ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

老いることの意味

2024-08-31 12:29:43 | 思い
 ▼ 二男が誕生した年に父は亡くなった。
もう47年も前になる。
 享年70歳、胃がんだった。

 余命3ヶ月と医師に宣告されたが、
一時は自宅で療養するまでに回復し、
9ヶ月後に逝った。
 最後の言葉は、「俺の生命力もそろそろ終わりのようだ」。
看取った兄たちからそう聞いて、さすが私の父と思った。

 母は、96歳まで生きた。
膵臓にガンがあったようだが、
それよりも死因は老衰だった。

 次第に弱っていったが、
亡くなる1ヶ月程前に母を見舞った。
 しきりに「私にだけ見える虫が飛んでるのよ。
わずらわしいわ」と愚痴った。
 そして、「きっと、もう会えないね」とも。

 病室を出ると、車いすで廊下まで出てきた。
私がエレベーターに乗るのを見届けた。
 そのドアが閉まるまで、母は小さく手を振り続けた。
私は、変わらない表情のままでいようと必死だった。

 さて、私に「その時」が来たら、
どんな振る舞い方をするのだろうか。
 2人のように、ありのままを受け止めて、
鬼籍に入れるだろうか。
 悪い夢見で目覚めた朝、
気だるい体を起こしながら、そんなことを思った。

 最近は、最期のことが頻繁に心を横切るようになった。
そんな年齢だからなのか。
 それとも私の精神が老けたからなのか。

 ▼ 小中学校が夏休みになり、
今年も2週間のラジオ体操が行われた。
 70人もの子どもと大人が集まる日もあった。
多くは、6時半ぎりぎりに会場の広場に駆け込む。

 ある朝、私とは反対方向から来たご夫婦と、
広場の入り口でバッタリ。
 挨拶を交わし、少しの時間だが立ち話になった。
いつも、ご主人との会話だ。
 「特にどこが悪い訳でもないけど、
最近は何をやるにも腰が重くなってしまい、困ります」

 同世代だ。共感できた。
「同じですよ。どこへ行くのも、
ちょっと体を動かすのも。
 いやですね。歳ですかね」。

 すぐ横をラジオ体操のカードを首に提げた子どもが
勢いよく走って行く。
 やや恨ましそうな目で追っていると、
珍しく奥さんが加わってきた。

 「そうですよ。
あの子たちのようにはいきませんが、
まだまだお若いですよ。
 主人とは違います。
羨ましいくらい」

 誰のことかと思った。
「私ですか。そんなことはありません」
 「いつお会いしても、お元気で明るくて、
はつらつとしていらっしゃる」。

 「とんでもない」と否定しながらも、
奥さんの言葉を真に受け、気を良くした。
 いつもより元気にラジオ体操をした。

 体操を終えての帰り、
連休の時、10数年ぶりに再会した大学時代の友人夫妻を思い出した。
 わずか数時間の我が家訪問だったが、
帰る際に、私の事を
「うちの主人より、ずっとずっと若々しい」と、
家内と同級の彼女が言った。

 そう! 彼女もあの奥さんも、
私の容姿を言ってるのじゃない。
 きっと雰囲気に若さを感じてのこと。
「それでもいいじゃないか!
若く思ってもらえたのだから」

 少し浮き浮きしていた。
今日も暑い日になるだろうと思いつつも、
やけに足どりが軽かった。

 ▼ ところで、最近の私の実際はどうだろうか。
コロナ禍前と比べると、老化は確実に進行しているように思う。
 
 視力・聴力の機能低下は明らかに進行している。
2か月毎に眼科へ通院し、
1日3回点眼薬を欠かさないようにしている。
 それでも、ゴルフボールの落下地点が見えなくなった。
車を運転していても視野の狭さを感じ、不安なることもある。

