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ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

『北の国から』 あのシーン ③

2016-12-02 22:04:59 | 北の大地
 東京の知人たちが、夏休みを利用して、
わざわざ伊達に足を運んでくれた。

 車で小1時間もかからない市内観光だが、
色々な所で下車しシャッターを切り、
風景をカメラに納めていた。

 小高い農道から、なだらかな丘陵に広がる、
色とりどりの畑を見下ろし、
大きく息をはき、つぶやいた。

 「わざわざ富良野まで行かなくても、
ここは『北の国から』と同じ。」

 私もそう思っていた。嬉しかった。
その言葉を、宝にしている。

 さて、前々回、前回に引き続き、
ドラマ『北の国から』の、生き続けている場面を綴る。


  ⑥ 大人の壁を越え

 1992年5月22日・23日、
2夜連続で放映されたのが、『‘92巣立ち』だ。
 純は、東京のガソリンスタンドで働き、
蛍は旭川の看護学校にと、
2人とも富良野を離れていた。 

 この『‘92巣立ち』のいくつもの場面に、
私は、よく立ち止まった。
 何度も、心動かされ、熱いものがあった。
私の中では、名作なのである。

 ▼ 蛍は、帯広の大学にいる
恋人・勇史に会いには行くものの、
富良野には帰らなかった。

 蛍は言う。
「お兄ちゃん、私たちは勝手よね。
あんなに独占したがっていた父さんの愛情を、
今度は、私たちがよそに、
その愛情を向けようとしている。」

 この言葉は、成長する子どもの当然の成り行きだが、
しかし、寂しさを痛感したのは私だけではないだろう。

 ▼ さて、純だが、大変な出来事が・・・。

 純は、ピザハウスで働く松田タマコと知り合いになる。
そして、2人は渋谷のラブホテルで、
大人の壁を越えた。

 しかし、れいちゃんのように、
タマコを愛している訳ではないと純は思う。

 「東京に出て、4年7か月。
不純なことが平気でできる様な、
汚れた人間になってしまった。」
 こんな純の感性が、私は好きだ。

 しかし、つまるところ、タマコは妊娠。
そして、中絶。

 その知らせを、タマコの叔父から受けた五郎が、
大きな鞄を抱えて、駆けつけた。

 早々、五郎は尋ねる。
「その娘と結婚する気があるか。」
 純は、黙っていた。

 「あやまっちゃお! 純、あやまっちゃおー!」
優しく語りかける五郎。
 そして、自分と同じようにやれと言い、
タマコの叔父の豆腐屋を訪ねる。

 五郎は、挨拶代わりにと、
鞄からカボチャを6個取り出し、並べる。
 部屋に上がると2人は、ずっと頭を下げ続けた。

 富良野は丁度、カボチャの収穫時期である。
取り急ぎ、鞄に入るだけつめてきたのだろう。
 それを差し出し、謝罪する五郎。
五郎の不器用さと真心が、心にしみ込んだ。
 切なさに、私まで包まれた。

 ▼ ところが、タマコの叔父は、
蛍が同じ状況になった時を、本気で考えるようにと言い、
「誠意とは、いったい何かね。」と、
五郎に問うのだ。

 カボチャを持ち帰るように言われた2人は、
しかたなく、いっぱいやることにする。

 五郎は、飲みながら、
草太の結婚式のこと、蛍や正吉のことを、
しきりに話した。

 純は気づいていた。
五郎は、純を叱らず、話をそらしていた。

 親として様々な思いが、五郎にはあったはずだ。
しかし、それよりも純を気遣う五郎。
 優しさと温かさに、純は泣いた。
私も涙した。

 ▼ 富良野に帰った五郎は、
タマコの叔父が口にした「誠意とは、いったい何かね。」
について考え続けた。
 そして、家を建てるために買った丸太を、
300万で売りたいと言い出した。

 「そんな大金を何に遣う?」と訊かれ、
「誠意だ。」と、答えた。

 11月末の東京、突然、純の前にタマコが現れる。
タマコは、純に封筒を差し出した。
 五郎が送った100万円が入っていた。
受け取れないから、五郎に返すようにと言う。

 その後、タマコはブランコに腰掛けながら、
あの名セリフを言って去る。

 「東京はもういい……私…卒業する!」

 この言葉は、何故か私に強く響いた。
あの頃、私は東京での充実した日々を過ごしていた。
 しかし、いつか私にも、
「東京はもういい…」と思えることがあるのでは…。
そんな思いが心を巡った。
 以来、何かにつけ、この言葉が独り歩きをした。

 ▼ 大晦日、純は約束通り、旭川空港に降り立った。
五郎が迎えた。
 2人で、喫茶店に入った。
純は、例の100万円の封筒を出した。
 ところが、五郎は言う。

 「これは…、おいらの…血の出るような金だー!
だけども、おまえにやったもんだ。
 返してほしいのはやまやまだ。
今にも手が出て、ひったくりそうだ!
 でも、おまえにやってしまった金だ!
やった以上、見栄っちゅうもんがある。」

