伯父の戦記「"B25"120機の奇襲」の2回めです。この章は短い文章ですので、2回で完結となります。
伯父たち日本軍は、米軍の空からの奇襲攻撃を受け、陸上から必死に応戦しました。戦場ではほんの僅かな位置・時間の違いで生死を分かってしまう場面が生じます。伯父は何度もの「九死に一生」を得たようです。このときもそのような経験をしていました。
今回の画像は文章とは関係はありません。昭和記念公園の街路樹です。
お願い:今回の稿は連載形式を採ったものになっています。私のブログを初めてご覧いただく方は、このブログの左側のメニュー中のカテゴリーに「伯父の戦記」があります。そちらをご参照いただいたうえでこの稿をご覧いただければ幸いです。
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敵味方の交戦は一段と激しさを増す。機銃音、轟音、炸裂、地響きの続く中で、敵機を発見してからの射撃では到底間に合わない事を知った。我が25糎(センチ)機銃は直ちに前方の土煙の中に向けて射ちまくったのである。その効果は数秒で的中したのか、または他の陣地からの機銃弾が命中したのかは確かめようもない。
だが、とにもかくにも土煙の中から、2機、3機と姿を現す敵機の中に、百米先まで凄まじく火を吹き、火達磨となって墜落するものあり、又我が陣地に覆い被さるように接近しては胴体を見せ右に旋回、そのまま我が陣地30米横に墜落炎上するもの、ジャングルに墜落するもの、又火を吹きながら轟音と共に頭上を通過し、海上に逃げ延びるものと様々であった。
戦斗は尚も続く。敵の機銃弾が今も陣地内で炸裂している。敵もさるもの、勇敢にも進路を変える気配もみせず、機銃を乱射しつつ土煙の中から突っ込んで来る。我が25糎機銃は銃身が焼けんばかりに撃ち続けた。
しかし、こうした戦斗の中にあっても、敵はこのカビエン沖合に飛行艇を待機させ、海に墜落、或いは着水したパイロットを次々と救出していたのである。ここにも米軍の人命尊重の一面が憎いほどうかがわれたのであった。このような救出作戦は、我が日本軍にあってはおよそ見る事の出来ない光景であろう。
対空戦闘とは短時間で決まるものだが、それだけに戦斗の中身は激烈を極め、危険度も高いものだ。この日の戦斗も十数分の戦斗であったろうが、何故、最も恐れられている我が陣地の上空を超低空で通過しなければならないのか?決死の爆撃コースを選んだのか?
話は前後するが、数日前、このカビエン沖合において、陸軍部隊輸送中の我が艦隊が、敵機動部隊機約85機から攻撃を受け、激しい戦斗が行われた。その時、その一部の兵員と軍需物資がこのカビエンに揚陸された。
こうした状況を敵はP38をもって偵察していた。その結果、敵は揚陸された軍需物資等の集積場を爆撃するに当たり、その集積場と地形的関係から、止むを得ず危険を覚悟で選んだコースであったようだ。この作戦は敵にとっては犠牲も多かったようであるが、成功したのであろう。
戦斗が終わり、我々は直ちに機銃の銃身を冷やす。焼けた銃身はジュージューと音をたてて水をはじく。これを何回となく繰り返し冷やすのだ。
陣地内は脚の踏み場もないほど焼けた薬莢が散乱している。数分後、やっと落ち着きを取り戻した私は、ふと陣地内を見廻し愕然とした。それは私が戦斗中に位置していた1米後のコンクリートの壁に、高さ胸の辺りが1米にわたり帯状の弾痕が残されていたからである。戦斗中に、もし私の姿勢があと数糎高ければ、或いは敵機が数糎低ければ、私の頭は吹き飛び、体は蜂の巣の如くになり戦死していたであろう。
今でも当時の事を思い出す度にゾーっとするのである。
(昭和58年7月記、17徴) (完)
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