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ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

宿泊学習での 『危機』

2018-03-31 17:48:20 | 教育
 4月だ。新年度のスタートである。
きっと、学校はその準備に追われていることだろう。
 
 さて、今回は宿泊学習についてである。
『修学旅行』の方が一般的な言い方だが、
東京では、『宿泊体験学習』『林間学校』『臨海学園』等々、
区や市町村によって違う名称が使われている。

 主に5年生と6年生が、参加する宿泊を伴う行事だが、
2泊3日が主流だろう。
 行き先は、区や市で決まっている場合、
それぞれの学校が単独で決めている場合がある。

 私は、高学年担任として、あるいは引率スタッフとして、
管理職として、この宿泊学習に同行した。
 学校では見せない子どものハツラツとした姿に出会え、
明るい気持ちで過ごすことが多かった。

 しかし、学校内の日常とは違う3日間である。
思いがけない出来事に遭遇することも、珍しくなかった。
 「危機」とは、やや大袈裟だが、そんな出来事を2つ記す。


  その1

 若い頃だ。5年生担任だった。
夏休みに入ってすぐ、
引率教員6名で、2学級約70名と一緒に日光へ行った。

 区立の宿舎を利用し、2泊3日の共同生活である。
それは、子ども達にとって、初めての宿泊体験だ。

 広い食堂で一斉に摂る食事、友だちと一緒に入るお風呂、
そして子どもだけの部屋での就寝、
その全てにワクワクしながら過ごしていた。

 メイン行事は、2日目の奥日光ハイキングであった。
その年は、私にとっても初めてだったが、
『切り込み湖刈り込み湖コース』を歩くことになっていた。

 『戦場ヶ原コース』よりも、体力が求められた。
だが、実施踏査をした同学年の先生からは、
5年生でも十分に歩けると報告があり、
そのコースを選択した。

 快晴の夏空、奥日光の軽快な涼風を感じながら、
子ども達は、思いのほか元気にこの難コースを進んだ。

 途中で宿舎で作ってもらった弁当を食べ、
最後の難所と言われた山王峠まで登りきった。
 ここからは、下りの山道を50分程で、
光徳牧場のゴールである。

 私も子ども達も安堵していた。
誰も音を上げず、ここまで歩いて来た。
 達成感のようなものを持ちながら、
めいめい腰を下ろして休憩した。

 若干広い峠だった。
私たち以外にも、3,4校が思い思いに休んでいた。
 わずかな時間しか過ぎていなかったのに、
山の天気である。
 急に黒い雲が私たちをおおった。
冷たい風に変わった。

 あっと言う間もなく、
大きな雨粒が激しく降り始めた。
 各校とも休憩を止め、集合の笛が響いた。

 その間にも、雨は激しさを増した。
遂に、すぐそこで耳を裂くような雷鳴が轟き始めた。

 「整列はいい。一本道だから、
バラバラにならないように下山しなさい。」
 校長先生の大声がとんだ。

 子ども達は、音をたてて降りしきる雨と、
物凄い雷鳴がくり返す中、次々と下山を始めた。
 雨具を着ている間などなかった。

 校長先生は、引率の私たちにも指示を出した。
私は、最後尾をまかされた。

 峠にいた他の学校も、同様の下山を始めた。
2,3百人の子ども達が、全身をぐっしょり濡らしながら、
次々と山道を下りていった。

 私は、雨で視界を遮られながらも、
子どもが残っていないことをしっかりと確認してから、
峠を後にした。

 驚くような激しい雨だった。
何かが裂けるような落雷音に、私さえ恐怖を覚えた。

 山道を下り始めて、どの位の頃だろう。
雨水の流れですべりそうになりながら、
私は、女の子と手をつないでいた。

 豪雨の中、夢中で下山しながら、
女の子に追いついた。
 いつの間にか、私の手を握って、女の子は足を進めた。
私は、その手を離さないで、
とにかく安全な所まで逃げよう。
 それだけだった。

 どれくらいの時間だったのだろう。
30分も過ぎただろうか。
 ツルツルとすべる急な下り道が終わったのと一緒に、
雨も雷鳴も遠のいた。
ようやく、やや広い道になった。

 「よかったね。雨、上がったよ。」
手をつないでいる女の子を見た。
 「よかった。」
女の子も、私を見上げた。

 その時、思わず変な声が出そうになった。
女の子も濡れたまま、
目を丸くして、驚いた顔になった。
 再び、驚いた。
矢っ張り、見たことのない顔なのだ。
 女の子も、見たことのない先生だっただろう。
同時に、二人とも手を離した。

