ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

寅さんが 好き  <その2>

2016-09-30 22:02:31 | 映画
 ③ せつなさに宥められ

 風がない。木の葉も静か。
いつの間にか、西の空に浮かぶウロコ雲が、
あかね色に染まった。

 そんな2階の窓辺に、自転車をこぎながら、
緩やかな坂道を上っていく、野良着姿の女性を見た。
「あぁ、寅さん映画のワンシーンのよう。」
 秋の深まりを知らせる夕暮れ時、私の町の一コマ。

 寅さん映画では、
しばしばその折々のこんな地方風景を映し出す。
 どのシーンも日本の四季に溶け込み、美しい絵画のようだ。
それが、日常の喧騒で、ついギスギスしてしまう私を、
そっと宥めてくれた。
 
 私を宥めたのは、それだけではない。
毎回くり広げる寅さんの恋の模様。
そこでのせつない恋も、その1つである。

 第30作『花も嵐も寅次郎』で、
口数の少ない青年・三郎(沢田研二)に寅さんはこう言った。

 『今度、あの子に会ったら
こんな話しよう、あんな話もしよう。
そう思ってね、家を出るんだ。

いざ、その子の前に座ると、全部忘れちゃうんだね。
で、ばかみたいに黙りこくってんだよ。

そんでてめえの姿が情けなくって、こう
涙がこぼれそうになるんだよな。

女に惚れてる男の気持ちって
そんなもんだぞ。』

 百戦錬磨の寅さんだから言える、
一途な男心に、つい同感し何故かテレてる私がいた。
 そして、寅さんは、「男とは時としてこんなにも純情だ。」とも言う。

 『台所で洗い物をしている。
その綺麗なうなじを、俺はみつめている。
針仕事をする。白魚のような綺麗な指先を
俺はジーッと見惚れる。

買い物なんかだって、ついていっちゃうよ。
八百屋で大根を値切っている
その美しい声音に思わず聞き惚れる。

夜は寝ない。
スヤスヤと可愛い寝息を立てるその美しい横顔を
ジィーッと見ているなぁ。
俺は寝ない。』

 第34作『寅次郎真実一路』で、そう胸を張った寅さん。

 どこかに置き忘れていた、
あの頃の淡い想いを、呼び戻された。
 恋心に限らず、あの瑞々しさや初々しさを、
大切にしたいと気づいた。

 そして、せつないとまで感じる、汚れのないあの感情を、
もう一度、盗み取りたいと、密かに思ったりもした。

 それにしても、寅さんは常に失意の結末を迎える。
その時、第21作『寅次郎わが道をゆく』でこう息巻く。

 『女にふられた時はじっと耐えて
ひと言も口を利かず、
黙って背中を見せて去るのが・・・
男というものじゃないか。』

 一貫とした「男の美学」に、惚れ惚れする。
そして、歳39作『寅次郎物語』で、
甥・満男の問いにこう応じる。

 『満男「伯父さん、人間てさ、人間は
何のために生きてんのかな?」

 寅「難しいこと聞くな・・・何というかな
あぁ、生まれてきてよかったなって
思うことが何べんかあるんじゃない、
そのために、生きてんじゃねぇか。」』

 寅さんが、「生まれてきたよかったな」と思えるのは、
恋の成就だろうか。
 それよりもずっとずっと、
背中を見せて去ることが多かったはず。
 それでも何べんかある「よかったな。」のために、生きていく。

 くり返すせつなさをやり過ごし、
わずかな安らぎに、生きることの真理があると、私も思う。

 だから、いつも寅さんの生きざまに、
私は勇気をもらった。


 ④ 手ほどきが 力に

 第16作『葛飾立志篇』で寅さんは、
東京大学で考古学研究室の助手をしている礼子(樫山文枝)と
初めて出会った。
 その時、喫茶店での二人のやり取りがこうだ。

 『寅「姉ちゃんは、何のために勉強をしているんだい?」
礼子「さあ・・・」
寅「考えてみたことは、ねぇかい?」
礼子「そうですね・・・つまり」
寅「己れを知るためよ。」』

 寅さんのこの答えは、旅先の墓所で和尚(大滝秀治)が、
「論語」について語った、その受け売りである。

 しかし、20年も前になるだろうか。
「ゆとり教育」が強調された頃、
 『教育は、自分探しの旅。』と、よく耳にした。

 2つの共通した教育観に、一人心強さを覚え、
子ども達の前に立った。

 また、歌人・俵万智さんの
“「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日”
が大ヒットした。
 その頃の第40作『寅次郎サラダ記念日』で、
大学受験を控えた甥・満男の問いに、寅さんはこう応じている。

