皇居の落書き

乱臣賊子の戯言

旧宮家に出番はないと思う

2024-07-17 22:12:12 | 皇室の話(3)
令和6年7月16日7:00、共同通信より配信の「旧宮家の子孫たちが皇族になる現実味は… 77年前に離脱、復帰案に賛否渦巻く」と題する記事がある。

「復帰案に賛否渦巻く」とあるのだが、渦巻いているのだろうか。

「共同通信が今春実施した世論調査では、旧宮家の子孫を皇族にして男系男子の天皇を維持する考えに計74%が反対だった。」と書いてあるので、国民の意思というのはだいたい固まっていると言えるのではないのだろうか。

「旧宮家の子孫たち」を皇族にする案を推進している人たちは、それによって、男系男子の永続が確保されると本気で認識しているのだろうか。

それとも、「旧宮家の子孫たち」を皇族にしても、いずれは男系男子では続かなくなると想定しているのだろうか。

いずれは男系男子では続かなくなり、女性女系拡大が必要になるということを見込んでいるのであれば、現在の皇室に適用して、現在の皇室の方々の系統を維持する方が良いのではないだろうか。

ところで、ヤフーニュースのこの記事の関連記事として、令和4年9月20日に47NEWS配信の「愛子さまはなぜ「愛子さま」と報道されるのか 称号「敬宮さま」は幼少時だけ?」と題する記事が紹介されている。

あの大木賢一氏の記事である。

この記事の中に、以下の記載がある。
-----引用開始-----
▽「敬宮さま」でなければ不敬?
 いつの間にか当たり前になってしまった「愛子さま表記」だが、皇室に関するネット上の書き込みを見ていると、愛子さまを愛子さまと呼ぶことを「不敬だ」とする声もある。「天皇家の長女なのだから、正式に敬宮さまとお呼びすべきだ。宮家の皇族と一緒にすべきではない」といった具合だ。
 しかし、すでに見てきたように、幼少のころの愛子さまを「敬宮さま」と表記するメディアは実際に存在した。称号は「幼少時の呼び名」なのだから、成人した現在の愛子さまを「敬宮さま」と呼ぶのは無理があるような気もする。
-----引用終了-----

中途半端な知識で「不敬だ」とする声というのは、ネット上にはよくいるものだ。
「敬宮さま」とお呼びすべきだというのであれば、まだ理解できるのだが、中には「敬宮愛子さま」とお呼びすべきだと声高に主張する者もいる。
ただ、これは、ご称号というものが用いられるようになった歴史的な沿革からすると、本当はちょっとおかしい。

-----引用開始-----
▽「正式な呼称」専門家はどうみる?
 愛子さまの「正式な呼称」が何なのかは結局よく分からないままだが、今回の結果について、皇室制度を研究する専門家たちはどう考えるのか。
 国学院大学講師で神道学者の高森明勅氏は「興味深いですね。新聞でもともと使われていたという『敬宮愛子さま』というのは間違いではないですが、個人的には少し違和感を覚えます」とのこと。敬宮という称号での報道に、身分の尊い方の本名を避ける意味合いがあったのだとすれば、「敬宮」と「愛子」を併記してしまっては意味がない、との立場だ。その点から言えば、「大玉転がし」の時に使われた「敬宮さま」こそが正解、ということにもなる。
-----引用終了-----

「敬宮という称号での報道に、身分の尊い方の本名を避ける意味合いがあったのだとすれば、「敬宮」と「愛子」を併記してしまっては意味がない」とする高森明勅氏の指摘は正しい。

根拠としては、このブログでも以前少し書いた記憶があるが、「明治天皇紀」第3巻における明治8年1月18日のところで、以下の記載があるのである。

------引用開始(下線は筆者)-------
一 従前某宮ノ別称ハ廃セラレ親王宣下ノ後ハ某仁親王某子内親王ト称シ宣下アラサル間ハ某仁皇子某子皇女ト称スヘシ
但シ臣民ヨリ直チニ某仁親王某仁皇子ト称シ奉ランハ不敬ニモ渉リ可申候間別殿御住居ノ殿名ヲ以テ宮ノ號ニ定メラレ假令ハ某仁親王御称號ノ某宮ト御布告ニ相成リ臣民ヨリハ右御称號ノ某宮ヲ以テ称シ奉ルヘシ
------引用終了-------

