ヤマギシズム・ルネッサンス

現代のヤマギシズムがかかえる問題を多方面から考えていきたい。

無用の人

2007-12-15 08:58:44 | Weblog
三十何年か前の、いわゆる「クーデター」のとき、「ヤマギシ」を見限った人達とは別に、「研鑽」によって「春日山」を離れた少数の人達がいました。
当時「春日山」で主要な「係」に在り「クーデター」に消極的であった人達です。
その人達は「ヤマギシ」へ思いを断ちがたかったと見えて、折に触れ「ヤマギシ」とコンタクトを取っていたようです。
心のどこかにずっと、自分たちの今の生活は「研鑽」による「公意行」の配置であるという意識があったようです。
三十何年間「ヤマギシ」から新しい提案も無く、見捨てられたような年月を過ごして来たようです。
あるとき、「自分たちから”実顕地”への配置を希望したらどうですか」と話してみますと、「もうこの歳で、自分達が役に立つとは思えない」との返事でした。
”役にたつとか、たたないとか”は離れているはずでしょうに。

無所有

2007-12-11 09:25:15 | Weblog
ヤマギシの柱になる考え方に「無所有」があります。「所有」と言うのは無いのが「ほんとう」ということらしいのですが。
実生活の中での土地・建物ほか諸々について、自分たち以外の人にどのように言い繕ってきたか観ていくと、ヤマギシズムなるものの実態が見えてきます。
曰く、「この土地は誰のものでもありません」
曰く、「私達が専ら使っているのは、我執を持った人々を助長させぬためです」
曰く、「登記書など単なる紙切れです」
曰く、「所有していると観るのは、あなたの中に所有が有るからです」
列挙していくときりがありません。
所有を観念ではなく、人と人との関係として捉えると、彼らは完璧に「所有」しています。
「金のいらない村」などと言う仲間内の「無所有」ごっこではなく、現実の社会に向き合ったとき「無所有」をどのように実践するのか見せてほしいですね。