ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

「大事」の前に ~外国人アレルギーのその後

2016-06-23 21:18:06 | あの頃
 20年前のことになる。
まずは、当時のこんな一文から始める。

 『昭和46年4月、私は東京都E区で教職の第一歩を踏みました。
以来、26年になりますが、この間、常に心がけてきたことは、
教育に対する情熱と児童愛をもって子どもの教育に当たることでした。

 私はこの26年間、様々な子どもにめぐりあってまいりました。
その中で「教育の基本は児童理解に始まり、児童理解に戻る」
ことではないかと考えるようになりました。
そして、今では、それが私の信条になっております。

 今、子どもの情況を見ますと、
まもなく訪れる21世紀の社会に不安を感じているのは、
私一人ではないように思います。

 このような時だからこそ、私は、信条であります
「教育は児童理解に始まり、児童理解に戻る」ことを
学校経営の基本に据え、
子どもにどんな困難をも乗り越える力と
他を思いやる心を育てたいと考えております。

 そのために、次の3点を教職員に求め、
学級経営や授業に生かすように、指導して参ります。

 その第1は、子どものありのままの姿を理解すること、
そのことを指導の基本姿勢にすること。
 第2に、子どもを決して否定することなく、
よさや可能性を伸ばす指導を徹底すること。
 第3に、常に子どもの側に立った
支援・指導の工夫・改善に努め、その実践を継続すること。

 最後になりますが、私は、学校のこのような努力する姿を、
家庭や地域社会に知らせることに心がけながら、連携に努め、
今後の学校教育にあたる所存です。 

 以上、私の紹介と校長になった場合の抱負と致します。』

 その年、教頭であった私は、『校長選考』に挑戦していた。
第1次の「論文選考」を通過し、第2次の「面接」へ進んだ。

 上記の1文は、その面接で求められる
「校長になった場合の抱負」を、
5分以内でスピーチする原稿である。

 面接という『大事』へ向かう昼下がりの電車内で、
私は、この1文を何度も呟いていた。
 面接会場は、有楽町駅で下車すると、
すぐの所だった。

 それは、一駅前の東京駅から始まった。
私の乗った山手線から、沢山の人が降り、
何人かが乗り込んできた。
 その中に、ガイドブックを片手にした、
大柄な外国人男女3人がいた。
 空いた座席はなく、
3人は私の横の吊革につかまった。

 何やら真剣な表情で、会話が続いていた。
私は、下車直前にもう一度と、例の一文を呟き始めた。
 面接の冒頭でのスピーチである。
滑り出しが、面接の成否を決める気がしていた。

 ブツブツと必死な私に、何の前触れもなく、
明るい笑顔の外国語が話しかけてきた。

 その日、私は、まさに勝負服だった。
自前のスーツでも一番高価で気に入ったもの、
その上一目でブランド品とわかるネクタイをしていた。
 自己評価は、ちょっとした『中年紳士』だった。

 3人は、それを見て、話しかけたのだろうか。
言葉の響きから、何となく英語だとわかった。
 しかし、相変わらずの
外国人アレルギー(昨年2月5日ブロクに記載)である。
 サッパリ言っていることが分からなかった。

 ビックリ顔で不安げな私に、
今度はややゆっくりとした英語が聞こえてきた。
 3人は、とてもフレンドリーな笑顔で、
私を上からのぞき込んだ。

 一瞬、私の周りのすべての時間が止まった。
私は様々なことを思った。

 『東京暮らしも26年だが、
車内で外国人に声を掛けられたことなんてないのに。
 なのに、こんな大事な日に。
それも、次で下車する間際に。
まったくもう…。
 どうする? 無視しようか?
そうしたら、きっと引きずるなあ。
後悔したままだと、面接に集中できないかも。
どうしよう。
 これは、大事の前の試金石だと思え。
どうなることか、とにかく何とか応じてみよう。』

