ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

指導の常識って  ~「正しさ」はどこ

2016-02-26 15:38:33 | 思い
 2年前、書店のエッセイコーナーで、
重松清さんの『きみの町で』を見つけた。
 表紙の帯には、
「小さなお話でも、深い問いかけを込めたつもりです。」
と、筆者の言葉があり、興味を持った。
 教師、親そして子どもにも、お勧めしたい一冊である。

 冒頭にある『よいこととわるいことって、なに?』では、
電車のロングシート席に座っている子どもが1人ずつ登場する、
4つの場面が描かれている。

 その1人、ヒナコの場合はこうだ。

 ロングシートに座っているヒナコの目の前に、
赤ちゃんを抱っこして、
小さなおにいちゃんを連れたお母さんが立っている。
 吊革につかまることもできず、
両足をふんばってなんとか体を支えている。

 ヒナコは席をゆずってあげたいと思う。
だが、頭が痛い。気分が悪い。
席をゆずったら、こっちが倒れてしまう。
 すると、隣の席のおじさんが「どうぞ」と席をゆずった。
目の前に立ったおじさんが、小さく舌打ちをした。

 ヒナコは思う。違うのに。
わたしは席を「ゆずらなかった」のではなく、
「ゆずりたくてもゆずれなかった」のに。

 ヒナコの降りる駅はまだずっと先だったが、
次の駅で降りてしまった。
まぶたが急に熱くなって、涙がぽとりと膝に落ちた。

 他の3人も、席をゆずることにまつわるお話である。
実に深い問いかけである。

 重松さんは、ロングシートに座った4人の子どもを通じて、
こう言う。
 『「わたしの正しさ」は、乗っているひとの数だけある。
でも、それは必ずしも「ほかのひとの正しさ」とは一致しない。
なんとなく決まっている
「みんなの正しさ」(それを「常識」と呼ぶ)から、
「それぞれの正しさ」がはみ出してしまうことだって、ある。
 ……あなたの「正しさ」はどこにある? 
そして、それは誰の「正しさ」と衝突して、
誰の「正しさ」と手を取り合っているのだろう。』

 そう言えば、長年携わってきた教育の場においても、
それぞれの「正しさ」があった。
 そして、『なんとなく決まっている「みんなの正しさ」』、
つまり指導の常識があった。
 そんな中で、誰の「正しさ」と衝突し、
誰の「正しさ」と手を取り合うか。
迷う場面もしばしばあった。


  その1

 30才代の頃だ。5年生を担任していた。
 給食には、必ず牛乳がついた。
三角パックではなく、昔ながらの牛乳ビンだった。
 ビンの口は紫色の薄いビニールをかぶり、
丸い厚紙のキャップでふさがれていた。

 トラブルは、この牛乳キャップだった。

 学級の男子の一部で、
そのキャップを使った遊びがブームになった。
机上に、それぞれ1枚ずつキャップを出し、
それを順に、爪の先ではじいて裏返しにする。
 うまく裏返ると、そのキャップはその子のものになるのだ。
その遊びを通して、より多くのキャップを手に入れることに、
子ども達は躍起になった。

 当然、負けの込んだ子は、新しいキャップがほしかった。
毎日飲む、自分の牛乳キャップだけでは足りない。
 だから、給食後に集められたキャップの争奪戦が始まった。
 給食が済むと、一時、教室の配膳台を囲んで
ジャンケンがくり返され、
やがてそれぞれの手中に、キャップが収まった。

 私は、そんな遊びに夢中になる男子を黙認していた。
食後のキャップの奪い合いも、微笑ましく感じていた。

 ところが、騒ぎがおきた。
 給食が終わり、食器等載せたワゴン車を、
廊下の所定位置へ移動を終えた後だった。

 女性で大ベテランのS先生が、
厳しい表情で私の教室に入ってきた。
後ろに3,4人の男子がいた。
 S先生は、給食指導の主任をしていた。
給食の残量等の具合を調べに、
ワゴン車の集まった場所へ行った。

