ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

初めての温泉&グルメ

2017-01-27 22:18:08 | あの頃
 初めて温泉に入ったのは、
確か小学校2年生の春だったと思う。
 両親と5歳違いの姉と一緒に、登別温泉に行った。

 どうして、そこに行くことになったのか。
なぜ、兄たちは同行しなかったのか。
 その辺りの経緯については、憶えがない。

 朝食を済ませてから、
取って置きのワイシャツを着せられ、出かけた。

 徒歩で30分の東室蘭駅から汽車に乗った。
4駅目の登別駅で下車した。
 私は、母の手を握り、
慣れない鉄道の旅に緊張しながら、改札口を抜けた。

 もうとっくに時効だから正直に言おう。
緊張の理由がもう一つある。
 それは、体が小さかったので、
幼児と偽って、無賃乗車をした。

 駅前から、登別温泉行の路線バスに乗り替えた。
最後尾の席に4人並んで座った。

 少し行くと、道の両側に桜が咲いていた。
「後ろを見てごらん。ほら桜のトンネルよ。」
 姉が、バスの後ろ窓を指さした。

 私は、後ろ向きに座りなおして、それを見た。
バスが進んでも進んでも、
満開の桜におおわれた道は、とぎれなかった。

 座席の背もたれに顎をのせて、ぼーっと見た。
「きれいでしょう。」
 姉の言葉を聞いて、きれいの意味を初めて感じた。

 今は年に数回、その道を通る。2車線が4車線に変わった。
でも、いつも、あの日の『きれい』との出会いを思い出し、
心が洗われる。

 やがて、バスは終点に着き、乗客はみんな下車した。
通りの両側には、温泉宿や食堂、おみやげ店があった。
たくさんの人で賑わっていた。

 私たちは、その通りの一番奥にある
『第一滝本館』を目指した。
 日帰り入浴ができた。

 昭和30年代のことである。
脱衣室は別々だが、大浴場は混浴だった。

 ものすごく広くて、天井の高いお風呂場だった。
白い湯気で奥まで見通すことができなかった。
 大人や子供の色々な声が、響いて聞こえた。

 私は、その巨大さと喧騒にすっかりとおじけづいた。
だから、入り口付近の浴槽に体をつけただけで、
初めてのプールに近寄ることもなく、
逃げるようにして脱衣室に戻った。

 そんな私を見て、父が駆けつけた。
「せっかく来たんだから、ゆっくり入りなさい。」
 父に手を引かれ、もう一度入ったものの、
初めての大浴場に、ただ体を固くするばかりだった。
 一緒じゃない兄たちが、恨めしかった。

 さて、『第一滝本館』を出てからである。
遅い昼食をとることになった。
 館内より、温泉街の方が安いからと、
通りに面したお蕎麦屋さんに入った。

 見ず知らずの人でいっぱいだった。
隅のテーブル席に座った。
 手狭で、隣の席の人たちと体が触れそうだった。

 私には、刻みのりがのった蕎麦がきた。
食べ方がよくわからなかった。
 母に、食べ方を訊こうと思った。

 その時だ。
私の脳裏が、いつもと違ってしまった。
 普段、『母さん』と呼んでいた。
ところが、遠い温泉地で、
しかも、こんなにぎわいの中は初めてだった。
 『母さん』じゃなくて、
『お母さん』と言うのではないだろうか。
 私は、躊躇した。

 小さな声で、姉の耳元に尋ねた。
「ねえ、母さんでいいの?・・お母さんっていうの?」
「なに、言ってんのよ。」
 姉の答えに、心がしぼんだ。
しばらく、下を向いたままだった。

