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たのしい夢日記

京都奈良寺社巡り・思い出・読んだ本…日々のあれこれを写真と共に。

別れの曲

2009-10-12 00:20:02 | 母の記憶
ハンドロールピアノを買ってひと月位になるだろうか、随分弾き方にも慣れてきた。
初めは「やっぱりこんな引っ込まない鍵盤、変な音が出てあまりいいものじゃないなあ」と思ったけれど、それはどうも、私の指がうまく鍵盤を押さえられていなかったせいらしい。

数日練習を重ねるうちに、通常のピアノとは無論比べ物にならないけれど、とりあえずまともに曲らしく聞こえるようにはなったようだ。

指使いなど、そうそう、こんな感じで入れ替えるんだよね、というのもおぼろげに思い出し、楽譜の読み方も忘れていたのが次第に記憶が蘇ってきた。

英会話を始める大人の方もこんな感じなんだろうなあ。

同居人が面白半分に鍵盤を触ってみるが、やはり音がちゃんと出ない。
良く見ると手の置き方が全然違うのだ。
習ったことのある私は無意識に指を丸めて鍵盤の上に置いている。1回泳げるようになったら忘れない、とよく言うけれど、そんなものなんだろう。




さて、楽譜集は「はじめての ひさしぶりのピアノ」という、細かい字が読みづらくなった中年以降向けの本だ。
音符はでっかく、「ドレミ」まで書いてあるありがたいものだ。

ショパンの「ノクターン」が楽譜ナシで弾ける様になったので、次は同じくショパンの「別れの曲」を練習し始めた。


子供の頃、家には表がショパン、裏がリスト、というピアノ曲ばかりのSPレコードがあった。母のお気に入りのレコードで私もよく聴いたものだ。
体裁も優雅で、臙脂色の地のカバー、そしてこの絵が付いていた。



ルノワールの「ピアノに寄る娘達」という絵だが、子供の頃はそんなことは知らず、燭台の付いたピアノの珍しさや、ピアノを練習する少女たちの美しい様子が気に入って眺めていた。
大阪に来て、おそらく展覧会のポスターかチラシか、でこの絵を見て初めてルノワールのものとわかったのだったと思う。

このレコードの中には勿論、「ノクターン」も「別れの曲」も入っていた。
母は「別れの曲」が好きで、レコードをかけつつ歌っていたものだ。
女学生の頃は歌が得意で、舞台で独唱したこともある、という母はきれいな裏声で、日本語の「別れの曲」を歌っていた。

先日ネットで調べてみたら、確かに日本語の歌詞があるのだ。母の歌っていたものを全てはおぼえていないが、「さらば、我が友よ」という部分があり、そこは「サビ」とも言うべき盛り上がりのところで、間違いなく母がそう歌っていた記憶があるので、おそらくこの歌詞だろう。
全くもって、ネットというのは便利なものだ。

しかしながら、あまりに何度もこのレコードを聴いたので、これ以外のCDでこの中の曲を聴くと、全く違うものに聞こえて困るのだ。
演奏者が違うと本当に違う。もう一度あのレコードを聴きたいものだと思うけれど、さて、実家にまだあるのだろうか。


子供の頃、私のピアノで歌いたい、という希望があって、私が「ピアノ習いたい」と言い出すのを楽しみにしていたという事だった。
あの頃の親はのんびりしていたし、子供が嫌だったら通わせる気はなかったのだそうだ。
小学校の音楽の教科書でいくつか、簡単なものを私が弾いて母が歌う、というのをした覚えがあるが、結局、ショパンがまともに弾けるような腕前まで行く前に私はピアノをやめてしまった。

今私が練習しているのは、ショパンはショパンでも超カンタンバージョンのもの、それでも曲らしくは聞こえるのだから、あの頃こういう楽譜があったら、母は私のピアノで「別れの曲」を歌うことができたのに、と思う。
あの頃は今よりずっと上手に弾けたのだし。


当時「ショパンのカンタンバージョン」というものがあったのかどうかは知らないが、あったとしてもそれを練習する、というのは邪道と思っただろう。
「バイエル」から段々と時間をかけて練習するのがピアノだったから。
今になって、当時はモーツァルトの曲を弾いていたのだ、と知ってびっくりした事があった。
単に「ソナタ」というテキストの中の曲、という意識しかなかったから。


高校の同級生が亡くなったという知らせが入ったのは月曜日。

高校時代には全く、ほとんど口もきいたことがなかったけれど、ミクシィでのお付き合いが去年、始まったところだった。
30年経って、昔話もまじえながら時折のメッセージのやり取りも楽しかったものだが。

