皇居の落書き

乱臣賊子の戯言

靖国神社の落書き男は放尿男なのではないか

2024-07-10 22:32:07 | 筆者のつぶやき
令和6年7月10日、靖国神社の落書き事件の犯人の一人が逮捕されたそうだ。

このブログのタイトルは「皇居の落書き」であり、そんな筆者が言うのも何だけれども、本当にけしからん事件である。

さて、この事件なのであるが、もっぱら落書きに焦点が当たっているけれども、犯人は放尿をしたのかどうか。

放尿のような仕草と報じている記事もあるけれども、実は放尿していたとしている記事もある。



もし、放尿していたのであれば、あれだけ公の場での行為でもあり、公然わいせつ罪を問う方が妥当なのではないのだろうか。
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変わらないのだろうか

2024-07-07 20:47:05 | 筆者のつぶやき
男系男子は、結局、変わらないのだろうか

弱気なつぶやき
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英国御訪問

2024-06-21 23:11:17 | 筆者のつぶやき
明日、いよいよ英国御訪問のため、天皇皇后両陛下が、東京を御出発される。

記者会見の内容も、我が国の最高の公を担う方として、格の違いを感じさせられるものでした。

皇后陛下の輝かしいお姿にも期待。

日本人の一人として誇らしい。

ありがたいことです。
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美智子さまのお声がけ報道の真相とは

2024-06-14 22:11:47 | 筆者のつぶやき
令和6年6月13日、週刊女性PRIMEより、「美智子さまの皇位継承議論“口出し報道”の真相を宮内庁が回答、憤るご友人らは「考えられない」」と題する記事が配信されている。

この記事を読んで、ついつい妄想を抱いてしまった。

筆者からすれば、もともと「お声がけ」の内容自体は問題になるようなものではないと考えていた。

衆議院議長に対するお声がけという点に着目すれば、国政への関与という感じがしなくもないが、「(皇位継承に関する議論を)よろしく進めてくださいね」という内容であるならば、皇室がそういう問題意識を有しているということはとっくに公になっていることであるし、立法府は議論をすることが仕事なのだから、よろしく進めてくださいとおっしゃったとして、今更という感じしかしなかったのである。

もっとも、実際にそのようなお声がけがなかったのであれば、それをあったかのように報じることは問題であろう。
ただ、この点については、宮内庁長官によって明確に否定されたのだから、もうこれ以上、論じる意味はないだろう・・・と。

このように思っていたのである。

しかし、今回の週刊女性PRIMEの記事を読むと、そこには根深い問題があるのかもしれないと思ってしまった。

日系ブラジル人の方の「口出しされるなんて考えられません」というコメントが紹介されているが、「深くお考えになって、発言をされる方だからこそ、皇位継承について口出しをされるようなことはないと思います」ともあり、上皇后陛下がこの問題について深く思いを巡らしていることが、改めて示唆されている。

また、絵本作家のコメントは、この問題と関係があるんだかないんだかよく分からない内容なのだが、要するに「気配りを絶やさない方です」というところに力点があるようだ。

続いて、静岡福祉大学の小田部雄次名誉教授のコメントとして、以下の内容が示されている。

-----引用開始-----
「美智子さまは、令和以降の皇位継承の安定を願っておられると推察します。まずは、悠仁親王への皇位継承と、その後の皇位の安定した継続を望まれておられるでしょう。
 とはいえ近年、悠仁親王が即位された後の男系男子継承の心もとなさが指摘されています。その対応策として、女性天皇や女系天皇の道もありうるとお考えになられていてもおかしくありません」
-----引用終了-----

これに続けて、先ほどの絵本作家の方の関係があるんだかないんだか分からないコメントが再び紹介され、要するに「ご家族の幸せを思う美智子さま」ということが強調。

また、小田部氏の肉親の情といったコメントが紹介。

ここまで読み進めて、上皇后陛下のお立場に立って考えてみると、
・皇嗣殿下、悠仁親王殿下までの皇位継承は既定路線なので、それを変えるようなことは家族の中に軋轢を生じかねないので、変えないで欲しい
・ただ、このままでは皇族の数が減ってしまうので、愛子内親王殿下、佳子内親王殿下が残る道を残して欲しい
とお考えになるとしても不自然ではない・・・、という風に思えてくる。

ただ、そんなことはあからさまには言えないので、ジレンマであると。

さて、そういう話になってくると、これは妄想であるけれども、お声がけ問題がメディアで取りあげられることの根底にあるのは、要するに、上皇后陛下のお立場に立って忖度をしろというメッセージなのだろうか、という気がしてくる。