 父親として、精一杯の正直なプライド。
それを真っすぐに通そうとする五郎。
 私は、脱帽するだけだった。
でも、そんな父親に私も近づきたいと、
密かに思っていた。

 
  ⑦ いつでも富良野に

 『‘95秘密』は、1995年9日10日に放映された。
五郎は、石で建てた家で一人暮らし。
 純は正吉と一緒に、富良野でアパート暮らしをしていた。
仕事は、ごみ収集車の作業員だ。

 このドラマで、私は純と蛍のそれぞれの苦悩と、
2人への五郎の、慈しみとも言える深い愛情に心を揺さぶられた。

 ▼ まずは、純である。

 れいちゃんとは、次第に疎遠になり、
純は、れいちゃんの花嫁姿を、
遠い道路脇からそっと見た。

 純は、新しい恋人シュウと出会う。
ところが、シュウには東京でAV出演の過去があった。
 とうとう、そのことを知ってしまった純は、苦しむ。

 そんな時、五郎は、アパートで手を洗う純に語る。
「お前の汚れは、石鹸で落ちる。
けど、石鹸で落ちない汚れってもんもある。
 人間、長くやってりゃあ、どうしたって、
そう言う汚れはついてくる。

 お前だってある。
父さんなんか、汚れだらけだ。
 そういう汚れは、どうしたらいいんだ。えっ……」

 誰にでもある後悔、人生の汚点。
人はそれを、どうにか許し合い、乗り越え、生きている。
それを、五郎らしく純に諭した。
 共感した。

 雪の舞う夕刻、純はその言葉に押されて、
シュウの待つ喫茶店に行く。
 シュウは、東京でのいきさつの全てを手紙に書いた。
それを、純の前で読み始めた。

 純に限ったことではないだろう。
五郎とシュウの、こんな心ある言動を前にして、
打ち解けない者など誰もいないと思う。

 純はシュウに向かって言う。
「今度の日曜日、山部山麓デパートに行かねぇか?」

 それでこそ純だ!

▼ 一方、札幌の病院に勤めていた蛍だが・・・。

 その病院の医師と許されない恋、そして駆け落ちする。
その2人が、落ち着いた先は、根室の落石だった。

 年が明けてからのこと、
五郎は、自宅を訪ねてきたその医師の奥さんから、
事実を知らされる。

 翌朝早く、五郎は純に、
落石まで一緒に行ってくれと頼む。

 落石に着くと、五郎を食堂に残し、純は蛍を見つける。
そして、少しお酒が入った五郎のところに案内する。

 五郎は訊いた。「今、幸せか。」
「幸せよ。」ポツリと蛍は答えた。
 少し戸惑った笑顔で、
「幸せ、そう、それが一番、なによりだぁー」
  蛍を責めたり、叱ったりしない五郎。

 持参した鮭を渡して別れた。
それから、五郎は蛍に叫んだ。
 「いつでも、富良野に帰ってくんだぞぉ!」

 たまらず、蛍は引き返して言う。
 「父さん、あたし一人のときはね、
ほんとは、毎日自分を責めてるの…、
 だけど、どうしようもないの!
…ごめんなさい。ごめんなさい!」

 傷つきながらも、想いを貫こうとする蛍の健気さ。
五郎でなくても、とがめたりなどできない。

 その後、五郎は、富良野までの8時間、
ずっと口を閉ざしたままだったと言う。
 五郎の切ない胸の内が伝わってきた。
少しでも、それを引き受けてやりたかった。

                  < 完 >


 

 だて歴史の杜公園の広場 まだ緑色! 
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『北の国から』 あのシーン ②

2016-11-24 17:23:01 | 北の大地
 6月、よく通る散歩道の脇で、
じゃが芋の白い花が咲いていた。
 足を止め、カメラを向けた。
花の形と色のきれいさに、一瞬息をのんだ。

 そして、同じ花が、『北の国から』のオープニングで、
さだまさしのあの曲と一緒に映し出されていたことに気づいた。

 北の大地の小さな美しさが、
私に澄んだ心を思い出させた。
 じゃが芋の花とドラマのワンカットからのメッセージだと思う。
いつまでも、心に留めておきたい。

 さて、前回の続きである。
ドラマ『北の国から』の、生き続けている場面を綴る。


 ④ 五郎の 一喝

 1984年9月27日に放映された『‘84夏』では、
この年の冬、純たちの住む丸太小屋が、
全焼するという大事件があった。

 その出火原因は、純と正吉にあった。

 五郎が出稼ぎから帰ってくる日のことだ。
純と正吉はスキーで遊びすぎ、
草太との約束の時間に遅れてしまった。
 2人は濡れた衣類をストーブの上に無造作に放り投げ、
バス停に走った。

