江戸後期の錦絵などに「山鯨」と書かれた店の看板を目にする
山に鯨がいるわけもないのに、これはいったい何を意味する看板なのか
もちろん鯨の肉などではなく、肉は肉でも猪(いのしし)の肉
つまり、看板は「猪レストラン」ってーわけだ
こんなややこしい看板を出すには事情があった。江戸時代はまだ、獣肉を食べることを
良しとしない風潮が強く、表だって肉を食べることは一般に避けられていたからである
鯨も獣と同じ哺乳類じゃねーか!!言いたくなるが、当時の人々は海にいる鯨は魚!
そう認識、魚ならOK!!というわけで堂々と看板を掲げて営業していた!!
もちろん、別に客を騙していたわけでもなく、これは周知の事実。江戸っ子の洒落っ気
宗教上の理由から特定の肉を間違っても食べない!という国が世界に存在するなかで、
このように、日本は「建前と本音」とを使い分けてきた食文化が存在してきたわけで、
肉食という文化が存在しなかった時代、洒落とはいえ、かなりの柔軟性があった
酒もそうだ
仏教徒が守るべき日常生活における規則に「五戒」というものがある
五戒とは、不殺生戒・不偸盗戒・不邪淫戒・不妄語戒・不飲酒戒の五つをいう
特に禅系の寺院の門前には、「不許葷酒入山門」
つまり、酒を飲むことが激しく戒められていた
ところが、百薬の長・・・酒は「薬」として身体のために少しぐらい飲むのならよかろう!
ということで、酒として飲むのではない、という意識から、「智恵の湧き出るお湯」、即ち、
そういう意味を持つ「般若湯」という名がつけられ、いまでも高野山の宿坊などでは、
酒を「般若湯」といい、精進料理をいただきながら酒を呑むことができる
さて、猪肉を「山くじら」「ぼたん」、鹿肉を「もみじ」、馬肉を「さくら」と呼んでいる
「ぼたん」はお皿に盛った肉の形が牡丹(ぼたん)の花に似ているから。「さくら」は、
馬肉の色が桜の色に似ているから
で、「もみじ」というと、『奥山にもみじ踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき』
この和歌から鹿肉を「もみじ」と称したという。こうした言い換えは、近世までの日本の
食文化が肉食忌避文化であったからに他ならない
我が国に、仏教が伝来して以降、殺生の戒めの影響が大きかったのではないだろうか
天武天皇の時代には、肉食禁止の禁令も出されているし、江戸時代の「生類憐みの令」は
特殊なケースにしても、綱吉は猪肉や鹿肉など、食べることも販売することも禁じている
それでも、農耕民族とはいえ、有史以来日本人は狩猟をしてさまざまな獣肉を食べてきた
ただ、どの時代を振り返っても牛や馬などの家畜を食べる習慣はなかった
よほど、飢饉でもあれば別だが、農耕や合戦に支障をきたすという現実的な理由からである
実は、徳川将軍は牛肉を食べていた。それは食用ではなく“養生用”としてである
彦根藩(井伊家)は、将軍家に養生用として牛肉を献上していた記録がある
つまり、牛肉は薬なのである。牛肉を食べたことにはならないという都合の良さ!!
さぞかしおいしい薬だったことだろう。この牛肉がこんにちの「近江牛」のルーツである
わが国で、牛肉を食べるようになったのは、つい最近、西洋文化が押し寄せた明治以降だ
その理由は、「外国ではみんな食べている」という噂話が広まったからだ
ただし、多少の「後ろめたさ」があったようで、家で食べる時には神棚を布で覆ったとか
しかし、明治天皇が明治5年に牛鍋を食べたことから、庶民も大手を振って!!
牛肉を食べられるようになって広まったそうだ
現在、「牛鍋」『すき焼き』を普通に食べられるようになったのは明治天皇のおかげである