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世態迷想・今日の私は昨日より新しい 

あれやこれや書き溜め・・
   徒然の思いは尽きもせず

世界は仮面を被っている・・?

2025-05-15 | 世界は仮面を被っている?

 

※ 揺さぶり

揺さぶって反応を見る。

強い揺さぶりほど、狙った結果が出る。 

コレがトランプのお家芸である。

世界を引っ掻き回している。

トランプは、今恍惚の心境にある。

 

※ 世界は仮面を被っている・・

世界は、戒めを忘れてしまうことで成り立っている。

パンドラの箱の神話が生まれた何千年前から、

人々はひたすら希望に未来を託しているが、

幾多の欺瞞と悪徳と暴力に溢れた世界から解放されたことがない。

 

人々の口から何万回も平和が叫ばれただろう。

争いを目前にして、一番簡単な対応は平和を口にすることだ。

だが、絶え間ない紛争と殺戮が易々とその口を覆ってしまう。

どうやれば実現できるかの問いに対して、人類は何千年も答えに窮している。

 

平和という言葉には、その為に戦うという自己矛盾が隠されている。

平和の実現を叫びながら、

その方策は大概、脅迫と暴力が正義に転化されている。

平和は出口が見つからない迷路で、その知恵が狼狽している。

 

歴史家とか評論家の論述で解明されても、

ある社会とある社会の摩擦がこの後の世紀でも減るとは思えない。

正義が一元的でないからだ。

人間たちの愛は、殺戮的な排他の衝動に負け続けている。

 

ある日、少年は図書室で処刑された女性の写真を見てしまった。

アヘン戦争かアロー戦争時と思われる中国大陸で撮られた古い写真だった。

捕らえられた女性の全裸体がXに組んだ木に張り付けられており、

その乳房は両方ともえぐられていた。

人間の人間に対する残虐さを初めて知って、彼の心身は硬直した。

 戦争行為は背景を背負って始まり、噴き出し、残酷に限りが無い。

どの時代にあってもどの地域を巡っても、大虐殺が起きている。

殺戮の正義があちこちに転がっていて、

その主役たちが歴史上の人物になってしまう。

自らの正義を宣って殺して殺して、自らは天寿を全うする者もいる。

報道されない殺戮が、山ほど歴史に潜んでいるに違いない、

地表は大量死の積層である。

生き物のなかで人間はそれほど安価なのだろう。

 

文明はなんと多くの殺し方を発明してきたか。

効率的な殺人兵器が開発され、地球全域に売り渡されている。

しかも、高い利益の産業として社会の正面に存在している

 

戦いの場面では、まさに暴力が主役となる。

理性がそれを嫌悪しても、暴力の発揮を強制される。

戦争とは、暴力の総合戦である。

属する社会に公認された殺戮ほど、無慈悲なものはない。

兵士も装備も暴力の優位を保つために駆使される。

 

指揮官は、その残虐や破壊を、作戦または戦略と言い換える。

無数の残虐が発生して、人間が破壊されて、いずれ終局する。

誰も免罪されるはずもないのに、残虐に優れた側が勝者と呼ばれ、

新たな支配が生まれ、愛と理性の人間の姿にすり替わる。

 

様々な弁明が用意されるが、戦略的な残虐さは常に優位を占める。

最も大きな罪は、支配を企んで戦闘を仕掛けた側にある。

なぜなら、人に潜在する残虐さを誘発してしまうからだ。

オセロゲームより甚だしく,人の価値の罠は入れ替わる

死刑囚が死刑執行人になり,さらにそれが逆にもなる

 

戦場に限らず、状況優位を得た人間たちの恐ろしさ,

深奥に隠し持つ悪が露出してとても不気味である。

人間には残虐を計画的に行う残虐さがある。

屍が山のように積み上げられ、腐臭とともに埋められている。

人間は何回も何回も繰り返している、今も地球のどこかで。

 人間が作る地獄的な場面がどういうものであるかを、具体的に知りたければ、

フランクルの「夜と霧」にある。

これに劣らず人間のサディズムは、中国の文化大革命にも容易く現れている。

人は、保身の口実があれば、こうも簡単に変心するものか。

テロ集団の、殺戮だけを目的にした無差別な攻撃。

そこに生まれる加害と被害との底知れない隔たりには、言葉を失う。

人間の変貌は、加害者の方に顕著に顕れ、餌食になるものは全く無力である。

人類の歴史に繰り返し起きている事だ。

 