 その夜、純は火事の火元がストーブらしいと聞いた。
翌日、2人は交番で事情聴取を受けた。

 純は、何を訊かれても覚えていないと言った。
ところが、正吉は自分がやったと言い出し、
村の人たちも、火を出したのは、正吉だと話題にした。

 そして、夏休み。
東京から、遠縁で同年代の努が富良野に、遊びに来た。
 彼は、パソコンを持ってきた。
純は、そのパソコン雑誌に興味があった。

 祭りの後、努がいる中畑の家に寄った。
そこに、あのパソコン雑誌があった。
 見たくてたまらなかった。
でも、努に頭を下げるのが嫌で、純は見栄を張った。
 そして、正吉と2人、中畑の家を後にした。

 ところが、正吉は「純がほしそうにしていたから」
と、その雑誌を持ち出していた。
 家に帰り、純はそんな気持ちはなかったと正吉に言う。
すると、正吉は、
「やっぱり、お前は汚ねえ奴だな。」と。

 純の心に、ぐさっと突き刺さった。
火事のことを思い出した。

 さらに、こんなことが……。

 雪子が東京に帰る日だ。
見送るのがいやだった純と正吉は、
努を誘って、空知川へ行った。

 草太のいかだで川に出た。
途中で、努が竿を流してしまい、3人とも川に落ちてしまう。
 溺れそうになった努を、2人で川岸まで引き上げた。

 ところが、努にパソコン雑誌を盗んだことを言われ、
2人は努を残して帰ってしまう。 
 途中で、純から「泥棒したのはお前だ。」
と、言われた正吉は、
持ってきた努のズボンを、川へ投げ捨ててしまう。
 そして、「相変わらず、お前は汚ねえ野郎だな。」と。

 その日の夜遅く、純は五郎に呼ばれ、尋ねられる。
純は、努のズボンのこと、パソコン雑誌のこと、
草太のいかだのこと、どれも正吉だと答えた。
 そしてその時、
明日、正吉を引き取る人が来ると知らさせる。

 ここまで、長々と『‘84夏』の、
あらすじの粗々を綴ってきた。
 それは、翌日の夜、
正吉が母・みどりと一緒に列車で富良野を去り、
その後の、五郎と純、蛍の3人が、閑散とした食堂で、
ラーメンを食べるシーンのためである。

 純は、ラーメンをすすりながら、
努のズボンのこと、パソコン雑誌のこと、
草太のいかだのことを、正直に五郎に話した。
 そして、あの丸太小屋の火事も、正吉ではなく、
ストーブに服を置いたのは自分だと、打ち明けた。

 その時なのだ。
食堂の女店員が、まだ残っているラーメンの器を、
下げようとした。

 五郎は、突如、その女店員にむかって怒鳴るのだ。
「子供が、まだ食っている途中でしょうが!」

 デリカシーの欠片すらない女店員に対する五郎の一喝。
今も、その声が蘇ってきそうだ。

 子どもに限らず、誰にでも潜んでいる、
ずるさ、卑怯さ、責任を回避したり転化したりする醜さ等々。
 
 純はそれらを乗り越え、意を決して五郎に本当を話した。
その想いを精一杯受け止めた証が、
五郎の「…まだ食っている…」の叫びだと、
私は理解した。

 あの頃、子育ての真っ最中だった。
教師としても同様、随分と応えたシーンだった。


 ⑤ 泥のついた1万円札

 1987年3月27日放映の『‘87初恋』では、
純が中学3年生になっていた。
 春、卒業を迎え、
富良野を後にするまでのドラマである。

 題名の通り、同じ年齢の大里れいに惹かれる。
初恋である。
 畑仕事等、大人たちの様々な喧噪をよそに、
純とれいは、淡い時間を過ごす。

 そんなある日、
れいは、
「中学を卒業したら、東京に出て、
働きながら定時制高校へ通うつもりだ。」
と話す。

 その夜、純は東京にいる雪子へ、
東京に行きたいと手紙を書いたりする。

 そんな純の想いは、やがて蛍や草太などに伝わる。
五郎がそれを知ったのは、みんなより一番遅れてであった。
 それもあって、親子の言い争いとなる。

 一方、れいは、事故で母を亡くすなどの不運に見舞われた。
そして、純と逢う約束していたクリスマスの日に、
突然富良野を出て行ってしまう。

 その日、約束の場所に行くと、れいからのクリスマスカードと、
尾崎豊のテープとカセットがあった。
 落胆する純。

 そこに蛍が現れる。
そして、卒業式が終わったら、
東京に発つようになっていると伝える。
 その時、「もう遅い。」と純は言ってしまう。
 
 珍しく蛍が、兄に向き合う。
「言い出したのはお兄ちゃんじゃない。
だから父さん、あんなに無理して…。
 東京へ行きたかったのは、れいちゃんと一緒だから?!
…学校のことじゃなく、れいちゃんといたかったから?!
…そんなこと今ころ言い出すの、よして!」