 聴力は、「耳が遠くなった」に尽きる。
テレビのボリュームを上げないと、
聞き取れないことが多くなった。

 特に、バラエティー番組での早口でのやり取りが、
聞き分けられない。
 だから、家内が笑っていても、
一緒に笑えないことが増えた。

 野球中継の解説も同じで、
応援の歓声と一緒になるともう聞き取れないのだ。

 人との会話でも、不都合がある。
よく聞こえずに、聞き返すこともたびたびだ。
 発言者の声も、一部が不明瞭な場合が多くなった。
聞こえたふりを粧ったり、
話の前後から類推したりすることも・・。

 そんな機能低下と同時に、体力の低下も著しい。
スロージョギングでさえ、無理なように思えてきた。
 朝、5キロをゆっくり走っても、
その後は疲れたまま1日を過ごすことになるのだ。
 もう2ヶ月も走ってない。
ようやく1週間前から朝の散歩を始めたが、
継続には自信がない。

 加えて感受性の衰えだ。
柔らかな感性が、陰ってしまっている。
 大自然の豊かさにも、人々の温もりにも、
想像を超えた劇的な出来事にも、
さほど心躍らないのだ。
 だから、それを期待しての行動も当て外れになる。
ドキドキ感やわくわく感が減っている。

 そんな近況をひと言で言おう。
「これら全てが、私のストレスになっている!」。

 年齢とともに、できないことが増えていく現実。
もう歳だからと、諦めることのなんと多いことか。

 しかし、「そんなあるがままを受け入れていいの?」
年齢と共に訪れる老いは当然だが、 
「どう老いるか」を決めるのは、私自身と思いたい。

 このまま老いのストレスを抱えたまま過ごす・・?
それとも、「あるがまま」へチャレンジする・・?
 「老いることの意味」は、
いずれの道を選択するかなのではなかろうか。

 


      収穫の時 玉ねぎ
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お 盆 の ピ ザ 

2024-08-24 12:41:40 | 思い
 昨年のお盆は、スケジュールの都合で、
芦別のお墓へ行けず、失礼をした。

 今年こそはと、13日に家内の両親が眠る芦別市民墓地へ
行くことにした。
 そして、15日には私の両親のお墓参りへと計画を立てた。


 まずは、13日について・・・。
芦別までは、高速道を利用して3時間半はかかる。
 私も後期高齢者である。
日頃、運転には十分に気をつけている。

 それにしても、この距離をいつまで運転できるか。
今年限りとは決めていないものの、
近い将来にはマイカーを止め、
「列車とバスでお墓参りへ行く」時がくるだろう。
 そう思うと、助手席に家内を乗せたロングドライブも、
貴重な時間のように思えた。

 さて、お昼をかなり過ぎてから、
芦別の道の駅に着いた。
 駐車場は、お盆ならではの賑わいだった。

 「まずは昼食!」と、2階のレストランへ行った。
その混雑は予想以上だった。
 出入口のフロアは、
予約表に記入した人たちでいっぱいだった。
 容易に1時間以上の待ち時間が予想できた。  

 早々に退散し、お土産品が並ぶ1階で、
菓子パンやおにぎりなどで昼食替わりにしようとウロウロした。

 そのフロアの奥へ進むと、
『ピッツァ芦別』と言うオープンカフェのようなピザ専門店あった。
 カウンターを囲むように、4人がけのテーブル席が5つ6つあった。

 ここには空席があった。
カウンターに尋ねると、注文を受け付けているという。
 2階の混雑との差に違和感があった。
勝手に、「評判が良くないのかも」と思った。
 それよりも今は空腹を満たしたかった。

