令和7年5月15日の読売新聞の記事については、いろいろな反響があったようであるが、男系派議員の反応というのは、ここまで劣化しているのかと、寒々しい気持ちになるものが多い。
令和7年5月16日7:00、産経新聞より配信の「
「読売がこのような記事載せるとは」自民・松本尚氏が同紙提言に苦言「男系維持が最優先」」と題する記事がある。
自民・松本尚氏の発言として、以下の記載がある。
-----引用開始-----
「読売新聞がこのような記事と社説を載せるとは驚きました」
-----引用終了-----
この程度の発言であれば、単なる感想ということで、特に圧力というようなものではないのかもしれない。
しかし、「読売新聞がこのような」という言い方は、読売新聞であればある一定の論調の記事を載せるべきといった先入観があるということを意味しているであろう。
そういう論調に関する先入観というものは、思想のパッケージ化に繋がるものと言えるのではないか。
5月4日の志桜里応援DOJOにて、山尾志桜里さんが、このパッケージの問題を話していた記憶があるが、これはかなり深刻な問題だ。
これは、筆者としても、メディア、ネット空間の言論として、20年前よりずっと感じてきたことではある。
保守であればこの問題はこのように論じるべき、あの問題はあのように論じるべきといった、いつの間にやら形成さら基準のようなものがあって、それが手応えのある存在となっているのである。
まるで、論じる個々の人間を包摂する、保守という名の複合生命体が存在しているかのようである。
そういった複合生命体的な思想のパッケージ化というものが、政治家の世界でもあるということなのであろうか。
政治家の世界においては、裏金問題のように不正利益の構造化という病理があるとすると、これは劣化思想の構造化という病理であると言え、裏金問題よりも遥かに深刻な問題と言えるであろう。
さて、話を戻すと、 自民・松本尚氏の発言として、以下の記載がある。
-----引用開始-----
「まずは天皇の男系男子の維持が最優先事項です。その基本が分かっていません」
-----引用終了-----
自民・松本尚氏は、どのような根拠をもって、「男系男子の維持が最優先事項です」と考えているのであろうか。
「その基本が分かっていません」と認識したのであれば、その基本が分かるように説明を尽くすのが議員の仕事であると思うのだが、それはないのである。
これまでの皇位継承が男系という形をとっているということは、読売新聞にしたところで百も承知の話である。
20年前、小泉政権時の女性・女系天皇の議論の際には、男系継承ということは世の中に十分に知られていなかったであろうし、当時であれば、まずは男系継承を尊重するべきではないかという発想になることは筆者にも理解できる。
しかし、男系継承にこだわるということは、日本国、皇室、国民一般に、いったいどのような幸福をもたらすというのであろうか。
男系男子にこだわれば、皇室の方々、特に妃のお立場の方には、男子を産まないといけないという強度のプレッシャーがかかる。
生まれたのが女性(内親王、女王)であれば、その女性は自分自身の存在価値を見出しにくいことになる可能性が高い。
また、男系継承というのは、明らかな男系優位思想である。
それがもたらす日本国のイメージ,国民一般の人生観への影響を無視できないであろう。
このようなマイナス面を上回るような価値が男系継承にあるのであろうか。
いいかげん、昔からそうだったということ以上の説明を、そろそろするべきなのではないのだろうか。
また、以下の記載がある。
-----引用開始-----
松本氏は「旧皇族の男系男子の養子案を進めるべきだし、女性皇族の夫子は皇族にしてはいけないでしょう」と指摘。
-----引用終了-----
だから、なぜ「いけない」ということになるのか。
その説明なしくて、そもそも「指摘」と言えるのだろうか。
産経新聞という場においては、説明を要しない「指摘」なのであろうけれども、それでは議論にも何にもなりはしない。
議論を本分としているはずの国会議員として、これではあまりにも情けない。
恐るべき劣化思想の構造化である。
自民・松本尚氏の発言として、以下の記載がある。
-----引用開始-----
「皇族の公務が多ければ公務数を削ればいいだけのこと。天皇陛下は祭祀(さいし)の長であって、皇族方はこれを支えるのがお仕事です。それが国家、皇室の大原則」