兵士も市民も戦争の死に様は、ただ無残である。

手足は千切れ、顔に鉈を打ち込まれたような惨たらしさは、

攻撃した人間の恐怖に比例している、

もしくは残酷さにとりつかれた者の瞬間が読める。

狂気と理性は全く触れ合わない。

その無残を知っていても、戦争を仕掛ける。

限りない不安と憤怒の混沌から、この後も何百年も抜け出せない。

戦争が愚かな結末を迎える事を知っていても、人は戦争に挑む。

 

※無慈悲・・変じて正義?

人が人に対して、いかに無慈悲でいられるか、

どれほどの残虐な行いをできるのか、

 

歴史には、その証拠ばかりが並んでいる。

だが、加害に周った人間たちは、言葉を駆使してそのことを糊塗してきた。

当事者でなくても、そうした人間の一面に触れたくない人々も、

それを覆い隠すことに手を貸してしまっている。

 

いま現在の世界の至るところでも、

それは一向に変わっていない。

個人レベルでも、組織レベルでも、国家レベルでも 

その無慈悲は、隠れながら又は平然と横行している。

 

社会はそれをどう抑制できるのか、

世界中の様々な抑制システムが作動はしているが、

その効果が疑われる事態が次々と発生している。

 

人々は、生まれてからから成長するまで、家族の温もりのなかにいる。

同じく社会からは、長い時間の教育を受けている。

良とする生き方の法則を学び取っているはずである。

 

だが、ある場面を引き金に無慈悲な人間に変身してしまう。

その多くは自分が優位に立っている時に、それが顕になる。

そんな弱点がどの人間にも潜んでいる。

その弱点を自分の中でいかに抑制できるか、常に問われる。

 

無慈悲と残虐を支えているのは、生命に対する鈍感さである。

 

それに陥る根源はなんだろう、優位意識からくる強い差別観に違いない。

その反対に強い被害意識からくる絶叫かもしれない。

その抑制が効かなくなると冷淡さと無感覚が一方的に増幅していく。

それを自分の正義と変じている。いや快哉と思っているのかもしれない。

 

※ 正義の居場所

 一見無秩序に見える群衆も,浮浪者も,

例外なく、いずれかの共同体に属している。

個人は家族に,家族は血族,そして部族や人種と属類が広がっていく。

それぞれで,習俗,地域宗教,伝統に囚われる。

 

世界の歴史は、独善的な強権政治の品評会である。

権力を得た少数の層が社会を従属させ、

利害を共有する階層を幸福にすることを目指し、

その社会の正義とするのである。

 

自由と民主こそ世界に普遍的な正義であり、人類の希望はそこにある。

アメリカが率先して標榜するところである。

だが、世界は極めて複雑に成り立っている。

何事にも幻想が張り付いている。

強い國アメリカの主張と戦略が世界を揺さぶり、民族や宗教の葛藤を引き起こし、

世界の失望の大半を創出している。今はそういう世紀といえないだろうか。

 

社会の属性は性悪である。

広範なニーズが渦巻いているから、浄化しても浄化しても汚染する。

偏狭なことは社会にとって不愉快で,毒にすらなる。

だが,時に、内包する問題の核心を衝いている。

点検と改善、妥協と和解が繰り返し繰り返し問われている。

 

政治の理念は、庶民の不満の総量に耐えられるのだろうか。

理念と希望は、現実の身近な不満にいつも負ける。

身近な不満の核は、経済の充実度である。

 

思想的なナルシズムと社会的ヒステリーは同居している。

狂信的イデオロギーは混沌の前戯であって、やがて癌化する。 

不必要なことまで管理し,管理行為そのものが正義になっていく。

 

※ 独裁は雑草の如くに

世界には、

独裁者と言われる政治家が、常にいる。

残念この上ない。

 