年末に彼と岩見沢で会って飲んだ、というもう1人の高校の同級生のマイミクさんは、彼の死を知った日に1人で夜中に家で飲んでいて、電源入れていないのにラジオが鳴り出して、と言っていた。止めても止めても鳴った、と。
奴がいたずらしに来たのかな、と思った、とメッセージにはあった。


私は彼が亡くなった事を知らず、「別れの曲」を夜中に弾いていた。母の歌声を思い出しながら弾いていたのだけれど、誰かが亡くなることなどは考えもせず無心に練習していた。
母が、「こちらにお友達が来たよ」と教えてくれたのだろうか。
知らずに友に「別れ」を告げている私に合わせて歌っていたのかもしれない。


入院記録5

2009-01-19 21:46:20 | 母の記憶
前回入院記録を書いてからちょうど1年が経った。

この季節に書きたくなるのは、母の入院記録がこの時期に一番多く書かれているから、という単純な理由。


この日記には、母のお友達が病院に来られた時の事が書いてある。
その方の苦労話を聞き(私もよくそのお話を聞いていたが)涙した、と書いてある。
自分の病気のことも合わせ、心が寄り添うような気持ちだっただろう。


母にはこの方も含め小学校時代の同級生のお友達が数人おり、時々連れ立って小旅行をしたりして楽しんでいた。気兼ねない幼馴染とのお付き合いがよかったのだろう。
若い頃は店をやっていたので、めったな事では出かける事も出来なかった母だが、店を閉めてからは自由な時間が増え、あちこちに出かけていた。

急に京都にやって来て、私を驚かせようと事前に連絡せずに、京都に着いてから「来れない?」と電話して来た事があった。
その時は母が場所の指定を間違えたので、京都まで出て行った私は結局会えずに仕事に戻らなくてはならなかった、というおかしな事も。

間に合わなくては、と私はあせって嵯峨野の竹林の中の道を駅まで走ったのに、その日母は清水に行っていたのだ。
今となっては懐かしい思い出である。


この日記にも、そのうち近くへ旅行に行こうという事になった、と書いてある。
当時札幌の病院にいた母は小康状態、というのか、先進治療も受け、かなり調子が良くなったように見えていた頃、母自身それからたったのふた月で亡くなる、などとは考えてもみなかったのではないだろうか。



この日記に書いてある方に母が亡くなった旨連絡をした時に私が考えたのは、こんなことだった。

「声が似ているから、『○○です(苗字)』と言ったら、母が電話したと思うかもしれない」などということだった。
実際電話ではよく間違えられたのだ。

結局、「○○です、娘の方です」と言ったのだが、今考えてみれば、「あ、ヒデちゃん?(母の名)」と言われたらそこで「娘です」と訂正してもよかったのに、と思う。
母から電話が来た、と思ったお友達にショックを与えたくなかったのか、それとも私の方がそう言われたら辛かったのか、今となっては、よく思い出せない。

落ち着かなければ、と思いすぎて色々な事に対して心のシャッターを閉じてしまっていたのだろうか。


母の通夜には、幼馴染のお友達がみな揃って来てくださった。

その際か、また違う機会だったかもしれないが、皆で旅行しよう、と少しずつ貯めていたというお金、母の分を返していただいた。

亡くなっていなければ、春にどこかへ桜でも見に行くのに使ったかもしれない。

あれから6年になるが、母のお友達は皆さんどうしていらっしゃるのだろうか。母抜きでも、お元気で小旅行を続けていられることを願うばかりだ。

アクセサリー

2008-09-08 23:26:48 | 母の記憶
ゲリラ豪雨に2度も見舞われたのは昨日のこと。

どちらも買い物を終え、さて外に出ようとした途端気づく、というものだった。

1度目は同居人とミドリ電化へ買い物に行った際。
車で行ったため、とりあえずさほど濡れずに済んだが、2度目は1人でスーパーに買い物に行き、その直後。傘を買って帰ったが、とりあえず頭は濡れなくてよかったね、位の豪雨だった。
いつ来るかわからない、と言う点で、「ゲリラ豪雨」という命名は言いえて妙である。


今日は打って変わってさわやかな一日。暑さも幾分おさまり、夕方頃の天気はすがすがしかった。
2週間連勤の後、昨日今日とのんびりするつもりだったが、昨日昼寝で爆睡した以外は、あまりのんびり過ごした気がしない。
あれこれと家事がたまっていたせいもあるが、本来貧乏性なのだろう、なにかしていないと落ち着かなく、やることを見つけてしまうようだ。