「臣民ヨリ直チニ某仁親王某仁皇子ト称シ奉ランハ不敬ニモ渉リ」という感覚があってこそのご称号というわけだ。

ただ、こういう感覚というのは現在の日本社会では失われているのもしれない。

むしろ、「敬宮愛子」という表記は、御自身がお使いになっておられるようなので、それならそれで問題があるということにはならない。

第三者が、「敬宮愛子さま」と称しなければ失礼だと声高に主張すると、それはちょっと変ではないかと言いたくなるが、事実上通用しているというのであれば、それを否定するべき理由は何もない、ということになる。

なかなか微妙なところである。

ただ、今回の大木氏の記事を読んで改めて思ったのだが、御称号は「幼少時の呼び名」であったとして、「敬宮」というのはどうも子ども向きではない、ということである。
出典となった「人を敬する者は、人恒に之を敬す」という内容は、大人の中の大人とも言うべき高度な社会性を感じさせるものであり、「恒に」ということは永続性を想起させる。

御結婚により民間人となられるという人生というよりも、いずれ即位され日本の中心となられる人生に合致する御称号であったのかもしれない。

そして、愛子内親王殿下におかれては、まさしくその道を進んでおられるように感じられるのである。
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大木賢一氏の記事は面白い

2024-07-16 22:13:52 | 皇室の話(3)
令和6年7月16日7:00、現代ビジネスより配信の「上皇さまは日本語だったが…天皇陛下の「異例の英語スピーチ」から見えたこと」と題する記事がある。

大木賢一氏の記事である。

英国御訪問中の天皇陛下のスピーチについて、最初の方で「英語によるスピーチを多くの人は「国際派の本領発揮」のようにとらえたが、私は、天皇という立場を考えると、そう簡単に賛美ばかりしてよいのかと疑問を持った。」と書いているので、批判的な内容の記事なのかなと思っていたら、英文と日本語版の比較の話になって、この論点については以下のように結んでいる。

-----引用開始-----
日本語でも、他言語でも、自らの意思で思いを尽くすのならば、それでよいのではないか。招いてくれた国の人々にできる限りの真心を伝えるために、日本語以外の言語を使うことは、前向きにとらえるべきだと思い直した。
-----引用終了-----

プロの記事の中で、「思い直した」という書き方をするというのはなかなか珍しい気がする。
これは、大木氏が自らの頭で考える人ということで、また、それをそのまま記事にするタイプの方であるということを、よく表しているのかもしれない。

今回は、英国御訪問について称賛する内容となっているが、仮に、大木氏として納得できないことがあれは、天皇陛下に対して批判的な内容の記事を書くこともあり得ると思う。
本来あるべき皇室報道の緊張感であろう。

それにしても、今回の大木氏の記事で、日本語で話すか英語で話すかという論点が取り上げられたが、これは面白い視点だと思う。
正確に表現することに重点を置けば日本語で話すのがよいのかもしれない。
相手に直接的に伝わることに重点を置けば相手国の言葉で話すのがよいのかもしれない。
ただ、珍しい言語の国の場合は、日本語を用いざるを得なくなるかもしれない。

さて、ヤフーニュースのサイトでは、今回の記事の関連記事がいくつか紹介されているが、その中に令和元年11月10日、現代ビジネス配信の「皇室記者が現場で感じた、新天皇夫妻と上皇夫妻の「大きな違い」」と題する大木氏の記事がある。

記事中に以下の記載がある。
-----引用開始-----
当時、皇太子夫妻は雅子さんの適応障害のため2人そろっての活動が極めて少なく、一方で高級レストランに通っているといったバッシング報道がされていました。