彼らは、頭抜けて頭角を現し、国の支配に至る。

統制力を高める事に専らとなり、

その国民は彼の描く青図の材料に貶められる。

人権など歯牙にもかけられない。

独裁力を確保してしまうと、次に、

彼の言動に妄想が芽生え始める。

妄想は彼にとって、正義心の骨格になっていく。

そうなると、もはや国家というものが、

彼個人の国に化けていく。

彼の組織員たちは、優先的な共益を失わんために

追従に余念がない。組織はますます強固になる。

巨大な詐欺行為、個人による国家略奪である。

 

この100年をとっても、そんな政治家の名がゴロゴロある。

ただ、そうした出現をその社会は何故止めることができないのか。

 

国民の多くは、大言壮語の誘導に弱い。

社会の大半がオレオレ詐欺に遭ってるのに、気が付かないのだ。

美味しそうに擬装されたものに、やっぱり惹かれてしまう。

ちょこちょこ擽られて、まんざら悪い気がしないのである。

政治はよく分からんと、下駄を預けてしまうのである。

 

親に理不尽に怒鳴られても、逆らえない子供のようなところがある。

そうではないよと、親に反論する大人になれないのである。

そして、沈黙を選んでしまうのである。

独裁社会の青図は、東西どれもこれも同じである。

多様な立場を受け入れない社会では、

有形無形の暴力源が潜在していて、出番を待っている。

社会があらかたの事を分かっていても、独裁はヌッと顔を出す。

 

※ 異国との駆け引き

元来、日本人はいわば性善説で育つ。それは悪いことではない。

警戒するより信頼することに比重をおいている。

だから、世界も善意と信頼と向上心で貫かれていると信じてしまう。

こうすれば、こう応えてくれる、こう作れば、こう使ってくれる、

決まりだから、守ってくれると決め込んでいる。

 

だが、世界に渦巻く動機はずっと複雑である。

誰しも手前勝手である。

世界中のそれぞれに正義があって、他の正義には不理解である。

交流には、信頼と同じ度合いで不信が潜在している。

世界の人々の大半は、何事にも悪の存在と悪の発生を予知している。

だからその抑制や排除を明快にした社会を築こうとする。

曖昧さを嫌う意識が強いのである。

 

世界の動機は、理念より実利である。安全も実利である。

安全は相対関係にあり、変容のリスクが潜在している。

主張される理念は、実利の飾りに貶められている。

実利を生むのは観念ではなく、実働的な方策である。

だが、一方の正義が完勝するとすれば、もう一方に憤怒が蓄えられる。

交流の葛藤を避けるには、やはり双方の妥協しかない。

妥協は限定的な信頼であって、実利の葛藤が霧消することではない。

主軸は、信頼より警戒なのである。

 

外国ではなく異国である。

外国という響きは、地理的な表現であって、

異なる歴史や価値観を有している国であることを覚らせないような

語感になっている。

社会の違いを薄めて理解してしまう暗示作用があるように思えて

ならない。 

異国とは、歴史も風土も培われた文化も明らかに異なった社会である。

多くの共通点もあるが、物の見方や価値観が横並びではない。

風土や教育の環境でしみ込んだ発想や行動基準が深く

潜在している。

彼らにとっては、日本人も理解しにくい異国人である。

違っていることや共感できないことを知ることが、

理解の本質である。

インターネットの時代でも、会話に不自由しなくても、

そのことは変わらない。

 決して謙虚さから始まってはならない。

 

世界の実像は弱肉強食である。

何を置いても論点の意義と原則が鮮明でなければならない。

たとえ、それが情勢不利な場面でも受け身になってはいけない。

利益確保または失点軽減を明快に主張する場であり、

交渉決裂も想定外であってはならない。

転んでも決してただでは起きない、相手の弱点や失点もを突く

必要がある。

国同士の交渉も平たくいえばヤクザな駈け引きと理解すべしだ。

試合巧者は、あざといジャブを出して此方の出方を窺う。

此方がたじろぐか、フェイントで躱すか、強く反撃してくるかを

見極めてくるのだ。

礼儀も誠意も出番はない。

戦術、体力、決着の条件などを読み取ろうとするのである。

かつて日本軍の暗号が殆ど解読されていたような事があっては

成らない。

 