謎の宮内庁関係者によってお声がけのあったことを流し、表向きには否定をするが、『上皇后陛下のお気持ちは、分かりますよね』、というような。

仮にそうであるならば、そのような忖度をしろというメッセージは、政府、政治家の一部には、もっとストレートな形で伝わったのかもしれない。

その際、悠仁親王殿下までの皇位継承、愛子内親王殿下と佳子内親王殿下の皇族身分の保持、これらのことさえ確保されるなら、その他のこと(旧宮家系の話)は任せるというような話であったとすれば、うるさい安倍系保守も説得できそうであるし、政府、政治家の一部において、見通しが立ったような気にもなることであろう。

あとは、議論を取りまとめる体裁をとって、推し進めてしまえばいい・・・。

あくまで妄想であるが、このように考えると、ここ最近のいろいろな動きのつじつまが合うような気がしてくる。

ただ、予想外だったのは、一般からの反発があまりに強かったということであり、どうしていいか分からなくなったというのが、今の状況なのかもしれない。
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振り返り

2024-06-07 22:46:15 | 筆者のつぶやき
このブログは、平成16年8月24日の記事から始まったのだが、同年5月の人格否定発言を契機としている。

その後の皇太子御一家へのバッシングはすさまじく、狂気の時代であったと言えるだろう。

洋食レストランで食事をされるだけでの批判など、今では想像できないのではないだろうか。


このブログにおける、そういった狂気の時代の記事については、

令和になり、ずいぶんと平穏になってきたところであるので、

あまりいつまでも載せておくのもどうかと思い、

保留状態にしてあったのだが、

あれから何が変わって、何が変わっていないのか。


振り返ってみることも有意義ではないかと思うようになり、

いくつか復活させようと思う。


無用な波風を立てることとならないように、慎重に選びつつ。






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「佳子さま」のギリシャ訪問、維持したい御公務、広報戦略??

2024-05-27 21:49:58 | 筆者のつぶやき
今回はただのつぶやきである。

佳子内親王殿下はギリシャ御訪問するために、令和6年5月25日に御出発になったとのことで、連日、その様子がわりと頻繁に報じられている。

ただ、タイミング的に、皇族数の確保の議論が行われており、微妙な感じがしてしまった。

女性皇族に婚姻後も皇族の身分を保持していただき、担っていただく御公務というのは、こういうイメージなのだろうか。

この議論との関係がなければ、素朴に素晴らしいと思えたのであるが、いろいろと難しいことを考えてしまう。


また、海外御訪問については、佳子内親王殿下以外の場合についても当てはまるのだが、メディアによる様々な映像。

これはどうしても「映える」ものが用いられることになると思うのだが、海外御訪問を報じる際に「映える」映像を用いると、観光旅行をしているように見えてしまう。

昔から、どなたの場合であってもそうなのである。


広報戦略ということが話題になったけれども、どうも上手くないような感じがする。
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このブログについて

2005-08-15 00:48:45 | 筆者のつぶやき
このブログを初めて、そろそろ1年になる。
このブログは、皇室に関する世間での論じ方について、筆者なりに不十分さを感じ、こういう見方もあるのではないかということを、世の中に投げかけてみようということが、動機となっている。
ここでいう、「こういう見方」とは、興味本位ということではなく、皇室と国民との関係を重視するという視点である。
筆者としては、皇室を尊重するということが基本としてあるのだが、ただ、皇室のみに目を向けるのではなく、皇室と国民との関係性を問題意識としなければ、皇室制度を考える立場として、甚だ不十分であると考えている。
そうでなければ、国民のことを常に考えておられる皇室からみても、意に添わぬ尊重派と言うべきであろう。
「宮内官魂の継承者」という表現には、そのような自覚ある臣下でありたいという気持ちを込めた。
しかし、それにしても、宮内庁というのは、肝心なことは本当に何も言わないところだ。
宮内庁の職員がこのブログを見ることは恐らくないだろうが、見たらどのような感想を持つのだろう。
バカバカしいと思うだろうか。それとも、共感してくれるだろうか。あるいは、まったく何も感じないだろうか。
組織としてではなくても、個人的には、いろいろと悩んだり考えたりしているのだろうか。
また、普段、このブログを閲覧している方々は、どのような考え方をお持ちなのだろう。
筆者自身、自分で述べていることが、世間での議論の区分けからすると異端に属するのではないかと思うのだが、ごくごく僅かながらもお付き合いいただいている方々がおられるということは、それなりに訴えるところがあるからであろうか。
なお、上記において、自らを皇室尊重派と述べたが、書いてある内容が意に添うかどうかは、全く分からない。
そういう意味では、一方的な片思いである。
これは忘れてはいけないところだ。
皇位継承の問題については、最近の筆者は女系容認という立場から述べているのだが、まだ幼い愛子内親王殿下の運命に関わる話となると、皇室尊重派などとはとんでもない話であるかもしれない。
この点については、甚だ自信がない。
しかし、それ故に、我こそは皇室以上に皇室の歴史を理解しているというような顔をして、男系男子を主張する勢力が許せないのだ。
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皇室について論じることの苦しさ