-----引用終了-----
「皇族の公務が多ければ公務数を削ればいいだけのこと。」というのは、よくも言いやがったなという感じである。
平成の御代の天皇皇后両陛下、令和の御代の天皇皇后両陛下。
日本国、日本国民のために、どのように務めを果たすべきかにつき、日々追及して実践してこられたことは、誰もが認識していると思うのであるけれども、「公務数を削ればいいだけのこと」という言い方は、あまりに不敬であり、もはや逆賊というべきなのではないだろうか。
こんな人間が産経新聞「正論」の執筆メンバーとのことだが、この不敬、逆賊ぶりを見逃している産経新聞も、狂っているのではないのだろうか。
また、「公務数を削ればいいだけのこと。」というが、具体的にどの御公務を削ればよいのだろう。
削る対象となる御公務を示すことなく「公務数を削ればいい」というのは、あまりに無責任である。
筆者としても、天皇陛下の御公務の中で、時代的に役割を終えたものはあるとは思っている。
その一つに植樹祭がある。
昭和25年、戦後荒廃した国土の復興をめざして始まったものであるけれども、すでに当初の目的は終えていると言えるかもしれない。
植樹祭の大会会長は衆議院議長が務めているが、例えば、植樹祭へのお出ましについては役目を終えているので削ってもよいのではないかといった提言であれば、提言としての意味があると言える。
ただ、自民・松本尚氏の発言には、そういった中身がない。
しんどい検討、辛い検討を経た中身なくして、実にお手軽に「公務数を削ればいい」と述べる。
これが今時の保守なのか。
情けない。
また、「天皇陛下は祭祀(さいし)の長であって、皇族方はこれを支えるのがお仕事です。」とある。
保守の人たちは、しばしば天皇陛下は祭祀の長と言うが、どれだけ意味が分かっているのだろうか。
皇室の祭祀とは、国の平和、国民の安寧を祈るものである。
そして、この祈りの実践は、天皇皇后両陛下の御公務として具体化するのである。
このことが分かっているのだろうか。
自民・松本尚氏は、「公務数を削ればいい」というが、祭祀の重視と「公務数を削ればいい」ということは逆のベクトルとなっているのである。
まさか、所作だけの祈りをしていればいいという発想なのであろうか。
また、天皇陛下は祭祀の対象は、皇室の先祖であり、その先祖の始まりは天照大御神である。
そして、天照大御神は女性神なのであるから、歴代天皇から見て天照大御神との繋がりは女系ということが一番最初に来るのである。
天皇陛下は祭祀の長という言い方は、保守、男系派にしばしば見られるが、祖先神が天照大御神という女性神であることについて、どのように考えているのだろうか。
また、自民・松本尚氏は、「それが国家、皇室の大原則」と結んでいる。
国会議員であれば、国家の原則ということを述べることはあり得るとしても、「皇室の大原則」と述べるというのは、どのような権威の裏付けがあっての発言なのであろうか。
あまりに増長しているのではないだろうか。
そもそもこの議論は、天皇の退位等に関する皇室典範特例法にかかる附帯決議から始まっているものであるが、同法の第一条は以下のとおりである。
第一条 この法律は、天皇陛下が、昭和六十四年一月七日の御即位以来二十八年を超える長期にわたり、国事行為のほか、全国各地への御訪問、被災地のお見舞いをはじめとする象徴としての公的な御活動に精励してこられた中、八十三歳と御高齢になられ、今後これらの御活動を天皇として自ら続けられることが困難となることを深く案じておられること、これに対し、国民は、御高齢に至るまでこれらの御活動に精励されている天皇陛下を深く敬愛し、この天皇陛下のお気持ちを理解し、これに共感していること、さらに、皇嗣である皇太子殿下は、五十七歳となられ、これまで国事行為の臨時代行等の御公務に長期にわたり精勤されておられることという現下の状況に鑑み、皇室典範(昭和二十二年法律第三号)第四条の規定の特例として、天皇陛下の退位及び皇嗣の即位を実現するとともに、天皇陛下の退位後の地位その他の退位に伴い必要となる事項を定めるものとする。
自民・松本尚氏の一連の発言は、同条にいう天皇陛下のお気持ち、国民の敬愛ということを全く認識していないものなのではないのだろうか。
自民党系保守の劣化は酷い。