伯父の戦記 18 「"B25"120機の奇襲_1」

2006-04-01 | 伯父の戦記



 「伯父の戦記」の新章、「"B25"120機の奇襲」です。
 "B25"というのは、60年以上前の米軍の爆撃機の機名です。Bは「Bomber=爆撃機」の略、25は型番にあたるのでしょう。爆弾3000ポンドを積載可能な「重」爆撃機です。その後に登場する"B29"は、昭和20年3月10日の「東京大空襲」や、広島や長崎に原爆を投下した機種になります。
 この章では、前章「艦砲射撃三時間四十五分の地獄」に続き、南太平洋ニューアイルランド島の「カビエン」に伯父が駐留した際の体験記です。

 今回の画像は本文とは関係ありません。近所の桜の写真です。

 お願い:今回の稿は連載形式を採ったものになっています。私のブログを初めてご覧いただく方は、このブログの左側のメニュー中のカテゴリーに「伯父の戦記」があります。そちらをご参照いただいたうえでこの稿をご覧いただければ幸いです。

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 今日も又、南方特有のスコールが通り過ぎ、周囲のジャングルは鮮やかな緑の波をうねらせている。頭上を2、3羽のオウム(鳥)が鳴きながら去って行き、なんとのどかな日であろうか。激戦の続く今日此の頃ではあるが、たまにはこんなのどかな日があってもよいのではないかと、私は私なりに、こののどかな日を心休まる思いで平和な気分に浸っていた。その上に体調も壮快なので、久しぶりの洗濯に取りかかっていた。
 その時である。突然"空襲警報"が発令された。そして瞬時にして平和な夢は破れ、再び何時もの戦場にと急変したのである。やはりここは戦場なのだ。こんな静かでのどかな日を期待する方が間違っているのだと、私は自分に言い聞かせるように、心引き締めて配置についたのであった。そして全神経は爆音に向けられた。何故か異状に静かである。
 耳をすますと、かすかに南方海上に爆音がする。編隊爆音のようである。しかし待つこと15分か20分位した。爆音は近づくどころか、逆に遠ざかって行くのである。我々はその姿を見せない敵機に対して、何か疑問を抱きながらも、内心空襲ではなかった事にホッとしたのである。
 ことによったら他の島の爆撃が目的で、このカビエン沖合いを通過して行ったのであろうか、或いは最近日夜出没している敵の魚雷艇ではないかと思ってもみた。暫くすると警報は解除された。私はこの時、何か不吉な予感を陣地に残して、再び洗濯に戻った。
 ところがなんと30分も経過したであろうか、突然、北方海岸の湿地帯方向から、バリバリ、バリバリと耳をつんざく機銃音と共に炸裂音がする。そして地響きが連続的に我が機銃陣地に近づいて来た。まさに敵機の低空による奇襲である。私は「フイ」をつかれたと思った。その時、反射的に私は"機銃掃射"の中を無我夢中で50米先の陣地に突走っていた。
 足下には機銃弾がブス、ブスと不気味な音をたて土煙をあげていた。こうして陣地についた時は、兵員10名中3名の同年兵のみであった。私達3名は鉄兜を被る余裕もなく、直ちに機銃の偽装をはずし、機銃を北方向に旋回し弾薬を装填する。
 この時すでに敵機は機銃を乱射しつつ、2機、3機と現れ、我が陣地頭上を超低空で次々と通過して行く。爆音と機銃の発射音、爆弾の炸裂する音で耳の鼓膜は破れんばかりであった。
 機銃弾が陣地内で2発、3発と炸裂している模様だ。前方2、3百米先は土砂と土煙でまったく何も見る事が出来ない。そんな中から敵機は尚も次から次と現れ、機銃を乱射し通過して行く。我が機銃陣地もこれに応戦する。 (以下続く)
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2 Comments

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叔父様の戦記 (Pepper)
2006-04-02 10:31:07
第4弾ですよね。



第1弾「比叡と私」の時に、「こんな状況から生きて帰ることが出来たのかぁ・・・」と思ったものですが、原稿は28稿もあるとか。つまり、「こんな状況」が少なくとも28回も?!

   ((((;゜д゜))))ガクガクブルブル

失礼な言い方ですが、生きて帰られたのが奇跡みたいなものですね。
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Re:伯父様の戦記 (non_B)
2006-04-02 12:53:02
コメントありがとう。



伯父が書いた「戦記」は全てが戦闘中のものばかりではありません。

中には片足を失った負傷兵を思いやる内容の文章もあります。それは伯母もお気に入りの章で、私も早い機会にブログにアップしたいと思っています。



太平洋戦争(大東亜戦争)で戦闘に関わった方々は、その体験の激しさに差はありこそすれ、生死の境で戦った方が多くいらっしゃると思います。特に伯父のように、いわゆる南方戦線で軍務に就いた人たちは、日々が生死を分かつ状況にあったと思います。それは現代に生きる私たちの想像を絶するものでしょう。

伯父たちの兄弟の一人は、その南方戦線で、ジャングルの中で戦死しています。飢餓や風土病に苦しみ、耐えながらも力尽きて亡くなった多くの方々の一人でした。
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