2005-07-22 00:55:38 | 筆者のつぶやき
皇室について、あれこれと論じることにつき、筆者は、最近、胸の奥に苦しさのようなものを感じることがある。
世間での皇室をめぐる議論を見るにつき、物足りなさを感じ、真実はこういうことなのではないかという思いから、今まで、夢中で書いたりもしてきたのだ。
ここで、「真実」ということを述べたが、一口に「真実」といっても、それは多面的ではあろう。
筆者が言いたいのは、日本人の一人として見落としてはいけないはずの真実ということであり、筆者としては、皇室というお立場にある方々に対しての、人間としての共感ということが、大きな問題意識としてあったのだ。
このことは、今でも間違いではないと思っているが、ただ、こうして書き連ねていくうちに、どうしても、筆者自身のみすぼらしさというものを痛感してしまうのだ。
筆者自身、決して、高尚なことばかりを書くことが似合うような人間ではないのである。
ただ、つまらない存在としての自分に安住し、そのような自分の視点でのみ皇室を眺め、皇室を論じるということについては、結局、皇室というご存在を自らの次元に引き下げることになるようにも思われ、やはり、有意義とは思われない。
そこで、このような細々としたブログといえども、かなり無理をしながら書いているのである。
ただ、このように考えてみると、皇室に対して叱りつけるような物言いを行う者、しかもそれで生活の糧を得ているような者については、筆者としては、いよいよ理解不能である。
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皇室について考えるに伴う、雑多な感想

2005-06-24 01:02:13 | 筆者のつぶやき
皇室について考えるということは、特殊な問題のことを考えているかのようでいて、実は、今の社会の本質を考えることにも繋がるのではないか、そのように思うことがある。
確かに、多くの人の生活には、皇室ということは直接関係していないであろう。
であるから、しばしば、皇室が無くなっても、生活には直接関係ないし、大して困らないということが言われたりする。
それは、確かにそうであるかもしれないと、筆者でも思う。
ただ、皇室というご存在が体現されているもの、これが失われるとしたら、この社会は何とも生きるのが苦しく、不幸な状態になるのではないか。
皇室が体現されているもの、一口にこのように言っても、その内容は幅広く奥深いが、まずは、現在の社会の在り方、そして、一人一人の在り方というものが、過去からの無数の因果の連鎖の上に成り立っているものであるとの自覚と感謝ということがあろう。
社会にしても、一人一人の個人にしても、ある時点でいきなり存在し始めたのではなく、過去からの因果の連鎖の上に成り立っているということであり、世界の中の孤児ではないということである。
また、過去からの因果の連鎖ということは、同時代における、自らの他者との関係性を想起させることにもなろう。
このことは、一人一人の個人に対し、自らの役割と責任を自覚させ、そしてそれがあるからこその、達成感、充実感を生じさせることになるのではないだろうか。
人生における、達成感、充実感というものは、自らの役割と責任の自覚なしには、およそ得られないものである。
しかるに、現在の社会においては、人々が、自らの役割と責任の自覚を得る機会というものは、かなり乏しくなっているのではないか。
筆者自身について振り返れば、自らを、あたかも、自分一人で一つの完結した存在であるかのように考えていた時期もあった。
ただ、これは、やはり真実ではないのである。
そもそもが、両親から生まれた存在であるし、先祖について延々と遡っていけば、地球の始まりにも遡ることになろうか。いや、宇宙の始まりにも遡ることになろうか。
日々口にする食物にしても、多くの人の手を経て加工されており、また、その材料については、大地、水、空気、日光の賜物であるのだ。
このような関係性の中で、存在をしている。
そして、自分自身、変わらぬ存在のように思えても、この関係性の中では、子ども時代、青年期、中年期、そして老年期と、それぞれ異なる役割を果たさなければならないのである。
そして、これこそが真実であり、このような自覚の下、自らの存在を全うすることにより、人生の幸福を感じることもできるのだろう。
しかし、現在の社会では、このような自覚を得ることは、難しいであろう。
多くの人は、核家族という生活空間の中で大人になる。
この核家族というものは、どうしても、人間の生老病死に接する機会を乏しくしてしまう。
唯一求められる仕事は勉強であるかもしれないが、机の上での勉強など、自らの存在と世界との関係性の自覚とは、ほど遠いものであろう。
さて、このような生活空間で育った人間が、いきなり社会に出るというのは一苦労である。
そこでは、自分一人で一つの完結した存在などとはいっておれない。組織の中で役割を果たさなければ、存在意義を認めてもらえない世界に放り出されるわけだ。
また、結婚して、子どもができれば、これも大変なことである。子どもとの関係では、親であることが否応なく要求される。子どもに対して、自らを犠牲にして愛を注ぐ存在とならなければならないのである。
最近、職に就こうとしない若者の問題が深刻化しつつあるようだ。また、親殺し子殺しも、一昔前は大ニュースであったが、今では日常茶飯事である。また、出生率の低さは、年々深刻さを増すばかりである。
社会全体が、まさに内部崩壊の様相を呈しつつあるが、それは人々の世界観、自己という存在についての認識の問題と、無関係ではないのではないだろうか。
皇室とは、過去からの歴史の上に成り立つご存在であり、その無私なる境地は、自らのお立場への深い自覚に基づくものであり、国の平安の国民の幸せを念じられることに向けられたものだ。
なるほど、皇室の方々のご動静は、社会における一人一人の生活には、直接関係はないであろう。
しかし、このような、皇室というご存在が体現されておられるものが、この社会から失われるとしたら、後はもう、ひたすら滅びに向かうしかないのではないだろうか。
このように言うと大げさなようであるが、やはり、出生率の低下は大きな問題である。これには様々な原因があるが、人々に、子どもを生み育てることの意義が分かりにくくなっていることや、根気と覚悟が無くなっているという問題が大きいであろう。
皇位継承の危機ということを何度か述べたが、現在は、日本人そのものの消滅の危機に直面しつつあるのかもしれない。
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皇室の話を書き続けて、とうとう100回目。

