たのしい夢日記

京都奈良寺社巡り・思い出・読んだ本…日々のあれこれを写真と共に。

鉄鼠の檻

2011-12-30 21:48:25 | 読んだ本について
アラームに起こされることなく、好きな時間まで寝られたのは久しぶり。最近は休みの日でも早く起きる用事があったりして、思う存分寝る、というのはしばらくしていなかった。
私が「自然に目覚めてすっきり起きる」時間は9時間のようだ。大体今日もその位。

師走であるから、特になんだか12月は昨日まで、ばたばたと忙しかった。今日こそはのんびりして疲れを取るぞ!と思っていたのだ。
本来なら「大掃除」に時間を費やすべきだろうが、それは今月、今までの間ですこうしずつやってきてたので、大掃除!までやらんでも、と実は思っている。

と言う訳で、同居人は仕事に出て行ったのであとはゆっくり寝て、起きて食事をして、少しFacebookして、そのあとは京極夏彦の「鉄鼠の檻」の続きを読んだ。

とは言っても、これを読んだのは何回目??

読書のタイプはいろいろあるだろう。
一回読んだらもう読まず、ブックオフに売っちゃう、という人も多いだろうが、私は同じ本を何度も読むタイプなので、よほど「これはつまらんかった」と言うのでもなければずっと本棚にある事が多い。同居人もこのタイプで、私と同様、好みの作家のものをずっと買って何度も読んでいる。なのでウチの本棚は同じ人の名前がずらっと並んでいるコーナーがそこここにある。

京極夏彦は職場の人が「はまった」というので買ってみて気に入った作家だ。
この人は北海道の倶知安町出身、年齢も私と「タメ」というのも親近感が沸く。

推理物?ではあるけれど何度も読める。何度も同じものを読みたい私にとってみると、「犯人がわかってるからもう読めない」というのはあまり良い推理小説ではない。犯人がわかるまでの経緯が面白いとか、背景が良く描かれているとか、人間の書き方に興味が惹かれる、というのがあれば犯人がわかっていても何度でも読めるものだ。
松本清張とか、宮部みゆきなども「読める」推理小説系。

京極夏彦は、よくここまで調べて勉強したなあ、とあきれるくらい、背景に使われる「何か」に詳しく、そのあたりを犯罪と結び付けていく書き方が面白い。
「何か」はこの人の得意技「妖怪」の話は必ずだが、その他心理学、儒学、伝説、歴史、宗教などに話が及ぶが、主人公の一人、古書肆京極堂のそれらに関する説明や、聞き手とのやり取りが絶妙。謎解きにはここまで詳しく知る必要も実はないのだが、面白くてついつい読んでしまう。
実際解けてみると、「えっ実はこれが動機??」というのもあるのだけれど、それまでが面白いので許せるというのか。

この「鉄鼠の檻」は読んだ中で私の一番のお気に入り。箱根の山奥にある禅寺で、僧侶がつぎつぎと殺される、というストーリーだが、その中で出てくる、僧侶と京極堂、メインの人々が交わす、禅についての話が良い。いわゆる「禅問答」も効果的に使われていて興味深い。

「禅とは何か」と言われると「???」説明が難しいだろう。そもそも「これ!」と言葉では説明できないものらしい。宗教のひとつを表すこともあるし…と言う具合だ。
私はそもそも、「座禅」は英語でmeditationと訳されるが、実はmeditationとは全然違うものだという事も知らなかった。

座禅とはただ座るのみ、という言葉があった。呼吸を整え心身を安定させて、「座る」ことらしい。外界から自分を遮断し集中力を高める、というのがmeditationの目的の一つだそうだが、それとはまったく違う、と禅僧が答えるのだ。
目的などない、ただ、神経は研ぎ澄まされているため、聞こえぬはずのものが聞こえ、見えぬはずのものが見え、仏の姿が見えてくるような気がすることがある、しかしそれは「魔境」であって、受け流すべきもの、つまりはただの「気のせい」にしなければいけない、とか。

中でも面白いと感じたのは、修行は何かを…たとえば「悟り」を「目的」にしてするものではない、という話があちこちで出てくることだ。掃除、料理、などの作務もただ、それをするためにする(?)のが修行だ、というのが小説の中に出てくる僧侶のいう事なのだが、調べてみた臨済宗のHPでも、「目的はあるといえばあるし、ないといえばない」とまさに「禅問答」的な説明が書いてあった。