交渉術も、起承転結スタイルが良い。

起は、想起する目的の端的な表明

承は、提案の具体的内容と相互の利益、権利義務の提示

転は、先方の背景や状況を考慮したヒントの提案

結は、妥協点の整理、目的に適うかの点検 

 

※ 破壊の知恵だけが・・

国際政治の争いは、何千年経ってもその収束の知恵が進化していない。


つまるところ、金と火力を背景にして、狡猾で脅迫的で、露骨な圧力をかけてくる。

起こるはずもない戦争が現実になっていく。


多くは、一方が戦争状態になるように仕向けている。

言い分などなんでも有りで、相手のせいにして強弁する、見え見えの常套手段である。

こういう時の外交戦は、非難合戦であって、事態の収拾にはほぼ無力である。

興奮にした戦争当事者は、すでに難聴になっている。


聞きたい情報しか聞こえない耳になっている。

この世紀も、これまでの世紀と同じにやはり、

国際や宗教や民族の間で紛争が絶えないのだろうか。

狂気の先には、核の恐怖と絶望が待ち構えている。

破壊の知恵だけが進化している、

それが人間社会の辿りゆくところではないと信じたい。

 

サプライチェーンの相互依存、情報技術の共有など、

世界が新しい環境と課題に挑んでいる21世紀にあって、

隣国に軍事力で、露骨な脅しを仕掛けたロシアは、

世界の潮流に対し、後ろ向きな姿をはっきり見せた。

世界がいつか来た道を再び、野望と恐怖心を自ら増幅させて、

自国領土に一歩も踏み込んでいないウクライナに、大規模な攻撃をかけている。

暴力剥き出しの破壊で、自己陶酔の正義を振りかざしている。

 

※ 社会の図式

どの社会体制であっても、

詰まるところ、社会の運営は上意下達のシステムで動いていく。

時の少数管理者の意志と権勢(支配)で経営されている。

 

“下意上達“の道筋があるのか否か、

どのように成り立っているのかで、

その社会の民主性、目指す理念と実像が滲み出る。

 

独裁的専横が罷りとる社会か、多数的民主主義をとるか、

そのほかにあるだろうか。

どちらが社会にとって、個人にとって解なのか。

 

独裁体制は暴力的に、個人に対し行動や思考の一面化を強要する。

独裁の企図を貫くために、専ら喧伝し、国民を教化する。

国民を意の通りに管理し、効率的な成果を優先する。

異見を排除するために、知的閉鎖と情報規制が必然となる。

独裁者は例外なく、専横的なその効率効果に中毒になっていく。

 

民主主義の社会形成は、最大多数の最大幸福を指標としている。

多数による意思決定は、一方で少数の意見が埋没してしまう故に、

それをどう救済していくか、取り入れていくのかが常に課題となる。

多数派はどう形成されていくのか、そこにその社会の実像がある。

介在する利害は一様でなく、妥協に至る過程に相応の時間が掛かる。

紛糾して意見の集約が先送りされる、効率が良いとは言えない。

下意上達の道筋があることは、この社会では周知されている。

 

いずれにあっても理念や見識より、

 

現実の安全や利害の尺度で政治は動く。

 

※ 踏み潰されて

戦争は、背景を背負って始まり、凄惨な様相のまま続く。

どの地域、どの時代にあっても殺戮が発生していく。

報道されない残虐が山のようにあるに違いない。

排除の正義がどこにでも転がっているからである。

その主役たちが歴史上の人物になっていく。

人々を殺して殺して、おのれらは天寿を全うしたりする。

 

どんな社会が現れようと、

何十万単位の生命が踏み潰されていくことがある。

われわれの世界は実はそうなってる。

穏やかな世界を希求しながら、

排泄物のような残虐心が地球のあちこちで撒き散らされている。

 

※ 野望と侵略

民主社会や自由社会を尊重し、目指す国々は、

独裁者や強権政治を唾棄すべき政治体制として嫌悪している。

 

だが反して、大戦後の70年の世界各地の様相は、

それが世界各地が臨む共通項ではないのかもしれないと思えてならない。

むしろ独裁的な体制を望んでいる社会が多くあるのではないのかと。

 

