IPSO FACTO

アメリカの首都ワシントンで活動するジャーナリストの独り言を活字化してみました。気軽に読んでください。

米捜査当局、スパイ大作戦を地で行く3人を逮捕

2006-07-08 13:20:27 | 犯罪
残すところ2試合のみとなった今回のワールドカップ・ドイツ大会。数ヶ月前、僕は某夕刊紙に連載しているコラムの中でドイツ代表のユルゲン・クリンスマン監督を取り上げ、アメリカ流のメソッドを持ち込んだ彼が大会後にどういった評価を得るのか興味深いと書いた。明日、ポルトガルと3位決定戦を行うドイツ代表の評判は上々のようで、長年クリンスマン嫌いだったベルリンの友人まで「ドイツ・サッカーの救世主」と電話の向こうで絶賛していた。ここで気になるのが今後の展開。ドイツ・サッカー協会はすでにクリンスマン監督の続投を熱望しているらしいけど、彼が生活の拠点を置くアメリカでも、次期代表監督を望む声が高まっている。史上最強の代表と騒がれたものの、今大会のアメリカ代表のパフォーマンスは悲惨なもので、国内メディアはアメリカ人指導者の国際経験の欠如を問題視している。おそらく、この数週間で大きな動きがあるだろうけど、ユルゲンはどちらのチームで次の4年間を過ごすのだろうか。さてさて、今日はコカ・コーラ社の企業秘密をライバルのペプシコ社に売り渡そうとした3人が逮捕されたというニュースを。これ、本当は昨日のブログで書いておきたかったんだけど、フィラデルフィアから夕方に戻ってきてから夜遅くまで仕事を片付けていたため、今日のブログで紹介することに。遅かれ早かれ、テレビドラマの原作として使われるんじゃないかと思ってしまう今回の事件。まぁ、いろんな事を考えるやつがいるものです。

連邦検察当局は5日、コカ・コーラ社の女性社員とニューヨーク在住の男性ら2名を、同社の飲料水の製造方法などに関する情報をライバル社に売り渡そうとした容疑で逮捕・訴追したと発表した。逮捕されたのはコカ・コーラ社のアトランタ本部で幹部秘書として勤務していたホヤ・ウイリアムズと、イブラヒム・ディムソン、エドムンド・ドゥハニーの3人。ディムソン容疑者はニューヨーク在住だったものの、3人ともアトランタ郊外のドゥハニー容疑者の自宅で逮捕されている。社内の秘密資料や新製品の試作品を入手したウイリアムズ容疑者は、それらを秘密裏に社外へと持ち出し、前出の2人と共謀して、ライバルのペプシコ社に150万ドル程度で売り渡そうと試みた。ウイリアムズ容疑者は6日に2万5000ドルの保釈金で釈放されたが、残りの2人は現在も拘留中だ。3人に対する審問は11日から開始される予定だ。

ウイリアムズ容疑者には犯罪歴がなく、逮捕のニュースに家族も動揺を隠せない様子だ。ドゥハニー容疑者は以前にコカイン売買で有罪となり、アラバマ州モントゴメリーの連邦刑務所に5年間服役し、昨年2月に出所していた。また、ディムソン容疑者も2003年から1年間を同じ刑務所で過ごしており、2人が刑務所内で知り合った可能性が高い。ウイリアムズ容疑者と2人の接点については現在も不明だ。ニューヨークに本社を構えるペプシコ社は5月19日、検察当局にコカ・コーラ社の社名が入った封筒で送られてきた手紙を検察当局に提出した。消印がニューヨークのブロンクスとなっていた封書には、「ダーク」という名の人物がコカ・コーラ社の企業秘密を売り渡す用意があると書かれていた。連邦捜査局(FBI)はすぐに捜査を開始し、おとり捜査官と犯人グループとの交渉が数週間続けられた。

「ダーク」とおとり捜査官の間で行われた交渉によって、犯人グループはコカ・コーラ社の新製品のサンプルと社内の秘密資料を売り渡すことに同意。アトランタ国際空港に現れたディムソン容疑者は、ペプシコ社の関係者を装ったFBIエージェントと取引を行い、機密資料と現金の詰まったクッキー缶がその場で交換された。FBIは犯人グループの監視を続け、その間に入手した機密資料や新製品のサンプルをコカ・コーラ社の幹部と共に検証したが、資料などは全て本物だった。6月27日、犯人グループから新たな連絡があり、残りの機密資料を150万ドルで売り渡したいとの申し出があった。おとり捜査官を完全に信用した犯人グループは、実名を使って銀行口座を開いたため、7月5日に逮捕されている。今回の事件では長年にわたって秘密とされてきたコカ・コーラのレシピは盗まれていなかったものの、社員によって企業秘密が持ち出されていたため、企業内における機密管理の難しさを露呈している。