 店のコーナーにあった自販機から、
ピザマルゲリータの食券を一枚求めた。
 写真にあった大きさなら、2人でシェアするのに十分だった。

 備え付けのピザ釜があった。
焼き上がるまで、時間がかかるようだった。
 空いていたテーブル席で待ちながら、
スマホで『ピッツァ芦別』を検索してみた。

 「横市フロマージュ舎のカマンベールチーズ」や
「横市フロマージュ舎直営」の言葉が並んでいた。

 つまりは、地元にある横市フロマージュ舎で
作ったチーズをつかったピザをこの店で提供し、
経営していることが分かった。

 急に、期待で胸が膨らんだ。
「横市」さんの名は、若い頃からたびたび家内から聞いていた。
 高校時代の友達が結婚した相手が「横市」さんなのだ。

 手作りチーズ工場で頑張っていた彼女とは、
毎年年賀状交換をしていた。
 しかし、数年前に他界した。
その「横市」さんのお店、
「横市」さんのチーズを使ったピザなのだ。

 丁度、お盆であった。
テーブルに置かれた焼きたてのピザを、
黙ってゆっくりと味わった。
 トマトにマッチしたチーズの美味しい味、
そしてピザ生地の美味しさにもチーズは合っていた。
 私の中では、美味しいと思ったピザベスト3に入った。
 
 「評判が良くないかも」などと推測したことを、
家内の友達にそっと詫びた。
 そして、たまたまに違いないが、
席まで空けてくれていたことに感謝した。 
 だって、食べ終わる頃には、
店の入口に長い行列ができていたのだ。


 次は15日について・・・。
去年は、兄と姉、私たちの4人でのお墓参りだった。
 姉が横浜の娘の所で、術後の療養をしているため、
今年は3人だ。

 お墓参り後のことだが、
数日前に、珍しく兄が我が家の庭が見たいと連絡があった。
 「それじゃ、夕ご飯も一緒に食べることにしよう」
と、話がまとまった。

 和食店なら行き慣れているだろう。
きっと中華や焼き肉も美味しい店を知っているに違いない。
 なら、市内に私も家内もお勧めのイタリアンレストランがある。
急ぎ「5時半過ぎに」とそこを予約した。

 その店はイタリアンらしく、
取り分けて食べるコースメニューがある。
 気取らずにシェアでき、3人には丁度よかった。

 最初の4種の前菜を食べ始めてすぐ、
兄は「美味しい」と呟いた。
 その中の2種は鯖と桜鱒の魚を使ったものだったが、
どれも驚いたように「美味い!」とうなずいた。

 次の、パスタ料理は2皿だった。
ペペロンチーノ風とボロネーゼ風。
 どちらも、軽い味付けで私好みだが、
兄は、慣れないフォークに苦戦しながらも、
黙々と食べていた。

 そして、静かに、
「オレの店では、小鉢料理にスパゲティーを使うことがあるけど、
こんな味付けはしない。美味しいなあ」。

 デザートの前は、
いつ食べても満足するピザマルゲリータだった。
 1枚を3人で取り分けた。
兄は、不慣れな手つきで6つに切られた1つを、
自分の小皿に移した。
 私たちのようにはかぶりつかず、
それを再び小さく切り分け、ゆっくりと味わっていた。

 食べ終えてから、
「スーパーなんかで売っているのを、
チンして食べたことはあるけど、
それとは全然違うなぁ。
 初めて本当のピザを食べたよ。
なるほどな、美味しい。
 今日は、いい物を食べさせてもらっている」。

 兄の顔は、コース料理を終えるまで、
終始仕事人の表情だった。
 私の教職生活は、兄の援助があったからである。
わずかだが、お礼ができたのかも・・・。

 遠くで母が、喜んでいるように思えたお盆であった。




     米不足解消を願う
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早 朝 、 夢 見 る

2024-08-17 12:20:01 | つぶやき
 3ヶ月前からになるだろうか、
就寝前にカモミールの入ったハーブティーを飲み始めた。 
 安眠効果があると聞き、半信半疑で試してみた。
「効果てきめん!」と言い切れないが、
グッスリと眠れているようで続けてきた。

 そのためかどうか、
最近、早朝によく夢を見るようになった。
 昔を思い出すような懐かしいものもあれば、
時には、切なくなるようなものもある。
 目覚めた後に思い出せるのは、
決まって後者である。
 2つ記す。