 憤慨する蛍に、私まで何も言い返せなくなった。

 そして、「疲れたら、息が詰まったら、いつでも帰っておいで」
そんな五郎から励ましを受け、
純は、卒業式を終え、富良野を後にすることになる。 

 動機はどうであれ、様々な人々との関わりを通して、
人は背中を押され、新たな道へ踏み出す。

 純は、五郎が手配した東京までの、
定期便トラックの助手席に乗った。
 五郎と蛍が見送ってくれた。

 トラックが動き出すと、運転手に頭を下げ、
早々にれいちゃんからのカセットを聴きだす。
 尾崎豊の『I Lave You』が流れる。

 すると、運転手がそのイヤホンを外す。
そして、五郎が運転手に渡した封筒を、
受け取るように言う。

 その封筒には、1万円札が2枚入っていた。
「泥のついたピン札など受け取らない。宝に。」
と、ぶっきらぼうに言う運転手。

 ドラマは、そのトラックが、
空知川にかかる橋を渡るシーンで終わるが、
純は、泥のついた1万円札と共に、
富良野での日々を回想する。

 あの泥のついた1万円札だが、
私は、五郎の人柄と暮らし、そのものだと思った。
 ひたむきで控えめな五郎の、
真っすぐにわが子を思う気持ちに、涙があふれた。

 そこに、純が聴く尾崎豊の『I Love You』が流れる。
再び、涙がこみ上げてきた。

 なぜが、私の心が洗われていた。




 今年も 白鳥が飛来! 伊達で越冬する 
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『北の国から』 あのシーン ①

2016-11-18 18:27:56 | 北の大地
 時折、このテレビドラマのワンシーンを、
思い起こすことがある。

 もう35年も前、
1981年10月9日から翌年3月26日まで、
24回の連続ドラマシリーズだった。
 そして、『83年冬』(1983年3月24日放送)から、
『遺言(後編)』(20002年9月7日放送)まで、
不定期で12回届けられた特別編がある。

 どれも父・五郎とその子ども・純と蛍を中心とした、
北の大地・富良野での、そこの人々と織りなす物語だ。

 2人の子どもが父の背中を見ながら成長していく姿と、
数々の苦悩や喜びが、ドラマを見る人々に感動を与えた。
 私もその一人で、
このドラマから生きるヒントや励ましをたくさん頂いた。

 「今は昔」ともいえるドラマであろうが、
私の心で生き続けている場面を探ってみる。


 ① 第1回 純の驚き
 
 両親が別れることになった。
9歳の純と妹・蛍は五郎と一緒に、
東京から五郎の故郷・富良野に来た。

 降りた駅は、布部。
遠縁の北村草太が出迎えてくれた。
その日は、草太の家に泊まった。

 翌日、2人は五郎が昔住んでいた廃屋へ連れて来られた。
これから家族3人で住むと言うボロボロの家を見て、
純はあきれ顔で言う。
 「これが、俺たちが住む家かよ。」
そして、「電気がなければ暮らせませんよ。」
真顔で訴える。

 富良野までの列車の中、
車窓から見える空知川に感動する蛍。
 それに引き換え、不安気に見ていた純。
その不安が、見事に的中する。

 純は、東京にいる恵子ちゃんにそっと語る。
「母さんはきれいだし、頭もいいし、美容師の仕事も忙しいし、
いつもモソッと頼りない父さんとは、
もともとつり合いがとれなかったってわけ。」