 私は、人差し指をかざし、
「ワンスモアー プリーズ!」と、言ってみた。
 笑顔の男性が、少しだけかがんで、
さらにゆっくりとした言い方で話した。
 その言葉の中から、「ゥエノ」だけが聞き取れた。

 私は、すかざず「ウエノ? 上野?」と訊きかえした。
彼は晴れやかな表情で、
「ゥエノ、ゥエノ」と応じ、
そして、理解の出来ない英語を続けた。
 それでも、上野へ行きたいんだと類推した。

 その時丁度、電車は有楽町駅に滑り込んだ。
私は、即断した。
 太い彼の腕をつかみ、「カモン!」と下車を促した。
驚きの表情で、彼は私に引っ張られホームに降りた。
 2人も無言で下車した。

 私は、そのまま彼の腕を持ち、
階段を下り、反対側のホームを上った。
 「ネクスト、トキョーステーション。
カンダステーション。アキハバラ…。
オカチマチ…。ウエノステーション!」
 指を折りながら、通じないと思いつつも、精一杯だった。
2度くり返し、駅名を連呼した。

 3人は、ビックリした表情や戸惑いの顔をしながら、
顔を見合っていた。
 すぐに電車が来た。

「プリーズ!」
乗り込むようにと、手でそのしぐさをすると、
パッと明るい表情に変わり、車両に乗り込んだ。

 私は、ホームから「グッバイ」と手を振った。
ドアが閉じた。
 3人は両手を合わせて小さく頭をさげた。
笑顔だった。
 きっと、無事に上野まで行けるだろう。
そう確信した。

 時計を見た。
まだ、面接時間までには余裕があった。
 試金石を通過した。
胸を張って、面接会場に向かった。

 5分間のスピーチ。
それは、驚くほどのできだったと思った。
 数ヶ月後、合格の知らせを頂いた。

 「大事」の前に、こんなことがあった。




 近所の秋蒔き小麦の穂 こんなに成長
 
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あの時 あのこと

2016-06-17 22:08:46 | 心残り
 5年生を担任した。
年度初めの家庭訪問で、その子のお母さんは、
「手を挙げているうちの子を、一度でいいから見たいです。」
と、言った。

 とてもシャイな女の子だった。
私と言葉を交わす時も、
少しも目を合わせなかった。
 いつだって、私の正面に立つことを避けているようだった。

 小綺麗な服装をしていた。
自分によく似合う色合いやデザインが分かっているようだった。
丸顔の可愛い子だった。

 確かに手を挙げることはなかった。
でも、指名すると二言三言の簡単な返答はした。
 休み時間は、2,3人の女の子と校庭に行くが、
どこで何をしているのか、目立たなかった。

 授業中、気に掛けて見ていると、
私が話したり、友だちが意見を言ったりすると、
時々、納得したような表情や困惑したような表情をした。
そんなことから、心の動きを窺うことができた。

 ある時の作文に、
『手を挙げて、意見や感想を言ってみたいけど、
私にはできません。』と、書いてあった。
 『いつか、できるようになるといいね。』
と、書き添えた覚えがある。

 その子も、もう40歳を越えているだろう。
今も、シャイなのだろうか。
手を挙げる経験は、どうなったのだろう。
 時々、思い出したりする。

 長い教職生活であった。
毎年毎年、色々な子どもと、
それこそ、一つとして同じではない素敵な出会いがあった。
 その全てが、私の宝物である。

 しかし、中には、あの時のあのことが、
ずっと心にあって、
気になったまま、今も重たい気持ちでいることがある。
 たわいもないことと思ってもらえたらいいのだが、
そんな2つを記す。


 ◆ まだかけ出しの教員だった頃だ。
同じ地区の近隣5校の高学年が集まって、
9月に水泳大会、10月に陸上大会があった。

 いずれも、代表の子どもが選手になり、
それぞれの種目で力を競った。

 6年担任をしていた。
夏休み明け前から、水泳大会に向け特別練習をした。
 泳力のある子が、毎日2、3時間の練習を続けた。
どの子も、約2週間、大会のため意欲的に取り組んだ。