 すると、そこに牛乳キャップを集め、
ポケットに入れている子ども達がいた。

 「何してるの。」
S先生は、語気を荒げた。
 子どもの1人が、平然と
「牛乳キャップをあつめています。」
と、答えた。

 「やめなさい。それはゴミですよ。
まとめて捨てる物です。」
「僕たち、牛乳キャップを集めて、遊んでるの。」
「汚いでしょう。ダメ。やめなさい。」
「でも。」
 子ども達は、ポケットからキャップを出そうとしなかった。

 S先生は、私を見るなり、
「この組は、どんな遊びをしているんですか。
牛乳キャップを遊び道具にすることを、許しているんですか。
すぐに、止めさせて下さい。」
 私は、S先生の剣幕に押され、
「すみませんでした。」と、頭を下げた。

 子ども達は、少し距離を置いたところで、
その有り様を静かに見ていた。
S先生の姿が、教室から消えてからも、
渦中の男子たちはじっと私を見て、立ちつくしていた。

 「さあ、掃除をはじめなさい。」とだけ言った。
しっくりとこない悔しさ、理不尽な思いが心に残った。
 でも、それを子ども達に気づかれないようにと必死だった。

 翌日から、男子はキャップ遊びをしなくなった。
「教室の中でなら、いいんだよ、」と言う私に、
「でも、先生に悪いから。」と、少し寂しい顔をした。



  その2

 K君は、幼稚園の年長さんだった。
園で一番足が速いことは、みんな知っていた。

 運動会が近づいたある日、
年長さんを4つのグループに分けて、
リレーの練習をした。

 「K君は、赤組のアンカー。」担任のY先生が指名した。
 「K君がいれば、絶対に一番になれる。」
赤組のみんなは大喜びした。
K君も、そんな期待に応えようと、張り切った。

 いよいよスタート。
4つのグループは、その色の輪っかバトンを握って、
一斉に走り出した。それぞれ、園庭一周を走る。

 最初の1人目、そして2人目と接戦だった。
大声援の中で、リレーは続いた。
 ところが、赤組にトラブルが発生した。
バトンを落とし、立ち止まる子が出た。
途中でころんでしまう子もいた。
 K君は、そんな子にも大声を張り上げ、励まし続けた。

 ついにアンカーのK君にバトンが渡された。
その時、すでに他のアンカーとは半周もの差がついていた。
 K君は、あきらめていなかった。
全力で走り出した。
 でも、園庭を半周すぎたところでゴールを見た。
もう3グループともゴールして、喜び合っていた。

 悔しさがこみ上げてきた。
K君は、急に走るのを止めてしまった。
 ふて腐れたように歩きだした。涙が出てきた。

 みんなは、そんなK君を見て、
今まで以上に大きな声で、
「ガンバレ、K君」と、声援を送った。
 その声に力を得たのだろう。
K君は、涙をぬぐって、再び走り出した。
園児たちは、そんなK君に、
今度は大きな拍手を送り続けた。

 ゴールが近づくと、K君の目から再び涙があふれた。
K君は、涙をしゃくり上げながら、
ゴールを走り抜けた。
 思っていたゴールシーンとは、かけ離れたリレーだった。

 ゴールのすぐそばにいたM先生は、
K君に歩み寄り、ギュッと抱きしめてあげたかった。
 あまりにも、K君がかわいそうだった。
K君の気持ちが心に響いた。
 それでも、再び走り出したK君をすごいとも思った。

 ところが、M先生が歩み寄るその前を、
担任のY先生が横切った。
 Y先生は、泣きじゃくるK君の片腕をつかみ、
園庭の隅に連れて行った。
 Y先生は、とても厳しい表情で、K君を見ていた。

 きっと、途中で走るのをやめて、歩きだしたことを
責めているのだと思った。


 ▼ 今日も、日本のどこかの学校や幼稚園で、
類似したようなドラマが、繰り広げられているだろう。
 私は、それぞれの先生の子どもを想う気持ちに、
偽りはないと思う。
だから、その「正しさ」をそのまま受け入れたい。
 一人一人の先生の「わたしの正しさ」も、
そして、「それぞれの正しさ」からはみ出したことも。