  ① 熱中症!
 先週土曜日に自治会主催の『夏まつり』があった。
朝から快晴で、今夏一番の暑さの日だった。

 夕方開催のイベントだが、
午前10時半から準備を始めた。
 役員や有志など約40人で、
強い日差しの下、櫓や子供縁日、販売所の設営、
そして、串焼きや焼きそばの調理にと頑張った。

 準備前の打ち合わせ会冒頭に、
自治会長の私は挨拶で、こう訴えた。

 「今、一番危惧しているのは熱中症です。
是非小まめに水分補給をお願いします。
 そして、特に屋外での準備の方は、
定期的に会館内に入って、
エアコンの効いた所で休憩をとってください」。
 祈るような想いであった。

 その後、どの人も黙々と準備を始めた。 
私は、様々な指示や相談に応じながら、
時間を見ては、カゴに冷えたペットボトルを入れ、
水分補給を勧めて回った。

 串焼きや焼きそばで、炭火の前に立つ人たちは、
次々と手を伸ばし、カゴからペットボトルを取った。
 
 会場にブルーシートを敷き、長テーブルを置く人たちも、
同様に水分を求めた。

 エアコンのある会館内で、焼きそばのパック詰めをする女性陣も
冷えた飲み物に手を伸ばした。

 どんどん水分消費が進んだ。
何度も、急いで追加を買いに行って貰った。
 やがて、「塩飴」で塩分補給をした方がいいと声が上がった。
それもコンビニへと車を走らせた。

 全ての準備に見通しが付いた4時過ぎ、
暑さも一区切りがついた。
 気がかりだった「熱中症」も、やっと脳裏から消えた。

 「夏まつり」は、昨年同様4百人近い参加者で賑わい、
楽しく進み、予定通り7時過ぎに終えることができた。
 その後、後始末と役員の簡単な慰労会を終え、
9時前にはみんな帰宅した。
 できなかった後片付けは、翌日8時からと決めた。

 さて、カモミール入りのお茶と疲労で、
グッスリ眠った翌朝だった。
 早々と「夏まつり」会場の後片付けをしている夢を見た。

 毎年、翌朝の片付けに集まる面々で、
手際よく盆踊りの櫓から太鼓やスピーカーを降ろし、
会館の物置きに仕舞い込んだりしていた。
    
 昨日同様、猛烈な暑さの朝だった。
そこへ、散歩途中の若いパパがベビーカーを押してやって来た。
 男性は、夏まつりに参加し、「楽しかった」とお礼を言った。

 そして、私たちが片付けに動き回っているのを見て、
「手伝います!」と、
会場の片隅にベビーカーを置いて一緒に動き始めた。

 若い男性の仕事ぶりは、私たちとは違った。
キビキビしていて俊敏、その上力強かった。
 30分、いや1時間が過ぎただろうか。
若い力が1人加わったおかげで、
思いの外作業は早く終了した。

 男性は、ベビーカーへ戻った。
「どうしたの? Uちゃん! どうしたの?」
 男性の声は、異変を伝えていた。

 すぐにピンときた。
「誰か、救急車を!」
 炎天下のベビーカーの中で、グッタリとしている幼子を見た。
『昨日は、あんなに熱中症を警戒したのに・・』
 暗くつぶやきながら、私の至らなさをしきりに悔やんだ。

 夢は、そこで醒めた。
パジャマは全身の汗でグッショリ濡れていた。
 夢とは言え、詰めの甘い私の姿に気持ちは沈んでいた。
しばらくして、やっと夢でよかったと思えた。


  ② 「一歩一歩進めば!」 
 槍ヶ岳山荘に大きなリュックを置き、
水とヤッケ、タオルを入れたナップザックを背負い、登り始めた。
 アタックしているのは、槍ヶ岳の頂上だ。
  
 30代の頃、登頂経験があった。
しかし、年齢が年齢である。
 山荘まででもハードな山登りだった。
早朝、上高地を出発し、やっとここまでたどり着いたのだ。
 パートナーは、なぜか先日孫と一緒に伊達に来た二男。 