 大会の3日前には、出場選手が決まった。
できるだけ多くの子に出場機会をあげるようにした。
 学級の半分が選手になった。残りの半分は、応援にまわった。

 選手の一人にY君がいた。
運動能力があり、水泳に限らず
体育の時間はいつも注目されていた。
 大会では、花形の50メートル自由形に出場することになった。
私もクラスメイトも、その種目の1位を期待した。
 順位は、出場者全員の1回きりのタイムで決まった。

 5校の子ども達の大きな声援の中、Y君は飛び込んだ。
飛び込んですぐ、彼は異変に気づいた。
 自分への期待の大きさに、緊張しきっていたのだろうか。
水着の腰紐を結び忘れていた。

 飛び込んだ勢いで、水着がずり下がってしまった。
彼は泳ぎをやめて立ち上がり、水中で水着を上げた。
そして、再び泳ぎ始めた。
 プールサイドの応援席は、一瞬静まりかえった。

 結果は、言うまでもない。1位どころではなかった。

 大会を終え、会場から学校までの道々、
頭を垂れる彼に、誰も近づこうとしなかった。
 そんな彼の肩に手を添えて、私は明るく言った。
「来月には、陸上大会があるじゃないか。
今日の悔しさは、そこではらそうよ。」

 陸上大会の3週間前から、早朝の特別練習が始まった。
彼は、真っ先に登校し、
率先して校庭のライン引きや用具の準備をした。
 そして、熱心に練習した。

 私は、希望を受け入れて、
50メートルハードル走に、彼をエントリーさせた。
 先生方のアドバイスをよく聞き、
彼はハードリングをくり返しくり返し練習した。

 水泳大会の悔しさが、きっとそうさせているのだと思った。
1位でなくてもいい、好成績をとってほしいと願った。

 大会当日、自分への期待もあったのだろうか、
とびっきり明るいY君だった。
 声援も人一倍声を張り上げていた。

 いよいよ彼のレースになった。
1位で通過すると、準決勝に進める。
 私は、1位通過を確信していた。

 スタートの合図が鳴った。 
6人が一斉に走り出した。
 案の定、第1ハードル、第2ハードルと、
トップで越えていった。

 そして最終ハードル。
彼の足が、ハードルを蹴ってしまった。
物凄い音でハードルが倒れた。
 そして彼はころんだ。

 スローモーションを見ているようだった。
グランドにころがった彼を、
5人のランナーが追い抜いていった。
 彼は、体育着の土をはらいながら、ゴールまで進んだ。

 その日も、会場から学校までの道々、
頭を垂れる彼に、誰も近づこうとしなかった。
 実は、私もその一人になっていた。
Y君に近づくことができなかった。

 肩を抱いて、何か言ってあげたかった。
グランドで転倒したその時から、必死に、言葉を探していた。

 今なら、言葉など要らない、
そっと肩を抱いて一緒に歩くだけでいいと思える。
 しかし、あの頃の私は、それに気づかなかった。

 励ます言葉が見つからず、彼をそのままにしてしまった。
Y君は、トボトボと学校まで戻り、
そして、消えるように下校していった。

 何もできなかった。
申し訳ない気持ちだけがいつまでも残った。
 今も、それは変わらない。


 ◆ 私は、4年生担任の経験がない。
3年生担任は1度だけある。
 だから、貴重な中学年担任、
つまり3年生との思い出には、特別なものがある。

 1,2年生とも、5,6年生とも違い、
3年生は、とにかく底抜けに明るく、
元気がいいと言った印象である。
 毎日が、楽しかった。

 その中で、学級で一番の人気者だった
Aちゃんのことは記憶から離れない。

 Aちゃんは、学級一小さな子だった。
いつもニコニコしていて、言うことにも、
一つ一つのしぐさにも、ユーモアがあった。
 学級のみんなは、Aちゃんと一緒にいることが、
大好きだった。