 女の子は、何も言わず、
少し離れた所の集団に向かって走り出した。
 私は、その後ろ姿を放心したように見た。

 「他の学校の子だったんだ。」
そう気づくと、突然、おかしさがこみ上げた。

 回復する空を見上げ、私は全身ずぶ濡れのまま、
おかしさをこらえ、女の子の横を通り過ぎた。
 そして、学級の子ども達が待っている所を探した。


  その2

 校長になってまもなくのことだ。
6年生と一緒に、
前日光の山村にある区立の宿泊施設に行った。
 これも2泊3日だった。

 少しでも充実した宿泊体験になるようにと、
その年初めて、3日目の午前中に、
そば打ち体験を企画した。
 その準備と指導は、
地元のお母さん達が引き受けてくれた。
  
 5,6人でグループを作って、
そば粉と水をまぜ、そば打ちが始まった。
 子ども達の多くは、初めての体験に、
真剣そのものだった。

 私は、そんな子どもの姿を見て、
明るい気持ちでいた。

 10分位経過した頃だったろうか。
男の子が、グループから離れ、
「体がかゆい。」と、担任に訴えた。

 幸いなことに、この宿泊には養護教諭が、
引率者の一人として帯同していた。

 担任はすぐにその子を、養護教諭に診せた。
「もしかしたら、そばアレルギーかも知れない。」
 そんな報告が私に届いた。

 養護教諭は、念のためとして、
その子をそば打ち体験の会場から、
遠く離れた所で休ませた。
 その上、子ども達が打ったそばの試食もさせなかった。

 その後、その子の症状は消え、3日目の行程を全て終え、
他の子と一緒に学校に戻った。

 帰校してすぐ、養護教諭は保護者に電話を入れた。
保護者は、「そばアレルギーの疑い」に驚いた。
 翌日、病院で検査を受けた。
結果は、養護教諭の診立て通りだった。

 「もし、そのままそば打ちを続けていたら、
急な呼吸困難など、危険な状態になっていたでしょう。」
 医者の説明を聞いた保護者は、
養護教諭の適切な対処に感謝した。

 あの場に、養護教諭がいたこと、
そして的確な対処をしたこと、
それが、そばアレルギーの子を救った。

 その後、子どものそばアレルギーを考え、
どこの学校でも、うどん打ち体験に変更したようだ。
   



 我が庭のクロッカス 今年も春を知らせに      
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ある卒業式の日から

2018-03-23 20:20:53 | あの頃
 校長としての最後の卒業式は、
平成23年3月だった。
 あの巨大地震と津波、
そして原発事故があった3・11から、
2週間余りの日だった。
 まだ東京でも、大小の余震が続いていた。 

 「ランプの時代は終わった、電気という新しい時代が来た。」
新美南吉が『おじいさんのランプ』で記したこの言葉を取り上げ、
小学校生活が終わり、中学と言う新しいステージに立つ子たちに、
校長式辞を通して、エールを送ろうと考えていた。

 しかし、悲惨な被害に遭遇し、避難生活に苦しむ人々を思うと、
『新しい時代が来る』は、遠慮すべきフレーズだった。

 急きょ、斎藤隆介の『モチモチの木』に切り替えた。
「人間優しささえあれば、やらなきゃならないことはきっとやる」。
 そんな言葉を引用し、私自身にも言い聞かせるような式辞にした。

 それにしても、いつもとは違う緊張感がある卒業式だった。
式の前には、進行役の副校長から、
挙式中に大きな地震があった場合の避難方法について、
来賓と保護者に説明させた。

 在校生代表の5年生には、椅子の下に防災頭巾を備えさせた。
そして、卒業生は、拍手で迎えられての入場の時、
片手にこれまた防災頭巾を持たせたのだ。

 式は、余震もなく無事に終えた。
卒業証書と防災頭巾を持って、式場を去る卒業生に、
私は拍手しながら、例年になく安堵していた。

 教職生活40年間で、
6年生担任として卒業式に5回臨んだ。
 そして、校長で10回、私の名前がある卒業証書を渡した。

 言うまでもない、子どもにとって、大きな節目である。
同時に、教職員にも区切りの日である。
 その年その年、鮮明な想いが記憶に残っている。

 別れを惜しみ涙しながらも、子ども達は保護者と共に、
後ろ姿を残し、去って行く。
 そして、ついさっきまで子ども達で賑わっていた教室に戻った時、
静寂に包まれた安堵と共に、そっと迫ってくる寂しさを体験した教師は、
私だけではないだろう。
 だが、それとて今は懐かしい。

 さて、まだ30歳代の頃、こんな卒業の日があった。
若干、前置きが長くなる。
 
 昭和60年4月から1年間、私は学校を離れ、
東京都立教育研究所での研修の機会に恵まれた。
 その経験は、その後の私を大きく変えてくれた。
充実した1年だった。

 1年後の3月末、学校復帰が近づいた。
私は、いつにも増してやる気満々だった。
 次年度、5年生の担任が決まっていた。
その学級に、Kちゃんの名前があった。

 ところが、悲報は、突然だった。
3月中旬、Kちゃんは幼い頃から患っていた心臓の手術に挑んだ。
 Kちゃんも両親も、生命に関わることを承知していた。
成功を祈った。しかし、願いは叶わなかった。

