皇居の落書き

乱臣賊子の戯言

橋爪大三郎氏の「血統より存続願う伝統」という記事について

2005-06-08 21:47:48 | 皇室の話
平成17年5月30日付けの朝日新聞の夕刊に,橋爪大三郎氏の「血統より存続願う伝統」と題する記事が掲載されている。
この記事には,幾つかの重要なテーマが織り込まれているが,筆者には,それらのテーマが消化不良のまま列挙されているように感じられた。
善意に解すれば,限られた文字数に凝縮した故であろうか。
橋爪氏は,「わが国の天皇システム」を,王権の一種であるとした上で,王権は血統によって地位が継承されるものであること,王の血統を尊いものであると考えるからこそ,しばしば王朝の断絶が起こり得ることを述べている。
この辺りは,なるほどなと思う。
ただ,次に,「天皇システム」についての言及となり,「王朝が断絶しないのは,誰が天皇となるべきかについて,厳格な原則がないこと,つまり,誰であれ天皇が続いてほしいと人々が願ってきたことを意味する。裏を返せば,天皇の血統そのものを尊いと考えているわけではないのである」と述べている。
この箇所は,いかがなものであろうか。
「厳格な原則がない」ということについては,おそらくヨーロッパの王位継承との比較として述べているようであるが,例えば,イギリスについては,1701年王位継承法ができた後は多少変わってきたが,それ以前の系図を見てみると,まことに節操のないものというべきであり,皇位継承について特に厳格な原則がないと断じるのは,どうかと思う。
また,確かに,カトリックとプロテスタントの対立といった事情がなかったわが国においては,宗教上の条件というものは表面化しなかったと思われるが,その分だけ,皇位継承における血統の意味合いが重くなったと考えるのが自然であり,何故に「裏を返せば,天皇の血統そのものを尊いと考えているわけではない」ということに繋がるのかが,不可解である。
ただ,「誰であれ天皇が続いてほしいと人々が願ってきた」ということについては,多くの素朴な日本人の感情として,そのようであったのかなとも思う。「誰であれ」という点については,そこまで言えるかどうか,怪しいと思うのだが,多くの人々に天皇が続いて欲しいという気持ちがあればこそ,今まで続いてきたということは,確かにそのとおりであろう。
しかし,橋爪氏の記事においては,また,不可解な箇所が登場する。
「継承のルールがあいまいでだらだら続いてきただけのものを,あたかも西欧の王家のような男系の血統が伝わってきたと見せかけるトリックである」という記述である。
「だらだら続いてきただけのもの」というのは,いったい,どういうことなのであろうか。
「だらだら」という表現には,存続させる価値のないものが続いてきてしまったというニュアンスがないだろうか。
存続させる価値があるかどうかについては,論者の主観によるのかもしれないが,橋爪氏の場合,直前の箇所にて,「誰であれ天皇が続いてほしいと人々が願ってきた」ということを述べている。多くの人々の続いてほしいという願いに応じて存続してきたということは,「だらだら」という表現とは,およそかけ離れたものではないだろうか。
また,「天皇システムと,民主主義・人権思想とが,矛盾していることをまずみつめるべきだ」という箇所がある。人権思想はともかくとして,民主主義との矛盾ということについては,今までの文脈からは,分かりにくい。
というのも,多くの人々の続いてほしいという願いに応じたものであるならば,十分民主主義的ではないかと思われるからだ。もっとも,後に,「こうした地位に生身の人間を縛りつけるのが戦後民主主義なら,それは本物の民主主義だろうか」とあるので,橋爪氏の場合,「民主主義」という言葉に何らかの意味を込めているのかもしれない。筆者の推測するところでは,おそらく個人の尊厳であるとか,個人主義ということではないかと思われる。大学の憲法学のような話になってしまうが,民主主義というのは,個人主義的な自己決定権,治者と被治者の同一性という概念を根拠にしているとのことであり,ここでいう「民主主義」という言葉を「個人主義」に置き換えると,意味が通じるようにも思われるのだ。ただ,民主主義の実際の運用においては,多数決原理は不可避であり,100%の個人主義というのは不可能であるはずなので,橋爪氏のいう「本物の民主主義」とはどのようなものであるのかが,いまいち分かりそうでよく分からない。
また,「共和制に移行した日本国には天皇の代わりに大統領をおく。この大統領は,政治にかかわらない元首だから,選挙で選んではいけない。任期を定め,有識者の選考会議で選出して,国会が承認」とある。
これは,何とも奇妙な主張である。この場合の大統領の民主主義的な基盤はどこにあるのだろうか。一応,国会の承認を経ることにはなるが,選考会議を行う有識者は,どのように選ばれるのであろうか。「本物の民主主義」との関係はどうなったのか,何とも不可解である。
また,末尾に「皇室は,無形文化財の継承者として存続,国民の募金で財団を設立して,手厚くサポートすることを提案したい」とある。「手厚くサポート」というのは結構なことのようであるが,生身の方を「無形文化財」にするというのは,どういうことなのであろうか。伝統芸能などで「無形文化財」というのは分かる。ただ,この場合の「無形文化財」というのは,皇室としての生き方そのものを「無形文化財」とするという発想であろう。それはそれで人権侵害ということにならないか。
どうも,末尾の箇所については,皇室という御存在の尊厳性を奪い,みすぼらしい状態に縛り付けようとする意図を感じてしまうのは,偏見であろうか。
以上については,何だか揚げ足取りのような話になってしまった。
筆者としても文章のつながりが良くないということはしばしばあり,また,揚げ足取りをする趣味はないのであるが,ただ,重要な箇所にて,あまりに唐突に違和感を感じさせる記述が登場するので,述べておいたのである。
このような話ばかりでは,読者にとってもつまらないであろうし,筆者としても寂しいので,以下の項目ごとに,もう少し中身のある話を述べることとする。