 「混んでるのよ。早く食べなさい。」
湯上りの顔をした母が、
たれの入った器に蕎麦を入れてくれた。
 私は、何も言わずに、それを食べた。

 初めての温泉、その思い出は、
おじけづいた大浴場もさることながら、
母をなんと呼んだらいいか、そのためらいであった。

 あの頃、『母さん』、『お母さん』、『ママ』と、
各家庭で様々だった。
 貧しい暮らしが培った劣等感があったのだろうか。
人前で『母さん』と言えなかった私だった。

 それから1年後、同様のことが再びあった。

 くり返しになるが、あの頃、貧乏暮らしだった。
私の衣類の多くは古着だった。
 セーターの袖口はほつれ、そこをめくり返して隠していた。

 「もっと、おかわりしてもいいよ。」
食事の時、母がどんなに勧めても、兄姉は誰もそうしなかった。

 そんな毎日だったが、
年に1回だけ、父は私たちを連れて、
とびっきりの贅沢をした。

 お盆休みの日だ。
一番上等な服を着て、家族全員がそろって出かけた。

 母は着物姿で、押し入れの奥から、
箱に入った草履を取りだして履いた。

 父も、その日だけはネクタイを締めた。
商売の売上金が入った手提げ金庫から、
あるだけのお金を財布に入れた。
 そして、コードバンだと自慢する革靴を履いた。

 私が、小学校に入学するずっと前から、
1年に1回のそれは、行われていたらしい。
 しかし、私の記憶は、
小学校3年の大病が完治した年からである。

 日本料理のお座敷、お寿司屋さんのカウンター、
中華料理店の個室など、市内で名の通ったお店に、
父は、毎年私たちを連れて行った。

 若干、余談になる。
その体験が、大人になってどれだけ心強いものになったか、
計り知れない。さすが、わが父である。
 どんなに貧しい暮らしでも、
子育ての真髄を心得ていた人だったのだと思う。

 その年は、中心街の一角にあった有名なレストランに入った。
髪をオールバックにした蝶ネクタイの長身男性が、
その店の個室に案内してくれた。

 真っ白な布におおわれた大きなテーブル席に、
父から順に座った。
 最後は、私だった。

 母の隣の椅子を動かし、その男性が笑顔で私を見た。
「お坊ちゃん、どうぞ、こちらへ。」

 その椅子に座りながら、顔が熱くなった。
頬が赤くなるのが分かった。顔を上げられなかった。

 「今日は、洋食のフルコースだ。」
奥の席から、父の落ち着いた声がした。
 ドキドキが続いていた。

 テーブルに、いくつものフォークとナイフが並んだ。
「美味しい料理が次々にくるけど、
慌てないで落ち着いて、ゆっくり食べなさい。」
 父は、そんな説明をしていたようだ。

 でも、私は「お坊ちゃん」が耳から離れず、
緊張の頂点のままだった。
 父の声は、全く届いていなかった。

 スープがきた。パンが置かれた。
みんなのまねをして、何とかした。

 次は、大きな平皿に載った料理だった。
肉か魚か、思い出せない。
 初めて、フォークとナイフを使う時が来たのだ。

 全員にその皿が置かれた。
一斉に、フォークとナイフを握り、食べはじめた。
 私は、どれを使うのか、持ち方はどうするのか、
誰かに教えてもらいたかった。

 料理を運んできたあの男性もいなくなった。
家族だけの個室だ。
 遠慮なく訊けばいいのだ。
なのに、ここでは『僕はお坊ちゃん』なのだ。

 私は、勇気を出した。
母の耳元に小声で尋ねた。

 「ねぇ・・、お母さん!
どのフォークとナイフ、使うの?」

 母は、すぐに察してくれた。
兄や姉に気づかれないように、小声で教えてくれた。

 「母さんで、いいの。」
すっと、心が静かに鳴った。
 大きな涙が、ボトッと床に落ちた。

 その後、涙をこらえて、フォークとナイフを使い、
洋食のフルコースを食べ終えたようだが、
その記憶は定かではない。

 しかし、人生で1回だけ、
母の耳元で『お母さん』と呼んだことに、
気づいた人はいなかった。

 初めて体験したグルメの、ささやかな告白である。




   真冬の小枝 もう春を告げていた
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冬を切り取って

2017-01-20 22:07:44 | 北の大地
 ▼ 目ざめると、天気予報通り雪が降っていた。
深夜から降り続いていたようだ。

 朝食を済ませた頃、雪は降り止んだ。
珍しく10センチ以上の積雪、この冬一番だ。

 早速、1時間ほど、自宅前の歩道と駐車場の雪かき。
「随分、降りましたね。」
 ご近所さんと挨拶代わりに、そんな言葉を交わす。
みんな、いつもより長い時間、雪と組み合う。