しかし今日は時間があったので、懸案事項であったものが随分片付いた。

そのうちの一つが、母から譲り受けたアクセサリーの整理である。

お盆の頃にコレクションボックスを買っておき、その中にディスプレイしようと思っていたのだが、なかなか時間がとれなかった。

ダイヤの指輪や、ガーネットのペンダントは以前、リフォームしてもらい、普段から使えるようにしたのだが、どうも作り直すのは難しそうなものや、古すぎて使えなかったり、壊れたりしているものもある。
しまいこんでおいても仕方がないし、いっそ飾ってしまおう、と決めたのがつい最近のこと。
大好きな「quatre saisons」の店で、コレクションボックスに古いアクセサリーを飾っているのを見て思いついたのだ。


家にあった飾り用の羽をいくつかあしらって、指輪やブローチをピンで止めるとそれらしくなった。


私が子供の頃からよく母がはめていたオパールの指輪。オパールをシドニーで売っていた私から見ても、なかなかのものだ。全体に光と色が入り、整っているきれいなホワイトオパールなのだが、ちょっと大きすぎて、リフォームするには悩んでしまい、結局そのままにしてある。


飴色になった琥珀のブローチも懐かしい。琥珀の色が年毎に変わっていく、というのは母に教えてもらった。買った頃にはもっと薄い、ベージュに近い色だったのを、私も覚えている。裏の留め金が壊れているので、母も使わずにとっておいたのだろう。
オーストラリアで、そっくりなデザイン(葉っぱの下に木の実がいくつか下がっている)の物を見つけて驚いたことがあった。


そのほかにはパールの指輪。これにはおかしな思い出がある。

子供の頃に家族で札幌のデパートへ買い物に行き、ペットショップをのぞいた時のこと。

可愛い小猿が檻にいたので、母と私は喜んでからかっていた。そのうちに、母がはめていたパールの指輪がめずらしかったらしく、小猿がパールをぺろぺろ舐めはじめたのだ。
その様子がまた可愛らしかったのだが、今考えてみれば、相当の黴菌を舐めさせてしまったはずである。あとで病気にならなかっただろうか、と今更ながら申し訳なく思うのだが、当時はペットショップものんびりしていたのだろう。

このパールの指輪を見るたび小猿のことを一緒に思い出したものだ。
あの小猿は誰かに買われていったのだろうか。

コレクションボックスは、リビングの飾り棚に、母の写真と一緒に置いてみた。

もう一つ、懸案事項だったものは、これも母から譲り受けたパールのネックレス、愛用していたのだが切れてしまい、自分で直したのだが再度切れてしまったので、専門家に直してもらおう、と近所のジュエリーの店に持っていった。
パールにはパール専門のワイヤーがあるのだそうで、私が付け直したような、ちゃちなものではよくないらしい。
結構なお値段だったが、形見であるからやはり長く使えるようにした方がよいだろう。

名前と住所を言うと、書いていた店員さんが「えっ!」とびっくりする。

「何!?」

別に珍しい住所ではないのだが。

「私もここに住んでます」と店員さん。

なんと階下に住む方だった。こちらもびっくりである。

14回目の夏・母と写真

2008-07-22 00:55:06 | 母の記憶
大阪に引っ越してきたのは1995年の8月4日、真夏も真夏、湿度も最高、という時期だった。
これで14回目の関西の夏だ。



引越し荷物を送り、95年の8月4日にとうとう大阪に発つことになった。
金曜日だったのを覚えている。

その日の岩見沢はからっとした、北海道らしい上天気の日、母が庭の花の写真を撮り始めた。

実家の庭は夏、花だらけである。
いったい何種類の植物があるだろう?
薔薇、クレマチス、ペチュニア…北海道では、紫陽花と薔薇とコスモス、春と夏と秋の花が一緒に咲いたりするので、夏は美しい。

母は花の中に私を立たせて写真を撮った。

庭の写真ついでかと思っていたのだが、後から考えると、その日家を去る私の写真を撮るつもりだったのかもしれない。
何度も家を出てはあちこちに行ってしまう娘だから、慣れてはいただろう、それほど感慨のある様子もなく見送ってくれたが、やはり記念に、と思ったのもあるのかもしれない。

こちらに来てから送った私の写真を、居間に飾っているのを帰省したとき見てびっくりしたこともある。私の背後の、奈良の長谷寺の牡丹を見せるつもりで送ったのだが。

入院中も、病室の壁に私の写真が貼ってあった。
学校で生徒さんと写したものだが、父の話ではとても気に入ったらしく、私の部分だけ切り抜いて、無造作にセロテープで貼ってあった。
大きく引き伸ばした写真だったので、目立っていて、よく看護師さんたちに「これ誰?」と聞かれていたそうだ。

母が亡くなって、その写真も片付けて持って帰ってきたはずだが、どこに行ってしまったのだろう?荷物の中にも見当たらなかったように思う。

もしかしたら亡くなったときに、母が一緒に持っていってしまったのだろうか?などと考えることもあるのである。




もう一人の母

2008-06-10 00:32:15 | 母の記憶
今日は殊の外静かな休日だった。
午後にはいったん大雨が降ったけれど...