 つまりは、それが指導の豊かさや、
教育活動のしなやかさに通じると、私は信じている。
 そんな柔軟さ、多様さが、
その子のその子らしさを育てるのではなかろうか。




明治25年建造『迎賓館』(旧伊達家住宅・市指定文化財)

                                                  ※次のブロク更新予定は3月11日です。
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自力でピンチを脱出  ~私の3.11

2016-02-19 22:01:18 | 思い
 つい先日、食文化研究家である長山久夫氏の、
エッセイに目がとまった。
『覚悟を決めた日』と題するそれは、
3.11の体験を記したものだった。

 その時、氏は江東区お台場近くの大きな病院にいた。
そこから西武線練馬駅近くの自宅まで帰宅するのだが、
その間の様々な混乱を語っている。
そして、結びでこう述べた。

 「巨大地震はいつおこるか分からない。
何かあった時、頼りになるのは自前の筋肉と直感力しかない。
歳も関係ない。
災害時にはまわりの人だって命がけなのだから、
自力でピンチを脱出するしかない。……」
 氏の教訓に、同感である。
同時に、5年前のあの日、東京にいた私を思い出す。

 当時、私は、校長職のカウントダウンをしていた。
卒業式まで2週間、退職まで3週間を残すだけだった。

 その日も、5校時が終わり、
帰りの会そして下校時間へと移っていた。
 「今日も無事終わる。」
気持ちが若干緩んだ時だった。

 突然、職員室の緊急地震速報が鳴りだした。
 「副校長さん、放送入れて。」と、叫んだ。
「緊急放送、地震です。地震です。
すぐに、机の下にもぐりなさい。」

 その放送が、終わらないうちに、
校舎は、グラグラと揺れだした。
 私は、校長室に備えてあるヘルメットをかぶり、
次第に大きくなる揺れの中で、
「もう少しで退職なのに、間が悪い。」
そんな思いが心をよぎった。

 次第次第に揺れは激しくなる。ピークが分からない。
 「これ以上大きくなると、子どもが危い。」
そんな危機感に襲われた時、揺れが止まった。

 ここからは、月1回実施してきた避難訓練が生かされる。
『訓練は実際のように、実際は訓練のように。』
私は、訓練のたびに、そうくり返し言い続けてきた。
 訓練のように、整然と校庭避難が行われた。
私の願いは、間違いなく浸透していたと思った。
 
 校庭で、子どもの安全確認と今後の安全確保へと進んだ。
各担任から副校長に報告があり、集約が進んだ。
 副校長と一緒に担任2人が、
少し緊張した表情で私のところに来た。

 2人は低学年の担任だった。
地震発生数分前に、子ども達を下校させたとのことだった。
 おそらく、下校途中で地震に見舞われている。
「だから、子どもの安全確認ができません。
下校させてしまい、すみません。」
と、顔色を失っていた。

 避難訓練にはない事態である。
でも、私は、すぐに応じた。
 「それはしかたない。無事に家に着いたか。
どうしているか。電話連絡をしなさい。」

 その後、2人には電話確認ができない子どもへ、
自転車をとばし、家庭訪問をさせた。
 近くの大人に手助けを受けた子もいたが、
2時間後、2学級とも全員の安全が確認できた。

 さて、その間、校内では様々な対応に追われた。
第一は、校庭避難をした子どものその後である。

 私は迷った。
3月とは言えまだ東京の外気は冷たかった。
とりあえず、もう一度教室に戻し、下校準備をさせたかった。
ジャンパーやコートを着せてあげたかった。
でも、余震が心配だった。
 これから先の避難行動は、すべて私の判断だった。

 校庭で、両膝をかかえて座っている300余名の子ども。
経験のない恐怖の中でも、
一人一人が気丈にいることがよくわかった。
 訓練のようにいる子ども達。
今こそ『外柔内剛』だと心に誓った。