記者会でも「平和を希求し、戦没者慰霊や被災者への寄り添いを続ける素晴らしい天皇、皇后両陛下」との比較で反感を抱くのか、平場ではほとんどの記者が雅子さんを「雅子」と呼び捨てにしていました。皇太子を「息子」とか「長男」と呼んではばからない人物も、前天皇夫妻の周辺にはいました。
-----引用終了-----

平成の東宮バッシングを知らないという人も多くなっているかもしれないが、当時はこういう状況だったのである。

それにしても、「皇太子を「息子」とか「長男」と呼んではばからない人物も、前天皇夫妻の周辺にはいました。」とあるのは、なかなか具体的であり衝撃的である。

当時のバッシング記事に「千代田関係者」という者が頻繁に登場するのであるが、それが裏付けられたかのような感じである。

大木氏の記事については、今後も要注目であろう。
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「この国には「愛子天皇」が必要だ」には全く同意

2024-07-13 22:45:41 | 皇室の話(3)
令和6年7月12日、PRESIDENTonlineより配信の「この国には「愛子天皇」が必要だ…私が「天皇陛下のスピーチ」で感じた昭和・平成の皇室との決定的な差」と題する記事がある。

ストレートなタイトルがいい感じである。

ただ、「この国には「愛子天皇」が必要だ」という主張について、記事の書き手である矢部氏の考え方は、いろいろな考え方があっていいとは思うのだが、筆者にはちょっと不思議な感じがした。

この記事における矢部氏の基本的な考え方は、以下の箇所に表れていると思う。
-----引用開始-----
 だからこのままでいいかと言われると、やはりそうとは言えない。今のうちに令和の「テーマ」を打ち出すことだと思う。次代を担う男子が秋篠宮家の悠仁さまだけという待ったなしの皇室が続いていくためには、「ほのぼの」に加え迫力が必要に思う。現実とつながる問題意識、それを感じさせてほしいのだ。
-----引用終了-----

そして、矢部氏が期待するテーマとして出てくるのが、「突然だが、それは「愛子天皇」だと思う。」という話で、論理の展開具合がちょっと分かりにくい。

「平成が積み残したものは、「ジェンダー平等」だ」、「特効薬は「愛子天皇」だと思うのだ。」とも書いてあるので、天皇皇后両陛下に対し、「ジェンダー平等」をテーマとして取り組むことを求めたいという趣旨なのだろうか。

両陛下がジェンダー平等に取り組み、それが世の中に浸透し、その結果として「愛子天皇」が実現するということか。

いや、「特効薬は「愛子天皇」」とあるので、愛子天皇の実現に取り組んで欲しいということ?
両陛下に?

せっかく、愛子天皇実現に肯定的な記事が出たのであるから、揚げ足取りのようなことはしたくないのであるが、肝心なところの論理がよく分からなかったのである。

また、「「テーマ」を打ち出すこと」「現実とつながる問題意識、それを感じさせてほしい」という箇所につき、そういう思いを抱くというのは、筆者にはよく理解はできる。
本心からの善意に基づく提言なのであろう。

ただ、公の存在に対して、そういったものを感じさせてほしいというのは、当然の前提にしてよいのだろうか、という思いが筆者にはある。

いわば観客のような立場で、「それを感じさせてほしい」というのは、大衆天皇制的であるように感じる。
週刊誌、テレビ、さらにネットとなれば、その傾向は更に強まっていくのであろうか。

それが必然的な傾向であろうとしても、両陛下の側において、それに応じようと意図されることとなれば、短期的には美談が増えるのかもしれないが、結局は値打ちが下がってしまうような気もするのである。

分かりやすい弱者への寄り添いを意図して打ち出そうとしたとき、それは点数稼ぎ的な御公務となってしまうのではないか。

そして、両陛下としても、この辺りの問題意識はお持ちなのではないかと、筆者としては、想像する。
「ほのぼの」と、計りがたい叡慮。
打ち出し方が異なるのは、当然と言えば当然であろう。

筆者としては、計りがたい叡慮に思いを巡らすことにこそ、楽しみがあると思っている。

もちろん、両陛下におかれては、分かりやすい弱者のみでなく、分かりにくい弱者、気づかれにくい不幸にも、光を当てようとされることは間違いない。
そこに愛子内親王殿下も加わることとなるのであろう。