 その内、雲の切れ間から、明るい陽が差し込んだ。
この住宅街も、一面真っ白な銀世界が、
キラキラと光り輝いた。

 その眺めは、重たい鉛色の雲におおわれ、
氷点下のキーンとした寒さの毎日に、
一時とは言え、“この地で暮らすことに満足する”
そんな素敵な1枚の絵画だった。
 私は、しばらくはそのまぶしさに目を細め、誓った。

 “伊達に来て、5度目の冬になる。
春夏秋冬、1年を通し、この1月が大の苦手だ。

 2月の方が、きっと冷え込みは厳しいのだろう。
でも、『春は近い。』と思える。
 その分、まだ2月の方がいい。

 1月は冬真っ只中を実感する。
そんな時、大自然からの贈り物がこのきらめきだ。
 そうだ! 必ず、春が来る。
だから、もうしばらく、この冬を我慢しよう。”


 ▼ 珍しく寒さがゆるんだ夕暮れ時、
家内を誘って散歩に出た。
 冬至が過ぎ、若干だが、陽が長くなってきた。

 それでも、冬の夕映えはあっという間に過ぎてしまう。
純白の雲が、薄い桃色に染まり、
やがて濃い色に変わる様を楽しみながら、その日は、
いつもの散歩より、少しだけ足を伸ばしてみた。

 次第に小高くなる農道を進んだ。
夏のその道に比べ、イタドリなどでおおわれ、
隠れていた周りの景色が解放されている。
 冬ならではの伊達の全景が見えた。

 時々、ふり返りながら、雪化粧した街に目をやり、
畑の農道を行く。
 すると、『クワッ-、クワッ-』
時折、冬に聞くオオハクチョウの声がした。

 すぐそこ、強い風で雪が舞い散り、土が顔を出した畑に、
40羽はいるだろうか。
 動きを止めることなく、落ち穂をついばんでいた。

 突然、その中の5羽が、助走をつけ、
私の頭上を飛び立っていった。
 ねぐらにしている長流川の河口に帰るのだろうか。

 そして、また3羽、私の頭上を行く。
『クワッ-、クワッ-』の声も、
翼を大きく広ろげ飛翔する姿も、間近で雄大、鮮明だ。

 さて、ここから先、私の驚きを、笑わないでほしい。

 雀が空を舞う。鳩が羽ばたく。カラスやカモメが飛ぶ。
そこまでの大きさの鳥が、上空を行き交うのに、
何の不思議さも感じない。
 それは、極めて普通のことである。

 しかし、私などが抱えきれない、あの大きな体が、
空を飛ぶのだ。
 その重量感と力強さを、手の届きそうな間近で目撃し、
私は、初めての不思議さと神秘さを強くした。

 「あんなに大きいのに、飛ぶ・・・。」
「すごいなあ。あんなに大きいのに・・・。」
 くり返しくり返し、家内につぶやき続け、空を見上げた。

 飛び立ったオオハクチョウは、一度噴火湾の方へ向かい、
それから方向を変え、次第に小さくなった。
 やがて、夕焼けがわずかに残った大空に消えた。

 私たちも、冷え込んできた帰り道を、
つい急ぎ足に。
 その道々、私はまだ呟いていた。
「あんなに大きいのに・・。」
「大きくても、飛べるなんて・・?!」

 私は、納得ができないまま、
それを受け入れようと、懸命になっていた。


 ▼ 一般道を、車で小1時間程の所に、虎杖浜がある。
その前浜は、太平洋の大海原で、漁場としてもいい所らしい。

 そこで水揚げされた鱈を加工した『タラコ』を、
私は、勝手に高く評価している。
 よく贈答品にさせてもらう。
これが、また評判がいい。

 その海辺に小高い丘がある。
そこに、若干高級感のある温泉宿があった。
 思い切って、そこでの一泊を張り込んだのは、
一昨年の1月のことだ。

 ホームページにあったこんな案内フレーズが、
気に入った。

 『日々の喧騒を忘れ、ただ海を眺めているだけで、
まるで心が洗われるよう。
 眼前に広がる海の癒やしの力には、何もしないというより、
何もできなくなるといったほうが、よいかも知れない。』