 お母さんによると、家でも全く同じようで、
いつもお父さんお母さんを明るくしていた。
 Aちゃんは、一人っ子で兄弟がいなかった。
なので、時折一人でポツンと、
寂しそうにしていることがあったらしい。

 「それだけが、気がかりなんです。」
と、お母さんは言っていた。
 だからよけいに学校では、
みんなとワイワイガヤガヤするのが、
好きなんだと私は思った。

 私は、よくAちゃんをからかった。
Aちゃんは、出席番号が一番だった。
 ある日、毎朝の出席確認で、
わざとAちゃんを飛ばし、2番の子から呼名した。
 そして一番最後にAちゃんの名を呼んだ。

 Aちゃんは、
「ぼくが一番なのに、しょうがない先生だ。」
と、言ってから、ハイと手を挙げた。
 そこで、みんなはドッと笑った。

 「Aちゃん、間違えてごめんなさい。」
私が、おおげさにあやまる。
 「今度から、気をつけて下さいね。」
と、若干すねた表情で切り換えされた。

 翌日、もう一度同じ事をする。すると、
「昨日も同じ事をして、もう、しょうがない先生だ。」
と言って、みんなで大笑いをする。
 明るい一日が、そうして始まった。

 Aちゃんを中心に、
いつも笑いの絶えない1年間が過ぎた。
 4年生に進んでも、学級編制替えがなかった。
そのまま担任をしたかった。

 しかし、次の年、私は5年生の担任になった。
残念ながら、Aちゃんたちと別れた。

 1ヶ月が過ぎた。5月の連休があけてすぐ、
5,6年合同の遠足があった。
 夕方4時過ぎ、遠足を終え、
高学年と一緒に、学校近くまで帰ってきた。

 私は、その列の先頭を歩いていた。
すると同じ歩道の前方から、Aちゃんが一人、
お使いにでも行く途中だったのか、
私たちの列に近づいてきた。

 久しぶりのAちゃんだった。
Aちゃんは私を見て、ニコニコした。
私もニコッと明るい顔になった。目と目があった。

 すごく嬉しい表情のまま、すれ違った。
「久しぶりだね。元気にやってる?」と、言えばよかった。

 なのに、その時私は、
「あれ、君、誰だったっけ?」
と、目をそらしたのだった。

 すぐ、冗談が過ぎたと思った。
しかし、そのままAちゃんをやり過ごした。
 振り向くこともしなかった。

 ちょっとの時間があった。
急に、後ろの方から叫び声が届いた。
 「先生、僕はA川T雄です。忘れないで下さい。
A川T雄です。」

 胸がつまった。さっと振り向いてた。
Aちゃんが、ポツンと立っていた。
 大声で言った。
「Aちゃん、ごめん。忘れてなんかいないよ。」

 再びAちゃんの声が届いた。、
「先生、僕はA川T雄です。忘れないで下さい」
今度は、すこし涙声だった。

 列から離れて、Aちゃんを追いかけて行けばよかった。
でも、そうしないまま、学校に向かった。

 翌日、Aちゃんを廊下で見つけた。
「Aちゃんのこと、忘れてないよ。
なのに、ゴメンんなさい。」
 心から頭をさげた。

 「そうか。でも、忘れないで下さい。」
また言われてしまった。

 綺麗な心を汚してしまった。
申し訳ない気持ちは、今も、残ったままだ。 




 近くの畑で ジャガイモの花が咲いた
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頑張れ、先生の応援団!