お昼に届いた青梅で梅酒を仕込み、その後はパン作りをしながらアイロンかけ。

先週作った食パンはいまいち、醗酵が足りなかったのか固い出来になってしまったので、今日は気分を変えてバターロールを焼いてみることにした。

「らでぃっしゅぼーや」で野菜の宅配を頼み始めて以来、ケーキやプリンなどをあれこれ手作りしたり、することも楽しくなってきた。


母はあまり、手作り信仰、というもののない人で、料理に凝る、ということもなかった。
商店をやっていた、というのもあり忙しくてそれどころではなかったのかも知れないが、現に今、忙しい私でも趣味的に休日に何か作る気分にはなるのだから、これはやはり、母はそれ程料理好きではなかった、ということだろうと思う。

考えてみれば、好き嫌いも多い人だった。
牛乳、豆腐、青魚など生臭い系のもの、などが嫌いだった。また「くどいのはいや」というのが口癖で、野菜も、茹でて、あるいは切って醤油やマヨネーズのみ、というのが多かった。
その影響か、私も野菜はシンプルに茹でて食べるのが未だに好きだけれど。


バターロールを作りつつ、23年前にもこうして麺棒で生地を伸ばして作ったな、などと考える。
元結婚相手の実家で、である。
義母と向かい合って卓袱台を調理台代わりに、生地をくるくる巻きながら、何を話したろうか?全く覚えてはいないが、家でパンを焼く、というのは私には珍しくて、楽しみながら作った記憶はある。

義母は色々な物を手作りする人だった。
子供の買って来たお菓子の箱を見て、「こういう添加物が体にはよくないんだよね」と言っていたのを覚えている。

今では珍しくないが、当時から「エコ」していた人で、環境を考える会に入っており、洗濯や食器洗いにも、石鹸成分のみの石鹸を使う人だった。

また料理に凝る、というのではないが、出汁をとった煮干をストーブの側で乾かして使ったり、無駄のないように色々と工夫していた。
専業主婦だから出来たこともあるかもしれないが...

餅も、あの頃流行り始めた餅つき器を使って作っていた。
バターロールも食パンも、この餅つき器を使って生地をこねていると言っていた。手でこねると大変だから、というので思いついたアイディアらしい。
今で言うとホームベーカリーのように使っていたのだ。

「こんな風にするお母さんもあるんだな」と驚いたものだった。料理上手な伯母や友人の母親なども、パンまでは作っていなかった。

義母は私の母よりもかなり若く、気持ちも若く、苦労して育ったせいか、優しく練れた人柄の女性で、いわゆる「姑」だったのにもかかわらず、私はこの人に関しては嫌な思いを一度もしたことがない。
親戚に預けられて育ったと言う話を聞いたが、そのためか、嫁として、他家で一人、という気詰まりな思いをさせないように、といつも思いやりを持って接してくれたと思う。
離婚したときに一番申し訳なく思ったのが義母に対してだった。
いつかまた会えるだろうか、そうしたらきちんと謝りたい、そう思いながら月日は経った。


自分の母にそんなことを言ったことはないが…亡くなった人は色々なことをあの世で知るのではないだろうか?
そんな気がすることがある。

母の告別式で焼香をしてくださり、こちらに会釈して行かれる人々の中に、懐かしい顔を見出して驚いた。

義母だったのである。
髪はすっかり白くなっていたが、上品な老婦人となっていた。若い頃から美しい人だったが、顔立ち自体は20年経ってもあまり変わっていなかった。

距離があったので、私と義母は言葉を交わさず見詰め合った。
父はぼんやりしていたのか、どちらにせよ義母の顔も覚えていなかっただろう、全く気づかずに会釈を返していた。

焼香が済み、出棺の準備が整い、会場を出てすぐ、見送る人たちの中に義母が見えた。やはり出棺まで待っていてくれたのだ。
飛んでいって挨拶をした。
「お義母さん来てくれたの!?」
もう「お義母さん」ではないけれど、私にはそうしか呼びようがない。