 春休みに入ってすぐ、花冷えのする日だった。
葬儀が行われた。
 もうすぐ5年生になる子ども達が、みんなで参列していた。

 まだ私が担任になることは、公表されていなかった。
でも、関係する教職員や子ども達に混じって、
Kちゃんを見送ることにした。

 遺影のKちゃんを見て、1年前のある日、
3年生の教室で、ほっぺたを真っ赤に染め、
笑顔で机に向かっていたKちゃんを、鮮明に思い出した。

 みんなを代表して、男女一人ずつお別れの言葉を言った。
「Kちゃん、お見舞いに行った時、すごく可愛い枕をしてたね。
ぼく、いいなあと思ったのに・・」
 男の子の言葉だった。それは私の悲しみのツボだった。
涙があふれて止まらなくなった。

 後にも先にも、子どもとの死別はそれだけだったが、
2度とあのような悲しさとは無縁でいたいと願った。

 4月のある日、妹さんの保護者会に、
来校したKちゃんのお母さんにお会いした。
 廊下で、深々と葬儀のお礼を受けた。

 そして、明るい顔と声で、こう言った。
「娘、5年生になったら先生のクラスがいいって言ってたんです。
もう少しで、その通りになっていたのに。」
 Kちゃんの願いに驚いた。
同時にその期待に応えられる学級にしたいと密かに思った。

 「Kちゃんが生きていたら、この教室にいた。」
口にはしなかったが、
そんな想いが時々心をよぎり、2年間を過ごした。
 明るく楽しい子ども達に恵まれた。充実した日々だった。

 卒業が近づき、私は、記念文集にこんな一文を書いた。
 
  *   *   *   *   *   *

     エスのこと

 近所に、マッチャンと言う子がいました。
私は、なぜかその子とよくケンカをしました。

 マッチャンは、私に負けず劣らず、きかん坊でした。
小学校入学前から、道端の棒をひろっては、それを振り回して、
二人とも泣きながら、やり合いました。
 相性が悪かったとしか言いようがないくらい。
必ず最後は、どちらかが頭をポカリとやっていました。
 勝負は、いつも仲裁が入って引き分けです。

 しかし、私の気持ちは収まりません。
そこで、私の愛犬『エス』に登場してもらうのです。

 エスは、私が赤ちゃんの時から、我が家にいました。
私が記憶しているエスは、すでにもうかなりの高齢でした。
 見かけは大型でしたが、いつも犬小屋のわきに、
デレーッと寝そべっていました。

 そのエスに、私はそうっと、
「エス、マッチャン、かめ。」
と、命令をします。

 すると、エスは、一つも表情を変えず、おもむろにゆっくり歩きだし、
のらりくらりとマッチャンの方へ近づいていきます。
 私は、物かげに隠れて、エスの後ろ姿をのぞきます。
マッチャンはエスの気配にまったく気づきません。
 その辺りから、私の心は高鳴り、喜びに満ち満ちてきます。

 その時、エスは、なにくわない態度で近づいたマッチャンのお尻を、
ガブリと一かみします。

 マッチャンは、火がついたように泣き叫び、
エスはそれまでのエスとは見違えるような素早さで逃げ帰り、
私になど目もくれず、
一目散に自分の犬小屋に入り込んで身構えてしまいます。

 しばらくして、マッチャンとマッチャンのお母さんが、
我が家にやって来ます。
 「また、お宅のエスが、うちの子をかんだ。」
と、どなって帰っていきます。

 母は、床に頭をこすりつけるようにして詫びます。
そして、太い棒を持って、犬小屋に近づき、
「エス、出ておいで。」
エスは、その棒で一撃されます。
 〝キャン〟と、痛そうに鳴くエス。
その声は、いつまでも私の耳の奥に残りました。

 「ごめんね、エス。でも、ありがとう。」
私は、心の中でいつもそう言ってました。

 幾日かして、またマッチャンと一緒に遊ぶ。
再び同じことのくり返し。そして、エスの登場。
 今思うと、私はなんてずるい子だったのでしょうか。

 私が小学校二年生のある朝、
とうとうエスの体が、動かなくなっしまいました。
 兄弟でなんとか力を合わせて犬小屋の中に入れて、学校へ行きました。

 その日、学校の時計がやけにおそく感じました。
放課後、走って家に戻り、犬小屋を開けてみました。
 エスは、目を開けたまま冷たくなっていました。。

 中学生の兄と二人で、大きなりんごの木箱にエスを入れ、ふたをし、
自転車の荷台にくくりつけ、海まで運びました。
 防波堤の先端から、二人で力を合わせてその箱をほうり投げました。