 『満男「じゃ、何のために勉強するのかなぁ?」

寅「え、そう言う難しい事は聞くなって言ったろう。
つまり、あれだよ。ほら、

人間、長い間生きてりゃ、いろんな事にぶつかるだろう。
な、そんな時俺みてぇに勉強してない奴は、
この振ったサイコロの出た目で決めるとか、
その時の気分で決めるよりしょうがないな。

ところが、勉強した奴は自分の頭で、
キチンと筋道を立てて、
はて、こういう時はどうしたらいいかなぁと、
考える事ができるんだ。

だから、みんな大学に行くんじゃないか。
どうだろう。」』
 
 皮肉とも受け止められそうな寅さんの考えだが、
学ぶことへの、期待感の大きさをヒシヒシと感じたのは、
私だけなのだろうか。

 さて、寅さんにとって、手ほどきの真骨頂は、
何と言っても『愛』についてだろう。 

 第10作『寅次郎夢枕』では、
大学助教授の岡倉(米倉斉加年)を相手に力説する。

 『いいか、恋なんてそんな生易しいもんじゃないんだぞ。
飯を食う時だって、ウンコする時だって、
いつもその人のことで頭がいっぱいよ。

何かこの胸の中が柔らかーくなるような気持ちでさ、
ちょっとした音でも
例えば千里先で針がポトンと落ちても
アーッとなるような、そんな優しい気持ちになって、

その人のためなら何でもしてやろうと、
命だって惜しくない。

寅ちゃん、私のために死んでくれる?って言われたら、
ありがとうと言ってすぐにでも死ねる。
それが恋っていうもんじゃないだろうか。』

 物凄い剣幕である。私など、到底ついていけない。
それどころか、だた笑ってしまうだけ。

 ところが、第36作『柴又より愛をこめて』では、
ロシア語辞書の編纂を仕事とする酒井(川谷拓三)に、
こう説くのだ。

 『ほら、いい女がいたとするだろう。
男が、その女を見て
「あぁ、いい女だなぁ、この女を俺は大事にしてぇ。」
そう思うだろう。
それが愛ってもんじゃないか。』

 ほのぼのとした言いぷりと、そのシンプルな想いが、
ジンワリと心に届いた。
 言うまでもないことだが、それは「いい女」だけでない。
 「人を愛するって、これだ。」
と、明るい気持ちになった。

 結びに、寅さんはこんなエールを残している。
第45作『寅次郎の青春』で、甥・満男に。

 『思っているだけで何もしないんじゃ、
愛してないのと同じなんだよ。
お前の気持ちを相手に通じさせなきゃ、
愛してんなら態度で示せよ。』

 寅さん、貴方はずっとそうしていたね。
それは、ずっと私の憧れ、そして羨望。時に嫉妬でも。
 だから、“寅さんが 好き。”




  もうすぐ収穫の時 北限の『柿』
   
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寅さんが 好き  <その1>

2016-09-23 22:06:25 | 映画
 毎週火曜の夜、BSプレミアムで、
『男はつらいよ』シリーズが放映されている。

 第1作からではないが、この映画が話題になり始めた頃から、
封切りを楽しみにするようになった。

 知っての通り、喜劇である。
毎回、映画館では人目を気にせず、
誰よりも早く、大声で笑った。
 無条件で面白いと思える場面が、どのシリーズにもあった。

 そして、そのストーリーのいたるところで、
生きるとは、人とは、学ぶとは、愛するとはと問われ、
いつの間にか、監督・山田洋次ワールドに引き込まれた。

 今、再び、テレビでその映画を観ながら、
数々の名場面が、私の中で、また輝いている。


 ① 周りの人々が 好き

 ▼ 第8作『寅次郎恋歌』は、
森川信が最後のおいちゃん役だった。
 森川信のおいちゃんが好きだった。

 毎回、寅さんの言動に呆れ果て、「ばかだねぇ。」と、
温かみのあるため息をつくシーンが、強く心に残っている。

 この作には、おいちゃんのセリフで、そのおかしさの余り、
涙まで出てしまう、私の『笑いのツボ』がある。

 いつも通り、寅さんの行いにおいちゃんは、
呆れかえる場面での言葉だ。
「あー、いやだ、いやだ。俺はもう、横になるよ。
おい、まくら、さくら取って、
いや、さくら、まくらとってくれ、あぁ・・・」

 こう書きながら、今も笑いをこらえている。

 ▼ 同じ第8作だが、
寅さんは、さくらの義父である諏訪飈一郎と、
備中高梁で意気投合する。

 しかし、ある日、飈一郎からお説教され、
深く反省して柴又へと帰る。

 その説教が胸をうつ。
飈一郎役の志村喬の渋い語りもさることながら、
南吉童話のような、その言葉に、
私も、寅さんと同じ気持ちに導かれていった。

 『寅次郎君、
今、君は女房も子供もいないから身軽だと言ったね。
 あれはもう10年も昔のことだが、
私は信州の安曇野という所に旅をしたんだ。
 バスに乗り遅れて、田舎道を一人歩いている内に
日が暮れてしまってね、
暗い夜道を心細く歩いていると、
ポツンと一軒の農家が建っているんだ。

