皇居の落書き

乱臣賊子の戯言

有識者会議の論点整理について(男系男子論の意義の確認の必要性)

2005-07-27 01:26:05 | 皇室の話
平成17年7月26日の有識者会議の後、同会議による論点整理が公表された。
筆者としても、かなり待ち遠しいものであったが、一読した感想は、あまりにきれいにまとまりすぎているということである。
125代続いた皇位継承の在り方について論じる材料としては、迫力というものにやや乏しいように感じられた。
この迫力の乏しさは、価値中立的であることに徹しようとすることに由来するのであろう。
ただ、改めて考えてみるに、政府の諮問機関が、あまり価値観を盛り込んだ迫力ある資料を唐突に公表するというのも、何だか奇妙な話であるかもしれない。
そういう意味では、良心的に、精一杯努力して作った資料であると、まずは、評価するべきなのだろう。
ただ、それだけに、読み手の立場としては、当該資料においては、皇位継承の問題を考えるに当たって必要となる要素の全てが盛り込まれているわけではないこと、特に価値観ということについては,自ら意識的に考えねばならないものであるということを、自覚しなければならないのだろう。
ここで、筆者として、特に価値観というものを思いめぐらすべきは、男系男子論についてであると思っている。
なぜならば、まず、論点整理の3ページ目において、「「男系男子」であること」を今後どう考えるかが論点」となる」とあることからは、男系男子の意義ということが,焦点となるはずだからである。
そして、女系容認の立場に立つ者としても,最終的に女系容認に踏み切る際の決断を盤石なものとするためには、なおさら、男系男子論の意義を深く理解し、まずは受け止める必要があると考えるからである。
そこで、今回は、男系男子論の背後にある価値観について、筆者なりに、改めて思いをめぐらせてみることにした。
この点については、6月19日付けの「「現在」における男系男子論の本質」の中でもある程度触れたことではあるのだが、さらにいろいろと考えてみると、その深層においては、必ずしも皇位継承の仕組みの枠の中だけの問題ではなく、もっと広い問題意識が存在しているように感じられてくる。
それは、結論的に言えば、皇位継承の危機にある現状について、それを前提に考えるのではなく、そのような現状が生じたことの由来を追求し、むしろ,そのような現状をこそ、ひっくり返すべきではないかという意識の存在である。
どういうことかと言うと、現在の皇位継承の危機の、そもそもの原因を遡って考えれば、GHQの影響下における様々な改革の一環としての皇室改革ということがあり、旧宮家の臣籍降下ということが大であったのではないか。そうであるとすれば、そのような改革の帰結としての現状をこそ見直し、本来の主体性ある日本の姿に立ち返るべきなのではないか。GHQの施策の影響に由来する現状を前提として、その現状の枠内で解決策を考えるというのは、日本の主体性に対して無自覚であり、そのような解決策が採られるとすれば、あまりに無念である、ということである。
以上は筆者の推測であるのだが、男系男子論の背後に、このような価値観が潜んでいると考えれば、一見、男系絶対主義的な主張を行う者が、同時に、まずは男系継承の方策の努力を行うべきであるというような言い方をし、その限りでは女系を容認しているかのような矛盾を生じているのも、理解しやすいであろう。すなわち、そのような論者というのは、表面的には,皇位の正統性について論じているようでありながら、その実は、いわゆる保守派好みの日本の姿に、分かりやすく言ってしまえば戦前の日本の姿に立ち返るべく、努力すべきことを主張しているということである。
このような価値観については、なかなか根が深いものであるように思うし、筆者としても,理解できるところはある。
ただ、筆者としては、いろいろ悩んだ結果、やはり、このような価値観については、克服しなければならないと思うに至ったのだ。
何よりも大きな問題としては,戦後における皇室と国民との歩みを、十分に見つめていないということがあろう。
占領下における改革については、それは当時の日本として、確かに不本意なものもあったであろう。
ただ、戦後60年、本当に国民が変えようと思えば変えることも可能な状態でありながら、既に、ここまで、歩んできてしまったわけである。
そして、皇室におかれては、新しいお立場において真摯にお務めを果たされ、新たな道を切り開かれてきたわけであるが、そこには、敗戦を経てなお、そして、めまぐるしい時代状況の変化の中で、日本が歴史的連続性をもった存在であることを確保するということが、念頭にあったはずである。
そのような、皇室と国民との戦後60年の歩みというものは、日本の歴史的連続性を確保するためにも、大切にするべきなのではないか。
そのような歩みを大切にし、積極的に評価するのであれば、まずは今の現状を受け止め、今の現状を前提に考えるべきなのではないか。
そのように思うに至ったからである。
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皇室について論じることの苦しさ