 案の定、大きな余震がきた。
小さな悲鳴が聞こえた。
 私は、表情一つ変えずに、、
全児童と教職員の前に立っていた。
 この事態に対する情報は、ほとんど届いてこない。
判断は、私自身の想いと直感力しかなかった。
 
 校庭には、保護者の姿が徐々に増えた。
 私は、集団下校ではなく、
保護者への引き渡しを選択し、職員に指示した。
 下校後、一人、余震に震える子どもを想った。
頼れる大人の元に子どもをしっかりと託す道を、私は選んだ。

 「ランドセルなどの下校準備は、保護者の皆さんに引き渡した後、
保護者の方と一緒に行うか、
校舎へは入らず、そのまま下校するかしてください。」
 有能な副校長は、簡易拡声器でくり返し、それを保護者に伝えた。

 1時間後、残った子どもが50名ほどになった。
いつでもすぐに校庭避難ができるよう、
校庭への出入口がある1階の教室で、
暖をとらせながら保護者の迎えを待たせた。

 「学級の全員を引き渡すまで、
決して子どものそばから離れないように。」
 私は、担任に強調した。
 「今、子どもが一番寄り添える大人は、
担任以外にはいない。」
 そんなメッセージを暗に伝えたかった。

 最後の子どもを保護者に渡したのは、
深夜12時を回っていた。
 保護者は、仕事先の新宿から混乱する都心を抜け、
徒歩で学校までたどり着いた。

 それまで、泣き言一つ言わなかった3年生の女子だったが、
お母さんの顔を見るなり、
大声を張り上げて泣きだし、抱きついた。
 「いくらでも、泣いていいよ。」
と、言いながら、
担任は何度もタオルで目頭を抑えていた。
 たくさんの教職員で、親子の後ろ姿を見送った。

 次に、第2の大きな対応であるが、、
それは、まだ保護者への引き渡しの真っただ中から始まった。、
 区内小中学校を避難所とする決定が届いた。

 災害時用の服装で区職員2人が、
分厚い災害時マニュアルの本を小脇に、学校に来た。
 この本にあるからと、「避難場所はどこにしますか。」
と、突然私に訊いてきた。

 2人は、体育館だと思っていたようだ。
しかし、私は戸惑いながらも、3月のこの時季、
暖房のない所での避難に抵抗があった。
 体育館ではなく、1階の教室から順に、避難場所にすると答えた。
一瞬、「えっ」という顔を見せた。構わなかった。

 電車は、いっこうに動く気配がなかった。
夕暮れとともに、徐々に学校を頼りにしてくる人が増えた。

 急ぎ用意した避難者名簿に、50名を超える記載があった。
毛布2枚とペットボトルの水、缶詰の乾パンを配るよう指示した。
 そんな時、若い女性から、声が届いた。
「男性の方と一緒に横になるのはいやだ。」と言う。
 私は、急いで、男性用と女性用の避難教室を決め、
移動をお願いした。
 すると、今度は、
「こんな時だから、一緒にいたい。」
と言う男女が現れた。
 男女共用の避難教室も急いで設けた。
 
 マニュアル本を片手に、目を丸くする区職員。
「いいんだよ。きっとマニュアルにはないけどね。」
と、肩を叩いた。

 午後9時過ぎ、一気に80名の方が学校に来た。
近隣の大型店舗で、電車の再開通を待っていた人たちが、
閉店時間でしめ出された。
 店内放送が、近くの小学校が避難所になっていると知らせた。
どの人の顔にも疲労があった。
 みんなで協力し合い、迎え入れた。

 その日、『帰宅難民』と呼ばれる方が、
150名以上不安な一夜を私たちと一緒に送った。
 そして、多くの教職員が、その対応に献身的に当たった。

 翌朝、電車が動きだすのと同時に、
学校から人々の姿がなくなった。
 一夜を過ごした各教室の中央には、
毛布、ペットボトル、空き缶が、きれいに置かれていた。
 お礼の言葉がなくても、私には伝わるものがあった。