 真っ赤な大きな太陽が、ちょうど海に沈みかけていました。
水しぶきが一瞬、夕陽に輝きました。
 兄は、手のこうで涙をふきました。

 私は、そんな兄に何も話す言葉がなく、
だまって自転車を引いて、後ろから歩きました。

 私の記憶する最初の悲しい出来事を、君たちの卒業文集に書いた。
それは、・・・

  *   *   *   *   *   *

 卒業式の数日前だ。
Kちゃんのお母さんが、この一文を知った。

 そして、
「先生、ありがとうございます。
みんなに娘のことを思い出させてくれたんですね。」
 卒業式の日、お母さんはそう言って、
式場の保護者席に座った。
 そして、成長した子ども達の姿を、
真っ直ぐ見つめていた。

 あれから、もう35年が過ぎた。
今年も、お母さんから年賀状が届いた。





  エゾノリュウキンカ ・ 膨らむ蕾
        『だて歴史の杜』野草園にて 
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旅先ジョギング

2018-03-16 22:20:50 | ジョギング
 ▼ 風邪気味で、とうとう何度かお世話になった内科医院から、
薬を処方してもらった。
 その甲斐あって、大分回復した。
その上、春を思わせる陽気が続いている。

 なので、今年初めてになるが、朝のジョギングにでた。
体調を気にしながら、
いつにも増してゆっくりゆっくりと走った。

 時々冷たい向かい風が吹いた。
でも、まだ雪を被ったままの山々の白と青空、
雪が消え農作業を待つ土色の畑、
その脇を愛犬と一緒にゆっくりと散歩する人。
 そんなすべてが朝の静寂の中にあった。

 足を進めながら、久しぶりの光景に触れた。
そして、この調子ならと、10キロを走ることに。
 後半、登校する小中学生とすれ違う。
みんな、私の挨拶に応じてくれた。
 爽快さが増した。

 ジョギングの終盤、今度は上空だ。
白鳥である。
 間もなくシベリアへ旅立つのだろうが、
4羽5羽、時には8,9羽で群れ、
鳴きながらえさ場へ向う勇姿が、すぐそこにあった。
 私は走りながら、その大きな鳥たちを目で追う。
訳もなく、嬉しさがこみ上げた。

 走り終え、自宅に着く頃には、
厚手のトレーニングウエアーの中は、
ビッショリと濡れていた。
 いい汗をかいた。
満たされていた。

 朝の伊達の、こんな出逢いが、
私にジョギングさせていると、あらためて感じた。

 ▼ さて、本題に近づこう。
40歳代の頃、同じ学校にランニングが趣味だと言う女性がいた。
 わずか一泊の職員旅行があった。
なのに、その女性は、誰よりも早く起き、
旅館近くをランニングした。
 小1時間ほど周囲を走り、「気分爽快!」と言った。

 当時、私はジョギングを知らなかった。
ランニングウエアにシューズなど一式を携え、
旅行先でまで走ることに、やや違和感を持った。

 「旅行に来たんだから、のんびりすればいいのに・・。
1日くらい走らなくでも、いいじゃない。」
 そんな思いだった。

 その私が、今では時々、旅先でもランニングウエアに着替え、
ジョギングを楽しんでいる。
  
 ▼ 北海道各地に、日帰り温泉を兼ねた宿泊施設がある。
その1つに由仁町の『ユンニの湯』がある。
 温泉は、コーヒー色をしており、美肌効果があると言う。
ログハウスを基調とした建物で、
近くには2つのゴルフ場と、
四季折々の花が素敵な植物園『ゆにガーデン』がある。

 我が家からは高速道を利用すると、
車で1時間半のところにあるのだが、
当初の私は、緑に覆われた小高い丘の上に建っていることを、
知らなかった。

 1泊2ラウンドのゴルフパックの宿をここにした。
その時、旅先でのジョギングを思い立った。
 初めてのことだった。
丁度、ハーフマラソンを2度完走し、
走る楽しさを強く感じていた頃だった。

 早い時間に目ざめると、すぐにランニング姿に着替えた。
いつも通り時間をかけてストレッチをして、外に出た。

 地図で、約5キロ程の周回コースを決めていた。
その道を、いつもと変わらない速さで走り出した。

 なだらかな下り坂が続いた。
目に飛び込む見慣れない森が、新鮮だった。
 その穏やかな緑の道を、テンポ良く進んだ。
まさに『気分爽快』だった。
 後で、痛感するのだが、その道はずっと緩い下り。

 残り1キロ余りの所で、右に折れた。
すると、突然上り坂になった。
 右に左に蛇行しながら、その坂は続いた。
ずっと上りっぱなし。
 しかも、伊達にはないような急な坂が続いた。

