令和7年、今年は戦後80年であり、広島にお出ましになっておられるが、
改めて、天皇陛下のお立場は重い。
天皇陛下による慰霊は、どのような政治指導者とも異なる特別な重みがある。
この重みというものを考えるとき、皇室の長い歴史の中でも、近代以降のお立場の特殊性があるようにも思われる。
それを端的に表すものとしては、「天皇陛下万歳」という言葉があるであろうか。
決死の場面でのその叫び。
しばしば、死ぬ時に「天皇陛下万歳」なんて言わない、「お母さん」と言うんだという話もあり、それはそれで説得力があるのだけれども、「天皇陛下万歳」と叫んだ人も多かったはずだ。
平成17年に上皇上皇后両陛下はサイパンに慰霊のために訪れておられるが、そこには「バンザイクリフ」もあったのである。
また、以下のような記事もある。
平成24年2月9日、長崎新聞のサイトに掲載「「万歳」叫び 息絶えた少年」
被爆された方の証言なのだが、その中に以下の記載がある。
-----引用開始-----
近くの壕に避難。しばらくすると、全身の皮がずるりとむけて垂れ下がった中学生ぐらいの男の子が入ってきた。「ちくしょう、ちくしょう」と言いながら横たわり、「天皇陛下、万歳」と叫び、数分もしないうちに息絶えた。不謹慎かもしれないが、男子は死ぬとき本当にこのようなことを口にするのだな、と内心驚いた。
-----引用終了-----
家庭、学校といった環境の中で、「天皇陛下」を敬うべきという教えが徹底されており、最後の心のよりどころになっていたということであろうか。
そして、そのような叫びの対象として在ることの重圧。
それは、どれほどのものなのだろう。
とうてい、人間として背負いきれるものではないであろう。
しかし、それでも背負わなければならない。
その宿命。
戦後においては、非常に多義的であり筆者は好きではないけれども、「戦争責任」という言葉で表現されることもあるであろうか。
そして、その宿命に向き合い続けることこそが、昭和22年に施行された憲法に定める象徴天皇としての徳の本質ではないかと、筆者は感じている。
であれば、憲法第2条において「皇位は、世襲のもの」であると定めているが、世襲で必要となるのは単なる自然血統ということだけではなく、そのような宿命を次の代に伝えられるかということが、重要なのではないか。
そして、人間として背負いきれるものではない宿命の継承というものは、極めて非人間的なことであり、基本的人権の世界の中では不可能であり、根拠づけることもできない。
それは、基本的人権の世界とは隔絶された世界の中、絶対的な愛と信頼の人間関係、すなわち親と子の絆の中でこそ、可能となるのではないか。
令和7年6月19日13:13、FNNプライムオンラインより配信の「「天皇ご一家の重い歴史」 上皇さまから愛子さまへ親子3代に受け継がれる平和への強い思い 元広島市長が考える両陛下の広島訪問の意味」と題する記事がある。
かなり決定的な内容だと思う。
以下の記載がある。
-----引用開始-----
原爆投下から4年後の昭和24年、当時15歳の上皇さまは初めて広島を訪れ、市民に呼びかけられました。
上皇さま:
その惨劇に二度と人類をおとしめぬよう、大きな力とならなければならないと思います。
その後も10回広島訪問を重ね、犠牲者に祈りをささげ続けられた上皇さま。
愛子さまもまた、中学3年の修学旅行で広島を訪れ、「世界の平和を願って」と題した作文を寄せられています。
平和への強い思いは、孫の愛子さまへ、受け継がれています。
元広島市長・平岡敬氏:
愛子さまもそういう思いがあるからこそ、平和が大事だと言われたのだと思います。
-----引用終了-----
今回の広島御訪問においては、愛子内親王殿下は同行されておられないが、それでもこのように言及されるというのは、世の中から、宿命の継承者として認識されているということなのだろう。
そしてまた、そのように天皇皇后両陛下がお育てになった、ということでもあるのだろう。
天皇陛下の宿命を受け継ぐことができるのは、愛子内親王殿下をおいてほかにいない。
改めて、天皇陛下のお立場は重い。
天皇陛下による慰霊は、どのような政治指導者とも異なる特別な重みがある。
この重みというものを考えるとき、皇室の長い歴史の中でも、近代以降のお立場の特殊性があるようにも思われる。
それを端的に表すものとしては、「天皇陛下万歳」という言葉があるであろうか。
決死の場面でのその叫び。
しばしば、死ぬ時に「天皇陛下万歳」なんて言わない、「お母さん」と言うんだという話もあり、それはそれで説得力があるのだけれども、「天皇陛下万歳」と叫んだ人も多かったはずだ。
平成17年に上皇上皇后両陛下はサイパンに慰霊のために訪れておられるが、そこには「バンザイクリフ」もあったのである。
また、以下のような記事もある。
平成24年2月9日、長崎新聞のサイトに掲載「「万歳」叫び 息絶えた少年」
被爆された方の証言なのだが、その中に以下の記載がある。
-----引用開始-----
近くの壕に避難。しばらくすると、全身の皮がずるりとむけて垂れ下がった中学生ぐらいの男の子が入ってきた。「ちくしょう、ちくしょう」と言いながら横たわり、「天皇陛下、万歳」と叫び、数分もしないうちに息絶えた。不謹慎かもしれないが、男子は死ぬとき本当にこのようなことを口にするのだな、と内心驚いた。
-----引用終了-----
家庭、学校といった環境の中で、「天皇陛下」を敬うべきという教えが徹底されており、最後の心のよりどころになっていたということであろうか。
そして、そのような叫びの対象として在ることの重圧。
それは、どれほどのものなのだろう。
とうてい、人間として背負いきれるものではないであろう。
しかし、それでも背負わなければならない。
その宿命。
戦後においては、非常に多義的であり筆者は好きではないけれども、「戦争責任」という言葉で表現されることもあるであろうか。
そして、その宿命に向き合い続けることこそが、昭和22年に施行された憲法に定める象徴天皇としての徳の本質ではないかと、筆者は感じている。
であれば、憲法第2条において「皇位は、世襲のもの」であると定めているが、世襲で必要となるのは単なる自然血統ということだけではなく、そのような宿命を次の代に伝えられるかということが、重要なのではないか。
そして、人間として背負いきれるものではない宿命の継承というものは、極めて非人間的なことであり、基本的人権の世界の中では不可能であり、根拠づけることもできない。
それは、基本的人権の世界とは隔絶された世界の中、絶対的な愛と信頼の人間関係、すなわち親と子の絆の中でこそ、可能となるのではないか。
令和7年6月19日13:13、FNNプライムオンラインより配信の「「天皇ご一家の重い歴史」 上皇さまから愛子さまへ親子3代に受け継がれる平和への強い思い 元広島市長が考える両陛下の広島訪問の意味」と題する記事がある。
かなり決定的な内容だと思う。
以下の記載がある。
-----引用開始-----
原爆投下から4年後の昭和24年、当時15歳の上皇さまは初めて広島を訪れ、市民に呼びかけられました。
上皇さま:
その惨劇に二度と人類をおとしめぬよう、大きな力とならなければならないと思います。
その後も10回広島訪問を重ね、犠牲者に祈りをささげ続けられた上皇さま。
愛子さまもまた、中学3年の修学旅行で広島を訪れ、「世界の平和を願って」と題した作文を寄せられています。
平和への強い思いは、孫の愛子さまへ、受け継がれています。
元広島市長・平岡敬氏:
愛子さまもそういう思いがあるからこそ、平和が大事だと言われたのだと思います。
-----引用終了-----
今回の広島御訪問においては、愛子内親王殿下は同行されておられないが、それでもこのように言及されるというのは、世の中から、宿命の継承者として認識されているということなのだろう。
そしてまた、そのように天皇皇后両陛下がお育てになった、ということでもあるのだろう。
天皇陛下の宿命を受け継ぐことができるのは、愛子内親王殿下をおいてほかにいない。