面白い事に、全く同じことが、これも私のお好みの曽野綾子が書く小説に出てくる、カトリックの修道女の作務の話でも言われるのだ。
そのカトリックの修道院では、数か月ごとに作務が交代になる。でないと仕事に「愛着」が沸いてしまい、楽しみになってしまうからだ、というのだ。私にはとても印象に残る場面だった。

現実には毎日が「目的意識」というのが生活の人が多いのではないだろうか。
私にしても、仕事上では生徒さんの英語力を上げる、売り上げを上げる、他の先生たちにやる気を出してもらう、などとたくさんの目的がある。
それが目的で仕事をしているわけではない部分もある。なぜなら、英語を教え、売り上げを上げるためあれこれ工夫を凝らし、先生たちとコミュニケーションをとるのは、私にとって「楽しい」ことでもあるからだ。
目的があるか、楽しいからか、それがなければ仕事をするのは難しいことだろう。だから「少しずつ小さな目標をもって、遠くにある目的を目指そう」という指導を私もされ、生徒さんにもしている。
また、「楽しいと続く」というのも事実だ。仕事にしても英会話にしても。だから楽しく学習して頂けるよう努力してもいるのだ。

楽しんでも修行ではなく、目標を持つのも修行ではない、という、ただ修行のために修行が出来ている禅僧、というのは本当にいるのだろうか。
私にはとても出来ない、と思う。出来ている、と思った瞬間がまた、「魔境」になるともいえるのだろうが。
小説は昭和20年代、私が生まれるより大体10年ほど前が舞台だが、今ではどうなのだろう、などと考えてしまう。
それこそHPはあるし、禅体験などもやってるお寺もあるのだし、状況はずいぶんと違うのだろうが、禅の心自体はは変わらないだろうし…。
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入院記録8

2011-12-20 02:10:17 | 母の記憶


平成14年末、ちょうど9年前。

母の入院記録もしばらくアップしていなかったが、これは年末から2月にかけて書かれたものなので、この時期になるとやはり、読み返すことが多い。

以前に、この記録にはよく食べ物の話が書いてある、と記したことがあるが、お風呂、シャワーのことも良く書かれている。入院患者にはお風呂は相当な重労働だからだろう。この時期の母はずいぶん体調がよくなっていた頃なので、よくシャワーを使っていたようだ。髪を洗ってすっきり、というのも気持ちがよくわかる。
昔、小さい子供の頃は毎日髪を洗うという習慣がなかったのだが、今考えてみるとよく気持ち悪くなかったな、と思うものだ。風邪で入浴できないだけで相当気分に影響するものだけれど、入院していたら尚更だったろう。家のお風呂にゆっくり入りたい、とも思っただろう。

この前年位に、実家では風呂をリフォームし、きれいなユニットバスにしたのだが、その時に、まだ幾分元気だった母が、わざわざ湯加減見なくても良い自動のお風呂を喜んで、「『お風呂が沸きました』って喋るんだよ、お湯が一杯になったら」と面白がって電話で話していたものだ。

しかしその後、「ま、何年入れるかわからないけどね…」とつぶやいていたのを今でもよく覚えている。実際のところ1年位しか入れなかったはず、それををどこかで悟っていたのか。
単に年だから、と言うほどの年でもなかったから(享年68歳だった)。

叔母が苺を買って持ってきてくれたようだが、美味しく食べられたのかどうか、そこは珍しく書いていない。






父方の叔母、いとこたちが見舞いに来てくれたことを書いている。(本を買って)とある。母は読書好きでよく本を読んでいて、私も少なからず影響力を受けた。

特に受けた、と思えるのが「ご飯食べながら読む」という習慣。行儀の悪い話だが、麺類など、汁が飛ぶのを防ぐため、何か丼の下に台を(他の本とか)置いて高くして(つまり口と丼の距離を短くしたのだ)食べたりしていたので、以前は私も真似していて叔母に笑われたことがあった。
今でも、食べている時何か読んでいないと落ち着かない。テレビは見ないし…。学校のデスクでランチ、の時も、テキストを読んでみたり、なにか文字が欲しくなる。
同居人もそうだ。夜遅く帰って一人で食べるときなど、必ず新聞や本を読みながら食べる。

病院でこのとき、いとこに買ってきてもらって読んでいたのはなんだったのか、ここには書かれていないのが残念だ。もしわかれば私もそれを読んでみたいものだが…。



上は母が本を読むときにいつも使っていた老眼鏡である。母が亡くなった後、父が「持って行きなさい」とくれたものだ。「結構したんだよ、これ」と言っていたが、数万したものらしい。ケースとともに懐かしい品だが、私にはまだ度数が強すぎる。