 リンドウの花が庭いっぱいに咲いていてね。
開け放した縁側から、
明かりのついた茶の間で家族が、
食事をしているのが見える。

 まだ食事に来ない子供がいるんだろう、
母親が大きな声で、その子供の名前を呼ぶ声が聞こえる。

 私は、今でもその情景をありありと思い出すことができる。
庭一面に咲いたリンドウの花、
明々と明かりのついた茶の間。
にぎやかに食事をする家族達。

 私はその時、それが、
それが本当の人間の生活ってもんじゃないかと、
ふとそう思ったら、急に涙が出てきちゃってね。

 人間は絶対に一人じゃ生きていけない。
逆らっちゃいかん。
 そこに早く気がつかないと、不幸な一生を送ることになる。
分かるか、寅次郎君。』

▼ 第15作『寅次郎相合い傘』は、
浅丘ルリ子がリリー役で2回目のマドンナで登場する。

 物語は、エリート課長・兵頭が蒸発し、
寅さんと一緒に旅をするところから始まる。
 その時のお礼にと、
兵頭が最高級のマスクメロンをみやげにとら屋を訪ねる。

 そのメロンを、リリーさんが来たからと
食べることになった。
 たまたま寅さんは不在だったので、
おばちゃんが、寅さんの分を頭数に入れずに、
切り分けてしまった。

 そんな時に限って、寅さんは帰ってくるのだ。
そして、伝説の名シーンと言われる
『メロン騒動』が始まるのである。

 何度観ても飽きない。何度観ても笑ってしまう。
たかがメロン一切れのことだが、
この騒動は、どこの家庭でもありそうで。

 寅さんファミリーそれぞれが騒動に加わり、
対応する様に笑いが止まらない。
 とにかく、面白くて、おかしいやり取りがいい。

 高級メロンを目の前にした庶民の感覚を、
寅さんフェミリーが、見事な笑いに替えてくれたシーンだ。

▼ 第17作『寅次郎夕焼け小焼け』は、
全49作の中で一番好きな作品である。
 この映画だけで、多くを語れる気がする。
それだけ心動かされている。

 中でも、いつまでも心から離れないシーンがある。
寅さんと知り合いになった日本画の大家・池ノ内青観(宇野重吉)が、
かつての恋人・志乃(岡田嘉子)と、
志乃が暮らす・田舎町龍野で再会する。

 夕暮れ時、二人だけ、静寂の和室で対座する。
青観が、過去をふり返り、悔いると、
志乃は諭すような口調でゆっくりとこう言うのだ。

 「人生に後悔はつきものなんじゃないかしらって、
ああすればよかったなあ、という後悔と、
もうひとつは、どうしてあんなことをしてしまったのだろう、
という後悔・・・」

 喜劇映画であることを忘れ、
人生という山も谷もある道中を歩んできた全ての人が、
共有する感情にふれる場面だと思う。

 いつ思い出しても、心がザワザワするのは私だけだろうか。


 ② 人柄が 好き

 ▼ 『言ってみりゃ、リリーも俺も同じ旅人さ
見知らぬ土地を旅している間にゃ
そりゃ人に言えねぇ苦労もあるのよ・・・・
例えば、夜汽車の中、少しばかりの客は
みんな寝てしまって、なぜか俺一人だけが
いつまでたっても眠れねぇ
真っ暗な窓ガラスにホッペタくっつけて
じっと外をみているとね、遠くに灯りがポツンポツン・・・
あー、あんな所にも人が暮らしているかあ・・・
汽車の汽笛がポーッ・・・ピーッ
そんな時、そんな時よ、ただわけもなく悲しくなって
涙がポロポロこぼれてきちゃうのよ』

 第11作『寅次郎忘れな草』での、寅さんである。
いつの間にか、しんみりとした切ない気持ちになってしまう。

 つい先日、寅さんを演じる渥美清さんが、
俳句を詠んでいたと知った。
『赤とんぼじっとしたまま明日はどうする』
トンボを見ながら、そうつぶやいているのが、
寅さんそのままな気がして、不思議だ。