非常に楽しみなことであり、「この国には「愛子天皇」が必要だ」には全く同意である。
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余計なことを言うなボケ

2024-07-06 22:28:35 | 皇室の話(3)
令和6年7月6日9:17、PRESIDENTOnlineより配信の「天皇陛下だけが足を運ぶ「歪な皇室外交」でいいのか…両陛下の「英国訪問成功」を手放しで喜んではいけないワケ」と題する記事がある。

余計なことを言うなボケ

この記事を読む多くの人も、そう思うのではないだろうか。

そもそも、国際親善のための皇室の外国御訪問は、双方の国において、よい御訪問であったと手放しで喜んで、それで良いのである。
良かった良かったと喜んで、お互いの国に対する親近感が生じて高まることとなれば、それこそが国際親善に繋がるのだ。

憲法上の問題、国際儀礼上の問題を生じるようなことがあった場合には、その指摘、批判は大事であろう。
しかし、そうではないところで、印象論でああだこうだとネガティブに評するというのは、そもそもが野暮であるし、この記事によって何らかの影響が生じるとしても、それはマイナスの影響にしかならないであろう。

それにしても、なぜこのタイミングでの記事なのだろうか。

記事中に以下の記載がある。

-----引用開始-----
■天皇陛下としての訪英が5回続いている
 この訪問が「新日英同盟」といわれるほど緊密の度を深めている両国関係や、東西世界を代表する天皇と国王の友情を深化させ絆を深めたとしたら、心強いことである。
 ただ、1975年のエリザベス女王のたった1回の訪日の後、日本の天皇陛下(平成年間の上皇陛下の訪英を含む)が5回連続して訪英するという現在の状況は普通では考えにくい。ほかの国の君主は、むしろ日本が受け入れることのほうが多いのと好対照になっている。
-----引用終了-----

エリザベス女王の訪日の後、天皇陛下が5回連続して訪英しているとあり、図表まで付いているのであるが、5回のうち3回は、平成時代の天皇皇后両陛下(現在の上皇上皇后両陛下)であり、令和時代の訪英も1回はエリザベス女王の葬儀に参列するための訪英である。
令和の時代における訪英について、何か問題があるというわけではないであろう。

相互の御訪問の回数については、お代替わりの前後を通じてカウントするものだという考えに立つのであれば、まずは、平成時代の回数の多さを問題にするべきなのではないだろうか。

また、記事中にこんな記載もある。

-----引用開始-----
■1週間も滞在されたが、内容は薄かった
 また、今回は、チャールズ国王、キャサリン皇太子妃、雅子さまの体調面の不安があり、しかも、英国は総選挙の期間だったので、1週間という長い滞在にもかかわらず、内容は薄く、現地の報道でも主要ニュースとしては取り上げられなかった。
 私は、『英国王室と日本人 華麗なるロイヤルファミリーの物語』(小学館、篠塚隆と共著)という本で日英国際親善の歴史を解説しているが、これまでの皇室外交と比べたとき、いささか内容が希薄で多くの課題を残したと考える。
 たとえば、訪英中にランチやディナーの機会は12回あったが、両陛下での参加は国王ご夫妻との内輪の会と公式晩餐会、それに、オックスフォード大学総長との昼食のみ。ほかに陛下単独で歴史的な金融地区であるシティ・オブ・ロンドンで開かれた晩餐会への出席が1回あったものの、8回はホテルで両陛下など身内ですまされた。
-----引用終了-----

「内容は薄かった」なんていうことがあるのだろうか。
この人は何を言っているんだろうという感じしかしない。
ランチやディナーの機会の数を取りあげて批判的に論じているが、回数に着目した議論というのはどれぐらい意味があるのだろうか。
結局のところ、こだわる人にとっては意味がある、というぐらいのことなのではないだろうか。
また、「内容は薄かった」といった論じ方は、そもそもホスト国に対し非礼なのではないだろうか。