2005-07-22 00:55:38 | 筆者のつぶやき
皇室について、あれこれと論じることにつき、筆者は、最近、胸の奥に苦しさのようなものを感じることがある。
世間での皇室をめぐる議論を見るにつき、物足りなさを感じ、真実はこういうことなのではないかという思いから、今まで、夢中で書いたりもしてきたのだ。
ここで、「真実」ということを述べたが、一口に「真実」といっても、それは多面的ではあろう。
筆者が言いたいのは、日本人の一人として見落としてはいけないはずの真実ということであり、筆者としては、皇室というお立場にある方々に対しての、人間としての共感ということが、大きな問題意識としてあったのだ。
このことは、今でも間違いではないと思っているが、ただ、こうして書き連ねていくうちに、どうしても、筆者自身のみすぼらしさというものを痛感してしまうのだ。
筆者自身、決して、高尚なことばかりを書くことが似合うような人間ではないのである。
ただ、つまらない存在としての自分に安住し、そのような自分の視点でのみ皇室を眺め、皇室を論じるということについては、結局、皇室というご存在を自らの次元に引き下げることになるようにも思われ、やはり、有意義とは思われない。
そこで、このような細々としたブログといえども、かなり無理をしながら書いているのである。
ただ、このように考えてみると、皇室に対して叱りつけるような物言いを行う者、しかもそれで生活の糧を得ているような者については、筆者としては、いよいよ理解不能である。
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鎌田勇氏の「孤独の皇太子苦悩する日々」という記事について

2005-07-22 00:34:09 | 皇室の話
少し前の記事になるが、「文芸春秋」平成17年5月号に、鎌田勇氏の「孤独の皇太子苦悩する日々」と題する記事が掲載されている。
昨年5月の皇太子殿下のご発言をめぐっては、様々な議論がなされてきたが、一読してみて、これこそが真実だったのだろうと、確信した。
皇室の方々のお人柄を考えれば、至極当然な内容であるのだが、あまりに低俗な憶測報道が重ねられた後では、やっとキチンと説明してくださる方が表れたと、本当に嬉しくなった。
また、安心というか、何だかホッとしたような気持ちにもなった。
皇太子殿下におかれては、ものすごく孤独な境遇なのではないかと心配していたが、真剣に殿下のことを考え、また相談に応じることができる人が、こうして身近におられるのだなと、実感できたからである。
また、同号に掲載されている神野直彦氏の「皇太子殿下と「子どもの詩」」という記事も、素晴らしい。ここには、象徴としての在り方ということが、示唆されているようにも感じられた。
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皇太子妃殿下のお姿。