 すごく息が切れた。足が重たくなった。
何度も歩きたくなった。
 よく考えると、それまでずっと下りだったのだから、
急な上りは当然なのだ。
 地図では、それに気づかなかった。

 「こんな坂!、こんな坂!」。
何度もつぶやき、それでもランニング姿勢で上った。
 深い森に向かって、2度3度と大声を張り上げた。
経験のない苦しい走りだった。

 宿舎にたどり着いてから思った。
「こんな急坂だと知っていたら、絶対に走らなかった。
知らないからこそ走れたんだ。」

 あれ以来、あんな急坂の走りは経験がない。
旅先ジョギングならではのことだ。

 ▼ ジョギングをはじめてから、
一度は走りたいと思っていたコースがあった。
 それは、都心の皇居、あのお堀を1周するコースだ。

 以前、そこを走るランナーを車から見かけた。
どの人も、思い思いのランナー姿で走っていた。
 一体どこで着替えているのか、不思議だった。

 ネットで調べてみた。
さすが東京である。
 皇居周辺に、何軒も着替えとシャワーの店があった。
それを知ると益々走ってみたくなった。

 所用で東京に行った。確か、春先の昼下がりだ。
わざわざ時間を作り、皇居の外周を走ることにした。

 ホテルから、
小さなバックにウエアとシューズを入れ、出発した。
 有楽町で電車を降り、日比谷の店で着替えた。
利用料金は、ワンコインだった。
 驚いたのは、平日なのに利用者で賑わっていたことだ。

 皇居前広場で、軽くストレッチをした。
その間も、次々とランナーが走り抜けていった。
 時々、同世代のランナーを見た。
ホッとした。

 早速、走り出した。
いつも私一人、時には家内と二人のジョギングだ。
 しかも、すれ違うランナーなど稀だった。
ところが違った。

 まったく見ず知らずの方だが、
ずうっと前にもすぐ前にも、横にも、そして後ろにも、
ランナーがいた。

 左手に皇居の静けさ、
右の車道に、途切れることない車の流れ。

 経験のない都心のランニングコースに、
ペースを乱されないよう、気を張って走った。
 適度なアップダウン、それに緩い左カーブが、
走りやすかった。
 マイペースで、予定通り5キロの周回を2周した。
 
 再び、日比谷のお店に戻り、シャワーを使い、
入店した時の服装に戻った。
 バックの中の汗で汚れたウエア以外、
何も変わらない姿で電車に乗った。
 ちょっとだけ、都会のランナー気分を味わった。

 時には、こんな刺激もいいかな。
そんな想いに浸った。 

 ▼ いつも思うことだが、
伊達の四季の素晴らしさがあるから、
私のジョギングは続いている。
 しかし、時には旅先ジョギングもいいと思う。

 今は、職員旅行で、
早朝ランニングした女性の理解者になれる。
 それは、そこでの走りが、
いつもとは違う体験をくれるから。
 想いもしない刺激をくれるから。
 


    ようやく『福寿草』が咲いた 
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だての人名録 〔6〕

2018-03-09 22:26:06 | 北の湘南・伊達
 12 走りながら

 伊達での6度目の冬も、もう少しだ。
例年になく、ずっと体調が優れない。
 風邪の症状が抜けないまま、
数日おきには市販の風邪薬に手が伸びる。
とうとう2日前から寝たりおきたりしている。
 春よ、早く来い!!
そんな心境である。

 それにしても、
この冬の伊達は過去5回とは少し違う。
 正月元日は、1日中雨が降り続いた。
すっかり雪がなくなってしまった。
 このまま暖かい冬かと思っていたら、
そこから冬本番が来た。

 いつになく寒い日が続き、
最低気温が氷点下16度の日もあった。
 積雪量も多く、当然、雪かきの回数も増えた。

 そんな訳で、私のジョギングもすっかりペースが狂った。
1月10日過ぎからは、外を走る機会がない。
 もっぱらトレーニング室のランニングマシンか、
市立体育館の2階ランニングコースである。

 こんな寒い時期に、ジョギングで出逢った人を記す。


 (1) 素振りする少年

 10キロをジョギングするため、
市内に4つ程コースを決めている。
 アップダウンの少ない走りやすいコース、その反対、
そして見晴らしのいい道が続く所など、私なりに吟味した。

 その中で、一番きつい坂道があるコースを走った。
ようやくその坂を登り切り、
平坦な道を5分程行くと、T字路にぶつかる。
 やっと呼吸が整い、
そこを左に折れると、今度は緩い下り坂になる。
 その坂の右手には、新しい住宅がいくつか建ち並んている。