義母の最初の一言はこうだった。
「Kちゃん!いま、幸せなのね!?幸せなのね!?」

きっと私が出て行ってしまってから、どうしているだろう、と思いやってくれることもあったのだろう。
大事な息子に傷をつけた嫁、と憎まれても仕方がないところなのだが。

告別式では、私のとなりに同居人がおり、私の後に焼香したので、名前は違ってもパートナーであることはわかっただろう。
「幸せなのね」と言う言葉はそれを見て、安心した、という響きを持っていた。

勝手をした私を思いやる言葉が、一番最初に出てくる人なのだ。

「ずっと会いたいと思っていたよ!」とは言ったけれど...それ以上話をする時間もなく、「元気で」と別れた。
火葬場に向かうバスが待っていたのだ。

あれから5年、義母に会ったことはない。
これからも会うことはないかもしれない。大阪に住んでいては、義母がどこでどうしているのかもわからない。

新聞の訃報記事を見て来た、と義母は言っていたけれど、私には、亡くなったばかりの母からのプレゼントのような気がした。
私が気にしていたことを、亡くなった途端に知り、丁度良い、というと語弊があるが、なかなかない機会、と義母を呼び寄せてくれたような...


義母と作ったバターロール、食べたときの記憶は全くないのである。
おそらくランチに皆で食べたのだろうが、美味しかったのか、どうかも思い出せない。
こんな味だったのだろうか、と今日の午後はいかにも「手作り」風の、不細工なバターロールをミルクを一緒に頂きながら考えた。

命日

2008-03-28 00:53:16 | 母の記憶
3月28日に日付が変わった。
今日は母の祥月命日である。


前日からちょっと自分自身も(疲れからか)調子が悪くなって、来てくれた友人の勧めで点滴をしてもらい、また病室に戻って、母に付き添っていた位の時間かと思う。

夜中の病院は静かで、ということはない。
集中治療室で、向かいがすぐナースステーションなのだ。
ナースシューズが行きかう音が聞こえ、おそらくナースコールの音なのか、オルゴールのようなメロディもよく聞こえてくる。

母はもう意識もなく、完全看護でもあり、私にはすることはない。
そばに座って頭を撫でて上げたり…看護師ならぬ私にはそれしかすることはなかったのだ。
母はきれいな人だったが、死の床にあってもやはり整った顔はかわらないものなんだな、と思いながら見ていた。
すこしむくんだせいもあってか、若く見えたくらいだった。

2人きりの病室で、いろいろと意識のない母に語りかけたと言う記憶があるのだが、今となっては何を話したのかもよく覚えていない。

夜中に泣いている私を見て、一人の看護師さんが、私の肩に手を置いて、「娘さんが側にいてくれて、お母さん心強いと思いますよ」と力づけてくれた。
若い人だったけれど、担当の看護師さんのなかでもしっかりとした人だった。

あの時がもう5年も前のことになるのだ。


写真はこの時の病院ではなく、治療のためにしばらく転院していた札幌の病院で、友人が撮ってくれたものである。
以前に書いた入院記録の中に、この時の母の記述がある。
叔母達が来ていたこともあり、嬉しそうに笑っている。
この写真を見て、同居人と2人で、「元気そうだね」と喜んだものだが、それから
亡くなったのはたった2ヶ月後のことだった。

家の飾り棚には母の写真が飾ってあるが、花の好きだった母のため、命日には花を写真の側に置くことにしている。
今年は明るい色のスイートピーを買ってきて活けた。

3月、花

2008-03-06 00:28:36 | 母の記憶
3月になった。

去年の3月初めの記事を見てみると、インフルエンザで会議に出られなかった、と書いてある。
今年の3月の会議は今日だった。
去年もきっとこんな話が出たんだろうな、と思いつつ、今年は無事に会議参加。

ブログを始めてから1年経つと、去年を振り返って、というのが出来るんだ、と当たり前のことに今更ながら気づいた。

去年の3月は、インフルエンザが相当尾を引いたらしい記事が続いている。
確かになかなか体調が戻らなかったのを覚えている。
そのせいで頭痛が、などと書いているが、実は今年も頭痛が来ている。
ここの所薬を飲み続けである。インフルエンザのせいではなかったらしい。

またこれは私だけではないらしく、同僚や生徒さんたちなどにも、肩が凝るとか頭が痛い、と言っている人がいるところを見ると、季節の変わり目のせいかもしれない。
風はまだまだ冷たいが、日差しは春のものになってきているのだ。


昨日の新聞に梅園の写真が出ていたが、3月末ともなれば、桜も咲き始め、お花見が出来る季節なのだ、ということに気づいた。頭痛が治まった頃には花を楽しむ余裕も出来るだろうか。