八幡氏の記事は、何も問題のないところに自ら問題を作り出し、全てを台無しにしようとする所業のようにしか思えない。

何でこんなことを書くのだろう。

八幡氏は、今回の御訪英について、特に皇后陛下をターゲットにして、これでもかという感じで延々と批判を展開し、最後に以下のように述べる。

-----引用開始-----
 いずれにせよ、日本の皇室が英国の王室にすり寄っている印象なのはよろしくない。一方、皇族が英国に留学したりしても、あちらの貴族社会になじんでおられる風でもない。雅子さまのご体調を前提にすればいかなる日程が好ましいのかとか、今後の悠仁さまの留学も含めて、皇室外交について戦略の立て直しが必要だ。
-----引用終了-----

「日本の皇室が英国の王室にすり寄っている印象」とある。
「印象」という言い方であれば、それが如何におかしいものであろうとも、それが私の印象なんですと言われれば、それまでとなってしまう。

ただ、八幡氏の記事でおかしいと感じるのは、皇室の外国御訪問は、政府において相手国と調整して決定するという仕組みになっていることへの言及が全く無いことである。
外国御訪問に対する皇室側の思い、お気持ちというものはあるであろう。
しかし、仕組みとしては、皇室には外交権はないのであって、そもそも「皇室外交」という言葉は間違ったものであり、政府において調整した中で、皇室は国際親善に務められるのだ。

回数の問題を取りあげたいのであれば、まずは、批判の対象とするべきは政府(外務省)ということになるであろう。
天皇皇后両陛下においては、それぞれの外国御訪問の機会において、最大限、国際親善に資するようにお務めになられるのである。
今回の英国御訪問にしてもそうであろう。

八幡氏は、「英国の王室にすり寄っている印象」などと言うが、それなら、訪英が連続で5回目となっておりおかしいですよということで、不満そうな表情でもしていればよかったというのであろうか。

ばかげている。

この八幡氏の記事というのは、誰に向けて書いたものなのだろうか。

どうも筆者には、今回の英国御訪問の成功に嫉妬している誰か、皇后陛下の華やかな姿に嫉妬している誰かの気持ちをなだめ、その誰かに取り入ろうとしている意図のようなものを感じてしまう。

この八幡氏というのは、令和6年7月2日の皇室の伝統を守る国民の会でスピーチをした人物の一人である。



このアゴラの記事を読んでも明らかだが、要するに、秋篠宮家を持ち上げるために天皇御一家をおとしめたい派ということのようだ。

秋篠宮家のお立場に詳しいということであれば、秋篠宮殿下の摂政待遇については、どのように理解しているのだろうか。

このブログの令和6年6月4日の「八幡和郎氏の記事を切っ掛けに確認(皇嗣殿下の摂政待遇と暗い未来)」という記事でも書いたのだが、

八幡氏は、プレジデントオンライン配信の「愛子さま、佳子さまの「将来の年収」を左右する…「女性皇族は結婚後も皇族残留案」の抜群のメリット」と題する記事において、以下のように書いていた。

-----引用開始-----
ただし、常陸宮・三笠宮・高円宮各宮家の当主には3050万円なのを、従来の皇太子殿下の費用とほぼ同額ということで、秋篠宮皇嗣殿下には3倍の9150万円が支払われるようにした。
-----引用終了-----

「従来の皇太子殿下の費用とほぼ同額」という箇所につき、筆者は皇太子殿下の費用の額というものを聞いたことが無かったので変だと思い、改めて、平成29年4月21日付け天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議最終報告を確認すると、その18ページに、以下のように記載されていた。

-----引用開始(下線は筆者)-----
3 皇室経済法上の経費区分
文仁親王殿下を皇太子としない場合、皇室経済法上の位置付けは、御家族を含め、引き続き内廷外皇族であり、皇族費の対象となる。
ただし、この場合であっても、皇位継承順位第一位というお立場の重要性や御活動の拡大等に鑑み、皇族費の額を増額することが必要である。具体的には、皇室経済法において、摂政たる皇族に対する皇族費の支給について、その在任中は定額の3倍に相当する額の金額とする旨が規定されていることも参考とし、これに相当する程度に増額することが適当である。
-----引用開始-----