 この宿には、いくつかの主張があった。
温泉、部屋、料理はもちろんだ。
 それに加え、大型犬の『モコ』が、
出迎えのロビーでゆったりと待ち構えている。
 突然、特別な空気感に、一瞬にして招かれた。
そんな気にさせられる。

 さらに、もう1つ紹介する。
どの部屋も大きな窓の先は、冬の海と空の水平線だけ。
 そして、眼下は、小さな波が打ち寄せる雪色の浜辺。
そこに、数10羽の水鳥が浮かんでいる。
 その上、この宿は、「ゆったりとくつろいだ時間を」と、
あえて各部屋にテレビを設置していない。

 さて、源泉掛け流しの温泉も、
旬の食材を生かした料理もいい。

 その後、就寝前の一時がくる。
真っ暗な海に向かって椅子が並ぶ、
ラウンジへ行ってみた。

 そこに置かれた土鍋のホットワインを、
少しだけグラスにそそぎ、
ガラス越しの海に向かって、腰掛ける。

 近くの漁港から、漁り火を灯した船が、
沖に向かって進んで行った。
 「この時期は、助宗鱈の最盛期です。」
宿の方が教えてくれた。

 すると、また一艘、
1月の夜を、漁り火が沖へと向かった。
 しばらくすると、再び一艘の灯りが・・・。

 真っ暗闇と小さな灯りの共演に、
時を忘れ、目が奪われた。

 そして、温泉と少しのワインの温もりにつつまれ、
寝入った深夜、急に目がさめた。

 カーテンを開け放しておいた広い窓の、闇の先の先、
そこには、数えきれない小さな漁り火が、一直線に並んでいた。

 きっと沖合いは、厳しい寒さだろう。
そこで真夜中の漁が、くり広げられている。
 その過酷さを、一生懸命に想像した。

 同じ時に、私は、暖かな部屋のベットで、
ヌクヌクと横になっている。
 双眼鏡を駆使しても見えない船上に、
心が強い痛みを感じた。

 しばらくは、眠りに着くことなどできなかった。

 翌朝、宿の男性にそんな思いを伝えてみた。
静かに答えが返ってきた。

 「どんな仕事も、みんな厳しいものです。」
少しだけ、救われた。
 訳もなく、癒やされた。
急に、あの案内フレーズを思い出した。

 『眼前に広がる海の癒やしの力には、
何もしないというより、
何もできなくなるというほうが、よいかも知れない。』
 
 窓の外、風もないのに小雪が舞った。




  冬の水車アヤメ川自然公園・散策路
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デリカシーを 忘れず

2017-01-13 21:55:23 | 教育
 ◆ 先日、ネットの投稿サイトにあった質問と、
回答が目に止まった。
 確か、質問者は成人女性だったと思う。

 彼女は、小学校へ入学する時、
すでに、自分の氏名を漢字で書くことができた。
 それを見た担任は感心した。

 彼女は胸を張って、すかさず言った。
「幼稚園に入った時には、ひらがなもカタカナも書けたよ。」

 それを聞いた担任は、こう切り返した。
「そうだったの。だから、字が汚いのね。」

 以来、彼女はずっとその言葉が、心に残った。
なので、ネット上でこう尋ねている。

 「早い年齢で字が書けるようになることと、
字の綺麗さは、関係あるのですか?
 確かに、私は今も、きれいな字ではありません。」

 その問いかけに、1つの回答が寄せられた。

「私も、早い年齢で字が書けるようになりました。
でも、みんなからきれいな字ねとほめられています。
 字のことに限らず、そんな言い方をする先生って、
昔も今もいますよね。」

 ドキリとした。
文字の習得時期と字形の問題ではない。
 「そんな言い方をする先生」のフレーズである。
確かに、そんな先生が「昔も今も」いる。

 現職の頃、身の回りであった類似する出来事を、
2つ思い出した。

 ◆ 当時、私が勤務していた学校は、
全学年が2学級編制だった。

 私と同学年を組んだのは、同年代の女性だった。
ところが、
職員室で机が向き合わせになっていた隣接学年の2人は、
年齢差がある女性同士だった。
 1人は大ベテランの50歳代A先生、
もう1人は教職4年目の20歳代B先生だ。