母が入院中にメモ用紙に描いていたこの花はなんだろう?
おそらくお見舞いに頂いた花を描いたのだろうが、色がないし、種類はわからない。
以前絵画教室に通っていた頃を思い出しつつ、つれづれなままに描いた絵だろう。

花が好きな人だった。

今月末には母の祥月命日がやってくる。

お花見が始まる頃に亡くなったのだな、と思い、すぐに「北海道では桜はまだまだだった」と気づく。3,4月はまだ雪も降るのだ。

母が亡くなって数日経った頃、4月初めだろうか、実家の庭に出ると、クロッカスの芽が顔を出しているのを見つけた。

「芽が出てる。お母さん見たら喜んだものだったけどな」
という父の言葉が耳に残っている。



母の入院記録4

2008-01-02 01:33:35 | 母の記憶
平成20年になった。

母が亡くなってからもうすぐ5年になるのだ。早いものだ。



この日記は平成15年元旦に書かれたものだ。
数日前に帰省し自宅に居た私に、その日病院の母から電話がかかって来た。

「お雑煮が出てね、美味しかったんだよ」とのこと。

病院の食事と言うとあまり期待できないように思っていたのか、実に嬉しそうだった。ここにも書かれているくらいだから、余程おいしく感じたのか。
この頃は随分体調がよくなったように見えていた頃だったので、食事を美味しく感じることにも希望が持てた時期だったかもしれない。
「ガンバルゾ」というひとことにもそれが見える。


電話が来たのは、私と同居人がお雑煮を作り、父と3人で食べた後だったかと思う。
元旦の朝に何を食べたのか主婦としては気になったのかもしれない。

「お父さん達は楽しい元日を送っているか」とも書かれているので、やはり父のことがずいぶん心にかかっていたのだろう。
この日記を読むと、一人で正月を過ごしている父を思って心苦しくなる。

札幌は上天気、と書かれているが、父によると今年の元日も(5年前と同じく)気持ちの良い快晴で、神社まで歩いて初詣に行った、と言うことだった。
母が生きていれば一緒に歩いて行った事だろうが。

大阪の元日の空もきれいな冬晴れだった。




誕生日

2007-11-21 01:22:05 | 母の記憶
今日11月21日は母の誕生日である。
生きていれば73歳になっていたはずだ。

今年は猛暑が続き、秋の訪れを感じる間もなく冬になってしまった感がある。
関西ならば11月ではまだ「秋」と言ってよい季節だが、一昨日の木枯らしが秋を吹き払ってしまったようだ。この寒さは冬の寒さである。

73年前の北海道、夕張の11月21日はどうだったのだろう?
おそらく今よりも気温は低かったに違いない。
雪が降っていただろうか?
5人目の子、2人目の娘を、祖母はどのような思いで見たのだろうか。
名前からしておそらく、日の出ころに生まれたのだろう母は、どのような赤ん坊だったのか。

今晩はそんなことを思わせる寒い夜である。

地球温暖化の影響か、北海道の初雪もどんどん遅くなっているようだ。

10年ほど前の10月初めに帰省したことがあって、雪が降ったのを覚えているのだが、最近では、初雪は11月だということである。
そのうちに12月にならなければ雪が降らない、という暖かさになるのだろうか。

写真は真夏に撮られたものだろう。
アマチュア写真家の撮影会があって、モデルを頼まれたときのものだということだ。おそらく母の20代初めくらいの写真である。
このときのものは何枚もあるが、私が気に入っている写真である。
水辺に翻るスカートが涼しげで...しかし今日のような日の日記には不向きな写真かもしれない。


2007-10-25 20:34:21 | 母の記憶
本当に久しぶりの更新になってしまった

8,9月は忙しい
休日も減るので、ゆっくりと記事を書く気分の余裕もなく、2ヶ月も放っておいてしまっているうちに、秋も深まってきた
前の記事は「夏祭り」だったのだからちょっと唐突かも




もう6、7年ほど前の事になるが、母、母の妹ふたり、それぞれの娘ひとりずつ、というメンバー6人で京都を旅したことがある

二日間で有名どころを回るものだった
折しも11月の紅葉時期の連休、京都は観光客で埋まっていたが、それはそれでにぎやかで悪くはなかった

清水寺、八坂神社を巡り、海老芋と棒だらの煮物で有名な「いもぼう」でお昼、夜はライトアップされた知恩院、紅葉で知られた永観堂で甘酒を飲んだのも懐かしい。11月末の京都は寒いのだ