 何となくもの悲しさを漂わせながら、
どんな物事をも、大事に大切にする寅さんの心。
 私は、そこに惹かれてしまう。

 ▼ 寅さんは、第42作『ぼくの伯父さん』で、
浪人生になった甥・満男にこう言った。

 『俺はな、学問つうもんがないから、
上手い事はいえねぇけれども
博がいつか俺にこう言ってくれたぞ。
自分を醜いと知った人間は
決してもう、醜くねぇって・・・』

 寅さんの心の内を垣間見ることができた、
そんな言葉のように思った。

 また、第6作『純情篇』では、
さくらとこんなやりとりがある。

 『寅「いや頭の方じゃ分かっているけどね、
気持ちの方が、そうついてきちゃくれないんだよ、ねぇ?
だから、これは俺のせいじゃねぇよ」

さくら「だって、その気持ちだって、
お兄ちゃんのものでしょう?」

寅「いや、そこが違うんだよ、早い話がだよ
俺は、もう二度とこの柴又へもどってこねぇと
そう思ってもだ、な、
気持ちの方は
そう考えちゃくれねぇんだよ、
アッと思うとまた俺はここへもどってきちゃうんだよ、
本当に困った話だよ』

 続いて、前出の第8作では、同じくさくらとやりとりがある。

 『寅「大丈夫だよ・・・俺だって、
他人(ひと)の奥さんに懸想するほどバカじゃねぇよ、
今だってよ、もう一人の俺によおく言いきかせたんだよ」

さくら「で、もう一人のお兄ちゃん、ちゃんと納得したの」

寅「やっとな」

さくら「そう、よかったね」』

 誰にでもある、想いとは裏腹な自分、
様々な葛藤、心の内の醜さ。
 それをサラッと言ってくれた寅さん。
寅さんは凄い。

 寅さんのそんな言葉に共感し、
想いを共有できたことが嬉しかった。
 満男だけでなく、私もさりげなく励まされた。

 映画を見終わって、元気に席を立ったのは、
決して私だけではなかったと思う。

                    (つづく)



  秋の味覚・栗 間もなく 
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月島は いい

2016-09-17 14:52:18 | 素晴らしい人
 3校目に着任した小学校は、東京都中央区の月島にあった。
この町で、実質的には6年間を過ごした。

 今もそのようだが、1年1年町の様相は、
変わっていった。
 私の頃は、交通網が整備され、
通勤経路が3回も変更になった。
 おかげで、通勤時間は30分も短縮された。

 そんな変わりゆく町なのだが、
下町のよさが、いたるところで継承されていた。

 さて、月島と言えば、「もんじゃ焼」が有名だ。
はるか昔は、子ども達がお遣い銭片手に寄り集まり、
おやつ替わりにしたソールフードだったらしい。
 それが今では、東京の名所・名物になってしまった。

 当時、私もたびたび足を運び、
先輩や同僚達と、もんじゃ焼やお好み焼にビール片手で、
「美味い」「美味い」を連呼していた。

 しかし、月島のB級グルメはこれに限らない。
最近は徐々に、もんじゃ焼店のメニューにも載っているらしいが、
『レバフライ』がその一つである。

 豚のレバーを叩いて薄くしたものに、衣をつけフライにする。
それを特製のソースに浸したものである。

 実は、それまでレバーなど大嫌いで、
絶対に口にしなかった。

 ところが、出張帰りの先生が、
「丁度売っていたから。」
と、10数枚をおみやげに持ってきた。

 その味を知っている先生たちから歓声が上がった。
忙しい職員室の手が止まり、
ソースの香りいっぱいの、薄いフライに次々と手が伸びた。

 レバーと聞いて、私は敬遠したが、
「残してもいいから。」と差し出された。
 その匂いに誘われ、思い切って口に運んでみた。

 ソースのいい匂い、サクサクとしたフライの食感、
そして何よりも、レバとは思えない歯ごたえ。
 小さな1枚は、あっという間に口から消えていった。

 「これ、美味しいね。」
思わず声が出た。
「そうでしょう。」
先生方が、口をそろえて応じた。

 当時、このレバフライは『レバカツ』とも言われ、
某専門店で時間を区切って販売されていた。
 決して高価ではないが、中々手に入らないテイクアウトだ。
地元だけが知る、月島名物だったと思う。

 同じく、地元限定のB級グルメをもう一つ紹介する。
これまた、私が大嫌いなものだった。

 居酒屋の暖簾をくぐると、真っ先に注文する品に、
「もつ煮込み」がある。
 牛などの内臓を時間をかけて煮込み、
それに、主にはみそ味をつけたものである。
 私は、もつと聞いただけで、その器を遠ざけていた。