 少年がその自宅前で、
バットを素振りしているのを見たのは、
一昨年の夏の頃だったように思う。
 同じ中学生と思われる3,4人で、
何やら話をしながらの素振りだった。
 
 当然、私はその少年らに挨拶をした。
「おはよう・・ございます。」
 少年らは、私の声に少し驚き、
それでもめいめいが、挨拶を返してくれた。

 それから何度か、そのコースを走った。
でも、時間が合わなかったのか、
素振りする少年らを見ることはなかった。

 ところが、秋も深まった頃だ。
自宅前で、1人素振りする少年を見た。
 特別な想いもなく、私から挨拶をした。
素振りを止め、彼は頭を下げて挨拶を返してくれた。
 それが2度目の挨拶だった。

 そして、昨年の春先のことだ。
雪融けがすすんだ。
 私は、上り坂がきつい伊達ハーフマラソンを想定して、
少年が素振りしていたあのコースを選んで走った。
 ところが、所々、圧雪した氷がとけずに残っていた。

 ようやくあのきつい坂道、氷をさけながら上りきった。
やっと息を整え、T字路を左に折れた。
 予想外だった。一面つるつる氷の下り坂だった。
私は、滑りそうな道で足元だけを見ながら、
ゆっくりゆっくり走った。

 すべってころぶことを避けようと、
そのことだけに集中していた。

 その時、「おはようございます」。 
明るい声がとんできた。
 驚いて、顔を上げると、
少年が、素振りのバットを構えたまま、
私を見ていた。
 何故か、急に嬉しくなった。
私は思わず言ってしまった。
 「ありがとう。」

 気持ちが通じたのだろうか。
「気をつけてください。」
 元気な声が返ってきた。
ここでも思わず、右手を挙げた。

 それから何回か、素振りとジョギングで挨拶を交わした。
いつも彼は、素振りを止めて、私を見た。
 私は、明るい気持ちで駆け抜けた。

 後もう少しだ。
早く、あのコースを走りたい。


 (2)みかんじゃないよ ポンカン!


 雪道は無理だけど、「時には一緒に走ろうよ」と、
家内を誘い、体育館のランニングコースに行った。

 午前中に比べ、
ウオーキングやランニングをする人が少ない。

 早々に準備体操を済ませ、
家内のペースに合わせ走り始めた。
 1周200メートルの周回コースを25周、
5キロを走り切ることを目標にした。

 時には並走、そして家内を前に縦走したりをくり返した。
5周ほどした時だったろうか。
 前を歩く男性が、笑顔で振り返った。
「いやぁ、頑張るね。すごいね。頑張って。」

 初めて見る顔だった。
「ありがとうございます。」
 笑顔を作りながら、追い越した。

 「知ってる人?」
走りながら、家内に訊いた。
 「全然!」
それでも、その励ましは嬉しかった。

 今までにも何度か経験があった。
また一人、挨拶も自己紹介もなく、
突然フレンドリーに接してくれる伊達の人であった。

 それから2,3周した時だ。
声をかけてくれた男性が、帰り支度を終え、
コース横で、走り続ける私たちを待っていた。

 「ほら、これ美味しいから。」
ビニール袋に沢山のみかんが入っていた。
 走るのを止めて、その袋を手にした。

「みかんじゃないよ。ポンカン。」
「エッ、頂いていいんですか。」
「後で2人で、食べな。」
「すみません。ご馳走さま。」
見た感じ、私より若干年上のように思えた。

 「じゃ、俺はお先に。」
ニコッとした笑顔が、人懐っこかった。

 帰宅してから、頂いたポンカンの皮をむきながら、
「面白い人が、いるもんだ。」
「それにしても、どうしてくれたのかな?」
そう言いながら、柑橘系が得意ではない私なのに、
2コ3コと手を伸びた。

 それから、10日ほどが過ぎた。
再び、家内と二人、午後のランニングコースに出向いた。
 すると、帰り支度をするあの男性がいた。
人懐っこい顔で私を見た。

 「どうだった。ポンカン?」
「あっ、先日はご馳走さま。美味しかったです。」
 家内とそろって、頭を下げた。

 そこから、「伊達のハーフを走るのかい。」
「洞爺湖のフルも走るのかい。」
 「今まで、何回大会に出たの。」
そして、「あまり見ない顔だけど伊達の人?」
などなど、質問攻めに遭った。

 負けずに、私も尋ねた。
するとこんな答えが返ってきた。
 「昔は、ハーフを1時間30分台で走った。」
「大会で、10キロで4位に入賞したことも・・。」
 「今年は、洞爺湖の10キロにエントリーした。」

 私は、その戦績と勢いに押され、遠慮がちに言った。
「私も、75までは頑張って走ろうと思っています。」
 すると、すかざず、
「なに言ってるの。もっと頑張れるよ。」