2005-07-21 01:44:24 | 皇室の話
笑顔の雅子さま 皇太子さまと愛知万博に (産経新聞) - goo ニュース
久しぶりに、皇太子妃殿下のお姿を見ることができた。
新聞記事によれば、まだご体調に波があるとのことであるが、お姿を見て、筆者自身、何とも明るい気持ちになるのを感じた。
不思議なものだ。当たり前のことであるが、やはり、この方こそが、皇太子妃殿下なのだなぁと感じさせられる。
最近は、皇太子同妃両殿下について述べることが少なくなってしまっていたので、ここで改めて述べると、皇太子殿下のご公務について、筆者は次のようなことを感じている。
それは、人と人との繋がりの重視ということと、今ひとつは、世界との関わりにおける問題意識ということである。
世界との関わりということについて、別な言い方をすれば、世界の中において、日本、日本人というものが、どのような在り方で存在するべきかということを、重要視されておられるのではないかということである。
それは、決して、世界に目が行き、日本を忘れているということではない。
世界から見た日本を問題意識にするということであり、あくまでも、日本ということを見つめておられるのである。
殿下が関心をもたれている分野として明示的にお示しになった環境問題についても、日本だけでどうにかなるものではないし、他の諸々の問題についても、これからは世界から見た日本ということが、非常に重要になってくるのではないかと思う。
特に、最近、世間では、非常に内弁慶的な言論を増えてきているように感じられ、いよいよ、意義深いことであると思われる。
ただ、その分だけ、反発も予想されるかもしれず、なかなか難しい道を選ばれたのだなぁと、切ない気持ちになったりもしてしまう。
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高森明勅氏の「皇室典範の改正を切望する」という記事について

2005-07-10 01:45:06 | 皇室の話
Voice平成17年8月号にて、高森明勅氏の「皇室典範の改正を切望する」とう記事が掲載されている。
男系男子論の問題点の指摘の箇所については、筆者の6月14日付け「男系男子への固執について考える。」と同様の記述も見られる。
今後、名指しされた男系男子論者からの反論があるとすれば、なかなか楽しみなことである。
ただ、この高森氏の論文にて、少々残念なのは、末尾に「伝統的観念に照らして、女系も皇統に含まれ得ることを、本稿では述べてきた」とあるのだが、肝心の「伝統的観念」の内容について、いまいち迫力に欠けるように思われることである。
高森氏のユニークな主張としては、「「養老令」の規定(「継嗣令」皇兄弟子条)」を根拠として双系主義であったというものがあるが、この規定については、現在問題になっているような、女性天皇が民間の男性との間でもうけられた子の皇位継承権についてまでカバーするものであったとは思われないし、そもそも、規定の置かれている箇所からしても、そのような重要なことを規定したものとは思われない。
結局のところ、「伝統的観念」については、皇室を支持してきた日本人の皇室観ということから論じる必要があるように思われるのだが、なにぶん形のないものであるだけに、学問的に論じようとする立場としては、触れることはできないものなのであろうか。
高森氏の双系主義という主張については、皇位継承を安定的にしたい、また、皇室というご存在の意義をY染色体といったものに矮小化させたくないという熱意から発せられたものと思われるが、筆者としては、そのような思いをストレートに示してもらう方が、ありがたいように感じられる。
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宮中祭祀と皇室問題