 教室に残されたそれらを、教職員と運びながら、
災害時用服装の区職員が、
「勉強になりました。」と、私に笑顔をくれた。

 もう一度、長山久夫氏の言葉を拝借する。
『災害時には……自力でピンチを脱出するしかない。』





  湿った雪が載ったジューンベリー
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シリーズ『届けたかったこと』  (2)

2016-02-12 14:39:35 | 教育
 『届けたかったこと』の第2話です。
 月曜の朝、わずか5分間ですが、
全校児童と全職員を前に話をしました。
 私が伝えたい想いを、そのお話に託してきました。

 なお、今回の骨子は、
大先輩・剛家正士先生著『かたりぐさ』からお借りしました。



   3 M君のよさ


 私が教えた子にM君という子がいました。
 今、M君はお家に置いてある薬、『置き薬』と言いますが、
そのセールスマンをしています。
 日本各地のお得意さんを回って、
いい薬をすすめたり、お客さんの注文に応じたりしています。
 どこの地方でも、お客さんはM君が来るのを、
いつも待っていてくれました。
 ですから、会社でもM君を大切にしています。
 今では、私よりはるかに高い給料を頂いているようです。

 さて、子どもの頃のM君ですが、
クラスの中で一番体が小さく、力も弱い子でした。
 運動もダメで、どんな勉強もビリの方でした。

 そんなM君でしたが、誰にもまねのできない、
素晴らしいところがありました。

 その一つは、いつもニコニコしていることです。
 子どもですから、いたずらをします。
いたずらをすれば、当然叱られます。
 しかし、叱られても、M君はニコニコしていました。

 「こら、M、お前、わかっているのか。」
 「ハイ。」とニコニコ。
 「叱られているのが、そんなにうれしいか。」
 「いいえ。」と、ニコニコ。
 「うれしいんだろう。笑っているじゃないか。」
 「いいえ。」
と、やはりニコニコしていました。

 そして、もう一つのいいところ。
それは、友だちにとても親切だったことです。

 例えば、友だちが消しゴムを忘れて困っている。
すると、スーッと、目の前に消しゴムがきます。M君です。
 机から鉛筆が落ちてころがります。
だまって拾って机の上に。見るとM君なんです。

 いつもニコニコしていて親切なM君だから、
ケンカなんてありません。

 M君は、体が小さくて、力も弱いので、
きっと、いじめられないように気をつけていたと思います。
 なので、そのうちに知らず知らず、誰よりもよく、
人の気持ちがわかるようになったのだと思います。

 M君は、高校を卒業すると、薬をあつかう会社に入りました。
会社の人たちはすぐに、
「M君、M君」と、いろんな仕事をたのみました。

 何をたのんでも、ニコニコと親切にていねいにやります。
誰からの頼まれごとでも、気軽にニコニコと手伝います。
 ですから、誰よりも早くたくさんの仕事を覚えました。

 社長さんは、そんなM君を見て、
セールスの方の仕事をしてもらうことにしました。
 M君が行くと、初めてのお客さんでも、
M君がすすめる品物を注文するようになりました。

 今日も、M君は日本のどこかで、お客さんと、
ニコニコと話し込んでいるだろうと思います。




   4 掃除は 誰がする

    (1) 空 気
 
 空気をきれいにするのは、誰なのかというお話をします。
 私たちは、少しの休みもなく空気を使って生きています。
息をしているのだから、当たり前です。
 私たちだけではなく、そこにいるウサギも、
そしてチョウチョウやトンボ、
それより小さな虫だって、空気を使って生きています。

 生き物だけではありません。
自動車やオートバイ、ストーブやガスコンロ。
みんな空気を使います。

 空気は使うと当然汚れます。
汚れた空気は、体の害になります。
 ですから、空気はその汚れを取ること、
掃除が必要になります。

 皆さんは、空気の掃除をしますか。
お家の方は、空気の掃除をしますか。
 確かに、保健室には空気をきれいにする機械があります。
でも、そんなもんで、
学校中の空気を掃除することができますか。
 地球中の空気を
全部きれいにすることができますか。
それは無理ですね。