 私たち2人は、和気あいあいと、
どんなことでも遠慮なくアイデアを出し合い、
意見交換をして、指導にあたっていた。

 ところが、向かいの2人は、雰囲気が違った。
ベテランのA先生が、自分の思いを伝え、
それに対してB先生は、
意見や子どもの様子を口にすることなく、
いつも「ハイ。」と応じるだけだった。

 2人には、教え子程の年齢差がある。
だから、そのようなやりとりも致し方ないと、
私は思っていた。

 夏休みが過ぎてからだ。
たびたびくり返される、2人のこんなやりとりがあった。

 「あなた、また、
子どもを残して勉強させていたでしょう。」
「あっ、ハイ。」
「一斉に下校させないとダメでしょう。
何かあったら大変よ。」
「わかりました。気をつけます。」

 数日すると、また同じような会話になった。

 子どもの安全上、『下校はできるだけすみやかに』
とはなっていた。
 しかし、居残り勉強に対して、厳しい約束事はなかった。

 それでも、A先生は、
授業が終わるとすぐに子どもを下校させ、
次の仕事に取りかかっていた。

 だから、同じようにすることを、
B先生にも求めた。

 しかし、B先生は、授業では理解が進まない子に、
放課後の個別指導の必要性を感じていた。
 時折、A先生に遠慮しながら、
そっと何人かの子どもと居残り勉強をした。

 自分の指導の至らなさに対する、
B先生なりの努力だと、私は理解していた。
 
 ある朝、再び職員室でのことだ。
「きのう、また、子どもを残したでしょう。」
「あっ、ハイ。」
「ダメだと言ってるのよ。どうして?」
「ハイ、気をつけます。」

 「だから、どうして子どもを残すの?」
「授業だけでは、分からない子がいるので。」
 B先生は、うな垂れ、小声だった。

 「一生懸命、授業で教えてあげて、
それでも分からないのでしょう。」
 「ハイ。」
「ならば、しょうがないのよ。」
 A先生は、そう言い切ると、足早に職員室を後にした。

 私は、朝の多忙な職員室で、向かいの席から、
そんな2人のやり取りを耳にした。
 A先生の最後のひと言に、
「それは違う。」と言いたかったが、ジッと我慢した。

 そして、少し涙ぐむB先生に、笑顔を向けた。
「頑張れ。先生、間違ってないよ。」

 その後も、二人は、同じようなやりとりを続けた。
でも、B先生は、居残り勉強をやめなかった。

 ◆ まだ、管理職を目指していなかった頃だ。
ある日の職員室、校長と教頭(副校長)のやりとりが、
記憶にある。

 放課後、職員室で事務処理に追われていた。
同じように机に向かう先生が数人いた。

 その時、教頭へ電話があった。
教育委員会からだったのだろうか、
緊急の問い合わせのようで、忙しくファイルを探し、
それに応じていた。

 当時の教頭先生は、誠実で穏やかな人柄の方のように、
私の目には映っていた。
 仕事もテキパキと進めた。
私たち教員にも子ども達にも、ていねいな物腰で接し、
誰からも評判がよかった。

 その電話の最後、教頭はこう言って、受話器を置いた。
「では、折り返しお電話を頂けるのですね。
ハイ、私は自席でお待ちしております。」
 そこまでは、日常よくある教頭の姿だった。