 そのもつ煮込みが、地元で大評判の店があった。
ここもテイクアウトが専門で、
地元では、鍋や蓋付きの広口ビン等をもって、買いに行った。

 4月、ある土曜日の午後、
花見と称して、学校近くの公園で酒を囲んだ。
 その席に、小さな鍋に入ったもつ煮込みがでた。

 それまで私が知っていた物とは違っていた。
煮込まれたもつは、串に3切れずつささり並んでいた。
ねぎもなければ、コンニャクもなかった。

 他にもいろんな酒のつまみが用意されていた。
しかし、誰もが乾杯のあと、真っ先に手を伸ばしたのが、
この串刺しのもつ煮込みだった。

 先生方のそれへの勢いと、
「だまされたと思って、食べてみて。」
に誘われて、串のもつを一切れ口に運んだ。
 しっかりと煮込まれたそれは、口でとろけた。
先入観だった臭みは見事に消えていた。

 翌年の花見から、
「あのもつ煮込みがいい。」と、リクエストした。

 大きな鉄鍋に、秘伝のたれで煮込むのだとか。
子ども達が、小銭で1本ずつ買い、
おやつ替わりにしたそうだ。

 今、その店はもうない。
それでも、その味を慕う人たちがいると聞いた。 

 この月島に、私が魅せられたのは、
食べ物だけではない。
 そこで暮らす人々や子どもが、これまたいい。


 ▼ 着任した年、1年生を担任した。
 入学した翌日からしばらくは、下校指導が行われた。
新1年生を地域別のグループに分け、
担任と主事さんが先頭になり、自宅近くまで送り届けるのだ。

 まだ、地域実態が分からないまま、
私も子どもの先頭に立った。
 自宅近くまで行くと、一人また一人と子どもが少なくなった。

 そして、ついに男の子Bチャンだけが残った。
いつの間にか、手をつないで歩いていた。
 「Bチャンのお家、こっちなの。」
 「うん。」
そう言って、春の日差しが降る広い歩道を進んだ。

 でも、私の知る限り、その先には民家もマンションもないはずだった。
確か埠頭公園があるだけなのだ。
 「ねえ、お家はこっち。」
もう一度訊いた。
 私の手を握ったまま、しっかりと前方を見て、
Bチャンは首をたてに振り、揺るぎなかった。

 私は、その反面、半信半疑になっていった。
このままBチャンを信じていいのか、不安が増した。
 その時、「大丈夫」と言うように、
Bチャンが私の手を強く握った。

 口数の少ない子だった。
でも、その表情と対応は心強かった。
 黙ってBチャンに従うことにした。
どっちが大人なのか、分からなくなった。

 やがて、管理棟らしい平屋の建物が見えた。
「あれ、Bチャンの家?」
「そう。」
 Bチャンは、それまでと同じ表情だった。

 月島で最初に出会った子であった。
「頼もしい。」
 見習いたいと、心が揺れた。


 ▼5年生を担任した時だ。
春の学年遠足があった。

 子ども達が、「先生、お願いします。」「頼みます。」
と、何度も何度も言ってきた。
 しかたなく、先生方と相談して、
「弁当の他に、200円分のおやつを持って行っていい。」
ことにした。

 遠足の前日、男子も女子も、そのおやつの相談に夢中になり、
いつもより生き生きと下校した。

 思い思いのグループに分かれ、200円片手にめざすは、
この町唯一の駄菓子店S屋だった。
 それぞれプランをたて、
200円のおやつを買い求めようとワクワクしていた。

 ところが、S屋に着くと、
『本日休業』の札が下がっていた。
 店先に、いくつものグループが集まった。
みんな落胆の声を上げ、その場から離れられなかった。

 その時、一人の男の子が、店のガラス戸を叩きだした。
「おばさん、お願い。店開けて。」と、叫んだ。
 みんなは静まりかえった。

 何回かくり返すと、S屋のおばさんが顔を出してくれた。
「体調が悪いから、休みにした。」と分かった。
 子ども達は、「明日の遠足のおやつがほしい。」
と、口々に訴えた。

 おばさんは、無理を押して1時間だけ店を開けることにした。
当然、子ども達は大喜びだった。

 しかし、それだけではなかった。
自転車で来た数人が手分けをして、学区内を走り回った。
 「S屋が1時間だけ店を開いてくれる。」
そうふれて回った。

 翌日、目的地でおやつを頰張りながら、子ども達が口々に言った。
「あのおばさん、優しいよね。」
「体、大丈夫かな。」
そして、
「知らせが来たから、助かったよ。」とも。

 「下町の人情や強さは、こうして育まれんだ。すごい。」
私は、目を丸くするばかりだった。


 ▼地下鉄を降り、学校までの道路沿いに、
さほど広くない間口の青果物店があった。
 夫婦二人で店を切り盛りしていた。

 朝は、まだ店が閉まっているが、
退勤時は、いつも後片付けで、二人とも忙しそうだった。
 それでも、私たちを見かけると、
「こんばんは。先生、お疲れさま。」と元気な声が飛んできた。

