000年近くお参りしたと同じ功徳を受けたことになります。いろいろあっても無事に生きているのは観音様のお陰ということで、めでたしめでたし。


今年のほおずき市の様子

今年は開門と同時(午前六時)に行ったのであまり屋台が開いていなかった。


ほおずきにはやっぱり江戸風鈴

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

啓蟄

2008年03月06日 21時40分14秒 | 季節


3月6日は二十四節季の「啓蟄」です。
去年の桜のころに眠りについた「東京散歩」ですが、最近、二人の方に続けて「どうなってるの?」といわれて、虫のようにむくむくと起きだしてきました。

今年は季節が遅くて、去年は建国記念の日のころに見ごろを迎えていた梅の花がやっと満開になっています。

画像は青山墓地の梅です。
青山墓地は桜で有名ですが、梅の木もあちらこちらにあります。
やっと春が近づいている今日この頃です。


ヒルズと梅


ミッドタウンと梅

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

亀戸天神で節分を考える

2007年02月10日 07時09分33秒 | 季節
二月三日は節分である。
毎年、日本各地の寺や神社では、豆まきが行われる。

今年は亀戸天神の豆まきを見に行った。
そこで色々と節分について考えてみた。




節分は季節の別れ目、次の日は立春である。
立春は二十四節季のうちで重要な八節(立春・春分・立夏・夏至・立秋・秋分・立冬・冬至)のうちの正月節と呼ばれるもので、二十四節季の正月に当たるものである。
現在では立春の前の日を節分と呼ぶが、過去には四季それぞれの節分があったようだ。

なぜ節分が年越と呼ばれるのか。

現代において、年は12月31日の大晦日から1月1日の元旦になることで変わる。
現在の年越である。
もうひとつ、日本には江戸時代まで使われていた旧暦(太陰暦)による正月がある。旧正月である。
この正月にももちろん年越がある。
現在でも、韓国・中国・ベトナムなど東アジアの諸国が旧暦を用いていて、こちらの正月が正式な正月となって、盛大に新年の行事や休暇が行われる。
しかし太陰暦では、今の太陽暦のように毎年一定の時期に正月がやってくるのではなく、年によっては、立春が前の年になってしまうこともある。
これは年内立春と呼ばれていたが、このように新年が同じ時期に来ないのである。

二十四節季を考えの基本とする節分は、年により日が前後することがない。
二十四節季は、太陽暦の夏至と冬至・春分や秋分(二至二分)を基点として、その間を二等分して、八節(立春・春分・立夏・夏至・立秋・秋分・立冬・冬至)とし、その間をさらに三等分したものであるから、節季と季節感が合致するのである。

宮中で大晦日の夜に行われていた追儺式(ついなしき)という行事がある。
中国から奈良時代に伝わった行事で、悪鬼を祓い、疫病を封じる方相氏(ほうそうし)呼ばれる人が、黒い着物に黄色の四つの目を持つ仮面をかぶり、矛と楯をもって、宮中を回り、邪鬼や禍を祓ったものだ。
この行事が、節分の年を越す行事として合体したという説が有力である。

節分の豆まきを追儺式というのはここからきている。
また、今でも大晦日に追儺式を行う社寺もある。
比叡山延暦寺では、大晦日の夜に追儺式が行われる。
新年なる1時間前に、人間の心の悪業である、三毒といわれる、貪(むさぼり)、瞋(いかり)、癡(ねたみ)を現わす鬼を修行僧が改心させるというものである。

また、ところによって「星祭節分祭」などと、星祭と一緒に行われることがある。
「星祭」とは、生まれ年の干支を北斗七星に重ね合わせた本命星と、その人の数え年によってきまる当年星に除災招福を祈る法会のことで、年の変わり目に当たる節分に行われる。

兵庫県の中山寺では、「星祭節分会」といって、堂内に星曼荼羅を掲げて星祭の法要を行い、その後、追儺式が行われ、貪、瞋、癡の三人の鬼が、改心して、福・禄・寿へと変化する寸劇が行われる。