 ここから山頂まで30分程度の行程だ。
もう少しである。
 しかし、全ての経路は鉄梯子と鎖を握ってのもの・・・。
急登の連続、その上滑落の危険も伴った。 

 鉄梯子にしがみつきながら進んだ。
途中でふと足元を見た。
 真下は、全身が凍えるような急斜面の崖だった。

 足が止まった。
次の梯子へ足が動こうとしなかった。
 膝がガクガクと小刻みに震えた。

 先導の二男との間が離れた。
反対に、後ろからの登山者がもう足元に迫っていた。
 追い越しなどできない急登路である。

 「登るしかない」と分かっていた。
でも、あまりにもすごい高所なのだ。
 若い頃の景色とは全然違った。
恐怖心を押さえることができず、
私は立ちすくんでしまった。

 突然、入学前の二男も一緒に家族登山をした日が蘇った。  
中々目的地に着かず、泣き出した二男を
「一歩一歩進めば、必ず着くから!」
と私は励ましていた。 

 「そうだ。こんな時こそ一歩一歩だ!」
大きく深呼吸し、鉄梯子を握った手に力を入れ、
梯子の足を一段上へかけた。
 その時、先を行く二男から声が降ってきた。
「一歩一歩進めば、必ず着くから!」
 
 夢は、そこで醒めた。
目覚めると、確かに高齢の私がベッドに寝ていた。
 「もう、そんな歳か!」
小さくつぶやいた。 




     夏草茂る 気門別川
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D I A R Y 24年7月

2024-08-03 10:31:53 | つぶやき
  7月 某日 ①

 20日に『12年! 心の変容が・・?』と題して、
ブログの更新をした。
 次が、その書き出しである。

  *    *    *    *    *
 『S区退職校長会から会誌への原稿募集が来た。
例年のことである。
 2012年に当地へ移り住む時に、
多少でも縁つなぎになればと入会した。
 以来、毎年会誌への寄稿だけは続けてきた。

 ブログや地元紙に書いたことに加筆したものが多いが、
その時々、思いついた近況報告のようなものである。
 それでも、「毎年楽しみに待ってます」と、
便りをいただいたことも・・・。

 300字程度のものだが、列記すると、
この12年間の心の変容が見えるかも・・・。
 「試してみる!」。』 
  *    *    *    *    *

 ブログは、上記に続いて2012年から23年の「駄文?」を、
列記して終えた。

 それから数日後だ。
本ブログの『アクセス分析』にある
6時間以内のアクセスページの記録を見た。
 すると、なんと21年11月23日に更新した
『その時々 ~某会誌より』にアクセスがあった。

 急に記憶が蘇った。
急ぎそのページを開いてみた。
 書き出しは、こうだ。

  *    *    *    *    *
 10年前になる。 
当地へ転居する時に、
それまでの縁を多少なりとも繋いでおこうと、
某OBの会へ籍を置くことにした。

 年数回の集まりは、当然東京都内が会場のため出席できず、
唯一参加できるのは、年1回発行される会誌への執筆だった。

 先日、今年の会誌が届いた。
会員各位の近況を知ることができ、
小誌の隅々まで目を懲らした。
 
 ふと、暇に任せ、今までの会誌を取り出し、
私自身の一筆を読んでみた。
 どんな想いで書き記したのか、その時々が蘇った。

 会誌を通して振り返ると、
あっと言う間だと思っていた歳月を、
1つ1つ私らしく歩んでいたように思えた。   
 貴重な『証』と言えそうだ。
  *    *    *    *    *

  このブログも、上記の後に2013年から21年の「駄文?」を
列記して終わっている。

 つまりは、3年前に同様の記事をブログ掲載していたことになる。
それに全く思い当たらず、
「同じような書き出しで、まったく同じもの!」を記したのだ。
 きっと、それに気づき、確かめた方がいたのだ。
ついに、私もボケが始まったか。
 まったく、情けない!!!