下のが私の「リーディンググラス」だ。最近は「老眼鏡」ではなくシニアグラスとか、リーディンググラスと書いてあったりするが、結局老眼鏡だ!
私は近眼で老眼なので、調節が難しい。
遠近両用でもこの視力ならあまりうまいこといきませんよ、と眼鏡屋さん。なので普通の眼鏡は近眼用を持っている。

近眼用の眼鏡をかけたりコンタクト入れていると近くの字が読めない。逆に入れてないと遠くが見えない。
ある生徒さんから、「先生、コンタクト入れて老眼鏡かけたら?」と言われ、「おお、それ新しいね!」と試してみることにした。つまり普段は基本遠くが見える状態にして、なにか読むときだけ老眼鏡をかけるわけだ。(近くが見えない状態で遠くを見るときだけ眼鏡をかけても同じだろうけれど…)

さて、このリーディンググラスは、1800円也。言ってみれば虫眼鏡なんだろうから、そんなに高くはないはず…母の老眼鏡はなんでそんなに高かったのだろう。余程いいフレームやレンズを使ったものだろうか。
私ももう少し年がいったら、この高級老眼鏡を試してみよう。



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奈良長谷寺・秋色

2011-12-02 02:00:58 | 現実
日曜日、少し早めに起きて長谷寺へ紅葉狩に行くことに。

今年の2月、雪の降った日から長谷寺参りもこれで5回目。
雪、桜、牡丹、紫陽花。どの背景でも目を楽しませてくれたお寺だが、紅葉もおそらく見事だろう。

これまでは一人でカメラを抱え、電車を乗り継いではるばると2時間かけて訪れていたが、今回は同居人の車でドライブがてら、ずいぶん楽なものである。

家の中ではずいぶん冷え込んだ気がしたのだが、外に出てみると意外に暖かい。
奈良は気温が低いから、と着込んでいったのだが、着いてみてもそれほど寒くはない。

さすがにもみじ祭りの最中、車も混んでいる。遠めのところに車を停めて、歩いていく。同居人は途中の出店が見たいのだ。山菜や豆、三輪素麺などが並べられている。
帰りに大和芋やしいたけを買って帰ることにする。晩御飯に使うのだ。

途中のおうちの前に豆や柿が干してあるのも良い風情。




途中で見上げると山の上に近鉄電車が見える。

「あんな高いとこ走ってるのか!?」
「そうだよ、行きはいいけど、帰りはぜいぜい言いながら階段登るよ」

その上長谷寺自体、登廊を登るのだ。つまり、山の上の駅からひたすら降りて、降りて寺に着いたと思ったら400段階段を登って、山道を降りて、駅まで急坂をまた登る、というアップダウンの激しいお参りなのだ。
源氏物語の「玉鬘」で、長谷寺参りの行きで、姫様の足がもう痛んで、という場面があるが、わかる気がする。京都から歩いてきた、と言う設定なのだ。

ドライブで来てスニーカーを履いている私たちは軽快に登廊をあがる。



本堂舞台からは予想通り、見渡す限りの紅葉の山々。
今年は紅葉はあまりよくはないが、遠目には素晴らしい。

もみじ祭りに訪れた人々もにぎやかだが、本堂の中もにぎやかである。個人の法要をしているらしくお経と太鼓の音が響き渡っている。太鼓係のお坊さんはあとで、自分で腕をマッサージしていた。それくらいノリノリのリズムだったのだ。

「やっぱりお経も迫力あってうまいなあ」などと同居人は感心している。それは総本山なんだから…。

紅葉に赤の五重塔はやはり、映える。




登廊や本堂のあたりはたくさん人がいるが、山道のほうまで行く人は案外少ない、というか道を知らないのかもしれないが、こちらは静か。本当に、散歩にはもってこいの場所である。整備されているので歩きにくいこともない。
向かい側の山の写真を撮り、竹林を眺め、杉林のそばを抜けて降りていく。

途中で天皇皇后両陛下御手植の松を見つける。なんと去年。まだぴかぴかの碑が建っている。



このお寺には、「御手植の松」が結構多いのである。

ぐるりと回って降りてくるともう、門の外に出ている。休憩用のベンチの傍に、白っぽい花の咲く細い木を見つけた。



「これって、桜だよね?」
「いったん寒くなって、また暖かくなったから、間違ったんじゃないか?これ若い木だからまだ慣れてないんだろ」

…慣れてないって…春になったらもう一回咲くのかな?
紅葉狩で桜も見ようとは。




デジブック 『奈良長谷寺・秋色』
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