 ビックリ顔の私に、彼は続けた。
「俺は、昭和14年生まれだ。79歳だよ。
それでも、走るよ。」
 続けてこうも言う。
「あんたと同じで、退職後のランナーだよ。
まだまだだよ。なあ。」
 ポンカンを頂いた時より、ポッカーとなった。

 こんな凄い人が身近にいた。
どこまで追いつけるだろう。
 さて、さて、またまた一つ目指すものが増えた。

 


  春を待つ 『有珠善光寺』  
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続々・あの時 あのこと

2018-03-02 19:52:07 | 心残り
 2月、総武線の黄色い電車に乗った。
車窓に流れる都会は、北のどんよりとした冬とは違い、
青空の下やけにまぶしく感じた。
 何度も紅梅に目が止まった。
春の息吹きに、羨ましいとつぶやく私がいた。

 さて、その黄色い電車からの眺めは、
現職時代、くり返し目にしてきた。
 実は、もう35年以上も前のあの日から、
総武線H駅のすぐそばの家並みを通過するたび、
心を突き刺す出来事を思い出した。

 異動してすぐに、5年生を担任した。
教室で初めて子ども達と対面した時、
どの子も好奇な目で私を見た。
 その表情に、何となく暗さがあった。
この先に不安を直感した。

 案の定、男子はよくケンカをした。
仲裁に忙しかった。
 女子は、3つのグループに分かれ、
牽制し合っていた。
 和気あいあいとした雰囲気はなく、
常に攻撃的な子ども達だった。

 蛇足だが、先生方も仲が良くなかった。
職員会議でも、セクトがあり言い争いをくり返し、
勢力争いもどきをしていた。
 大人がそうである。子どもに影響しない訳がない。

 職員はともかく、
私の学級の雰囲気を変えなくてはならなかった。
 様々な手立ての1つとして、連休が過ぎてすぐ、
宮沢賢治の『雨ニモマケズ』を教室の前面に掲示した。

 そして、その詩の素晴らしさなど、何の説明もせず、
私は下校指導の時間に、こんな提案をした。

 「この詩を、暗唱できないかな。
今すぐでも、明日でも、いいや何日かかってもいい。
暗唱できた人は、みんなの前で言ってみよう。
言えたら、免許皆伝だ。」

 早速、教室の横掲示板に、
『雨ニモマケズ免許皆伝』コーナーを作った。
 みんなの前で暗唱できた子の名前を、
そこに掲示することにした。

 翌日の帰り、暗唱にチャレンジする子が現れた。
3人が、免許皆伝となった。
 その日、暗唱した子をみんなで拍手をし、讃えた。
驚きと賞賛が、今までと違う学級の空気を作った。

 その活気は、翌日もその翌日も続いた。
免許皆伝になった子を讃える。
 だから、どの子もそれを目指して頑張った。
学級が変わる大きなきっかけになった。

 約2ヶ月半が過ぎた。
S君を除いて、みんな免許皆伝となった。

 そのS君のことである。
口数が少なく、色黒で小柄な子だった。
 この間、ずうっとみんなの前で、
暗唱にチャレンジしなかった。
学級のだれも、暗唱できないS君を責めたりしない。
それでいいと私は見過ごしていた。

 ところが、夏休みあけ、2学期が始まってすぐだった。
下校指導の時間、突然S君が手を挙げた。
 そして、一度も間違えず『雨ニモマケズ』を暗唱したのだ。
私だけでない。それは、学級全員にとって驚きだった。

 長い大きな拍手が続いた。
私は、すぐにS君の氏名を書いた札を、
免許皆伝コーナーに貼った。
 満足そうな、S君の明るい顔を見た。

 11月下旬、個人面談で、
初めてS君のお父さんにお会いした。
 どんな事情なのか、父子家庭だった。
お父さんは、仕事の合間をぬっての来校だったらしく、
汚れた作業着姿のままだった。

 「Sが、世話をかけて申し訳ありません。
私と同じで、できが悪くて・・。」

 人の良さそうなお父さんは、何度もそう言いながら、
「毎晩、『雨ニモマケズ』をくり返し私に聞かせたんです。
免許皆伝ですか、その日は、うれしそうでした。
 ありがとうございます。
あんな笑顔、私もうれしくて、先生。」

 2度3度と頭を下げながら、
お父さんはそう話し、教室を出て行った。
 胸が熱くなった。
誰にも何も言わず、モクモクと頑張っていたS君。
 『雨ニモマケズ』の最高の理解者だと思った。