 ドラマのスタート時、純は五郎のよさに気づいていない。
そればかりか、
これからの暮らしに不安ばかりが増していった。

 そんな東京での日々との大きなギャップが、
「電気がなければ…」と言うやり取りの締めくくりで、
純はこう発する。
 「あちゃー!」

 可笑しくもあり、切なくもあり・・・なのだが、
いつまでの私の心で、こだました。


 ② 笠松杵次の言葉が

 第5回で、五郎は住んでいる家屋の土地が、
「自分のものだ。」と笠松杵次から言われる。
 
 杵次は、純の同級生・正吉(やがて蛍の夫)の祖父だが、
大友柳太郎が演じる杵次の言葉が、ズシリと重いのだ。

 第5回では、がんびに火をつける練習をしていた純に、
杵次が昔話をする。

 「木は倒される時、大声をあげる。
殺生も随分した。そして拓いた。

 いったん拓くのに何年かかったろう。
馬と木と粗末な道具と。
 馬ももうおらん。

 そして若いもんはみんな土地を捨てる。
わしらが殺生して切り開いたこの土地じゃ。

 熊や木や馬になんと申し開く。
人間は勝手じゃ。」

 荒野を切り拓いた先人たちへ、畏敬の念をもった。
そんな偉業を軽んじる悲しみや怒りが、胸を打つ。

 この杵次は、第15回の終末、橋から転落し亡くなるが、
その直前の五郎宅での語りに、私は涙した。

 杵次は、雨の中夜9時頃だった、
一升瓶を片手に、五郎の家に現れる。
 その日、18年間を共にした馬を売った。

 「今朝、早く業者がつれに来るってんンで、
ゆんべ御馳走食わしてやったンだ。
 そしたらあの野郎、察したらしい。

 今朝トラックが来て、馬小屋から引き出したら、
入り口で急に動かなくなって、
おれの肩に、首をこう、
幾度も幾度もこすりつけやがった。

 見たらな、涙を流してやがんのよ。
こんな大粒の。こんあ涙をな。

 18年間オラといっしょに、
それこそ苦労さして、用がなくなって。
 オラにいわせりゃ女房みたいなあいつを。

 それからふいにあの野郎、
自分からポコポコ歩いてふみ板踏んで、
トラックの荷台にあがってったもンだ。

 あいつだけがオラと、苦労をともにした。
あいつがオラに何いいたかったか。
 信じていたオラに、何いいたかったか。」

 野良着に手ぬぐい、日焼けした顔で、
ぼそぼそと語る杵次の大友柳太郎。
 馬へ情が移るから、名前はつけないとも言う。

 飼い主にも馬にもつらい定めに、
今も、涙がこみ上げてくる。


 ③ 靴を探す

 純と蛍の母・令子が亡くなった。
第23回は、東京での葬儀の数日である。

 令子の新しい夫・吉野が、
2人の汚れた運動靴を見て、店に連れて行く。
そこで、古い靴を捨てた。

 その日の午後、お葬式が始まった。
読経が流れる中、蛍が突然、純に言う。
「ねぇ…、あの古い靴、さっきのお店にまだあるかな。」

 純は語りだす。
「ドキンとした。ぼくがさっきからこだわってたことに、
蛍もこだわってたことがわかったからで……。」

 以前に比べ、純の五郎への想いは変わっていた。
父に断らず靴を捨てたことを後悔し・・。

 「心が痛んでいた。あの、置いてきた運動靴は、
去年父さんが買ってくれたもので。

 むこうに行ってからはじめて町に、
富良野の町に買い物に出たとき、
余市館で父さんが選んで、
ぼくらのために買ってくれたもので。

 そのとき、父さんは靴のデザインより、
集中的に値段ばかり見。
 結局一番安いのに決めて、
これが最高、と笑ったわけで。

 だけど……。その靴はそれから1年、
冬の雪靴の期間をのぞけば、
ぼくらといっしょにずっと生活し、
ほこりの日も、雨の日も、寒い日も…、
それから雪解けの泥んこの日も、
学校にいくにも畑で働くにも、
ずっとぼくらの足を守ってくれ。

 だからすりへり、何度も洗い、
そのうち糸が切れ、糸が切れると父さんが縫い、
底がはがれるとボンドでくっつけ、
そうして1年使いこんだもので。

 その靴を……。ぼくは捨てていいといい。
父さんに断らず、……捨てていいといい。」

 その晩、トイレに起きた純は、令子の遺骨の前で、
肩を丸め、声を殺して泣く五郎を見た。

 その五郎は、翌朝早く、富良野に帰っていた。
夕方、遅れて来て、早々と帰った五郎を、
非難する親戚一同に、
富良野から来ていた五郎の叔父・清吉(大滝秀治)が、
遠慮がちに言い出す。

 「それは違うんじゃないですか。
五郎は、早く来たかったンですよ。
 本当は、純や蛍や雪子ちゃんといっしょに、
とんで来たかったンですよ。

 あいつがどうにも来れなかったのは、
恥ずかしい話だが、金なンですよ。
 金がどうにもなかったンですよ。

 ……だからあのバカ、汽車できたんでしょ。
一昼夜かかって汽車で来たんですよ。

 飛行機と汽車の値段のちがい、わかりますか、あなた。
1万ちょっとでしょう。
 でもね、わしらその1万ちょっと、
稼ぐ苦しさ考えちゃうですよ。
 何日、土にはいつくばるか。ハイ。」

 純と蛍は、それを廊下で聞いていた。
2人の心は決まる。
 あの古い靴を探しに行く!