要するに、秋篠宮殿下を摂政待遇とするべく皇族費を3倍(3050万円×3)にしていたのである。

さて、摂政というのは、「天皇が、精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができないとき」に置かれるもの(皇室典範第16条第2項)で、国事行為を常時代行するのが任務である。

したがって、国事行為の常時代行をするからこその皇族費3倍なのであるが、皇嗣殿下は臨時代行として、今年度は御訪問の間しか臨時代行をしていない。

皇族費3倍の摂政待遇者として果たしている役割として、十分と言えるのだろうか。

英国御訪問の間、代行を務めたのは、
令和6年6月25日(火)国事行為臨時代行(ご執務)(秋篠宮邸/東京都港区)
令和6年6月28日(金)国事行為臨時代行(ご執務)(秋篠宮邸/東京都港区)

これだけである。

「1週間も滞在されたが、内容は薄かった」どころではないのではないだろうか。
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すごい皇后陛下

2024-07-04 21:56:09 | 皇室の話(3)
令和6年7月4日11:00、女性自身より配信の「雅子さま 訪英パレードでマスクご着用への「馬アレルギーは大嘘」批判が“的はずれな”理由」と題する記事がある。

「馬アレルギーは大嘘」とはどういうことなのか。

記事中に以下の記載がある。
-----引用開始-----
《雅子様の馬アレルギーなんて大嘘ですよ》
《雅子さまが馬アレルギーとは思えない。それは何枚もの写真や動画が証明している》

ご成婚後の雅子さまが乗馬されたり、マスクなしで馬の近くで撮影された写真などを理由に、雅子さまの馬アレルギーを否定する声が散見されたのだ。
-----引用終了-----

筆者には、皇后陛下の「馬アレルギー」がどの程度のものかはよく分からない。
アレルギーは個人差が大きいのではないだろうか。

また、アレルギーという文言は、対象物に対する拒絶感を想起させるイメージがあるが、対象物との関係性は様々であろう。

例えば、筆者は、猫アレルギーなのだが、猫は好きな方である。
猫と接していつも発症するわけではなく、普通に撫でたり遊んだりすることはできる。
ただし、いったん発症するとクシャミと鼻水が止まらなくなる。

犬や猫が好きな方で、好きなんだけれどもアレルギーもあるという方は、それほど珍しくないのではないか。

それと同様であるとすれば、馬車にお乗りになりつつ、大事をとってマスクをされるというのも、特におかしいこととは思われない。

それよりも、この記事により知ることができたのだが、皇后陛下のマスクは特製のようだ。

記事中に記された皇室担当記者の説明の中に以下の箇所がある。
-----引用開始-----
雅子さまが着用されていたのはただのマスクではなく、お召し物やお帽子のレースと同じ美しいデザインが施されたレースで飾られたマスクでした。英王室において馬車でのパレードは最上級のおもてなしであることから、雅子さまはお召し物とご一緒に、着用されるマスクもトータルコーディネートされたのでしょう。
-----引用終了-----

写真をよく見ると、確かに、お召し物やお帽子のレースと同じデザインのレースがついている。

筆者には思いもよらないところで示された抜群のセンスであり、

これはすごいと思ってしまった。
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この淡泊さはなんだろう

2024-07-01 22:28:43 | 皇室の話(3)
皇室の動きというものは、それ自体、報道価値があるということなのだろう。

けれども、これは何故に記事になったのだろうかと、読んでいて不思議な気持ちになるものもある。

令和6年6月30日17:33、朝日新聞より配信の「紀子さま、数分間拍手送る がん患者のチャリティーコンサート鑑賞」と題する記事がある。

この中に、以下の記載がある。
-----引用開始-----
紀子さまは熱心に耳を傾け、観客と共に数分間にわたり拍手を送った。主催した「がん研究会」(名誉総裁・常陸宮さま)の浅野敏雄理事長によると、紀子さまは「感激しました」などと語ったという。
-----引用終了-----