 高学年担任の時、そのお子さんを受け持った。
年度初め、早速家庭訪問をした。
 さほど忙しくない時間を見計らって、店先にうかがった。
来店者の合間をぬって、言葉を交わした。

 特に私から尋ねた訳ではないが、ご夫妻は、大の祭り好きだと言う。
二人の馴れ初めも、祭りが縁なのだとか。

 「だから、この商売も、毎日の暮らしも祭りのためさ。」
と、ご主人は胸を張った。
 「そう、そう。」
そばで奥さんが、うなずいていた。

 言葉の端々から、気っぷのよさが伝わった。
受け継がれてきた下町の空気を感じた。
 何となくネチネチしている自分を、どこかに隠してしまいたかった。




  畑のすみに咲く 待宵草(月見草) 
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私のゴルフデビュー

2016-09-10 20:00:55 | 出会い
 教頭になって初めて着任した小学校は、
東京の下町を代表する有名校だった。
 地域との結びつきが強く、
私は、保護者をはじめ、
町の方々から温かく迎えていただいた。

 着任して早々、
映画でも名の通った参道を歩くと、両側のお店から、
「教頭さん、どこに用事だい?」
と、すぐに声が飛んできた。

 教頭1年生、とまどいは毎日くり返された。
肉体的にも精神的にも、いつもいっぱいいっぱいだった。

 そんな時の夜、先生方が退勤した時間を見計らって、
電話が鳴った。
 「教頭さん、遅くまで仕事のようだね。
どうだね、今日はその辺で切り上げては。
2,3人でいつもの店でやってるからおいでよ。待ってるよ。」
 私の返事もそこそこに電話が切れる。

 顔馴染みにさせてもらった小料理屋へ急ぐと、
人のいい笑顔で、町の人たちが迎えてくれた。
 ちょっとしたつまみとビールで、
30分も楽しい会話が弾んだ頃、
「教頭さん、明日もあるからその辺でいいよ。」
と、送り出してくれる。
 そんな温かさに、私はどれだけ力を頂いたか、
計り知れなかった。

 間もなく1年が過ぎようとしていた頃のことだ。
 春休みに入ったら、町の有志による
ゴルフコンペがあると知らされた。

 「お世話になっている方々ばかりです。
私も参加します。教頭先生も頑張ってね。」
 女性の校長先生は淡々と言った。

 「私も参加するんですか。それは無理です。」
と、返したかった。
 ゴルフなど、とんでもないことだった。
まったく経験がない。
 それどころか、ゴルフには悪いイメージがあった。

 高校生の時だ。
学校から歩いて10数分のところにゴルフ場があった。
 1929年(昭和4年)北海道で3番目に開設された、
イタンキゴルフクラブ(その後室蘭ゴルフ倶楽部に改名)である。

 秋の定期試験の後、昼下がりだった。
心地よい陽気に誘われ、下校の回り道に、
友人と二人、そのゴルフ場が見下ろせる高台で腰を下ろした。

 なだらかな傾斜地に、真緑色の芝生がきれいに広がっていた。
白球を打つ音がして、大人がそこをゆっくりと歩いていた。
 日差しも風も静まりかえっているように感じた。

 「あれは、金持ちの道楽だ。」
隣の友人が、何かを吐き捨てるように言った。
 毎日、忙しく立ち働いている両親や兄と比べた。
なだらかな芝生の草原をゆっくりと進む姿との差に、
友人同様の感情が湧いた。

 「金持ちの道楽か。」
その言葉と一緒に立ち上がり、二度とふり返らなかった。
 私のゴルフへの最初のイメージだった。

 だから、
「ゴルフには、悪いイメージしかありません。
私は参加しません。」
 そう言い切るとよかったのだが、
その時、私が校長先生に言ったのは、
「ゴルフの経験がありません。遠慮する訳には。」だった。

 「お世話になっている方々でしょう。
大丈夫。教頭先生は運動神経がいいから。」
 そう言いながら校長先生は、
ゴルフ経験豊富なご主人に電話をした。

 そして、その週の日曜日に、
練習場でご主人のレッスンを受けることになった。
 翌週には、校長ご夫妻と弟さん、そして私で、
ラウンドする計画まで立ててしまった。

 クラブセットとシューズは、
ご主人のお古を譲り受けることになった。
 もう、その流れに乗るしかない状態が整った。

 日曜日、初めてご主人にお会いした。
練習場にも初めて入った。
ゴルフ手袋だけ購入した。

 クラブの種類、握り方、そして立ち方、スイングの仕方等々、
次から次とレッスンが続いた。
 腕と肩に力が入り、難しさだけで、汗が体中を流れた。

 2時間余りの練習で、わずか数球、
ゴルフボールが乾いた音と一緒に飛んでいった。
 その時だけは、心地よさが残った。

 翌週、不安だらけのまま、茨城県のゴルフ場に同行した。
高級ホテルのロビーを思わせるようなクラブハウスだった。

 それより何より18ホールの全てに、春の陽が降り、
見事に刈り揃えられた新緑の芝生が、まぶしかった。
 池の噴水が歯切れのいいリズムで水音を奏でていた。
初めて見る素敵な光景だった。
 その雰囲気に、私は酔った。
大きな自然に溶け込んだ緑色を、一人占めしたような心地になった。