 2人で捨ててしまった靴を探しているところに、
警官(平田満)が声をかける。
 警官の質問に、ビクビクしながらもしっかりと答える純。
質問の中で2人の悲しい事情を察知し、
警官の表情と心情か変化していく。
 急遽、その靴を探し始める警官。
北海道訛りなのだろうか、それが温かく、心にしみた。

 警官 「お前ら、何してる?」
 純  「あ、はい、靴を探しています。」
 (警官、新しい靴を見て)
 警官 「どういうこと?」
 純  「おじさんが捨てろって言った靴です。」
 警官 「おじさんは捨てろって言ったんだべ?」
 純  「はい、でもその靴まだ履けるから……。」
 警官 「おじさんって誰だ?」
 純  「母さんと一緒になるはずだった人です。」
 警官 「母さんはどこにおる?」
 純  「4日前に死にました。」
 (ハッとする警官)
 警官 「確かにここに捨てたんだな?
     あっちにもあったぞ。
     お前ら、そこ探せ、探せって。
     俺はあっち探してくるから。」

 純が語る 「恵子ちゃん、なぜだかわかりません。
       涙が急に突き上げた。」

 令子の死に直面しても、涙を見せなかった純だった。
このやりとりで、涙が突き上げたと言う。

 ここに至るまでの純の葛藤、
どれ程、小さな心が揺れ動いたことか。
 いくつもの悲しみと驚き、苦しさと迷い、
それが純の表情と言葉の隅々から伝わった。

 こみ上げたのは、私だけではないだろう。




羊蹄山:レークヒル・ファーム(洞爺湖町)から
 
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郵便受けをここに

2016-07-23 18:24:15 | 北の大地
 最初に、2年前の朝日新聞『天声人語』から抜粋する。

  『早くに父が亡くなり、家には
  新聞を購読する余裕がなくなっ
  た。好きなのでなんとか読み続
  けたい。少年は新聞配達を志願
  した。配った先の家を後で訪問
  し、読ませてもらおうと考えた
  のだ▼元鳥取県出雲市長で衆院議員を務
  めた岩國哲人さん(78)の思い出だ。日
  本新聞協会の新聞配達エッセーコンテス
  トの大学生・社会人部門で今年、最優秀
  賞になった。題して「おばあさんの新聞」
  ▼小学5年の時から毎朝40件に配った。
  読み終わった新聞を見せてくれるおじい
  さんがいた。その死後も、残されたおば
  あさんが読ませてくれた。中3の時、彼
  女も亡くなり、葬儀に出て実は彼女は字
  が読めなかったと知る。「てっちゃん」
  が毎日来るのがうれしくてとり続けてい
  たのだ、と。涙が止まらなくなった……
  ▼岩國さんはこれまで新聞配達の経験を
  語ってこなかった。高校の同級生で長年
  連れ添った夫人にも。しかし、今回、お
  ばあさんへの感謝の気持ちを表す好機と
  思い、応募した。「やっとお礼が言えて
  喜んでいます」。きのう電話口で岩國さ
  んはそう話した   <後略>    』

 残念だが、今もって『おばあさんの新聞』と題する
このエッセーは読んでいない。
 しかし、『天声人語』からでもその感動は、
十分に伝わってくる。一読して、私も涙した。

 私には、新聞配達の経験はない。
大学に入学してすぐ、
親からの送金をあてにしないようにと、
配達見習いはしたものの、
その大変さに3日で音を上げてしまった。

 それを小学5年から長年続け、
しかも、そこに「おばあさんの新聞」と言った
想像を越えたドラマがあるなんて……。
 またまた、今も胸が熱くなる。

 さて、新聞配達には挫折した私であったが、
学生時代に頑張ったアルバイトがある。
 それは、真冬だけに限った郵便配達だった。

 大学1年の冬、先輩の下宿を訪問した。
その時、先輩は室内なのに濃い色のサングラスをしていた。
ビックリして尋ねると、「雪目にやられた。」と言う。

 新雪におおわれた好天の日に、長時間外にいると、
日差しの照り返しで目を傷めることがある。
 それを私たちは、「雪目」と呼んでいた。

 一度「雪目」になると、ちょっとした明かりでも、
まぶしく感じ、目を開けていられなくなる。
 完治までの数日、部屋でもサングラスが必需品になった。

 先輩は、12月から郵便配達のアルバイトを始めたと言う。
それで「雪目」になった。

 私は、それまで冬限定の郵便配達のアルバイトが
あるなんて知らなかった。

 私の大学は、北海道の小都市にあった。
鉄道の要所として、石炭産業が盛んな時代は、
活気ある町だったらしい。

 碁盤の目のように整備された街並みを外れると、
そこは広大な平野がどこまでも続く田園地帯だった。
 冬は、道内有数の豪雪地であった。

 当時、雪のない季節、
広い水田地帯に点在する農家さん宅の郵便物は、
局員が赤い自転車で配達した。
しかし、いったん雪が積もり始めると、
自転車は用をなさず、徒歩の配達となった。
 自転車に比べ、2,3倍の人手が必要になった。
そこで、学生アルバイトなのである。 