「数分間にわたり」とあるが、時間でも計っていたかのようで、少し不気味である。

拍手で数分間というのはかなり長目であると思うのだが、それだけ盛り上がっていたのだろうか。

であれば、会場の興奮の様子などをまずは書くべきだろうと思う。

拍手が長く続いたということを具体的に書きたいのであれば、拍手を主語にして拍手は数分間にわたって続いたと書けば、あまり違和感はないのではないか。

でも、それができない。

それはおそらく、会場の雰囲気を伝えるのが主目的ではなく、紀子妃殿下の様子を伝えるのが主目的となっており、それ故に、紀子妃殿下を主語として記事を書こうとし、そこに客観的な情報を組み込もうとしたからなのだろう。

そのために、会場の雰囲気を書くことなく「観客と共に数分間にわたり拍手を送った。」という記載をすることとなり、まるで淡泊な観察記のような文章になってしまった、ということだろう。

また、「紀子さまは「感激しました」などと語ったという。」というのも、同じような要因があるのだろうか。

何だか小学生の感想のようなコメントなのだが、紀子妃殿下を主語として、できるだけ客観的に書こうとするとこうなるのだろう。


これに対し、産経新聞はなかなか上手である。

令和6年6月30日19:30、産経新聞より配信の「紀子さま、がん患者のチャリティーコンサートにご臨席」と題する記事である。

この中に以下の記載がある。
-----引用開始-----
紀子さまはがん患者や医療従事者などで構成された約150人の合唱団の歌声に耳を傾け、盛んに拍手を送られていた。
-----引用終了-----

紀子妃殿下を主語としつつ、拍手のことも違和感なく書けている。
「数分間」という客観的情報を無理に書いていないので、観察記のようにならないですんでいるということだろう。

そして、小学生の感想のようなコメントは敢えて省くことにより、全体として違和感のない記事になっている。


皇室についての報道記事というのは、なかなか難しいものだなと思っていたところ、また新たな記事を見かけることとなった。

令和6年7月1日1:54、FNNプライムオンラインより配信の「紀子さま「感動しました」がん患者らの「第九」チャリティーコンサート鑑賞され笑顔で拍手」と題する記事である。

この中に以下の記載がある。
-----引用開始-----
コンサートでは、練習を重ねたがん患者や家族など約150人が、ベートーベンの交響曲第9番「歓喜の歌」の合唱を披露し、紀子さまは笑顔で拍手を送られました。
これに先立って、がんを患ったフリーアナウンサーの笠井信輔さんと医師が対談し、紀子さまは熱心に耳を傾けられました。
終演後、紀子さまは関係者に「感動しました」と話されたということです。
-----引用終了-----

またまた淡泊な観察記。

朝日新聞の記事では「感激しました」となっていたが、この記事では「感動しました」になっている。

ただ、いずれにしても、小学生の感想のようである。

仮に、本当にこのとおりのご発言であったとしても、それならそれで、関係者を激励されたとか、労われたといった説明を付け足せば、それなりに違和感のない記事になったと思うのだが、「紀子さまは関係者に「感動しました」と話された」というのでは、あまりにありのまますぎる。

以上のようなことは、筆者が指摘するまでもなく、記者はプロなのであるから、当然に自覚しているであろう。

どうも、敢えてやっているとしか思えない。

何か制約があるのだろうか。

それとも、意欲がなくて淡泊な記事になってしまっているのだろうか。

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象徴天皇に必要なこと

2024-06-29 21:43:51 | 皇室の話(3)
令和6年6月29日、天皇皇后両陛下が英国御訪問を終えて、御帰国になった。

お疲れ様でした。


国の象徴というお立場は、国内における効用もあるけれども、対外的な効用もまた特別なものがあると実感する。

今回の御訪問の素晴らしい内容については、既に多くの報道がなされているところであるが、相手国との代々続く長年の御縁というものが、大きな土台としてあるのだろうと感じる。