2016-06-10 22:14:51 | 教育
 学校現場を去って6年になる。
当時に比べ、学校はさらに様変わりしているのだろう。

 時々、聞こえてくる先生たちの声からは、
仕事量の拡大を初めとした厳しさや、
指導の難しさ等が増しているように思う。

 確かに、私の現職時代を思い出しても、 
年々、子どもの有り様が変わり、
一人一人の違いが目立つようになった。
 その一人一人に的確に応じるのは、
難しさと共に、相当のエネルギーが求められた。
 きっと、その傾向は益々進んでいるに違いない。

 その上、様々な方面からの学習要望も、
そのレベルと共に、ジャンルも多様化してきているようだ。
 そして、今や、学力向上と共に、
体力向上までもが最重要課題になった。

 余談だが、
体育の授業等で、培われた体力を測定するはずの体力検査だが、
検査の方法を習熟し、よりよい測定結果を出すためにと、
体育の授業が使われている。
 本末転倒と思えてならない。

 結果オンリーの空気感がそうさせているのだろう。
先生方に、大きな徒労感が蔓延しても不思議ではないと思う。

 このような状況下にあって、
日々奮闘を余儀なくされている先生方に、
心からのエールを送りたい。

 ある先輩が、こんなアドバイスをしている。

 ◎踏ん切り・変更
「人間相手の教育はなかなか思い通りに行きません。
精一杯努力してもダメなら、ある時点で踏ん切りをつけ、
方針変更する柔軟さも必要です。」

 ◎仕事以外の仲間・趣味
「教師はどうしても学校という
閉鎖空間に置かれてしまいますので、
時には意識して教師以外の仲間と交流したり
趣味に没頭したりして、ストレス解消を心がけましょう。」

 ◎息抜き・充電
「残業時間が増える一方の教員の勤務ですが、
年に2~3回は無理をしてでも
計画的に休みを取るなどして、
息抜き・充電をしましょう。」

 先生方には、この助言を
しっかりと受け取ってほしい。
 きっと、これらの行為が新鮮な息吹きを与え、
新しいエネルギーを生み出してくれると思う。

 しかし、それ以上に先生方を力付けるのは、
何と言っても、生き生きと成長する子どもの姿である。

 授業を中心とした学習指導と、
日々の生活指導を通して育まれた、
先生と子ども、子ども同士の
良好な人間関係が全てと言ってもいい。
 この環境が、必然的に子どもの変容を促し、
先生を励ますのである。

 30歳代の終わり頃だった。
荒れに荒れた6年生の学級を担任した。
 何から手をつけていいのかさえ分からなかった。
しかし、粘り強い指導が次第に実を結んだ。

「先生から、人間は優しくなければいけないと、
教えてもらった。
もう決して乱暴はしません。」
 一番の暴れん坊が、そう言い残して卒業していった。

 子どもの前で初めて涙があふれた。
それまでの疲れが、一瞬にして消えた。
 先生とは、そういう性質をもった者たちだと思う。

 さて、『先生の応援団』と言う本題に移る。

 最近、各種の報道から、
学校や先生方のこんな訴えが聞こえる。
 (1) 教育委員会等からの、
調査依頼や各種報告書の提出が増えた。
 (2) 管理職や同僚による、
指導と言う過度な干渉や管理の強化が進んでいる。
 (3) 保護者・地域等からの、
理不尽な批判や一方的な要求が絶えない。

 これらは、先生方に不満やいら立ち、
そして多忙感やプレッシャー、
遂には焦りや諦めをもたらしている。
 これは、学校や先生方にとって、明らかな悲劇である。

 上記に上げた三者の現状は、
残念ながら先生方の意欲や実践の足を引っ張り、
後退に力をかしていると言っていい。

 しかし、本来、この三者は、『先生の応援団』のはずである。

 以下、いくつかの事例を示す。
どうか、『先生の応援団』として、
本来の力を取り戻し、発揮して欲しい。
「頑張れ、応援団!」


 (1) 教育委員会等の場合

 いじめが今ほど大きな課題となっていなかった頃、
私が着任した学校で、その小さな芽が膨らみ始めていた。
まだいじめの定義や指導のあり方が明確でなかった頃だ。

 当時、意欲的な指導主事が、区教委に数名いた。
彼らは、専門家の援助を受けながらも夜を徹して、
『いじめをなくそう』と題する補助教材を作成した。
 相当のご苦労があったようだ。 

