濱の与太郎

祭り!ベイスターズ!なにより、ヨコハマが大好きだぁ~

目には青葉・・

2012年05月01日 | ひとりごと・・

芭蕉とも親交があった江戸中期の俳人「山口素堂」の有名な一句
「目には青葉山ほととぎす初鰹」

目には青葉が、そして、耳には山ほととぎすの鳴き声が聞こえてくる
やっと清清しい5月がやってきた!
あとは「初鰹」を口にすることが出来たらなア~~

江戸時代、初鰹は高嶺の花であったそうだ
そのため、素堂は、初鰹を食べることの願望を強く込めて、この句を
詠んだと云われている

さて、先週末、オイラは業界の研修会で熱海へ出かけてきた
一泊二日、超セレブな温泉ホテルに宿泊、各部屋には露天風呂を完備!
さらに、料理も特別注文らしく、これまた贅を尽くした旬の逸品ばかり
真面目にサラリーマンをしていると、たまにはいいこともあるもんだっ!!

特に、初めて食べた「足柄牛」のステーキは最高に美味かった!!
しかし、夜の宴会で2枚、翌日も朝から2枚・・・
2日間で4枚!1枚が150gとして、約600gの足柄牛がオイラの体内に・・

神奈川県を代表するブランド牛「足柄牛」は、きめ細かい肉質で、さらに、
しっとりとした食感!仔牛から出荷されるまでの期間の殆どを同じ牧場で育てられ、
その為、ストレスなく育つ事により性格は極めて温厚、それゆえ、肉質が良く、
霜降りがバッチリと入った牛が多く育つという

特に、生後13カ月までの成長期の牛に必要な栄養素はビタミンAや
ベータカロチンだそうで、そこで天然の食品から摂取しようと、この足柄牛は、
育成前期に地域の特産品である「足柄茶」の粉末を与え、必要な栄養の摂取と
カテキン効果により健康的な牛を育てている・・・という仲居さんの講釈

しかし、連続してこれだけ食べてしまうと味も判らなくなるわけで、
できれば1枚はしかたないとして、残りの3枚は「冷凍」にしてもらって
持ち帰りたかった・・・なア~~

そういえば、つい先日、これと同じようなことがあった
昼に、みなと横濱牛鍋処「荒井屋」でコース料理をご馳走になり、その日の夜、
業界の会合があり、直前に場所が変更になり、新たな会場が「荒井屋」だった・・

結局、年に1~2回しか行けない「荒井屋」に、1日2回も行ってしまった・・
という、なんとも贅沢な話

そんなわけで、痩せたくても、痩せる暇がない!オイラである
そこで一句、「目には青葉二日続けて足柄牛」

中華街の名店

2012年05月01日 | ひとりごと・・

今日の横浜は雨降ったかと思えば、日が射したり、気温はそれほど高くないが、
少し身体を動かすと、ジトーっと、汗が滴り落ちるくらい湿度を感じる
これから嫌な季節がやってくるねーっ!早くクールビズになんねーかな!?

さて、連休の谷間とはいえ、今日も中華街にはかなりの人で溢れかえっていた
このGW中、横浜・中華街を訪れたのはいいが、あまりにも店が多すぎ、
「どの店に入ろうか?」と、ウロウロしている連中も少なくない、なぜなら、
約0.2平方キロのエリア内に500店以上の店舗があるわけで・・・

知人から、「中華街に行くけど、どの店がお奨め?」
そう聞かれれば必ず紹介する店がある!昭和を感じながら絶品の中華を食す
店の名前は「中華飯店」、そう、中華街の「中華飯店」シンプルこの上ない!!
紹介した誰もがその美味さに感動!必ずリピーターになる!!

