ヤマギシズム・ルネッサンス

現代のヤマギシズムがかかえる問題を多方面から考えていきたい。

幸福学園

2007-06-25 18:42:26 | Weblog
ヤマギシでとかく話題の幸福学園は、37・8年前、1年間の国内留学制度の一環として、ゴールデンウイーク中の「特講」に参加した新島淳良氏(当時早稲田大学教授)の発案に拠るものだったと思います。
新島教授は、中国の文化大革命、毛沢東主義に傾倒し、何冊かの本を出版していたようです。(3冊ほど読んでみたがよく解らなかった)
当時、文化大革命、毛沢東主義の行き詰まりはあきらかになりつつあり、教授としては何らかの新たな方向を模索していた時期ではなかったでしょうか。
ちょうど教授の娘が、イギリスの「サマーヒル」と言うフリースクールに留学中でした。
「サマーヒル」では、カリキュラムといったものは無く、生徒各人の学習欲求に応じて、それを満足させる体勢を持ち、自由に学び、育つと言った考えを徹底させた雰囲気が在ったようです。
新島教授としては、ヤマギシの「学育」と通じるものを感じ、まったく新しい「教育」の可能性を観みたのだと思います。
まさか「運動」に利用されるとは思いもしなかったでしょう。
教授も、村政治のなんとも言えない閉鎖性には太刀打ち出来なかったのでしょう。



我抜き

2007-06-16 17:57:39 | Weblog
「我抜き」「強我抜き」は、ヤマギシ特有の言葉かもしれません。
「我抜き」とは、その人中のなかの執着する心を取り去ることで、自主的にする場合と、他の人に指摘されて執着を取り去る場合もある。
「蛇がきらいだ」というのは、取り去るべき執着で、「ミミズは食べられない」も取り去るべき執着で、「誰とでもセックスできない」も取り去るべき執着だそうです。(その他無数)
「強我抜き」は、一例として、「誰とでもセックスできない」あなたの執着を、強引に取り去ることで、一部の口の上手な連中には強力な武器でとして使われたようです。
片方で、その人自身が気付き納得しなければ、執着する心を取り去ることは出来ない、などとも言われていますが。

出家 2

2007-06-11 09:18:09 | Weblog
ヤマギシの考え方が仏教に似ているとよく言われます。
「一体」については、「縁起」ほど深く広く考えられているわけではありません。
「まかし、まかされる」も、「絶対他力」にはまだまだでしょうか。
「無我執」に到っては、イメージの手前です。
ただ、「宗教」ではないことにこだわっていますので、正面きって取り上げ難いとこもあります。
二千何百年の歴史と,百年に満たないものを同列に考えないでください。

我執 2

2007-06-06 16:16:21 | Weblog
ヤマギシではメンバーのありかたとして「無我執」をよく言います。
「無我執」は「我執」の無いことで、読んで字のごとく「我」に執着しないことです。
「私の財産」「私の思い考え」「私の体」「私の命」「私の妻」「私の夫」「私の子供」「私の・・・」「私の・・・」。
「我執」は、ヤマギシで一番大事な「研鑽」を成り立たなくします。
ただ「私」が「私達」になると、ほとんどの「執着」がまかり通ります。
そうでないと「ヤマギシズム?」を他に表明できません。
あれ!  「私達」と言うのも「私の思い考え」だったかな?。

けんさん 4

2007-06-04 08:59:52 | Weblog
幾人かが集まって話すと、声の大きい人小さい人、話の解りやすい人解りにくい人、すぐ脱線する人、話の輪の中に入っているのかいないのか判らない人、話の腰を折る人、話の途中から人の話を取る人、いいつのる人、等々居るみたいです。
その中のそれぞれの関係から、ある人の主張に集約されていき、ある人というのもだんだん決まってくるようです。
ヤマギシの「研鑽会」は”話す”ではなく、”放す”なので上記のようなことはありません。
ヤマギシで上記のようなことがあるとすれば、それは「研鑽会」ではありません。