2005-07-10 00:39:08 | 皇室の話
Voice平成17年8月号にて、「「宮中祭祀」から見た皇室」という、対談形式の記事がある。論じているのは、原武史氏と福田和也氏だ。
この原氏について、いつも気になるのは、なぜ、そこまで宮中祭祀のことを問題にするのだろうということである。
確かに、宮中祭祀は、皇室にとって重要なものである。
しかし、外部に対して秘されている中で執り行われているものについては、それを論じようとするに当たり、土足で踏み込まないようにする配慮が必要なのではないか。
皇室というご存在を理解する上で、宮中祭祀を理解するということは、重要なことではあろう。また、皇室にかかる制度を論じる上で、宮中祭祀を行われるというご存在であることに、配慮するようにするということも、必要なことではあろう。
ただ、いずれの場合も重要となるのは、外から余計な口出しや分析をしないということではないだろうか。
これは、宮中祭祀を重要視しないということではない。むしろ、尊重である。
ところで、原氏の宮中祭祀に関する問題意識であるが、主要な関心は、皇室の方々の祭祀への取り組み状況を比較して、結局は、天皇皇后両陛下と皇太子同妃両殿下の世代間の違いのようなもの浮き彫りにしようということのようである。
宮中祭祀を対象としていることから、何だか高尚なことを論じているようではあるが、所詮は、週刊誌レベルの関心しか、抱いていないのではないかと思わせられる。
これは言い過ぎであろうか。
しかし、記事の初めの方にて、「天皇や皇室が発した表面的な言葉だけに注目する議論が大手を振っている。」という発言がある。
「表面的な言葉」とは、いったいどのお言葉のことであろうか。
お言葉については、お述べになられる儀式・行事の性格等により、皇室の方々の裁量の程度が変わりうるが、いずれにしても、皇室として、国民に対してお示しになるものであり、一つ一つ真剣勝負である。軽んずるべきではないであろう。
筆者としては、このような発言を行う者が、本当に真摯な態度にて、宮中祭祀を理解しようとしているようには思われない。
宮中祭祀を重要視することについては、一般論としては、結構なことであるが、問題となるのは、如何なる意図のもとで問題視するかということであろう。
この点、原氏の意図というのは、筆者には、あまり高級なものには思われないのである。
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第40回フローレンス・ナイチンゲール記章授与式

2005-07-08 20:05:02 | 皇室の話
平成17年7月8日,第40回フローレンス・ナイチンゲール記章授与式が行われたことが,報道されている。
このようなニュースについては,だいたい,関係者以外はあまり注目せずに聞き流してしまうかとも思われるが,受章者の方々の人生について,改めて着目してみると,実にすごいというか,胸を打たれるものがある。
受章者の方々の功績については,皇后陛下のお言葉においても紹介されているので,以下に,そのお言葉を掲げることにする。
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このたび,樋口康子さん,久松シソノさん,徳永瑞子さんの三名の方々が,赤十字国際委員会から,看護師として最高の栄誉であるフローレンス・ナイチンゲール記章を贈られました。お三方はそれぞれ看護教育や看護の実践,保健医療活動に尽くされ,また,多くの看護師や看護指導者を育成されました。樋口さんは,看護学をより高度な学問として位置付けるために,日本赤十字看護大学の設立に力を尽くされたほか,看護大学の設置基準や大学評価の審査の確立をはかり,また日本初の看護の学術団体である日本看護科学学会の設立に,中心的役割を果たす等,我が国の看護が学問として発展する上に,大きな貢献を果たされました。久松さんは,戦時,自身も被爆を経験される中で,長崎の原爆投下による被爆者の救援にあたられ,傷ついた多くの人々の苦痛を和らげ,生命を守られました。戦後は,長崎県内において先駆的な看護活動を行い,教育の体系化をはかり,看護学生のための臨床実習場を設ける等,学生の教育的環境の整備に尽くされました。高齢になられた今も,「国際ヒバクシャ医療センター」の名誉センター長を務め,次世代に平和の大切さを語り継ぐ活動を続けておられます。徳永さんは,早くより発展途上国での活動を希望され,語学と熱帯医学を修得し,助産師としてザイール共和国の医療過疎地で,母子保健指導及び栄養失調児のケアに心血を注がれました。また,ザイールで医療活動を共にした人々が,次々とエイズで倒れる中,エイズ患者支援のNGO組織を作り,医療支援・生活支援と共に人々の自立支援を行い,また,さまざまな教育活動により,エイズに関する啓発を行ってこられました。現在は,将来,国際保健分野及び発展途上国での活動を志す後進の育成に力を尽くしておられます。
 ここに,お三方の長年にわたる看護への献身とたゆみない努力に対し,深く敬意を表し,このたびの受章をお祝いいたします。
 受章者の皆様が,苦しむ人々の助けとなるべく,身につけてこられた知識と技術が,これからの日本の看護に受け継がれ,美しく生かされていくことを願い,また,皆様方のご健康とお幸せをお祈りし,お祝いの言葉といたします。  
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人間とは,これほど,偉大な存在になれるものなのか。
看護師という職業は,もともと地味にしてきつい重労働であるが,それにしても,畏れ入ってしまうというか,自然と頭のさがる思いである。
献身と熱意にみちた人生をおくられた方々なんだなと,筆者のような者が勝手に推測するのもどうかという問題はあるかもしれないが,それにしても,そのように思わずにいられない。
こういった方々の存在を知ってしまうと,自分自身,どれほどの価値ある生き方をしているのかと,反省せざるを得なくなる。
この国の将来について,悲観的なことを書いたりしたこともあるが,悲観する前にまず問題にするべきは,自分自身の行動ということだろうか。
ただ,このように考えてみたところで,急に何かをしようとしたところで空回りであるし,長続きするはずもなく,一つ一つ前進していくしかないのだろう。
ところで,テレビなどにては,勝ち組だとか,負け組だとか,セレブだとか,そういう言葉が氾濫している。人生というものを極めて表層的な物差しで,その価値を計り,区別するかのような風潮が見られる。これは実によくないことであり,また,そもそも間違いなのではないかと,今回改めて感じさせられた。
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鈴木邦男氏の「限度超す皇室への期待」という記事について