 でも、空気の掃除をする者がいなくては、
空気は汚れる一方です。大変なことです。

 しかし、きっと空気の掃除をする者がいるんです。
誰だと思いますか。どこにいると思いますか。

 実は、校庭の周りにある木や草花、芝生が、
空気の掃除係なのです。
 学者の計算によると、1ヘクタールの広さ、
この学校の敷地のおおよそ同じ広さですが、
この広さいっぱいに、木を植えておくと、
1年間で70トンの空気をきれいにしてくれるそうです。
 70トンの空気がどれくらいの量なのか、
誰か調べてみるといいと思いますが、
 すごい量の空気をきれいにするんです。

 つまり、空気の掃除は、私たち人間ではなく、
植物がしているのです。
 大切に大切にしたいですね。



    (2) 心の汚れ

 先週は、空気の掃除は誰がするのか。
そんなお話をしました。今週も、そうじのお話です。

 さて、人間は誰でも失敗をします。
私も色々と失敗をしてきました。お家の方も失敗をします。
 みなさんはまだ小さいから、
私たち大人以上に沢山失敗をします。
それでいいんです。
 失敗するからこそ、人間なんだと私は思っています。

 さて、もう10年以上も前ですが、
私が担任した3年生の男の子に、K君という子がいました。

 ある日、4時間目の道徳の時間が終わって、
私が教室から出ると、
K君が小さな声で、「先生」と私を呼び止めました。

 私は、いつもと様子が違うK君を見て、
「どうしたの。」
と、訊きました。するともっと小さな声で
「ぼく、夜、ねむれないんです。」
と、今にも泣きだしそうになりました。

 「ねむれないのか。どうしたんだ。」
するとK君は、
「ぼく、万引きをしました。」
と、いうのです。
 これは、大変なことです。
私はK君をつれて、職員室に行きました。

 K君は、少しずつでしたが、話をしてくれました。
スーパーで、お気に入りの消しゴムや、
好きなキャラクターの描いてあるノートと
鉛筆をこっそり持ってきたんです。

 1人ではありません。友だち2人も一緒でした。
 K君に、その2人をよんできてもらい、話を聞きました。
3人のを合わせると、ノートなど30以上にもなりました。

 「悪いことをしたと思いますか。」
 「はい。」
 「スーパーへ、あやまりに行けますか。」
 「はい。」
 「お家の人に、自分のしたことを話せますか。」
 「はい、話せます。」

 もう、外は日が暮れかけていました。
私は、3人をつれて、一軒ずつ家をまわりました。

 K君の家が、一番近いので最初に行きました。
K君は自分のしたことをお母さんに話しました。
 お母さんは、はじめはビックリした顔をしていました。
その内に、怒りだしました。

 私は、お母さんに言いました。
 「怒らないでください。自分で悪いと気がついて、
自分で話したのです。許してやって下さい。
とてもつらかったと思います。
それでも、一生懸命、私に話したんです。
えらいと思います。」
 お母さんは、泣きながらうなずきました。

 翌日、3人をつれて、お家の方と一緒にスーパーに行きました。
盗んだ物を出しながら、一人一人ちゃんと謝りました。

 こうして3人は自分の心の汚れを、自分できれいにしたのです。





  真冬の小川 岸辺に氷の模様が 
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背中を押してもらって

2016-02-05 22:05:24 | 感謝
 教職の道へ進むようにと
私の背中を押してくれた人たちがいた。
 すべては、高校3年のときのことだ。


 ● 中学3年で担任をして頂いたM先生は、
このブログに2度登場した。
 1度目は、昨年4月「『初めての岐路』から」で、
2度目は同年6月「夏祭りの日に」であった。
 私を形づくってくださった、まさに恩師である。