翌日は嵐山、嵯峨野、そして保津川下り、夜は河原町でカラオケ、と盛り沢山のメニューだった




母達が何よりうれしかったのが、娘達が一緒だったことらしい。
私からするとつまり従妹たちだが、二人とも独身で一人は札幌、もう一人は東京で働いており、そうそう会えるものでもない。皆30過ぎで忙しい身なのである
「私達だけで来てもこんなに楽しくなかったよね」と母や叔母達が話しているのを聞いて、ちょっとした親孝行ができたのかとうれしくもあった


母が亡くなってからは、色々と面倒なこともあって叔母達と付き合うことはなくなった。
あんなに楽しかった親戚旅行(?)はもうあれが最後になってしまった。
だからこそ懐かしい思い出として残っていくのだろうけれど。



写真を見ていくと、母と私の二人で撮って貰ったものがたくさんある。
大人になると母と二人で、という写真は少なくなるものだろうから、良い記念になっている。





母の入院記録3

2007-07-22 01:30:11 | 母の記憶
母が札幌厚生病院で治療を受けていた頃、メモ帳につけていた日記もこれで3度目のアップになる。

1月17日、この日に病院で撮影された写真も数枚アルバムにある。
実名なので名前は消しているが、札幌に住む私の親友が母を訪れてくれたときのものである。

随分とおしゃべりをして、楽しい日だったらしい。

親友が話相手をしてくれている間に、偶然叔母、いとこ達がそろって見舞いにやって来たのである。めったに会えない本州に住む叔母もいっしょだったので、まさか、と嬉しい驚きだったらしい。
親友が何枚か、母だけのもの、叔母達と一緒のところ、など写真を撮ってくれた。
うれしそうに笑っていて、このままよいほうに向かうのでは?と思ったくらい元気そうに見える。

結局そうはならなかったけれど。

大阪に住んで仕事を持ち、なかなか帰省できない私に代わって楽しい日を母に過ごさせてくれた親友に感謝の気持ちでいっぱいである。

この日のことは、母自身、父、叔母達、親友、それぞれから話を聞き、写真も残っており、現実味があって、私にとってとても「立体的」な日記である。

五月の記憶

2007-05-29 01:40:54 | 母の記憶
そろそろつつじも終わり。

毎日の出勤途中、駅までの道には、つつじの生垣が続くところがある。
そこを5月に通るたび、母が北海道から大阪の私の住む街まで訪ねてきた時の事を思う。

GWから一週間ほど経った頃、母が着いた日は結構な雨だった。
つつじも濡れてしぼんでしまい、あまりよい風情ではなかった。
幸い翌日、翌々日とよい天気になり、あまり無理をさせぬ程度に(この頃はすでに健康体とは言えなく、何度か入院していた)出かけることが出来た。

その中でも母が喜んだのが宝塚観劇だった。
北海道ではなかなか観る事ができないし、一度本場で、と思っていたそうだ。
5月のさわやかな、少し暑いくらいのよいお天気の日、宝塚まで電車で行き、二人で「花のみち」を大劇場まで歩いた。

「こんなところを歩いてるなんて、夢みたいだよ」
そう言った母の一言が今でも耳に残っている。

「こんなところ」といっても、ココは兵庫県宝塚市であって、別にアラスカの雪原とか、ゴビ砂漠とかを歩いているわけじゃないんだけど…。

とは思いながらも、「これ位のことでこんなに喜んでくれるんだなぁ…」とびっくりしたのは事実である。
商店をやっていて、やめるまで北海道から出ることもなかった母のことである。
遠く離れた宝塚で、娘と連れ立ってのんびり歩いているのは不思議で「夢みたい」な事だったのだろう。

その日の星組「プラハの春」では、トップスターさんが北海道出身、と言うことに喜び、春なので初舞台生のラインダンスもあり、「これがやっぱり見たいよね」とオペラグラスで熱心に観劇していたものだ。

写真は大劇場、2Fへ上がる正面階段の前で撮ったものである。
やはり顔色はあまり良くはないが、こうして観劇を楽しんでいた人が、それから1年もせずに亡くなってしまったのが不思議なような気がする。
華やかな背景のせいだろうか。



母の入院記録2

2007-05-27 14:36:40 | 母の記憶
母はこの日記をいつ書いたのか?