 クラブでボールをしっかりと捉えられない、
そのくり返しが、ズーッと続いた。
 手慣れたキャディーさんが、
「次はこのクラブを使ってみては。」
と、力を貸してくれた。
 そして、広々としたゴルフコースを右に左にとボールを追いかけ、
私は、時を忘れた。
 それでも、次第にゴルフの魅力を感じ始めた。

 昼食後のショートコースで、
キャディーさんから7番アイアンを渡された。
 ボールを芯で捉えた。初めての感触だった。
ボールがはるか先のグリーン上に落ちた。
「これだ。この満足感がゴルフなんだ。」

 広々とした芝生の大空間、高い青空とゆったりとした時間、
そこを白球が飛び、定まりのグリーンに落ちる。
それこそが、ゴルフの醍醐味なのだ。
 私のそれは、完璧な『まぐれ』だったが、
それでも、両手を挙げ、喜んだ。
 校長先生ご夫妻と弟さんから、拍手も頂いた。

 帰りの車中は、疲れでグッスリと眠ってしまった。

 『金持ちの道楽』、決して金持ちではない私だが、
そんな私の周りにまで、ゴルフは近寄ってくれた。
 そう思った。

 春休みに入り、
予定通り、町の有志によるコンペがあった。
 私は、優勝候補一人と一緒に回った。
スイングするたびに、
 「教頭、向きが違う。」
 「教頭、ボールを見てろ。」
 「教頭、力が入りすぎ。」
と、口うるさく、叱られた。
 なのに、私は、
「分かりました。」「分かりました。」
と、笑顔、笑顔だった。
 
 



台風10号の爪あと 大きな栗の木が倒れた
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『児童文化手法』の自負

2016-09-03 11:36:43 | 教育
 私が顧問をしている
『東京都小学校児童文化研究会』のキャッチフレーズは、
「いつでも どこでも 誰でもできる児童文化手法」である。

 研究会は、「学校劇部」「童話部」「ゲーム部」
「ダンス部」「パネルシアター部」の他に、
人形劇や紙芝居、腹話術、手品、折り紙等々
多彩な手法を活用する「総合表現部」の
6つの専門部に分かれている。

 様々な授業において、これら専門部の手法を、
①有効活用できる授業の開発に努めること、
②その授業実践の事例を普及させること、が
研究会の主な役割である。

 今日、学校は、学力向上が大きな命題となっている。
そのため、教師には「質の高い授業力」が強く求められている。

 本来、授業力とは、
「授業を構成する力」「教材を開発する力」
「多様な指導技術」「学級などを統率する力」、
そしてそれらを支える教師としての
「使命感や情熱」の5つに大別される。

 児童文化手法はともすると、その「多様な指導技術」にのみ
機能するかのように思われている。
 しかし、それに限らず、
教師の授業力を高めることに大いに役立つ力を、
「児童文化手法」は有していると、私は自負している。

 その一端を、過去に書き記したものを付すことを通し、
理解の一助にしてもらえればと願う。


 1,児童文化手法で 心をつなぐ

 子どもの現状を見たとき、
子ども同士のネットワーク、
あるいは、人間関係づくりと言ってもいいが、
そこに大きな問題を指摘する声が大きい。

 確かに、少子化や情報の多様化等の大きな流れの中で、
子ども達は、集団行動や集団での遊び等に不慣れになっている。
 その経験の未熟さから、
子ども達同士が関わり合うことへの心情や方法が、
身についていないようにも思う。

 学校でも、必要最低限のかかわり合いはあっても、
深く結びつくことが少なく、
希薄な友だち関係の中で、毎日を過ごす子どもが少なくない。
 家庭に戻っても、ゲーム等で一人遊びに興じ、
それで十分に満足感を得ているむきがある。

 つまり、人とかかわることの必然性や
その素晴らしさ、楽しさの魅力を知らないのである。

 人とかかわる、それは取りも直さず社会性を身につけることである。
自分と大なり小なり違う考え、発想、感性に気づくことであり、
自らの心情を豊かにし、
自分そして他者の両方のよさを知ることである。