 だから、中学校を卒業し高校生になってからも、
しばしば級友たちと先生を訪ねた。

 当時は、まだ男の先生方に宿直という制度があった。
どのくらいの頻度なのかは分からないが、
学校に泊まり、校舎等の管理をしていた。
 その宿直の日に、学校へ行った。
夜6時頃から8時過ぎまで、
男女6,7人で3ヶ月に1回程度だったと思う。
 いつもその日が待ち遠しかった。

 応接室だったのか、
クッションのきいた革張りの長椅子がある部屋で、
先生を囲んだ。

 先生は、毎回、何か一つ話題を提供し、私たちに意見を求めた。
 ここ1、2年、年末の紅白歌合戦で美輪明宏が熱唱する、
『ヨイトマケの唄』を初めて知ったのも、その時の先生の話からだった。

 炭鉱町でいじめを受ける子と母の姿、
そして、真っ黒になった手足を温めあう男女の話を聞いた。
 まだウブだった私には、強い刺激だけが残った。
今も、脳裏にその衝撃がある。

 高校3年の秋口、先生の宿直が来た。
久しぶりに参加する仲間もいて、ウキウキしていた。

 先生から、進路のことを訊かれた。
それぞれ思い描いているこれからの道を短く話した。
 先生は、一人一人の言葉にうなずき、
明るい表情で「そうか、頑張れ。」と励ました。

 当時、私は生徒会の活動に夢中だった。
学校祭や体育祭の企画と運営の中心になり、
それを一つ一つ成功させることに、
充実感を覚えていた。

 授業が終わるのを待ち望み、放課後と同時に生徒会室に走った。
各役員と打ち合わせをしながら、、
夜遅くまでワイワイガヤガヤと飛び回っていた。

 だから、あの夜、卒業後の進路を問われても、
返事を持っていなかった。。
 私の順になった。先生の笑顔に、
「まだ、何にも考えていません。」
と、正直に小声で言った。そして、
「それより、生徒会が楽しくて。」
と、付け加えた。
「そうか、頑張れ。」
と、他の子と同じ言葉を先生は返してくれた。

 先々を見ていない自分が少し恥ずかしかった。
でも、さほど気にもかけず、その場にいた。

 いつものごとく、楽しい時間は瞬時に過ぎ、
先生は、学校の玄関まで私たちを見送ってくれた。
 別れ際、私一人、先生に呼び止められた。

「将来のことを考えるのは大切なことだよ。よく考えてごらん。
どうだ、一緒に先生をやる気はないか。面白い仕事だぞ。」
先生は私の肩をたたいた。

 思ってみなかった。
その時、どう返事したか覚えがない。
 帰りの道々、
 「一緒に先生を」の声が、
グルグル、グルグルと私の周りを回っていた。

 「M先生と同じ仕事。」
それは、夢のまた夢よりも遠いことだったが、
嬉しかった。

 その時、「先生に」という思いが、少しだけ形になった。


 ● 親友の一人が、大学受験をあきらめ、
東京で就職すると言い出した。
 裕福な家庭だったので、当然私立大でも行くと思っていた。

 なのに突然の変身だった。その心境を深刻に語ってくれた。
私など想いも至らない動機の数々に、大きな衝撃と刺激を受けた。
 「お前も、将来のことをしっかりと考えろ。」
と、言われているように思った。

 5人兄弟の末っ子の私。
貧しい家庭だったが、ただ一人わがままに育った。
だから、何事にも楽観的だった。
 そんな私でも、親友の転身は、
今後を考える大きな切っ掛けとなった。

 「何がしたい。」、「どんな生き方をする。」、「目標は何だ。」。
考えたこともないことばかりだった。
 もう初雪が舞う季節だった。
明確な答えが見つからなかった。
 私は、次第に追い詰められていた。

 そんなある日、偶然だったが、
生徒会役員と生徒会新聞部という関係で、
よく取材を受けていた、後輩の女子と帰り道が一緒になった。

 彼女は、私が利用する次のバス停で降りる。
すでに薄暗くなっていることを理由に、
「自宅近くまで送る」と、申し出た。

 バスを降りると、ボタン雪が静かに落ちていた。
初めて、肩を並べて歩いた。
 彼女から、卒業後のことを訊かれた。
「考えがない。」とは言えなかった。
 その場を取りつくろうと、親友の進路変更のことを言った。
そして、M先生から肩をたたかれたことを話した。

 その時、急に彼女が立ち止まった。
「きっと、いい先生になると思います。勉強、頑張ってください。」
「あっ、ありがとう。」
それが精一杯だった。体が熱くなった。

 自宅近く、彼女の小走りの後ろ姿を見送った。
音もなく降り積もる雪道。
「いい先生」が、何度も何度もこだました。
 誰も見ていない街灯の下で、
私は、チョットだけ胸を張った。


 ● それは、日曜日の朝のことだ。
 市場が休みのため、父も兄も、
いつもより遅い朝食をとっていた。
当然、母もいたようだ。
 私は寝坊を決め込み、
押し入れを改造した2段ベットで、布団に潜り込んでいた。
 聞くとはなく二人の会話が届いた。狭い家だった。

 「俺は、中学しか出ていない。それで、いやな思いもしてきた。
だから、せめて高校だけは出してやりたかった。
だけどね、大学なんて……。これから、どれだけお金がかかるんだ。」

 「じゃ、お前は、反対なんだなあ。」
「高校卒業したら、働いて、少しでも家にお金を入れてもらいたいよ。」
「まあ、そうなると助かるなあ。」

 「おやじは、どう思っているんだ。」
「… … …。」
「遠慮しないで、言ってくれよ。」
「そうか……」
 私は、布団の中でかたずを飲んで聞いた。

 実は、前日の夕食時、私は家族全員を前に、
大学進学の希望を口にした。
 「国立の教育大学に行って、その後は学校の先生になりたい。」
と胸張った。
「今からでも遅くない。必死に勉強する。」
と、無謀だが、強い決心を伝えた。
 国立大学受験まで、3ヶ月余りを残していた。

 当時、我が家は、父と10才年上の兄が共同で、
生鮮食品の行商をしていた。
 父は、兄という大きな片腕に助けられていた。

 そんな父が、兄に言った。
「俺の勝手で、みんなには迷惑をかけ、こんな貧しい暮らしをさせている。
お前にも、苦労をさせ、すまない。
 俺は、尋常小学校さえ卒業できなかった。だから、悔しい気持ちはよく分かる。
だけど、勝手はよくよく承知で言うが、せめて自分の子どもの一人だけでも、
できることなら、日本の最高学府まで行かせたいと思っているんだ。」

 その後も、父の話は続いていた。
しかし、それ以上、私は聞くことができなかった。
 布団を深々とかぶり、動けなかった。

 世話になっていることを顧みず、
思いつきのような夢を言い出した自分。
 父にも兄にも、辛い思いを口にさせた。

 悔いで心がいっぱいになった。
軽薄な自分を、責めても責めてもきりがなかった。

 はれた目を、気づかれたくなかった。
誰とも、口をききたくなかった。
 数日が過ぎた。

 学校から戻ると、兄がトラックに私の机やふとんを積み込んでいた。
「大学に合格するのは大変だ。
狭い部屋だけど、探しておいた。
 今日からそこで勉強しろ。」

 突然のことだった。
 暖房ストーブもついた4畳半を借りてくれた。
 「いいか。父さんの夢なんだ。
絶対に合格しろ。大学に行け。金は心配するな。」
 トラックで、私を運びながら、兄はそう言った。
 大きな涙が一粒、私のズボンを濡らした。

 我が家から、徒歩10分。老夫婦が暮らす2階の一室。
私は、学校からすぐにその部屋に直行した。
夕食だけは自宅に戻り、再び部屋で机に向かった。
 寝る時間を削った。
 朝は、前日作ってくれた母のお握りを食べた。

 一人の寂しさや不安は、
これも兄が用意してくれたトランジスターラジオから流れる、
森山良子の『この広い野原いっぱい』が癒やしてくれた。





    寒風の中 エゾリスの朝食 
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