平成14年12月31日と書かれているが、内容には「平成15年になった」とある。紅白が終わって日付が変わってから、眼が覚めてすぐ書いたものであろうか。
まだ初日が昇っていないうちに書いたので、1月1日と書かなかったのか。
この次のページに元旦の記録が書かれている事を見ても、暗いうちなら31日、と考えたというのはありそうだ。

おそらく投薬のせいだろう、一晩に何度もトイレに行って疲れて、ということだが、病人にはトイレ行きも重労働である。31日はぼーっとして過ごしただろう。


母はC型肝炎治療のため、ちょうど年末年始をはさんで札幌に入院していた。
正月の為に料理をしておくこともなく、年越しの準備を整えることもせずに病院で暮れを迎え、いつの間にか新しい年を迎えていた、という驚きが感じられる一節である。
主婦であった母には不思議な感覚であったかも知れない。
ひとりで病院で年越し、と言うことへの寂しさより、「いつの間に!?」とびっくりしている様子の方が強く感じられる。

夜中に目覚めて、ベッド脇のスタンドを点け、老眼鏡をかけてペンを執る母の様子が目に浮かぶようである。

ジャケット

2007-05-04 17:31:27 | 母の記憶
仕事柄ジャケットは必需品である。

黒が好きなので、どうしても黒・グレー系の物を選んでしまうが、営業上あまり暗い色の服は着ないよう言われている。
特にHP用の写真を撮る時は「明るい色のを!」というお達しがくる。
実際、5月、大阪が一番過ごしやすいさわやかな季節になってみると、グレーのジャケットでも重い気が、確かにする。
よってベルメゾンで(安上がり…)白のジャケットをオーダー


その直後、マイピクチャの整理をしていて気づいた。
若い頃の母が着ていたこのジャケット、今よくあるデザインである。コンパクトでウエストが絞られていて
これはおそらく50年位前の写真である。他の写真も見てみると、ふわっと広がった膝丈のスカートも今よく見かけるのと同じような形。
流行は繰り返すというけれど、まさにそれであろう。

ただ違うのは、母は自分で服を縫っていた、という点。
母の世代には昔洋裁学校に通っていて、縫い物が出来る人が多い。私も随分色々な服を母に作ってもらったものだ
このジャケットも、おそらく母が自分で縫ったに違いない。

母は8人きょうだいの一人である。
裕福でもなく、大学に行けた訳もない。高等教育の代わりに洋裁学校、というのがその頃は普通だったようだ。
母に言わせると、「行ける家だったとしても勉強は嫌いだったし」と笑っていたが。
それでも、私が大学時代テキストを広げていたとき、「いいね、あんたはそんなのが読めて…」と言っていたことがあった。
私が「?」と言う顔をしていると、
「お母さんだって、生まれ変わったら英語をすらすら読めるようになるんだからね!」と言って部屋を出て行った。

なぜかとても良く覚えている出来事である。
私は大学に行かせてもらい、こうして英語も勉強しているけれど、母の若い頃には望むべくもなかった事なんだ、という申し訳なさを感じたから、だろうが、その頃は「そんなん言われても…」(←あっ何となく関西弁??)というのが本音だったかもしれない。

その時の母は今の私より、3歳ばかり上だったはず。
自分も昔の母に近い年になってみて、母がどんな風な感じ方をしていたのか、ということが実感としてわかる事もある。
40も半ばになってみると、体力も気力も落ちてきて色々と「出来ないことが増えてくるんだな」とどこか寂しく感じる。
母もそんな風に感じていたのではないだろうか。

この写真は、私の大学時代と同じ位の年齢のはず、その頃には、母も20年後に自分がどんな事を思うか、などとは想像さえしなかっただろう。
新しいジャケットを縫って、ぴったり体に合った出来栄えに満足し、スカートやパンツとのコーディネートを考え…というところだったに違いない。
きれいな明るい笑顔で、私の好きな写真の一つである。

生まれ変わってきていたとしたら4歳、どこかの「英会話の○ー○○」でキッズクラスにいるかもしれない


母の入院記録

2007-04-01 02:22:41 | 母の記憶
母が亡くなった後、母の字で書かれた、二つのメモ帳が私の手に残された。

そのうちの一つは、カーディーラーあたりのものらしく、一枚一枚めくっていく、よく会社で出入りの業者から貰って使うようなメモである。
日記ならもう少し気の効いたものに書けばよさそうなものだが…。
「めんどくさいから」とあっさり言う母の姿が目に見えるようである。

ここには、肝臓の病気に進んだ治療をする、という事で札幌厚生病院にしばらく入院した時の母の毎日の様子が書かれている。
私には貴重な記録だ。
「手が震える」と言っていたので、せいぜい2,3行程度の日記だが。

写真のページには「厚生病院に入院(14年12月16日)、厚生病院を退院(15年2月4日)、51日間」とある。入院時と退院時に書いたものか、両方退院時に書いたものかはわからないが、メモの一番上のページに書いてある記録だ。

他のページには、検査のこと、食事、父の事などが簡単に書かれている。特に多いのは見舞いに来てくれた人たちのことだ。
退屈な入院生活では、やはり人と会って話すことが嬉しかったのだろう。

このメモも折々に載せていこうと思う。