福豆を歳の数だけ食べる。(正しくは歳+1粒を食べる。)というのも、年越によって、新たに歳の数が一つ増えるということや、新しい年が始まるということを強く意識したことことである。


さて、亀戸天神の節分追儺式についてみていこう。

東京の各地の寺社が、日中に豆まきを行うが、亀戸天神では、日没後に行われる。
年越の夜に行われるのが、豆まきの本来の姿であるから、より元の姿に近い。
豆まきは家族そろってやるから夜やるのではない。
年が変わるという一大事件に、魔物が出やすくなるので、そこで豆をまくのであるからやはり夜でなくてはならない。
ほかの寺社も有名人を集めたり、参詣人を集めるために昼間やらないで、見習って欲しい。


提灯にも「節分追儺祭」の文字が。


篝火がともされ、社殿では福男たちのお払いが行われる。
後ほど、奥に見える橋を渡って鬼がやってくる。

豆をまく福男のお払いが終わると(福男が多すぎるのが興を削ぐ。百人以上いる。)
神主が社殿の前に据えられた四方に竹を立て注連縄を張った台の上に現れる。


結界を張った台上に現れた神主。
周りにたくさんの福男。(待ちくたびれて豆を喰ってる奴がいてどうかと思った。)

すると、鬼が境内の太鼓橋を渡ってやってくる。
(うなり声上げてるけど、マイク通してるし。)


鬼登場。
鬼が四つ目なのは、方相氏(鬼を追う役)が四つ目だったので、それと混同したのだろうか。
写真を撮影していた方が、ここは鬼が四つ目なのが珍しいといっておられた。


鬼は社殿に向かい、神主が怪しく見慣れぬものが来た・・・・と鬼に問う。
鬼は禍をもたらした・・・・と答える。
(神主ももちろんマイク持ってる。興ざめ。)

この問答が、能の名乗りや掛け合いにすごく似ていて、演劇的な感じを受けた。
非常に古風で、芝居を見ているような感じ。
郷土芸能といえばわかりやすいかと思う。
そのようにことが運んでいく。


最初は立っていた鬼も・・・・


神主の「日本は神国・・・」で納得したのか、跪く。


そして終いには退散。
そこへいっせいに豆を打ち付ける。

会場は豆を拾おうとする人で大混乱。
豆がこちらにも当たって痛いし。
そんな混乱にまぎれて、いつの間にか鬼は闇のかなたに消えていった。

全体的には、儀式的であり、演劇的な面もあり、非常に楽しく見物できた。
でも、豆をまく人が多すぎたり、儀式の最中も子供たちがうるさく騒いだり、興をそぐ点も多く見られたが、節分の豆まきを考えるのには良い行事を見ることができたと感じている。








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八朔(ハッサク)

2006年08月01日 07時23分14秒 | 季節
八月一日は「八朔」である。
八朔といっても果物ではなく、八月朔日の略称である。
この日は徳川家康が、江戸に入城した日で、江戸時代では正月に次ぐ紋日(祝日)となっていた。

八朔(旧暦の八月一日)は夏から秋へと季節が移る時期である。珍しい苗字に「八月一日」と書いて「ほづみ」と読むものがある。この日は稲穂をはじめて摘む日として今でも八朔祭というものが日本各地に残っている。豊年や大漁をあらかじめ祝う行事だ。また、親類や主家にはじめて摘んだ稲穂を送る行事があったようだ。
この行事は道教の「中元」(旧暦の七月十五日で盂蘭盆会〈お盆〉の起源)と結びついて贈答の風習になったのではないだろうか。だから中元は立秋までに済ませるのではないだろうか。

1580年のこの農業的に大切な日に江戸城に入城したのは、家康の農業地帯の新領地へのデモンストレーションだったのではいか。
八朔は「江戸お討入りの日」として、諸大名・旗本は、白帷子を着用して登城、将軍に祝詞をのべる習わしがあった。
吉原でも紋日として、遊女たちは白小袖を着て馴染みの客を待った。

果物の「八朔」の由来についてはこちらをどうぞ。→八朔
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする