皇居の落書き

乱臣賊子の戯言

朝日選書「女性天皇論 象徴天皇制とニッポンの未来」について

2004-11-27 18:41:38 | 皇室の話
 朝日選書の「女性天皇論 象徴天皇制とニッポンの未来」という本がある。
 以前、この本の感想を求められたことがあり、ざっと目を通したことがあるのだが、あまり大した内容ではないなというのが正直な感想であった。
 著者自身には、並々ならぬ思い入れがあるようであり、かなり手間を掛けて書いた書物だと思うのだが、ページを開けばおなじみの議論が延々と紹介されており、かなり退屈である。そして、結局、何が言いたいのかということについては、皇太子妃殿下の苦しい状況を目の当たりにし、皇太子妃殿下というお立場にある方への配慮という観点から、女性天皇を認めるべきことを主張するのである。
 しかし、皇太子妃殿下への同情ということから女性天皇を認めようとするのは、考え方として片手落ちである。
 なぜならば、女性天皇というお立場に置かれた方が、皇太子妃殿下よりも苦しい状況に置かれる可能性が十分にあるからである。
 皇太子妃殿下の苦しい状況を、皇室の伝統に由来するものと捉えるならば、変に女性天皇容認論を主張するよりも、皇室制度の廃止を主張する方が、まだ筋が通るのではないか。
 それでは、なぜ、このような主張がなされるのであろうか。
 筆者としては、朝日というところは、皇室の存在しない日本の実現を目指していると、常々考えている。
 そのような立場に立つ者としては、単に皇位を継承する者が存在しなくなり、皇室が自然消滅するということでは、不十分なのであろう。
 なぜならば、皇室が最後まで伝統を守って自然消滅したような場合には、その伝統の精神が、国民の心の中に後々まで生き残ることになるからである。
 真に皇室の存在しない日本を目指すためには、いよいよ皇室が消滅しようというときに、敢えて悪あがきのようなことをさせ、守られるべき伝統を失った体裁を作り出し、その後に葬り去るということが必要なのであろう。
 この本の著者がそこまで考えているとは思われず、著者には著者なりの使命感があるのかもしれないが、この本を出版している朝日新聞社には、そのような意図があると思われてならないのである。
 
 それにしても、よく分からないのは、この本の評判である。
 皇室をめぐる議論を多少知っている者であれば、退屈という感想を抱かざるを得ないと思うのだが、筆者の知っている限りでは、橋本梧郎なんかも絶賛していた。
 Amazonのレビューでも、なかなかいい評価を得ているようである。筆者としては、この中では、森之介氏の評価しか、的を射ているものはないと思う。
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皇后陛下と清子内親王殿下

2004-11-27 01:09:43 | 皇室の話
 今年は、皇后陛下の古希であった。
 皇后陛下のお誕生日の文書回答を読むと、ハッとさせられる表現がある。

 「東宮妃として,あの日,民間から私を受け入れた皇室と,その長い歴史に,傷をつけてはならな いという重い責任感とともに,あの同じ日に,私の新しい旅立ちを祝福して見送ってくださった大 勢の方々の期待を無にし,私もそこに生を得た庶民の歴史に傷を残してはならないという思いもま た,その後の歳月,私の中に,常にあったと思います。」
という箇所である。

 皇后陛下が民間から皇室に入られたことについては、改めて言うまでもないが、皇后陛下のお心の中には、皇室の歴史ということと、庶民の歴史ということとが、常にあったのだ、そのことを改めて示されると、皇后陛下という御存在について、いよいよ理解が深まった気持ちになる。
 皇后陛下におかれては、「皇后」であるということのみならず、庶民の歴史ということが常に心の中にあるからこそ、皇室の歴史について一生懸命理解しようとされ、また、そのことにより、実際に深く理解して意義を見いだされてきたのではないか。
 さらに、そのようにして理解された皇室の歴史について、民間にある者にも分かりやすく伝えようとされたのではないか、と思われるのである。実際に、皇后陛下におかれては、皇室の役割についてお話になることが、結構あるのである。
 そうなってくると、民間から皇室に入られたお方であるが故に、「皇后」として、独自の意義を有する御存在であったのではないか、と感じられてくる。

 このように考えると、清子内親王殿下のご結婚については、その対を成すものとして、とても感慨深いものがある。
 清子内親王殿下におかれても、皇室の歴史ということと、庶民の歴史ということを、常に心の中におかれて、過ごされることになるのではないか。

 なお、ここで、皇室の歴史ということと、庶民の歴史ということとがあると言っても、それは決して、どっちつかずということではなくして、皇后陛下におかれては、皇后というお立場に深い御自覚がおありなのであり、清子内親王殿下におかれても、庶民という立場に深い御自覚を持たれることになるのであろう。

 そして、そうなってくると、庶民という立場に立たれる清子内親王殿下について、安易に祭り上げたりすることは、慎むべきであるのだろう。また、そのご生活の様子について、注目するようなことも、避けなければならないだろう。
 なぜなら、一人の人間としての動静について、常に象徴的な意味のあるものとして注目されてしまうという宿命を負うことができるのは皇室のみだからである。
 そして、庶民というものは、皇室とは対照的に、集団的な存在である。
 メディアにおいては、清子内親王殿下お一人の、ないしは、黒田氏とのお二人の物語のように語られており、世間の認識もそのようなものであると考えられるが、清子内親王殿下が皇籍を離脱されるということは、清子内親王殿下を受け入れる庶民の側の物語でもあると言える。
 
 私たち庶民は、皇室に皇室としての在り方を求め続け、ご負担をおかけしてきた。そのことに見合うだけの責任感をもって、清子内親王殿下と黒田氏とのお二人のご生活を、尊重することができるだろうか。

 いよいよ、庶民としての誇りと責任とが、問われることになるのである。
 
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