 そのS君が、行方知れずになったのは、
6年生になってまもなくのことだった。

 欠席の連絡もなく休みが続いた。
住まいを訪ねてみた。
 2階建ての木造アパートの1室だった。
しかし、そこに人の気配はなかった。

 お隣さんが、つい先日引っ越したと言った。
S君からの連絡を待つ以外方法がなかった。

 それから1か月くらいが過ぎた頃だ。
学級の子が、川向こうのH駅の近くで、
S君を見たと教えてくれた。
 
 翌日から、自転車で大橋を渡り、
夕方のH駅周辺を走り回った。
 何日かかっただろうか。
随分とH駅周辺の道に精通した。
 遂に、狭い路地をトボトボと1人歩いているS君を見た。

 声をかけると、一瞬驚いたようだったが、
すぐにいつもの顔に戻った。
 「今、どこに居るの?」
「あっち]
私の問いに、指を差して応えた。
「つれてって」。

 S君は、壊れかけのうす暗い階段を上り、
かしがったドアの前に案内してくれた。
 そっとドアを開けてみた。
4畳半と小さな台所の部屋だった。

 薄くて汚れた布団と毛布が、そのままになっていた。
急に部屋の窓が揺れた。
 総武線の黄色い電車が、すぐそばを通った。
足の踏み場にこまるほど、雑然としていた室内だった。

 辺り構わず雑誌や食べ散らかした物を、
1カ所に寄せながら色々訊いた。
 急に引っ越すことになり、ここに来たこと。
 学校には、ずっと行ってないこと。
 時々お父さんが帰ってくること。
 夜は、一人でここで寝ていること。
ポツリポツリ、時間をかけて話してくれた。

 そして、昨日から何も食べてないと言った。
何が食べたいか訊くと、ラーメンと応えてくれた。

 「すぐに食べに行こう。」
急ぎ靴を履こうとする私に、小声が返ってきた。
「でも、お父さんに叱られるから・・。」
「そうか、じゃぁ、ごめんなさいって、
先生が、お父さんに謝りの手紙を書いてあげる。
それでいいだろう。」

 『とても心配していた。S君に会えて安心した。
学校に連絡がほしい。
そして、今夜はラーメンを一緒に食べる。
お子さんを叱らないで。』
 そんなことを、手紙にした。

 S君は、安心したようで、
私と一緒にラーメン店の暖簾をくぐった。
 「どう、美味しい?」
箸を動かしながら、浅黒いS君の顔が明るくなった。
 今も、ハッキリとその顔を覚えている。
「うん、美味しい!」。

 あの時、私はようやく探し出したS君との一時に、
安堵していた。
 きっと深い事情があるのだろう。
性急な解決よりも、
お父さんからの連絡に期待しょうと思った。

 だから、ラーメン店を出るとすぐ
「また来るからね。」
S君の肩に両手をやって、学校へ戻った。

 ところが、お父さんからの連絡は来なかった。
1週間が過ぎた。これ以上待ちきれなかった。
 再び、あのうす暗い階段を、
ギスギスと音をたてて上った。

 かしがったドアにカギはなかった。
そっと部屋を覗いた。
 食べ残しのすえた匂いが鼻をついた。
誰も居ない。
 1週間前同様、汚れた布団と毛布、
それに、足の踏み場に困る散らかりようだった。

 しばらく待ってみたが、
仕方なく「連絡を待ってます」と、
学校と自宅の電話番号を添えた手紙を、
ドアに挟んで戻った。

 それから、また1週間後、
うす暗い階段の先の、かしがったドアの前に立った。
 私の手紙はそのままになっていた。
S君もお父さんも、もうここにはいない。

 それでも、数日後に再び訪ねた。
何も変わっていない。
 何度も行き来した大橋を、
自転車をこぎながら学校に戻った。
 その日、川風が冷たく思えた。
切なさと無力さを、必死にこらえた。
 
 あの日、S君を探し出した。
それが、不都合を招いたのだろうか。
 部屋の様子からは、
全てを投げ出し、急いで姿を消したように思えた。
 事情を知らず、
私は余分なことをしたのだろうか。

 個人面談でお会いした、
あの人の良さそうなお父さんを思い出した。
 『雨ニモマケズ』を暗唱したS君、
ラーメンをすするS君、
そして教室でのいつものS君が、次々と私を囲んだ。

 親子2人、人目をさけながら、
どこで過ごしているのだろう。
 2人に、私ができることはないのだろうか。

 学校に戻ってすぐ、私の想いを教頭先生にぶつけた。
「わかりました。後は、校長先生と相談して、
学校ができることをします。
 先生は、学級の仕事に戻って、頑張りなさい。」

 その後、S君についての情報は、
誰からも何も届かなかった。
 
 時折、消息不明の子どもの数が報道される。
あの頃、S君もその1人になったのだ。

 まもなく50歳になることだろう。
あの時、何もできなかった私。いや余計なこと・・。
 先日も、それを悔いながら、
総武線の車窓から、H駅そばのあの家並みに、私は頭をさげていた。




  猛吹雪 自宅前もホワイトアウト寸前 
コメント
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