 教委のトップもそれに予算をあて、
区内の全小学校高学年と中学生向けに、印刷・配布をした。

 学校でも、それを活用して、くり返しいじめの授業が行われた。
まだ、いじめの指導が始まったばかりだった。
先生方にとって、その教材は大きな指導指針になった。
 私の学校では、いじめと思われるようなことが、
姿を消していった。

 ▼ この事例は、教育委員会が学校の現状を先取りし、
先進的で専門的な援助をしたものと言える。
 学校や先生の応援団、そのものである。

 教育行政と言う役割から、
学校の現状把握の調査等は必要なものであろう。
 大切なのは、その上での教委ならではの施策である。
それが『先生の応援団』になる。


 (2) 管理職・同僚の場合

 3月に大学を卒業したばかりの先生が、
4年生担任になった。
 全く自信がなかったが、毎日全力で子どもと向き合った。

 最初はおとなしく先生の言葉を待っていた子ども達だったが、
不明瞭な指示と不安げな表情に我慢ができなくなった。
 夏休み前には、
「お願いだから、私の言うことを聞いてください。」
と、先生が言うようになった。
 夏休み明けからは、一人で学級を治めることができなくなった。

 翌年、担任をはずれた。その翌年、本人の強い希望で、
今度は3年生の担任になった。
 その年、新しい校長が着任した。
早々、その先生の指導ぶりを見にいった。
 2年前と同じ道を進むと思った。

 時間をかけて、面談をした。
そして、指導の上手なA先生の授業を、
週に1回は見せてもらうこと。
 そして、校長との交換ノートを作り、
どんな相談事でも書くことにした。

 時間をぬって、A先生の授業を見に行った。
その感想や子どもの様子を、ノートに殴り書きして持ってきた。
 そのつど、校長は丁寧な言葉をそえて、戻した。

 ある日、そのノートに、
「A先生の言葉は、一人一人の子どもの心に届いている。
私は、それができていない。」とあった。
 校長は、これを待ってたとばかり、
「よくぞ気づいた。」と、褒めた。
「不安は不安のままでいい。心配は心配のままでいい。
子どもの心に届いたら、
子どもはそれをそのまま受け入れてくれるよ。」
と、添えた。
 その年、そんな気づきとアドバイスが、
いくつもくりかえされた。

 今、その先生は中堅教員として、
学校になくてはならない存在になっている。 

 ▼ この事例は、多忙を承知の上での取り組みである。
その苦労が、教師としての成長にしっかりと結びついた。
まさに報われたのである。

 管理職や同僚による安易な叱責や、その場限りの助言は、
ともすると迷いや自信喪失に繋がりかねない。
 同じ学校にいる者として、苦しみや辛さを共有し、
共感的で、かつ粘り強い支えになることが重要なのである。

 私は、同じ学校の管理職や同僚だからこそ、
『先生の応援団』になれると思っている。


 (3) 保護者・地域等の場合

 15年前、池田小学校の悲惨な事件以来、
子どもの安全に対する取り組みが急激に高まった。

 その頃、学区内の町会では、子どもの安全のために、
力を貸したいと言う気運があった。
 町会長さんが、一人の健康な年寄りに声をかけた。
「朝だけでいいから、あの交差点で子どもを見守ってほしい。」
 それを聞いた気まじめな彼は、
朝だけではなく下校時も交差点に立った。
 それは、町会長さんと彼だけの口約束だった。
誰もが、その内立ち消えてしまうと思っていた。

 ところが、暴風の日も猛暑の日も、
彼は立ち続け、見守り続けた。
まさに、ボランティアの見本だった。
 それを見ていた方が、
せめて一日くらいは休みをと、交替を申し出た。
やがて、一緒に見守る日が増えた。
 そして、二人、三人と立つ人が現れた。
その中心に、いつも彼はいた。

