皇居の落書き

乱臣賊子の戯言

皇太子殿下の記者会見について

2005-02-26 01:30:56 | 皇室の話
2月23日に、皇太子殿下の記者会見の内容が公表された。
筆者が感じたのは、皇太子殿下のお心の広さと強さと温かさである。
昨年より、様々な批判がある中で、お辛い時期もあったと思うのだが、自分の信じる道を貫こうとなさっておられる。
それは、決して、エゴによる頑固さなどではなく、皇太子としての在り方をご自身で深く考えられたことによって生まれた覚悟に基づくものであり、その覚悟というのも、多くの人を幸せにするということを、目指したものであると、感じられるのだ。
「そういったことは話し合いを続けることによって,おのずと理解が深まるものと考えます。公務については後でもお話することになるかと思いますが,国民の幸せを願って,国民のために何ができるかを考え,それを実践していこうとすることにおいては,陛下のお考えも,秋篠宮の考えも,私の考えも同じだと思います。」とある箇所については、やはり、このお方が、次代を担われるのだなと、しみじみと感じる。
また、今回のお言葉については、ドロシー・ロー・ノルトの詩が注目を集めたが、その詩の引用の直後における、「子どもを持ってつくづく感じますが,この詩は,人と人の結び付きの大切さ,人を愛することの大切さ,人への思いやりなど今の社会でともすれば忘れられがちな,しかし,子どもの成長過程でとても大切な要素を見事に表現している」という箇所も、とても重要なことだ。皇太子殿下は、第4問に対する回答において、新しいご公務につき、環境問題と、子どもと高齢者に関する事柄を挙げられておられるが、これらについて、最も重要な鍵となるのは、「人と人の結び付きの大切さ,人を愛することの大切さ,人への思いやり」ではないだろうか。
多くの人々の幸せな未来を実現するために、何が問題になってくるかを見極め、そして、その解決策を考えるためには、絶対に必要な視点である。あまりに当たり前のように思われながらも、現実において、最も見落とされている視点である。
ところで、皇太子殿下について、筆者は、しばしば大国主神を連想することがある。
例えば、古事記にでてくる因幡の白ウサギの話がある。有名な話なので、内容は改めて述べないが、大国主神、ここでは、まだ、オホナムヂノ神であったが、兄弟の神々に大きな袋を背負わされて登場する。これは、いわゆるヒーローのイメージとは、大分異なるのではないだろうか。おそらく、上手く立ち回ることは、あまり得意ではなかったのであろう。しかし、誰よりも優しい心をもち、確かな知識で目の前のウサギを助けるのである。そして、そのようなご性格があればこそ、やがて偉大な大国主神になったのである。
さて、このように見ていくと、今後の宮内庁の在り方としては、頭のいい人が必要になるなということを実感する。
頭のよさというのも、いろいろあると思うが、ここでいうのは、敏感さと柔軟さということである。
さも分かったような顔をして、結局何も言わないというのは、一見、畏敬の念の表れのようにも見えるかもしれないが、そんなことは、頭が空っぽでもできるのである。
皇太子殿下と問題意識を共有し、そのお気持ちに応えること、これは、実にやりがいのある、大きな仕事ではないか。
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文芸春秋三月特別号の皇室特集を読んで