 ところが、その日は直後に、
珍しく校長先生が職員室に顔を出した。

 教頭席に近寄り、声をかけた。
教頭は自席で立ち上がり、校長と言葉を交わした。
 その内容は、私の席まで届かなかったが、
やや長いやりとりが続いていた。

 その時、電話が鳴った。
誰もが、さっきの折り返し電話だと思った。

 だから、校長との会話をさえぎり、
教頭は受話器を耳にした。
 しばらくそれに応じてから、電話を切った。

 次の瞬間、突然その場の空気が変わった。
会話が中断し、待たされていた校長が、大きな声を上げた。
「電話なんて、誰かにとらせろよ。」

 教頭は、顔色を失った。
すかさず、その場で深々と頭を下げた。
 「申し訳ございません。」

 「教頭先生は、折り返しの電話を待ってたんです。
だから、受話器を取ったんです。」
 立ち上がって、校長にそう言うだけの勇気が、
私にはなかった。

 その夜、何人かの先生と教頭先生を誘って、
居酒屋に行った。

 「先生たちの前で、叱らなくても。」
酔いがまわったのか、大の男が涙をこぼした。

 ◆ 『感情や心配りなどが繊細なあり様』を、
デリカシーと言うらしい。
 その形容詞が、『デリケート』で、
つまりは「うっとりとさせるような」ことと解釈できる。

 それらを失ってしまうと、
まさに「お構えなし」の「無神経」へとつながる。

 時に、最もデリカシーが求められる学校現場に、
真逆な『デリカシーのない人』が現れる。
 そして、デリカシーのない言葉をはき、
子どもや大人の心を傷つける。

 私自身と現職の先生方が、
そのような人格と無縁でいるために、
『デリカシーのない人の特徴』を列記して、結ぶ。

 ・自分の価値観が、他人と共通だと思い込んでいる。

 ・自分では、親切のつもりでやっていることが多い。

 ・自分中心の考え方で、行動していることに気づいていない。

 ・「デリカシーがないこと」に対し、無自覚である。
 


    冬ざむの洞爺湖・中島 
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教育エッセイ『優しくなければ』より ②

2017-01-05 21:01:20 | 出会い
 明けましておめでとうございます。
今年も、いや今年こそ、
良い年でありますように、と願っています。

 さて、今日は、最初に今年の年賀状の詩を記し、
次に、昨年始めのブログ同様、
私の教育エッセイ『優しくなければ』から、
2つを抜粋します。


     遅 い 春

 寒々とした小枝の新芽が弾け
 息吹きを取り戻したのを何度も見てきたから
   どうしてそんな無茶をと問われて
   手が届きそうな気がしてと答えてみた
 遅咲きの桜が並ぶ湖畔ににぎわうランナー
 それに飲み込まれ先が見えない私

 やがてそこら中の新緑が陽を受け
 色とりどりに咲き誇るのを何度も見てきたから
   途中でリタイアする勇気を持ての助言に
   必ずゴールインをと意気込んでみた
 ガラス色の細波のそばをまばらなランナー
 それでも重くなった足で前を見据える私

 初めての42、195は完走後に号泣さと先輩ランナー
 その感情を走路に置き忘れてきた私
   潤んだ声で「頑張ったね」の出迎えに
   言葉のない小さな微笑みが精一杯
 いつしか洞爺の湖面を流れる春風が肩を
 初めての心地よさにしばらくは酔っていた


  
    対角線を進まない

 もう20年(執筆当時)近くも前のことですが、
ある時、多摩動物園のチンパンジーの飼育係の方から、
お話を伺う機会に恵まれました。

 多忙な時間をさいて、私共のために、
小1時間程お話をしてくださるとのことで、
はるばると、八王子に近い動物園まで足を運びました。

 園内の約束の場所で待ち構えていると、
歩く格好から顔の表情まで、
どことなくチンパンジーに似た方が現れ、
思わず忍び笑いをしてしまいました。

 「チンパンジーの飼育係になって8年になりますが、
最近富みに似てきたようで、妻からも
『あなた、人間離れしてきたわ。』
と言われるんです。」

 私共の大変失礼な反応を、そんな風に軽くかわしながら、
彼は、大好きなチンパンジーの紹介に、
熱弁をふるってくれました。

 その一節に私は強く心をひかれました。
それは、チンパンジーが寝室にいる時に、
飼育係が近寄っていく場面のことです。

 チンパンジーは大人になると、人間の成人よりも大きく、
腕力などは人間のおよびもつかないものになります。
 赤ちゃんのチンパンジーを、
チンパンジーのイメージとして固定していた私は、
まず、その思いをすてる所から話を聞いたのです。