2005-07-04 23:11:33 | 皇室の話
平成17年6月30日付けの朝日新聞の夕刊に,鈴木邦男氏の「限度超す皇室への期待」と題する記事が掲載されている。
この記事には,筆者が最近強く感じている問題意識が,ずばりと指摘されている。
それは,皇位継承の在り方をめぐる議論において,特に一部保守派の男系男子維持を主張する議論において、どうしても感じざるを得ない違和感の問題である。
そのような議論においては,しばしば,「自分こそは,皇室というものを最もよく理解しているのだ」「自分の説こそが,絶対に正しいのだ」という傲りの臭いを強く感じるのである。
そのような傾向になってしまう原因としては,世間に於けるいわゆる女帝論というものにつき,きわめて浅はかで表層的な議論のように見えることによる,反発ということがあろう。
伝統的な価値というものを相対化させ,消滅させようとするような勢力も確かにあったであろうし,そのような勢力に対する憎悪というのも,分からないでもない。
また,筆者自身も,かつてそのような態度をとっていたことがあり,反省しなければならないところでもある。
ただ,改めて考えてみるに,そのような傾向のある主張というものは,反発や憎悪ということ以外に、果たして、皇室の方々のお立場や,皇室と国民との関係ということを,十分に突き詰めた上で発せられたものであろうかと,疑問に行うことがしばしばある。
なぜ,そのような疑問を感じるかと言えば,筆者としては,皇位継承の在り方を論ずる者は,ひたすらに謙虚であるべきだと思うからである。
皇位継承の在り方というものは,皇室の方々のご境遇に大きな影響を与えるものであるにもかかわらず,法律事項である故に皇室が関与できないが,これは何とも切ない話ではないか。
皇位継承の在り方についてどのような結論を出すにせよ,皇室というのは人権の制約されたお立場であり,そのようなお立場にある皇室が関与できないプロセスにおいて,皇室の方々の境遇に大きな影響を与えるようなことを考えようというのだから,これは,ただただ申し訳ない話ではないか。
そうなれば,当然,皇位継承の在り方を論じる際には,どこまでも謙虚でなければならないのではないだろうかと思うのである。
しかし,上記に述べたような,一部の男系男子論者については,そのような謙虚さが感じられないのである。
守るべきは制度であり,個々の皇室の方々ではないという考え方もあるのかもしれないが,皇室の制度については,生身の人間によって担われているものであり,その連続の上に成り立つものである。
個々の方々はどうでもいいとして,謙虚さを忘れて問題なしとする態度については,筆者としては理解できない。
幾つかの考え方があるとして,そのうちどの考え方が適切であるかについての論者ごとの判断というものは,当然あり得るところであろうが,ただ,それでも,皇室に対しては,やはり申し訳ないという気持ちを抱くべきではないかと思うのである。
このように思う筆者としては,強硬にして攻撃的な男系男子論者に対しては,その主張の内容の当否とは別なところで反感を抱かざるを得ないし,雑誌等でそのような者の論文を見るにつけ,何やら新たな皇室創設者たらんとする野望のようなものさえ,感じてしまうのである。
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有識者会議の「論点整理」に期待すること