2005-02-12 02:10:28 | 皇室の話
文芸春秋三月特別号に皇室特集として、様々な方の記事が掲載されている。
まず、福田和也氏の「天皇と皇太子 父子相克の宿命」と題する記事がある。
昨年末の天皇陛下のお誕生日での文書回答にスポットを当て、皇室において、父と子の間の軋轢があるとし、それをまた、疎開世代と高度経済成長時代の恵みを享受してきた世代の違いと重ね合わせて、なかなかドラマチックに論じている。
ここでいうドラマチックというのは、要する悲観的ということなのであるが、ただ、このように論じてみたところで、一体何の意味があるのだろうというのが、正直な感想であった。
息子に対する父の厳しさというものは、決して敵に対する攻撃ではないのである。厳しく接することがあっても、一方で、それを克服することを望むものなのではないか。父として、息子のやり方が、仮に将来にわたって容認できないものであったとしても、一方で、やはり自分なりの信念に基づいて、自分の道を見つけて欲しいと願うものなのではないか。
形ばかり自分の模倣をし、それで何の疑問も持たないようでは、それではやっぱり、寂しいはずである。
今の皇室の状況について、父と子との相克という要素があるとしても、悲観的にばかり捉えていたのでは、不十分であるし、意味がないのである。
福田氏の記事の末尾にて、「疎開世代の、父祖の偉業が灰燼に帰する光景を瞼に焼きつけた視線、その覚悟の深さ・・・・・の前で、皇太子の世代はいかにもひ弱い」とあり、これは福田氏自身の告白のようでもあり、何となく同情もしてしまうのだが、そのような情けないドラマを皇太子殿下に当てはめてしまうのは、如何なものかと思う。

次に目に付いたものとして、朝日新聞岩井克巳氏の「雅子妃を抱きしめた皇后さま」と題する記事がある。岩井氏の今回の記事については、何が言いたいのかよく分からない。どうも、理念なきウォッチャーとしての視点に立った記事であるように感じられた。
ただ、注意を要する箇所もある。
「皇室は批判に耐えるものでなければならない。隠さねばならないものを抱えた皇室をだれが敬愛するだろうか」という主張である。
よくそういうことが言えるなと、呆れてしまう。
一般に、ものの在り方についての哲学というものは、それぞれの置かれた立場に応じて、抱くべき内容が異なるのではないだろうか。
皇室のお立場においては、「皇室は批判に耐えるものでなければならない」という哲学を有するべきであることは、正論ではあろう。
しかし、メディアの立場にある者がそれを言うのは、盗人猛々しいというべき話である。皇室におかれては、そのような哲学をお持ちになるとして、一方、メディア、国民の立場としては、そのような皇室に対して、敬う、大切にするという哲学こそが、必要になるはずなのである。

このように批判ばかりをしているが、長谷川三千子氏の「雅子さまの困難な道のり」と題する記事は、実に素晴らしいものだ。
冒頭に、「この「文芸春秋」でも、何度か今回のようなテーマの特集が組まれ、その中には、静かに耳を傾けるべき貴重な意見もいくつか語られていた。しかし、それらはみな、言ふならばミソクソ一緒の構成のうちに埋もれて、ただあてどのない蝿の羽音としてしか響かないのである」などと書いてる。
実に痛快である。
記事中においては、「祈り」ということの本質的な意味が、詳しく説明されている。
「祈り」といっても、意味が分かるようでいて、改めて考えると、なかなかよく分からないものであるかもしれない。日常的には、口先だけの「祈り」が言われることもある。一般には、あまり意味のないものと思われている傾向があるかもしれない。
しかしながら、人間というものは、多分に精神的な存在である。
世の中には、どうすることもできない困難な問題というものが、しばしばあるものである。そのようなとき、たとえ、実質的な解決を与えてくれるものではなくても、自身のためにひたすらに祈ってくれる存在があるということは、大きな救いである。
かつての天皇についても、天変地異を自分自身の責任であるとして非常に悩まれ祈られる様子が、記紀にも書かれている。
このような話について、現代人として、科学的に考えれば不合理であるかもしれないが、心の世界の問題としては、大いに意味があったのである。
記事中の「われわれはいまのこの世の中を、かなり絶望的な世の中だと思っている。けれども、もしもこの世からかうした祈りが奪い去られたら、それどころではない本当の絶望の世をわれわれは知ることになるであろう」という主張には、全く同感である。
このような主張をしてくださる方がいらしたことについては、筆者としても、とても嬉しい。
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