 チンパンジーの寝室は、当然鉄の檻ですが、
一頭ずつ長方形に仕切られ、
床はコンクリートがむき出しになっています。

 一方の鉄柵の角に、飼育係が出入りする扉があるのですが、
チンパンジーは決まって、その扉と正反対の片隅に、
毛布を敷いて寝るのだそうです。

 時々、体調を崩してしまうことがあり、
どうしてもその寝室へ入って、
直に様子を見なければならない時があるそうです。
 そんな時、飼育係の方は扉を開け、
チンパンジーに近づいていくのですが、
私はその近づき方に教えられました。

 扉と正反対の片隅にいるチンパンジーに近づく時に、
決してストレートに対角線を進まない。
 鉄格子ぞい、壁づたいに、
あえて遠回りをして、近づいていくのです。

 チンパンジーは、
顔馴染みの飼育係が寄ってくるのに気づくと、
そのまま近づいてもいい時は、動かないが、
近寄ってほしくない場合は、
近づいてくる飼育係とは反対の方向へ移動するのです。

 しかし、仮に対角線を進んだら、
もし近寄ってほしくない気分でいる場合、
部屋の角にいるチンパンジーはどんな行動を取るでしょう。
 移動する場所がないのですから、
残された方法は威嚇するか、
それとも飼育係にとびかかるかになるでしょう。

 決して対角線を進まないというこの話は、
チンパンジーと飼育係のことに限らないように思います。
 私たちが常に心して良好な人間関係を、
築いていく基本のように思えます。
 そして、子育てに携わる者にとって、
極めて重要な教えだと私は思います。



    生きる原点

 ある年、長崎に原爆が投下された日に、
NHKで30分程のドキュメンタリー『しげちゃんにあいたい』が、
放映されました。

 昭和20年8月9日、小学校1年生のみっちゃんとしげちゃんは、
たまたま病院の屋上で遊んでいて、
その帰り、エレベーター付近で被爆します。
 みっちゃんは親御さんも何とか生きのびましたが、
しげちゃんは両親が亡くなり孤児となり、
行方知れずになってしまいます。

 あれから63年(放映当時)がたった今も、
みっちゃんは、あの時に離ればなれになった
しげちゃんを探し求め、
「しげちゃんにあいたい。」と言い続けているのです。

 どこかから、じげちゃんらしい人の情報が入ると、
足繁くその情報を頼りに遠方でも確かめに行くみっちゃん。
そして、しげちゃんらしいわずかな手がかりにも、
表情を明るくするみっちゃん。

 私はその映像を見ながら、
もう何年もご無沙汰をしているH氏のことを思い出していました。

 H氏は、私と顔を合わすと必ず、
「先生、ぜひ浦川原に足を運んでください。」と、言われます。

 その地名は、皆さんには馴染みがないと思いますが、
新潟県上越市郊外にある「農村」といっていいかと思います。

 この村に、私が以前勤務していたS小学校の卒業生H氏が、
『おいで山荘』という別邸を設けているのです。

 H氏は、とうに70才(執筆当時)を越えた方ですが、
H氏をはじめとする当時のS小学校の児童は、
終戦間近の昭和19年頃、浦川原村に学童疎開をしました。

 それが縁で、S小学校は村の小学校と姉妹校提携をして、
今も盛んに学校間交流をしております。

 この交流が決して絶えることがないように、
そして学童疎開という悲劇が風化することのないように、
そんな願いを込めて、10年前(執筆当時)にH氏は私財を投じて、
浦川原の旧農家を買い取り、山荘を開きました。

 私は、H氏にお会いするたびに、
小学校6年生、12才の体験を、
昨日のことのように語る姿に触れ、
H氏の生きる原点が、学童疎開という体験にあることを、
思い知らされてきました。

 人は誰でも、それぞれの長い人生の中で、
その人の生き方を、決定づけるような
出来事や事柄に出会うものです。
 それを、私はその人の『生きる原点』と言ってきました。

 みっちゃんやH氏のような戦争という強烈な出来事ではなくても、
小学校生活を通して、そんな原点を持つことになる子どもも、
きっといると思います。

 そう考えると、私たちの一つ一つの行為の重大さに、
身の引き締まる思いがします。





 氷点下の伊達漁港・空は少しだけ夕焼け
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