その国の政治文化の歴史から脱皮できずに、

むしろ強権社会を許容する市民意識が潜在している、もしくはそんなものという諦観か。

でなければ、社会の規律性を急速に求めすぎる過程で、手軽に強権が出現する。

 

確かに民主的な政治運営は強権政治より、手間も時間もかかる。

そこに社会形成の価値の蓄積があるのだが・・、

一部の支配層は、それを丁寧すぎる社会運営として嫌っている。

 

だから、状況優位にある者たちが、社会の前面に出て強行策を取り始める。

彼らは更に強い立場を堅持せんとして、独善的な支配体制を日毎に強化し、

国民は徹底して管理され、何事も強要され、或いは排除される。

どの強権体制も絵に描いたように同じである。

 

しかもこうした体制はなかなか解体しない。

選挙制度が存在していてもコントロールされ、

むしろ芝居がかった補強剤に貶められている。

地盤を固めた独裁的な強権者は、程なくして時代錯誤な妄想を広言し始める。

敵でもないものを敵として暗示し始める。常套手段である。

 

支配者の個人的野望や誤謬が、そのままその国の目的に化けていく。

報道や表現の自由を封鎖された国民の大半は、彼の目的に誘導されていく。

大規模な殺戮さえ、巧みな口実に乗せられて、彼の功績に変じる。

大規模な集団催眠の姿だ。歴史はそれを何度も経験している。

 

社会構築の姿は、

未来にかけても民主的な仕上げの段階には至ることがないのだろうか。

大戦後80年ほどの国際政治の時間を経ても、国家間の体制対立は少しも減らない。

強権な政治体制を生む舞台が世界の至るところにあって、

暴政を好む強権者が容易く出現している。そして、そこに殺戮がついてまわる。

 

ウクライナ侵攻のロシアをみて、

国家というものが露骨な侵略者に容易に変身するものだと、嫌でも思い起こさせられた。

剥き出しの独占欲で口実見つけては、それをやはり正義に見立てている。

 

中国をみて、一党独裁はやはり徹底した人権抑制に至るものだと、認識を強くする。

漢族ならずば国民にあらずとばかりの中国の状況は極めて非情である。

長い期間の徹底した言論統制に国民も同化してしまい、支配層の運営を楽にしている。

 

強権国家は、別の強権国家を仲間として、開かれた世界に挑みかかる。

他者を頑なに受け入れない偏狭な宗教集団と違いがない。

世界のものさしは、強いか弱いか、それだけなのか

 

 

※ 集団の残酷

状況優位、立場優位になった者たちは、露骨に非情になっていく。

戦場を二等兵として生きた人から、聞いたことがある。

 

戦闘有利に転じると、兵たちは催眠にかけられたように、状況

戦闘の恐怖の反動のように、無慈悲な殺戮に及ぶのだと、その人は言った。

敗北した地域の人々には、無残な悲劇だけが待っている。

 

優位な側に立てば、状況に冷静な対応がなされて当然と思うのは、

戦場外の人間の思考なのであろう。逆である。

 

それは今も様々な戦場の報道をみてもわかる。

殺戮、残酷、非行、強姦の展示場になってしまっている。

人は、状況転じれば恐ろしく無慈悲になってしまう。

 

ウクライナ侵攻の場面だけでなく、

アフリカでもアジアでも南米でも、そうした状況は世界中にある。

 

どうすれば国際機関が機能するのか、暗澹たる予感ばかりだ。

 

戦場、戦争に限らない。

優位な者たちの横暴は、社会の隅々に暗然とある

 

※ カバード アグレッション

ヨーロッパには、

依然としてヨーロッパ文化圏以外への差別意識が潜んでいる。

文化の先達を自認する彼らの優越意識は厄介である。

それは時おり遠回しに、或いは露骨にぬっと顔を出してくる。

文化もスポーツも科学でも宗教にも、どこにでも傲慢な顔が有る。

彼らは非ヨーロッパの優越を認めたくもないのである。

いつまでもヨーロッパ基準でいたいのである。

その高慢ぶりにはうんざりする。

”新型コロナ”の初期でも、そうした匂い芬芬であった。

差別の潜みがすぐ露わになる。

 

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