 町会の有力者がそれを見て、力になりたいと思った。
せめてこれ位はと、役所にかけあった。
 学校名入りのジャンパーを作り、彼らに渡した。
思いもしなかった贈り物に、涙を浮かべた。

 そんな人々に支えられている学校である。
 今度は、「俺たちにできることはないか。」と、
父親の有志が立ち上がった。
 運動会や学芸会と言った大きな行事のたびに、
学校内外のパトロールを始めた。

 ▼ この事例は、学校が要望したものではない。
まさに、自主的自発的な行動である。
 こんな人々に囲まれ、支えられて、学校での教育活動は、
毎日平穏無事に進んでいる。

 これこそが、『先生の応援団』の真の姿ではなかろうか。
だから、この学校では、
保護者や地域からの理不尽な批判や要望は見られないのだ。




 こんな色の『アヤメ』も咲いた 
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A  氏  へ  手  紙

2016-06-04 11:06:16 | 素晴らしい人
 拝 啓
 
 北の大地は、春の盛りを迎えました。
それぞれの草花は素敵な色香を競い、
周りの野山は、
木々が若葉を育んだ柔らかい緑で膨らんできました。

 毎年のことですが、
大自然が春に織りなす、こんな鮮やかさに、
今年も、私の心は奪われています。

 いつものことながら、貴兄には、
筆無精のままで、失礼を重ねております。
 どうぞご容赦頂けますようにと付すと
「またまたそんな甘いことを。」
と、きっと笑止されることでしょう。

 さて、5年前の11月末のことを思い出しました。
毎年グループ展の案内をいただいでおりましたが、
その年だけは「何としてでも」の思いで、
銀座の画廊へ足を運びました。

 想像以上に若々しい貴兄の姿に、
一瞬声をかけるのをためらいました。
 貴兄は、どことなくよそよそしい私を見るなり、
10年ぶりの再会など吹き飛ばしてしまうような、
明るい表情に親しみを込め、歓迎してくれました。 

 近況を語り合うこともなく、よく顔を合わせ、
言葉を交わし合っている者同士のような、
そんな振る舞い方で応じてくれました。

 貴兄は、自作の数点と仲間たちの作品に、
ちょっとしたコメントを加えながら、
案内役をしてくださいました。

 変わらない切れ味のよい雄弁さに、
心地よささえ感じました。

 自作の彫刻の前に、再び戻った貴兄は、
思うように進まない創作をなげき、
こんな驚きの言葉を付け加えました。

「彫刻を志した学生時代から今日まで、
ずっとスランプなんだ。今も、脱出できないままさ。」

 長い創作活動の歩みに対する強烈な自己評価に、
私は返す言葉がありませんでした。

 しかし、「スランプ」の言葉から、創作に対する歯がゆさや、
追い求めるものの難しさ、
自己の能力や才能に対する高いプライドが、
伝わってきました。

 そして、貴兄らしい物言いに、
なつかしさと共に、新鮮な感性に触れた思いがしました。

 実は、あの時、私はすでに伊達への移住を決めていました。
これが、貴兄とお会いする最後の機会と思っていました。
 それを伝えるタイミングを探りながらの場と時間でした。。

 私の40年におよぶ教職生活。
その歩み中で、最も強い力で私を引きつけ、
遂には貴兄の数々を、私の目指すものにし、今に至っているのです。
 素直にそのお礼も言いたかった。

 機会は、ようやく別れ際に訪れました。
しかし、万感の想いは、お礼どころか、
私の求めに応じてくださった握手に、
力を込めるのが精一杯でした。

 画廊からの帰り、華やかな銀座の夜道を歩きながら、
貴兄に出会った頃の瑞々しい驚きを思い出しました。

 新米教師だった私は、職員室で初めて見た貴兄の、
あのスッとした立ち姿とセンスのいい服装に、
『都会の人』のオーラを感じたのです。
素敵だと見とれました。

 ちょっとハスに構えたようなものの言い方、
教師でありながら、彫刻に情熱を注ぐ日々、
大人の洒落た気配りができる何気ない立ち振る舞い、
貴兄のそんな一つ一つに、私は憧れました。
 「いつかは私もああなりたい。」
と、思ったのです。

