■明治天皇1/2(即位、五箇条の御誓文)の中間まとめと考察
1 即位の記述
明治天皇は、《明治維新から今まで150年ほどになる近代日本》の出発と最初期の45年間にわたり中心となられた存在。世界的にもとても有名。
帝国書院、日本文教、清水書院、学び舎はなぜ即位のことを書かないのだろう?
2 御誓文全五条の明記
聖徳太子の「十七条の憲法」とはちがって、各社が足並みをそろえている。全条載せたのはおそらく短いからだろうが、重要なのは、《全社が「十七条の憲法」とこの「御誓文」を記載している》という事実なのだ。
つまり、この御誓文は、中学生に教える基本的な日本史でさえ、決して外せない重要事項なのだということ。
<参考>
日本近現代における「五箇条の御誓文」の重要性と内容を知っていれば、敗戦翌年元日の、<昭和二十一年一月一日詔書>(新日本建設に関する詔書)の意味とその重要性もわかる。
一部の中学教科書には いまだに、いわゆる「人間宣言」という形でゆがめられて記載されているが、それは実際は宣伝工作(=プロパガンダ)のたぐいのいかがわしい記事だ。詳しくはあとの昭和天皇の項で…
3 御誓文発表の主語 ~形式的には「明治天皇」が妥当~
<ウィキペデア:五箇条の御誓文>に、「慶応4年(明治元年)3月14日(1868年4月6日:新暦)に明治天皇が天地神明に誓約する形式で、公卿や諸侯などに示した明治政府の基本方針である。」と書いてある。
また、<ウィキペデア:明治維新>にその経緯が詳しく書かれている。
・「この『五箇条の御誓文』の起草者・監修者は「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」を全く新たに入れた総裁局顧問・木戸孝允(長州藩)であるが、その前段階の『会盟』五箇条の起草者は参与・福岡孝弟(土佐藩)であり、更にその前段階の『議事之体大意』五箇条の起草者は参与・由利公正(越前藩)である。
その当時はまだ戊辰戦争のさなかであり、新政府は日本統一後の国是を内外に呈示する必要があった。そのため、御誓文が、諸大名や、諸外国を意識して明治天皇が百官を率いて、皇祖神に誓いを立てるという形式で出されたのである。
さらに国民に対しては、同日に天皇の御名で「億兆安撫国威宣揚の御宸翰」が告示され、天皇自身が今後善政をしき、大いに国威を輝かすので、国民も旧来の陋習から捨てるように説かれている。」 (引用終わり)
では、御誓文を「公布した」「示した」「出した」のはだれか?
確かに、起草・監修は新政府役人だが、「百官を率いて、皇祖神に誓った」のは明治天皇。
また、同日、国民向けに告示された「億兆安撫国威宣揚の御宸翰」も「天皇の御名」で出された。
しかも、このときにはまだ憲法もなく、政府の形は「天皇親政」だった。
(※世界中どこだっていつだって、国家が公布する公文の起案者はほとんど臣下・役人だが、最終決裁者は元首であり、当然ながら公布責任者は元首だ。明治憲法下の日本の元首は天皇。)
※<ウィキペデア:明治維新>より
・「明治維新は律令制の復活劇」 「王政復古の大号令において、幕府や摂政・関白の廃止と天皇親政が定められ、天皇の下に総裁・議定・参与の三職からなる官制が施行された。」
※<ウィキペデア:明治>にも、「天皇を中心とした中央集権的国家体制」とある。
したがって、形式的には主語は「天皇」なのであり、《主語を「新政府」としている、東京書・帝国書院・教育出版・日本文教の4社》は、形式的にまちがっている。
同日の国民向け告示も「天皇の御名」で出されたのだから。
4社は、《新政府には天皇が含まれている》ので実質的には新政府でよい、と言うかもしれないが説得力は弱い。
この4社の教科書全体の傾向や、《はっきりと推理できる(非公表の)編集方針》から推理すれば、おそらく《できるだけ天皇色を薄めたい》という願いの表れなのだろう。
~次回、明治天皇:教育勅語~
<全リンク⇒1へ> 天皇<55・①索引など56・②仁徳天皇陵57・58・59・③系図60・61・62 ④聖徳太子63・64・65・66・67/68/⑤明治69・70・71・72・>
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