2005-07-03 18:35:28 | 皇室の話
6月30日に第8回目の有識者会議が行われ、今月末には、論点整理が示されるという。
この会議の経過を見る限り、皇位継承の在り方を論じるに当たり重要となる事実については、これまでにかなり押さえられたようである。
ただ、筆者として気になるのは、事実を押さえた上で、今後、どのように議論が展開されていくかである。
この点で、非常に気になるのが、「論点整理」という言葉の響きである。
「論点整理」という場合、いかにも価値中立的な立場に立って、様々な問題点を客観的に整理するというニュアンスがないだろうか。
しかし、皇位継承の在り方というものは、数学の問題でも解くように価値中立的というわけにはいかないだろう。
むしろ、皇室継承の在り方について、パターンは限られているのだから、中心的な課題となるのは、結論を導き出すにあたり、どのような価値観に立つかということではないか。
ここで、価値観ということを述べたが、皇室に対する国民の価値観というものは、実に見えにくい。
明確な主張を行う者もいるが、それは少数派であり、大多数の者はどのように考えているのかよく分からない。もしかすると、何も考えていないのかもしれない。
ただ、それではこのような大多数の者については、どうせ何も考えていないのだから無視してよいかと言うと、そういう訳にもいかないのだろう。
というのも、どのような結果になっても受け入れるというような覚悟が、決して、このような者たちにあるわけではないからである。
むしろ、具体的な意見は表明しない一方で、違和感を感じるかどうかについては実に敏感であり、示された結果に対して違和感を感じれば、すぐに心が離れていってしまうというような、厄介きわまりない存在であるに違いないからである。
そこで、皇室制度を安定的なものとするためには、何も考えていないように見える大多数の者から見ても、心にしっくりと来るような答えを出さなければならないことになる。
ただ、これも、新聞の世論調査というものは、あまりあてにはならないだろう。
皇室に対する大多数の者の意識は、きわめて無自覚的であり、しばしば矛盾する要請を内包していると思われるからだ。
女性天皇についてどう思うかと聞かれれば、特に男子に限る必要性もないように思われるので賛成してしまうという人も多いかもしれない。これは、現代社会の変化ということが念頭にあるのだろうか。ただ、一方、皇室ブランドということがテレビなどにて紹介されることがあるが、そこに表れているのは、伝統、格式、確かさという価値である。そうすると、やはりそういった価値が皇室に期待されているのだと伺える。この期待というものは、男系男子ということに親和的であろう。
結局、できるだけ多くの人々の心にしっくりと来るような答えを導き出すためには、皇室に対する様々な価値観を分析し、変わるべきものと変えてはいけないものとを洗い出すしかあるまい。
この価値観の分析ということにおいては、「論点整理」も意味があろう。
そのような「論点整理」が示されるなら、それは専門家的な知識がない人にも参加できる議論となるので、真剣に考える人が増えるのではないかとも思う。
ただ、果たして、そのような「論点整理」になるだろうか。
現在、価値観というと、建前論というか、要するに単なるお題目になってしまうことがしばしばであり、本当に深い思想が述べられるということは、なくなってしまった。
殊に、公的な世界においては。
しかし、皇室の問題についてだけは、それでは通用しないはずである。
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