  7月 某日 ②

 夏休みになり、小4の孫が二男と一緒に、
5泊6日の予定で遊びに来た。

 昨年は、往復新幹線だったが、
今年は勇気を出して羽田から新千歳まで空路。

 いくつかやりたいことや、行きたい所のリクエストがあった。
その1つが、温泉だった。
 
 色々と宿泊先に迷ったが、
今年は、北湯沢温泉の『森のソラニワ』にした。
 ここには「山の中のアスレチックパーク」があり、
子供に人気だと聞いたからだ。

 かなり本格的なコースのようで、
利用には身長と体重の制約があった。

 数年前に家族ずれを対象にリニューアルしたリゾートホテルには、
館内にもいくつか遊技施設があった。
 そして、北海道らしい広い大浴場と屋外プールも。
食事処も広く、夕食も朝食もバイキングで、
賑やかな子供の声が飛び交っていた。

 さて、翌日はいよいよアスレチックに挑戦だった。
「ジイジもいっしょにやろう」
 何度も誘われたが、その都度「無理!」と強く断った。

 受付を済ますと、
係員が孫と二男にヘルメットと命綱のついた装備を着せた。
 その装着なしでは、チャレンジできないのだとか・・。
2人は次第に緊張した表情になっていった。

 そして、いよいよ森の木立ちに造られたアスレチックへ。
私と家内も一緒に森に入り、その様子を見ることに・・・。

 命綱を付けた2人が梯子で登ったスタート位置は、
1本の杉の中間点にあった。
 見上げると平屋の屋根上より高い場所に2人はいた。

 私はドキドキしていた。
「あんな高い所の空中散歩!」
 命綱とヘルメットがあっても、落下が心配になった。

 スタート順が来た。
「ゆっくりでいいからね!」
 回りの人々は固唾を飲み、静かなのに、
私だけ一人、大声を張り上げていた。

 1つまた1つ、
孫も二男も真剣な表情で進んでいった。

 「ヨウシ! うまいよ、うまいよ。
その調子! 一歩一歩慎重にね!」
 首が痛くなるほど高い所を見上げ、
ずっと大声で励まし続けた。

 声を出しながら、こんな危険な所へ誘ったことを
後悔していた。
 もう途中で止めることができない。
無事、ゴールするまで声援を続けるしかなかった。

 所要時間はどれ位だったか。
途中で進めなくなっていた子がいたりで、
渋滞があった。
 なので、40分余りだったろうか・・・。

 2人は、笑顔で生還してきた。
「面白かった。もう1回やってもいいなぁ」
とまで言った。
 「もうやらなくていい。それより、じいじの声、聞こえた?」
思わず尋ねた。
 「全然、聞こえなかった。だって、夢中だったもん!」

 そして、もう一つ訊いた。
「高くて、怖くなかったの?」
 「あまり! ずうっと足元ばかり見てるから、
どれだけ高いかなんて、わからなかった」だって。

 私のドキドキは、すべて空振りだったようだ。

 
  7月 某日 ③

 小中学校が夏休みになった。
自治会が声をかけ、
恒例の「ラジオ体操」が始まった。

 時間になると、ラジオ体操の出席カードを首に下げ、
自治会会館横の広場に、子供たちが集まってくる。
 昔も今も変わらない夏の光景である。

 昨年より参加者が多く、活気がある。
しかし、気になることが・・・。
 「友達同士で誘い合って」の参加が減っている。
代わって、親子での姿が年々増えているのだ。

 さて、この変化をどう理解すればいいのだろう。
子供の友達関係が希薄になっているのではないだろうか・・。
 だから、友達を誘うよりも親を頼りにする。
そう推測し、気が重くなるのは私だけだろうか。




    『ガクアジサイ』盛り ~色がいい
               ※次回ブログの更新予定は8月17日(土)です。
   
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