世界は狭いと感じずにいられなかったエピソードをひとつ。最近、ボストン在住の友人と電話で話しをしていた時に、ジャーナリストの広河隆一さんの話題が出た。広河さんといえば、80年代後半にセントルイスに住んでいた僕の姉が一緒に仕事をしたことがあり、当時セントルイス大学の博士課程にいた姉が広河さんの取材に現地コーディネーターとして参加していたのだ。「そういえば、講談社の雑誌で僕の姉がセントルイス取材に参加していたよ」、僕は頭の片隅にあった記憶をたどりながらそう言った。「それって、もしかしてDAYS JAPANですか?」、素早い反応を見せる友人。彼女は著名なアメリカ人カメラマンのスタジオで働いていて、そのスタジオに当時の雑誌の表紙がポートフォリオの1つとして飾られているらしい。広河さんの記事が掲載された号の(僕の記憶が正しければ、タイトルは「アメリカ大統領選挙と12人の美女たち」だったと思う)表紙写真を撮影したのが、このアメリカ人カメラマンで、彼も僕の話を聞いて喜んでくれたらしい。それにしても、世界って本当に狭いなと思う。今度帰国したら、実家の倉庫に置いているその雑誌をチェックしてみようと思う。


写真:故郷のシュトットガルトで行われる3位決定戦の前日、ボルフガンド・シュースター市長にシュトットガルト入りを出迎えられたクリンスマン監督 (AP通信より)

フィラデルフィアにて

2006-07-06 13:44:49 | Weblog
親友に会うため、フィラデルフィアに行ってました。フィラデルフィア近郊のブリン・モアーという町に住む(ややこしいスペルなんだけど、ウェールズから来た移民達によって開かれた町らしい。なるほどね)友人夫妻と2晩連続で会い、何年ぶりかの再会を本当に楽しんだ。ロシア出身の2人とは99年頃にボストンで知り合い、2人は一度ロシアに帰ったんだけど、やがてカナダの永住権を取得してトロントに住み始めた。そして、だんなのジェネがフィラデルフィア近郊の病院で勤務医として働きだした。奥さんのエレナも元気そう。6年前の僕の誕生日に、彼女が塩漬けトマトを、そしてジェネがロシアン・ストアで買ってきたウォッカを持ってきて、夜明けまで飲んでいた思い出がある。もちろん、僕は最初の数杯でギブアップしたけど…。

独立記念日の夜、2人の自宅で夕食をご馳走になった。娘のアリッサも11歳になって、今は水泳に夢中らしい。ジェネがアメリカ国内で医師として働くために必要な試験の勉強をしていた頃、当時5歳くらいだった娘の話になって、「娘だけはアメリカかカナダで教育を受けさせてやりたい」と僕に言ったのを今でも覚えている。もともと20代の頃に軍で数年を過ごしたジェネだけど、彼の友人の中にはチェチェンで戦死したりした者もいて、別の友人がベスラン学校占拠事件の鎮圧に動員された時に、「娘をロシアには戻したくない」と本気で考えたそうだ。学校の友達のことを楽しそうに僕に話してくれるアリッサを見ていて、ジェネとエレナに「本当によかったね」と言いたい気分だった。

そして、夕食の最中に東京から僕の携帯電話に電話が。北朝鮮のミサイル発射を一報をそこで聞き、とりあえずフィラデルフィア市内のホテルに戻って仕事を再開することになったんだけど、電車を待つまでの間にエレナがロシア初のニュースを要約してくれて、数時間後のラジオにも凄く役立った。アメリカ各地で独立記念日を祝う花火が打ち上げられ、スペースシャトルも無事に打ち上げられ、東アジアでは7発以上のミサイルが打ち上げられていた…。休暇先でも仕事になってしまったけど、明日からワシントンでまた頑張ります。そして、機会を見てまたフィラデルフィアを訪れようと思う。ボストンとニューヨークを足して2で割ったような町。「ライフ」と「ボアダム」が同義語にしか思えないワシントンより、はるかに魅力的な町だし。

写真:友人夫妻と一緒に撮った一枚。真ん中は5ヶ月前に生まれた次女のマリア。(アリッサが撮影)

1セント硬貨は必要?