 学生の有志が、後期のカリキュラムを工夫し、
週2,3日その仕事をした。

 私は、翌年、後期だけでなく、
1年間のカリキュラムをしっかりと工夫し、
そのアルバイトをすることにした。

 12月から3月まで、週3日の勤めだった。
確か1日千円の日当だったと思う。
 学生は、月1万円もあれば暮らせた時代だ。  

 真冬の雪道を、その日配達する郵便物と、
下宿先で作ってもらったお握り2個を、
郵便局のマーク入りのリックに背負い、配達して回った。

 雪目防止のサングラスが必要な好天ばかりではなかった。
時には、途中から天候が急変することもあった。
 だが、暴風雪警報でも出ない限り、
中止になることはなかった。

 2月末だったと記憶している。
天気予報がはずれ、
市街地から田園地区に入ってすぐ、吹雪になった。
 いつか回復するだろうと思い、配達を続けた。
判断が甘かった。

 吹雪は衰えず、しばしば、今で言うホワイトアウト状態になった。
進む方向が分からなくなり、立ち止まった。
 
 朝9時過ぎに郵便局を出た。
毎回、同じコースを歩き、
その道に点在する農家さん宅の郵便受けに、手紙等を入れた。
 新聞も郵便物として夕刊と朝刊を帯封したものを届けた。
帰りは、リックが全て空になり、
局に2時半から3時には着いた。

 ところが、荒れに荒れたその日、
5時を回っても局に戻れなかった。
 初めて体験する大自然との、真剣勝負だった。
肉体的な本当の過酷さを体中が感じた。
 すごく怖い時間が、何度も何度も私を襲った。

 辺りが全て暗くなってから、
ようやく郵便局に戻ることができた。
 もう誰もいないだろうと集配室の扉を押した。
部屋の温かさが、急に私を包んでくれた。
 口数の少ない係長さんが一人、いつもの席にいた。
 
 さっと立ち上がり、
ただぼう然と立っていた私に歩み寄り、
「大変だったね。」と、2度3度と肩を叩いてくれた。
 それまでの緊張が一気にほどけた。
近くにあった椅子に、崩れるように腰掛けた。
「助かったんだ。」と、うな垂れた。
 係長さんは、私の全身についた雪をはらい、
無言で席に戻った。

 翌日も元気に郵便局に行った。
打って変わって無風、雲一つない快晴だった。
 新雪の照り返しが激しく、サングラスで雪目対策しながら、
定まりの時間に、定まりの雪原の一本道を進んだ。

 こんな日は、心が軽かった。
一軒一軒の郵便受けに投函して回る。
それだけなのだが、楽しかった。
 「昨日はこの辺りで方向を見失った。」などと、
思い出したりしながら、少し道から外れた木陰で、
昼食のお握りを2個食べた。
 お茶替わりに、その辺の新雪を口にした。

 それは、食べ終え、再び一本道を進みはじめ、
まもなくのことだった。

 ゆるくカーブした右手に、長い私道があった。
3、400メートル先に、防雪林に囲まれた農家さん宅があった。
毎回、新聞の郵便があった。

 その日、その私道の曲がり角、
一本道の脇で、男性が私を待ち構えていた。
 私を見るなり、突然言った。
「昨日もあんたが、配達に来たのか。」

 そうですとうなずく私に、
「今日から、郵便受けはここにしたから。」
と、言った。
 指さす方を見ると、太い白樺の幹に郵便受けが、
くくりつけられていた。

 「いいんです。今まで通りで。」
そう言う私に、
「いいんだ。大変だから。
昨日みたいな日もあるから……。無事でよかった。」と。
 「ありがとうございます。」
そう言うのがやっとだった。

 飾らない一つ一つの言葉と、白樺の郵便受けが、心に浸みた。

 私の郵便配達は、翌年も続いた。
2年とも同じコースだった。
 白樺の郵便受けに、毎回郵便物を入れた。
そのたびに、その郵便受けにそっと触った。
 広い雪原にたった一人の私を、温かい気持ちにしてくれた。




収穫の時が来た 秋蒔き小麦の畑
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農民が奏でる音色

2015-04-03 22:17:15 | 北の大地
 『北海道農民管弦楽団』の存在を知ったのは、2年前のことだ。

 宮沢賢治没後80周年記念として、
この楽団が、震災後の東北・花巻市で演奏会を開催する。
そんな報道特集が、NHK「おはようにっぽん」で流れた。

 楽団は、「鍬で畑を耕し、音楽で心を耕す」をモットーにしていた。
その言葉を聞いただけで、宮沢賢治さんの臭いを強く感じた。

 楽団代表で指揮者の牧野時夫さんは、
賢治さんが農民芸術概論綱要で記した
『おれたちはみな農民である。ずいぶん忙しく、仕事もつらい。
もっと明るく、生き生きと生活する道を見付けたい。
芸術をもって、あの灰色の労働を燃やせ。』
の言葉に、勇気づけられた。
 そして、余市で農業に従事しながら、思いを共有する仲間と共に、
賢治さんが夢みた農民オーケストラを、今に蘇らせようと努力を続けている。