オイラが週2で通う、中華飯店の主人は2代目
先代は知る人ぞ知る、正田家(皇后様のご実家)お抱えの料理人だった!
その味を2代目がしっかりと受け継いでいる

さて、中華料理の基本といえば「炒飯」以外のなにものでもないっ!!
炒飯の美味い店こそ“本物の中華屋”だと確信している

約30年、本物の「炒飯」を求め、中華街のほぼ8割の店は制覇したと思う
そしてオイラが理想とする本物と巡り会ったのが「中華飯店!!」

ちなみに、中華飯店の名物といえば「モツ」
メニューの「モツ丼」、「モツそば」は常連客の定番だけど、今回、お店の協力を得て、
「GW限定メニュー(裏メニュー)」を共同開発した~っ!!

その裏メニューは、モツ焼きそば(黒胡椒・塩味)と半炒飯のセット(スープ付)
注文するときは、「モツヤキと半チャン!」とさえ言えばいい
お店のおばちゃんが「通ですね・・・」という顔をしてくれればOK!!

中華飯店は加賀町警察の裏
中華街で最も「横浜スタジアム」に近い位置にある
今日の昼も迷わず「モツヤキと半チャン」を食べてきた・・・満足!!

東京の下町

2012年05月01日 | 浅草(三社祭)

「下町探訪」「下町グルメ」「スカイツリーと下町」・・・
書店にいくとこの類の書籍が山積みされいる

この意味での下町は、東京では、山の手(武蔵野台地東端部分)の周辺をなす崖線より
下側の地域がこれにあたる

東京では、歴史的に江戸時代の御府内(江戸の市域)で、高台の武家地域を「山の手」、
そして、低地にある商工業が盛んな町人の暮らす町を「下町」と呼んだ。東京における
下町の代表的な地域は、日本橋、京橋、神田、下谷、浅草、深川、本所等である

今年5月、東京の下町では2大イベント!が予定されており、多くの観光客で賑わう!
ひとつは「三社祭斎行700年」、そして、もうひとつは「スカイツリーの開業」

「We are the Tokyo Navigator」
「行ってみないと分からない。行ったつもりになるのが一番もったいない。」
東京メトロから1円も貰ってないけど、応援しちゃうぞっ!!

三社祭の起源

2012年05月01日 | 浅草(三社祭)

推古天皇の三十六年三月十八日のこと
浅草の漁師、桧前浜成・竹成兄弟が隅田川で漁労に精を出していた
その日に限り一匹の漁もなく網にかかるのはただ人型の像だけだった

幾たびか像を水中に投げ捨て、何度場所を変えて網を打ってもかかるのは
不思議と人型の像だけなので、最後には兄弟も不思議に思い、その尊像を
捧持して今の駒形から上陸し、槐(えんじゅ)の切り株に安置した

そして、当時、郷土の文化人であった土師真中知にこの日の出来事を語り、
一見を請うたところ、土師氏は、これぞ聖観世音菩薩の尊像にして自らも帰依の
念心仏体であることを兄弟に告げ、諄々と功徳、おはたらきにつき説明した

兄弟は初めて聞く観音の現世利益仏であることを知り、何となく信心をもよおした
二人の兄弟は、深く観音を念じ名号を唱え、「我らは漁師なれば、漁労なくしては
その日の生活にも困る者ゆえ、明日はよろしく大漁を得させしめ給え」と厚く、
厚く、祈念したそうな・・・

すると、翌十九日に再び網を浦々に打てば、願いのごとく大漁を得ることができた!
土師真中知は間もなく剃髪して僧となり、自宅を改めて寺となし、さきの観音像を
奉安して供養護持のかたわら郷民の教化に生涯を捧げたという

いわゆるこれが浅草寺の起源なり・・
土師真中知の没した後、間もなくその嫡子が観世音の夢告を受け、三社権現と称し
上記三人を神として祀ったのが三社権現社(浅草神社)の起源とされている

これによると創建は今を去る千三百五十年程の昔ということになるが、これは少々
無理のようで、平安の末期から鎌倉にかけて権現思想が流行しだした以後、三氏の
末裔が崇祖のあまり浅草発展の功労に寄与した郷土神として祀ったものであろうと
推定される

今もなお、「三社さま」として親しまれている浅草神社は、元来、三人の神様を
お祀りしたことに起源し、三人の神様の御神霊をそれぞれ神輿にお移しし、
町中を渡御するのが「三社祭」なのである