2006-07-03 14:39:26 | ビジネス
フランスが勝って、ブラジルが帰り支度をする羽目になった昨日の試合。ワシントン周辺のスポーツバーでは本当にブラジル・ファンの間で悲鳴が聞こえ、まるで国民全てが喪に服したかのような静けさがやがて訪れた。アイリッシュ・パブでもアメリカン・バーでも、蒸し暑い土曜の夕方とは対照的なひんやりとした空気だけが流れていた。試合前、バーの外で本当に泣いていたイングランド・ファンに「4年後があるじゃない」と慰めの言葉をかけていたブラジル人の女の子がいたけど、それから2時間後の彼女の気持ちはどんなものだったのだろう…。それにしてもフランス代表のジデディーヌ・ジダン。アメリカ人の友人が「映画のターミネーターを思い出した」って言ってたけれど、その言葉に納得してしまう活躍ぶりだった。『ターミネーター2』の終盤、体をグシャグシャにされて、サイボーグとしての機能が完全にストップしたターミネーター。やがて体内に内蔵されていた予備の電源が作動し、再び任務を遂行している。大会後半に輝き始めたジダンだけど、あと2試合だけターミネーターばりのパフォーマンスを見てみたい。さてさて、今日は1セント硬貨にまつわるニュースです。

アメリカ国内では「ペニー」という別称でも知られる1セント硬貨。過去にはペニーでパンを買えた時代もあったが、現在ではキャンディを一つ買うこともできず、硬貨としての使い道がなくなってきているのも事実だ。また、最近になって造幣局は金属価格の高騰が原因でペニーの製造コストも上昇し、1セント硬貨1枚のコストが1セント以上することを明らかにしている。「経済的に何らかの変化が発生しない限り、ペニーは消え行く運命にあると思います」、全米貨幣研究協会のロバート・ホージ氏はAP通信の取材に対しそう語った。「1セント硬貨を作るのに1.2セントのコストがかかっているんですよ。馬鹿げていますよ」、そう語るのは、メリーランド州在住のジェフ・ゴアさん。ゴアさんは地元の仲間と「1セント硬貨の引退を願う市民の集い」というグループを運営している。

しかし、ペニーをアメリカ文化の一部と考え、できる限り残しておきたいと考える市民も少なくないようだ。「1セント硬貨はアメリカの歴史の一部でもあり、これからも保存しておきたいと考える人は多いのですよ」、専門誌「コイン収集ニュース」のデーブ・ハーパーさんはそう語った。実際、ギャロップ社が以前に実施した世論調査では、全回答者の3分の2が1セント硬貨の存続に賛成している。また、ペニー存続を訴えるロビー団体までもが、アメリカ国内には存在する。造幣局による発表は画期的な出来事であり、これまでコインの製造コストは価値よりも低いのが通例と考えられていたからだ。アリゾナ州選出のジム・コルビー下院議員はペニーの製造コストを以前から問題視しており、5年前には連邦議会でペニー製造の停止を提案したが、却下されている。「もし、次もペニーの製造廃止案が却下されれば、持ってるペニーをすべて溶かして、金属として売ってみようかと思っています」、コルビー議員は冗談交じりにそう語った。

ペニーの製造廃止案だが、すでに1989年には連邦議会内で議論されている。米会計監査院による1996年の報告では、アメリカ国民の間で「ペニーがじゃまだという認識」が定着しつつあると指摘されている。2002年にギャロップ社が行った調査によると、58パーセントのアメリカ人が貯金箱にペニーを貯めて、やがて銀行などでドル札に換えたりすると答えているが、回答者の2パーセントは釣り銭として手渡されたペニーをその場で捨てていると回答した。こつこつとペニーを貯め込むことさえ面倒臭がられる時代になったのは事実だが、アラバマ州在住のエドモンド・ノールズさんは、ペニーを40年にわたって貯め続けている。40年前から趣味として1セント硬貨を貯め始めたノールズさんは、約130万枚のペニー(4.5トン!)を幾つかのドラム缶に入れて銀行に持っていったが、銀行側は受け取りを拒否している。やがて、硬貨の枚数を数える機械を製造していた会社の協力もあり、全てのペニーを数え終えたノールズさんは、1万3084ドルを手にした。