 楽団員は、北海道内各地の農家の他、
農業研究場研究員や農業改良普及員等々、
農業に関係のあるメンバー約80名で、
その活動は、農閑期のみに限られている。

 広い道内各地から集まっての週1回の練習。
その苦労を想像しただけで、楽団員の熱い思いが伝わってくる。

 報道特集では、当別町で農家を営む楽団最高齢の
第2バイオリン奏者・高橋幸治さんを追っていた。
高橋さんは、高校時代にバイオリンに夢中になっていたが、
その思いが忘れられず、
その上、賢治さんの音楽への熱い思いに共感し、
楽団に加わった。70才とか。

 彼は10年前にトラクターによる事故で、
左手の親指を複雑骨折した。
そのため、長時間の演奏では、指の動きが鈍くなるのだとか。
 1日に8時間の練習を彼は自身に課し、その克服に挑んでいた。
その姿を間近で見てる奥様は、インタビューに、
「皆さんに迷惑をかけないように、応援しています。」
と、穏やかな笑顔で応じた。
 高橋さんはこれまた素晴らしく晴れやかな顔をしてそれを聞いていた。
 花巻での演奏会では、無事最後まで演奏したとのことだった。

 きっと楽団員一人一人に、
高橋さん同様、一口では語り尽くせない、
それぞれのドラマがあるのだろうと思った。

 しかし、それにしても『農民管弦楽団』と言う名称には驚いた。
伊達に来てからは、「農家さん」という呼称はよく耳にする。
だが、「農民」は聞き慣れない。私にとっては歴史的用語と言ってもいい。
 偏見なのだろうか、都会的は雰囲気の『管弦楽団・オーケストラ』に
「農民」という冠がついている、
それだけで楽団スタッフと関係者の方々が傾ける、真の音楽への熱い魂を感じ、
私は勝手に物凄い熱を帯びていた。

 ところが、その楽団の年に1回だけの定期演奏会が、隣町・洞爺湖町で行われた。
2月22日(日)のことだった。
 私は、溜池山王のサントリーホールや池袋の芸術劇場大ホールにでも出かけるような、
そんな胸の高鳴りをつれて会場に向かった。
 中島がぽっかりと浮かぶ絶景・洞爺湖から
数十メートル離れた小高い傾斜地にある文化センターは、満席の人、人だった。

 頂いた演奏プログラムのごあいさつで、代表・牧野さんはこう述べていた。
 『農という人間の生命にとって最も重要な食の生産に携わる我々が、
なぜこのようなクラシック音楽などをやるのか?
またそのことにどんな意味があるのか?
と思われるかもしれません。
音楽は本来、労働とともにあって大地での感謝や喜びを表す手段だったはずです。
また、言葉や民族を超えて人々の心をつなぐ手段でもあります。
 <略> 農民が奏でる音色を聴いて下さった皆さん一人ひとりが、
平和な世界のための働き人となってくださることを願いつつ、
心をこめて演奏したいと思います。」

 鮮明な目的意識を持った素晴らしいメッセージに、
私はさらに勇気づけられ、開演を待った。

 リスト作曲/ミュラー=ベルグハウス編曲・ハンガリー狂詩曲第2番ハ短調
 ハイドン作曲・交響曲第94番「驚愕」ト長調
と続き、休憩の後、洞爺湖にちなんでの選曲だろう
 チャイコフスキー作曲・バレエ音楽「白鳥の湖」より抜粋
で、終演となった。

 素人の耳しか持たない私に、その演奏を論じることは無理だが、
演奏者一人一人が自分の持てる力を存分に発揮し、
しっかりとそれぞれが力強く、曲を奏でていたことだけは、
私にも感じることができた。
そして、遂に最後には、あの「白鳥の湖」の音色に、私は酔いしれていた。

 アンコール後の止まらない拍手の中で、
指揮者・牧野さんが、全ての力を出し切った、そんな後ろ姿が強く心に残った。
 私は、若干不自由な手ではあったが、精一杯の拍手を誰よりも長く送り続けた。
 今まで聴いたオーケストラの演奏とは、一味違う感動があった。

 そう、その会場の出入り口で、
家内の携帯電話が鳴った。息子から初孫誕生の知らせだった。
 私は、洞爺湖を見ながら、『白鳥の湖』を踊りたくなった。



冬を越えた近所のねぎ畑 まもなく収穫
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