○「万世一系」のトリック
「万世一系」という言葉については,分かるようでよく分からない言葉であり,論者によって,意味内容に幅があるようである。
仮に,皇位継承について,本来,「天皇が続いてほしい」という人々の素朴な願いが根本にあったはずなのに,継承が積み重なる上で何かルールのようなものが形成され,いつの間にか,そのようなルール自体の価値の方を重くみる思想が生まれることがあるとし,そのような状態を「万世一系」のトリックと呼ぶのだとすれば,確かにそういう見方もあろうかと思う。
現在の皇位継承の在り方の問題につき,保守派による頑ななまでの男系男子の主張というのは,これに当てはまるかもしれない。
トリックに気づくことができない故に,皇位継承の危機が増大することがあるとすれば,悲劇であろう。

○ 皇室を敬い人権を尊重するから,天皇システムに幕を下ろすという選択
確かに,皇室には,一般の国民が享受している人権の多くが制約されている。そして,そのことから,皇室制度というものは終了させるべきだという考えも,一つの考え方としてはあるのかもしれない。
あながち,皇室制度廃絶のために人権を標榜する者だけでなく,純粋な同情からそのように考える人も,いるのかもしれない。
ただ,それは,筆者には,浅はかな感傷のように思われるのである。
この同情というものは,皇室の方々に対して不幸な状態にあるとみなすことを前提にするものと思われるが,それは正しいことだろうか。核心からずれてはいないだろうか。
天皇皇后両陛下のお姿をご覧になってみるといい。両陛下ほどお幸せそうなご夫婦は,そうそう見かけるものではない。
もちろん,一般の国民とは異なるご苦労がおありのはずである。ただ,そのようなご苦労に向き合い,乗り越えることによってこそ,達せられるご境地というものも,あるのではないか。そして,皇室の方々は,まさにご苦労に向き合われ,日々努力されておられるのではないだろうか。
それは,不幸な状態とは,違うはずである。惨めにして他者による救済が必要な状態とは異なるはずである。
昨年の皇太子殿下のご発言をめぐっては,大きな議論が巻き起こったが,殿下におかれても,新しいご公務ということを強調されておられたのであり,自らのお立場に向き合いたいという熱意が示されていたことを見落としてはならない。
このような皇室の方々に対し,不幸な状態であるとみなして救済しなければならないとすることは,見当違いな同情であり,真摯に努力されておられる皇室におかれても,不本意なことではないだろうか。
もちろん,皇室の方々のご境遇について無自覚であることは問題であるが,本当に必要なことは,皇室の方々のご苦労がそもそも何のためのものであるかということ,すなわち,日本の平安と国民の幸せのためのものであるということを理解することではないか。
そのような理解があれば,自然と感謝の気持ちも生じるであろうし,皇室を見守る国民の意識が変われば,皇室の方々の不条理な苦境というものは,かなり軽減されるに違いない。
なお,このような心情論でなくして,そもそも個人主義という観点から,「天皇システム」に幕を下ろすべきだという考え方もあろう。それはそれで一つの考え方である。
ただ,共同体を維持する上で,完全に個人主義を貫徹することは可能なのであろうか。共同体の中では様々な立場があるはずであり,損な役割というのも必要であろう。ただ,損な役割については,それに見合うだけの幸せがあるはずであるし,そして,様々な立場というものがあるからこそ,社会全体が豊かになるのではないだろうか。
家庭の中でも,親と子,夫と妻という立場があり,会社では,上司と部下という立場があろう。そのような様々な立場があるということについて,個人主義という観点から何とかしようとしても,それはどうにもならない話というべきではないか。
それよりも,むしろ,お互いの立場について理解し,尊重し,また自らの立場を全うするということの方が,筆者には大事なことのように思われるのである。
コメント (1)
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