2005-06-01 01:40:50 | 筆者のつぶやき
最近はかなりペースが落ちてしまったが、今回で、とうとう100回目である。
我ながら、よく続いたなと思う。
皇室についての自らの考えを延々と述べるブログというものは、そんなに無いのではないだろうか。
というのも、まず、日常生活において、皇室について考えるきっかけというのはそんなにあるものではないだろう。
あるとすれば、ワイドショーや週刊誌の記事ぐらいであろうか。
それに、皇室の話題を書いたとして、まじめに書けば書くほど、あまり面白くないというか、一般ウケしない内容になってしまうであろう。
ただ、それでも、筆者がこのブログを始めた当初に比べると、皇室を扱うブログは、かなり増えたようではある。
当初は、「皇室」という言葉をキーワードとして検索すると、筆者のブログがずらっと並ぶ状態であったが、最近では、すっかり埋もれてしまい、見つけるのが大変である。
ただ、若干、欲を申すと、皇室に関する多くの記事につき、そのような記事が生まれるだけの、論者の内面世界での必然性というものが、あまり感じられないものが多いように思われたのだ。
皇室の伝統が大事であるということがポンと言われる場合があるが、論者は、伝統一般について、何でもかんでも尊重したいという立場なのか、それとも、皇室について、特にそのように考える立場なのか。
皇室の伝統といっても抽象的であり、大事に思うという具体的な心の動きが生じるためには、単なる観念とは別な次元での個人的体験があると思うのだが、いったいどのような体験があったのか。
そういったことが表現されると、筆者としても、読みがいがあるので、期待したい。
筆者としての個人的な体験ということを簡単に述べると、やはり、天皇陛下が公務をなさっているお姿を見て、陛下はいったいどのようなご境遇なのであろうか、どのようなお気持ちでお務めをされておられるのだろうか、ということを、ある時ふと想像してみたことが、大きなきっかけであった。
皇室がどのような仕事をしているかについては、知識としては知っていたが、そのようなお立場におられる方も、やはり人間であり、人間としてのご境遇、お務めであるということは、かつては全く考えていなかったのである。
ひとたび、そのような視点で、天皇陛下のご境遇、お務めについて考えてみると、これはなかなか衝撃的であり、まったく他人事ではないということが、実感せられてきたのである。
陛下のご境遇、お務めは、日本国及び日本国民統合の象徴としてのものであり、日本人としての筆者と無関係なものではなかったのである。
無関係どころか、筆者が日本人であるということ、日本人としての過去二千年以上の歴史を受け継ぐ存在たらしめることの責任を背負っておられるものと感じられてきたのである。
そうなってくると、皇室について、無関心でよいのだろうかとも思ったし、面白い話題としてのみ扱うことに違和感を感じるようになったのだ。
少なくとも、皇室の側は、筆者を含む日本人のために、人生を捧げておられるのだ。
だから、例え、一億何千万分の一にすぎない存在であるとしても、筆者なりに、少しは皇室のお気持ちに、応えるべきではないかと思ったのだ。
もっとも、このようなブログにて、細々と書き連ねていったい何の意味があるのかと言われると辛いところであるが、以上が、あまり多くの人に読んでもらえないような内容を延々と書き続けてきたことの理由である。
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