 さらに、「ロダンだ」「ブールデルだ」「マイヨールだ」
と名を上げ、彫刻や芸術を説き、
創作の魅力と自己表現の大切さを、熱く語ってくれました。
 全く知らなかった世界観に、
私は、ただただうっとりと彷徨うばかりでした。

 そう、あの頃から、
何かを創り出すこと、
何かを表現すること、
そしてその元となる、私自身を探し求めることに、
興味を持つようになったのです。
 
 そんな師とも言える貴兄と、久しぶりに再会し、
「ずっとスランプ。」とおっしゃった。
私にはなかった評価の物差しでした。新鮮でした。
 しかし、あれからずっと、
その言葉の周りを、ウロウロしている私です。

 「いや、もっとできる。」
「決して、こんなもんじゃない。」
「必ず大きく開花する時がくる。」
 そんな思いが、その人をさらに高い場所に導く、
その原動力になるのは確かです。
 しかし、それはスランプからの脱出とは違います。

 愚鈍な私は、新美南吉のこんな詩に行き着きました。
どうか、長文の引用をお許し下さい。


 『    寓  話
               新美南吉

  うん、よし。話をしてやろう。
  昔、旅人が旅をしていた。
  なんというさびしいことだろう。
  かれはわけもなく旅をしていた。
  あるいは北にゆき、あるいは西にゆき、
  大きな道や、小さい道をとおっていった。
  行っても行っても、
  かれはとどまらなかった。
  ふっても照っても、かれはひとりだった。
  とある夕暮れのさびしさに
  たえられなくなった。
  あたりは暗くなり、
  だれもかれによびかけなかった。
  そうだ、そのとき、
  行くてに一つの灯を見つけた。
  竹むらのむこうにちらほらしていた。
  旅人は、やれ、うれしや、
  あそこに行けば人がいる。
  なにかやさしいものが待っていそうだ。
  これでたすかると、
  その灯めあてにいそいそいった。
  胸がおどっていた。
  さびしさもわすれてしまった。
  だが、旅人は なににむかえられたとみんなは想う。
  なるほど、そこにはやさしいひとびとがいた。
  灯のもとで旅人は、
  たのしいひとときをすごした。
  だが、外の面をふく風の音を聞いたとき、
  旅人は思った。
  私のいるのはここじゃない。
  私のこころは、もうここにいない。
  さびしい野山をあるいている。
  旅人はそそくさとわらじをはいて、
  自分のこころを追いかけるように、その家をあとにした。
  旅人はまた旅をしていった。
  また別の灯の見えるまで。
  なんとさびしいことだろう。
  かれはとどまることもなく旅をしていった。
  この旅人はだれだと思う。
  かれは今でもそこらじゅうにいる。
  そこらじゅうに、いっぱいいる。
  きみたちも大きくなると、
  ひとりひとりが旅をしなきゃならない。
  旅人にならなきゃならない。』


 私は、この詩に共感します。
いつだって、旅人なのです。
 ようやくたどり着いたそこに、安住しないのです。
次の何かを求め、再び立ち上がるのです。
それが、人のすることだと思います。

 芸術と言う困難な旅も、
私のような愚者の旅も、
同じように旅は旅。
 そして、いつまでも続くのです。

 その旅は、やり方、迫り方はそれぞれでも
その先は、自分探しなのではないでしょうか。
 そう考えるのは、愚かなことでしょうか。

 いつか再びお会いする機会に恵まれたら、
美酒を交え、そんな談論風発はいかがですか。

 これから猛暑へ向かいます。
どうぞ、お身体を大切にお過ごし下さい。

                     敬 具




クロユリをみつけた (好まれない花のようだ)
 
 
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