セレソン・ブラジレイラがまさかの敗退…。1958年のスウェーデン大会でブラジル代表がスウェーデン代表に5-2で勝利して以来、南米のチームがヨーロッパで開催されたワールドカップで優勝した事は一度もない。誰にも理由は分からないけれど、一度もないのだ。大会前からホナウド、ホナウジーニョ、カカー、アドリアーノの4人が「魔法のカルテット」って呼ばれていたけれど、実は58年大会のブラジルも前線に4人を配置する超攻撃的布陣だった(ザガロ、ヴァヴァ、ペレ、ガリンシャ)。今大会でもブラジル代表のアシスタント・コーチをつとめた74歳のザガロは、もしかすると自身の経験から、「ヨーロッパでのジンクス」に打ち勝てるのと思ったのかな?ただ、フランス戦のブラジルが今大会中初めてフォーメーションを変更したこと。結局、今回も南米勢が優勝することはなく、準決勝を迎える段階で欧州選手権に様変わりしてしまった…。フットボールに絶対はない。それがセレソンでも。


写真:ワールドカップ準々決勝でブラジル代表に勝利した直後、パリ市内では大勢の市民がフランス代表の活躍を祝った。 (AFP通信より)

独式蹴球勝利術

2006-07-01 14:10:32 | Weblog
ドイツらしい勝ち方?思わず1999年に行われた欧州チャンピオンズリーグ準決勝でのシーンが頭の中に浮かんでしまった。バイエルン・ミュンヘンをホームに迎えたディナモ・キエフは、まだ22歳だったシェフチェンコの大活躍もあって、後半途中まで3-1と大きくリードしていた。この試合、僕はボストンのスポーツバーで観戦していたんだけど、横に座っていたオーストリア人の爺さんが「ドイツサッカーはここからが面白いんだよ」と言い、彼の言葉を証明するかのように試合終了前に2点を奪い取ったバイエルンは3-3の引き分けに持ち込んでいる。ミュンヘンで行われたセカンド・レグではマリオ・バスラーのミドルシュートが決まり、1-0で勝利したバイエルンが決勝進出を果たした。余談になるけれど、「最後まで何が起こるかわからない」ドイツ式サッカーを体現したバイエルンは、決勝戦では90秒という残り時間でマンチェスター・ユナイテッドのデービッド・ベッカムからのコーナーキックで2点を決められ敗れている。試合終盤に見せる異常なまでのモチベーションとPK戦での絶対的な強さ。こんなドイツ代表を見たのは久しぶりだった。どちらかしか勝者にはなれない現実を悔やみながら、4年後のアルゼンチン代表にも期待したい。

今日はイングランド対ポルトガルとブラジル対フランスの試合が行われる。僕はとりたててイングランド代表が好きというわけでもないんだけど、96年欧州選手権や98年のワールドカップのような「感動」は今のイングランド代表からは感じられない。96年といえば、昨日のブログでも書いたようにイングランドの連中とサッカーをしてた頃だ。あの頃のイングランド代表には今よりも不器用だけど、それでも衛星中継の画面に見入ってしまう選手が多かった。アラン・シアラー、トニー・アダムス、ポール・インス、スチュワート・ピアース、ポール・ガスコイン、テディ・シェリンガム(スパーズ時代の彼のプレーをスタジアムで見れた僕は幸運だと思う)…。当時の映像をYouTubeで探していると、名曲「Three Lions」のビデオクリップを発見した。イングランド代表を応援するために作られたこの歌には2バージョン(96年と98年版)あって、僕は98年バージョンの最初の部分が凄く好きだ。96年の欧州選手権準決勝で、イングランドとドイツはPK戦に突入するんだけど、両チームとも最初の5人全てがPKに成功し、イングランドの6人目はディフェンダーのギャレス・サウスゲート。大会を通じて好調を維持していたサウスゲートの蹴ったボールは、ドイツのアンドレアス・ケプケにセーブされ、そのドイツは6人目のアンディ・メラーが難なくPKを決めた。話はさっきの歌に戻るけど、オープニングで「ギャレス・サウスゲート、イングランドのみんながついてるぞ...。あっ、止められた」という実況アナウンスがあって、そこからイングランドファンの苦悩が歌われている。でも、これって凄い愛情だなぁとも感じた。こんな歌がいつか日本でも生まれるといいね。


YouTubeでさっき見つけたクリップ

Three Lions

Three Lions (98年度版)

ポール・ガスコインの伝説のゴール

You'll Never Walk Alone (アンフィールドにて)

ガリンシャとフレッド・アステアの美しき融合