ヤマギシズム・ルネッサンス

現代のヤマギシズムがかかえる問題を多方面から考えていきたい。

研鑽会

2008-05-26 13:45:23 | Weblog
ヤマギシの研鑽会は、「とらわれない」「きめつけない」「零位にたつ」・・・・・・等々の、いわゆる「研鑽態度」といった極めて曖昧な共同幻想を前提にしてします。
この前提から外れる者は研鑽会に参加できません。
つまり、ヤマギシをこころよく思わない者はもちろん、世界中に溢れているいろいろな思想家・哲学者・科学者等も例外ではありません。ただ自分達に行為を持つ人には例外もあります。(まあ、どの集団にも観られることです)
膨大な書籍も「きめつけられた物」と言う扱いが原則です。(もっとも、彼等のほとんどは、それを理解できないと言うのが現実で、ただ彼等の経典は別扱いです)
それでもヤマギシズムは科学であり哲学だと、彼等は言います。
閉ざされたヤマギシに「拡大」は可能でしょうか?

聞く

2008-05-16 09:04:07 | Weblog
ヤマギシの研鑽会で、「聞く」と言うのは非常に大きな意味を持っています。
いわく、「零位」にたって聞く、はなす人の真意を聞く、etc.etc・・・・・・
コミニィケーションの重要な要素であろう「言葉」については、たんにその一手段くらいしか思ってないようです。
ひどいときは、単なる音の連なりと切り捨てたりすることもあります。
「はじめにことばありき」なんてのはどこぞのたわ言と言った具合です。
「言葉」に正面から向き合わない為に、「言葉」に絡めとられていることが自覚できない人を多々見受けます。
「私たちは、言葉にとらわれていません」と言った返答で逆襲してきますが、イズムの言葉の海で溺死寸前、いえ、もう、溺死体だったりして。



宗教です!

2008-05-02 18:02:20 | Weblog
ヤマギシは、自分たちの考え方は宗教ではないと言っています。
その根拠は、信じない「いきかた」だからだそうです。
つまり、信仰ではないと主張しているわけです。
たしかに、信じない宗教は考えにくいです。
だが、その人が信じているか、信じていないか判るでしょうか。
本人が信じていないと思っていても、無意識に信じていたりして。
その思想に疑問を持つことを許容する思想は、宗教から最も遠い思想です。
本来ヤマギシに、これがヤマギシズムと言えるものが有ったら大笑いですが。
だから「自分たち」と言うのも結構怪しいし、「自分たちの思想」と言うのは、そうとう怪しいのです。
「実顕地」では「ほんとうはどうか」教の信者が、いたる所に出没したりして。