やはり、世襲制であればこそなのであろう。


そして、また、何よりも、天皇陛下のお人柄、人間性、人物像というものが大きい。

どのような人生を歩んで来られたか。

どのように人々に接してこられたか。

どのようなことに価値をおいて過ごしてこられたか。

その集積の上での存在感。

御表情、お言葉、仕草などなど。

やはり、その役割は、凡人に務まるものではない。


そういうと、そんなことは当たり前じゃないかと怒る人もいるかもしれない。

しかしながら、象徴のお立場に即かれる方が、非凡の素晴らしい方であることを担保する制度上の仕組みはあると言えるだろうか。

現実的に必須の要件であるとしつつ、その要件を確保するための仕組みがないというのは、恐ろしい欠陥というしかないのではないか。

このことについて、もっと広く認識されて欲しいものである。

この欠陥については、これまで、皇室の御家庭の中において、親から子への御養育、御教育によって、辛うじてカバーされてきた。

結局のところ、生身の方々に依存するしかないのだ。


このように考えれば、象徴という役割を果たしていただくためには、単に血統が繋がっているということだけでは、不十分なのは明らかである。

天皇陛下の血統とともに、その君主としての徳を受け継ぐことができるのは、愛子内親王殿下しかおられないであろう。
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皇后陛下は百点満点

2024-06-27 22:46:04 | 皇室の話(3)
「週刊新潮」令和6年7月4日号に「「雅子皇后」仄かな不安」と題する記事が掲載されている。

内容は、「あまりに目立つ「陛下お一方」ご出席」、「実は御所では「お部屋から出られず遅刻」頻発」といったサブタイトルどおりの内容なのだが、こういう記事というのは、やはり目には見えない障害への理解不足が根本にあるのだなと感じてしまう。

記事中の宮内庁関係者のコメントにて「ご自身でもコントロールできない状態でいらっしゃるのです」とあるのだが、この「コントロールできない状態」になってしまった場合の辛さというか難しさというのは、体験した者でなければ、結局のところ理解できないのであろう。

それにしても、こういう記事において、しばしば精神科医が原因はこうだとか、対策としてこうすればいいだとか、解説を述べたりするのだが、勝手に診断めいたことをメディアで述べるというのは、医師のモラルとしてどうなのだろう。
そもそも、大野裕という立派な医師がついているのである。

また、皇后陛下は、非常に聡明な方なので、そんなことは言われるまでもなく、全て認識済みであろう。
その上での困難なのである。

ただ、その場にお出ましになることができず、「陛下お一方」であったとしても、誰にもできない形で陛下を支えるということをもって十分な貢献をされておられると思うし、テレビの報道にて、輝かしいお姿は十分に見せていただいている。

もしかしたら、まわりの担当者はバタバタすることがあるのかもしれないが、国民の一人としては、百点満点だと思っている。
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未来の希望は愛子さま

2024-06-26 21:56:09 | 皇室の話(3)
天皇皇后両陛下の英国御訪問の報道に接し、その都度感動してしまう。

チャールズ国王陛下のお言葉も、天皇陛下のお言葉も、それぞれ、国の過去、現在、未来を背負われた内容で、君主国家の偉大さを十分に感じることができた。

それぞれの未来。

天皇皇后両陛下のお姿を見て、その未来ということに思いを馳せると、

やはりイメージできるのは愛子内親王殿下だけだ。

多くの人が同じ思いなのではないだろうか。

輝かしい未来のためには、愛子内親王殿下の即位をお願い申し上げるしかない。
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素敵な皇后陛下

2024-06-25 22:44:19 | 皇室の話(3)
令和6年6月25日の夜のニュースにて、英国御訪問中の天皇皇后両陛下がバッキンガム宮殿に向かわれる場面が報じられた。

各紙ごとに写真は様々であるが、筆者としては、読売新聞オンラインで配信されている写真が、なかなか良いと思っている。


皇后陛下の写真が素晴らしい。


英国も伝統のある君主国であり、英国への御訪問は、やはり重みがあるなとつくづく感じる。

まさに、日本にとって、歴史的なハレの瞬間であろう。
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