 今、学校は、そんな子ども同士のかかわり合い、
心をつなくことに、力を注ぐべき時ではなかろうか。

 児童文化手法は、そんな今日の課題に応えうる可能性を、
十分に持っていると思う。

 例えば、多種多様な児童文化手法は、
その授業の目標を子ども自身のものとして感じ取り、
課題意識へと高めていくことに有効である。

 道徳の時間で題材になりうる説話で、
“パネルシアターを使う。”
あるいは、“童話の語り聞かせの手法を取り入れる。”
“腹話術で行う。”
 これらの手法を授業の冒頭に取り入れることにより、
子どもには、より明確な目標を示すことができる。

 同時に、子どもはその説話に入り込み、
課題を、自らのものとして受け止めることができる。
 そして、その課題意識は、どの子にも共通したものになり、
学習課題を学級全員が共有することにつながるのである。

 また、様々な授業でその学習の成果を、
“見立て劇の手法を活用して発表する。”
“ペープサートや紙芝居を使う。”
“ゲームや手品を取り入れ、楽しい雰囲気で発表する。”
 これらの手法を活用することは、
子どもに発表すること自体への、楽しさを感じさせる。

 併せて、よりよい発表のためには、
必然的に集団を形成し、
共同の学習作業が大切なことを気づかせる。

 さらに、いろいろな学習展開の節目節目での、
“子どもの活動として、劇的な表現を取り入れる。”
“群読の手法を活用する。”“ゲームで理解度を試す。”
“リズムダンスをしてみる。”等々を通し、
児童文化手法は、教科や単元の特性に応じて、
色々な場面で子ども同士の心をつなぐ。

 これが、学習方法、授業展開に豊かさをもたらし、
楽しく学習することに結びつくのである。

 つまり、児童文化手法を活用した授業は、
学習課題の共有化や、共同の学習作業、
同一歩調による学習活動を実現させる。
 これが子ども同士のかかわり、
心をつなぐ役割を果たすのである。


 2、児童文化手法を駆使し、心に届ける

 今、学校教育の重大かつ深刻な課題の一つは、
経験豊かなベテラン教師の、大量定年退職である。
これは、見方を変えると教師を志す者にとって、
大きなチャンスとも言える。

 この問題の焦点は、
教師の世代交代による教育の質の低下である。
 長年にわたる教育実践と研修の積み重ねによって培われてきた
優れた指導力をもった教師に代わって、
教育的使命感や情熱にはあふれているものの、
実践に裏打ちされた指導力は、
今後に期待することになる教師が、教壇に立つのである。
若い教師に、奮起を期待するのは、私だけではないだろう。

 さて、この問題にもう一つ拍車をかけているのが、
定年退職を間近に控えた、主に50代半ばの途中退職者の増加である。
 具体的には把握していないが、私の周りでも少なくない教師が、
学校を後にしている。

 「この年令になってまで頑張らなくても……。」
「どうも子どもがわからなくて……。」
「教えていても、昔のように楽しくないので……。」
 そんな退職理由がよく聞こえてくる。

 確かに子どもの有り様が変化してきているように、私も感じる。
「今までなら伝わったことが、伝わらない。」
「今までなら分かってくれたことが、入って行かない。」
  これは、特にベテランと言われる教師に実感があるようだ。

 また、若い教師が、子どもの前で何度同じ話をしても、
その内容がほどんど理解されていない。
 そんな場面を、何回となく見てきた。

 このような学校や教室での出来事のキーワードを、
『子どもの心までメッセージを届ける』
ことにあると、私は考える。

 様々な要因が考えられるが、情報過多の時代にあって、
今、子ども達は知らず知らずのうちに自己防衛の方向に進み、
心の間口を狭くしているように思う。
 だから、今までと同じ情報伝達の方法では、
子どもの心まで届かないのではなかろうか。

 現状では、子どもの心に届くものは限られ、
情報化の中でその情報とは無縁な、
勝手で気ままな立ち振る舞いをする子どもの増加が危惧される。

 だからこそ、子どもの心まで届けなければならないことは、
しっかりと確実に届けていく。
 このことが、今強く求められていると私は思う。

 パーソナルコミュニケーションの重要性を強調したい。

 児童文化手法は、昨今、教師の手を離れ、
例えばパネルシアターやペープサートを使って学習発表をしたり、
読み取ったことを、演劇や人形劇で表現したりなど、
子ども自身の学習を進める手段になっている。

 しかし、私はこの流れと併せて、
再び教師がその手法を駆使し、子どもを引きつけ、
子どもの心に、どうしても届けなければならないことを
しっかりと届けていくことが重要だと思う。

 児童文化研究会の童話部が行った授業で、
一人一人の目を見ながら素話をした後、
ある子が「僕に話してくれていたので、真剣に聞いた。」
と、語っていた。
 この言葉に、私たちが今後進める
授業づくりの重要なヒントがあるように思う。





 我が家の庭にやって来た珍しいお客様
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