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ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

D I A R Y 25年5月

2025-05-31 11:15:49 | つぶやき
  5月 某日 ①

 私が会長を務める自治会には、830世帯が入会している。
市内では、大規模な自治会である。

 それだけに、全世帯を対象にした親睦交流は大事にしたい事業である。
この事業は5月の『観桜会』と8月の『夏まつり』の2回が、毎年計画されている。

 4月の自治会総会終了直後から『観桜会』の準備は始まる。
今年度は、初めてカラオケ大会をプログラムに入れた。
 マイクを握ってくれる方が何人現れるか、
今までにない取り組みなので、見当がつかなかった。

 でも、エントリーが少ないときは、
「役員が歌えばいい」と決めて、当日を迎えた。

 カラオケ機器と音響は、地元業者に委託した。
どうやら業者は不慣れだったようで、
セッティングに手間取った。
 やっと音が出るようになったのは、
11時の開会直前だった。

 カラオケ大会が始まる相当前から、
2人の司会者は、入れ替わり立ち替わり、
カラオケへのエントリーを呼びかけた。
 私もエントリーの動向がすごく気になった。

 尻込みする中から、何人かがマイクを握ってくれた。
そして徐々に、歌い手が現れ次第に盛り上がった。

 参加した役員OBが、
「私もカラオケをやりたいと思っていて、
できなかったんだけど、
こんなに盛り上がるとは、本当によかったね」。
と、帰り際に笑顔で言った。

 それにしても、
カラオケについて予想もしなかった声が2つあった。
 「これには、参った!」

 観桜会の数日前、 顔馴染みの奥さんと立ち話をした。
「今度カラオケをするんですね。
 だけど、曲はどうするんですか。
歌いたい曲のCDを持って行って、歌うんですか」
 奥さんは真顔だった。

 「いやいや、カラオケ機器をレンタルしましたので、
どんな曲もすぐ歌えますよ」
 そう答えると
「そうですか。
そうじゃないとね。
 できませんよね」。
奥さんはそう言いながら、
しばらくビックリした顔のままだった。

 そして、当日の会場では・・・。
受付を済ませたご主人2人に、挨拶がてら声をかけた。 

 「今年からカラオケを始めました。
是非、エントリーして好きな曲を歌ってください」
 すると、すまなそうに
「会長! 俺さ、CD持って来なかったから、歌えないわ」。

 「やっぱりか、そう思っていたのか!」
ため息しながら、大きなギャップを感じた。


  5月 某日 ②

 連休が明けてから、自治会に関連する様々な団体の総会が続いた。
私が副会長をする「中央区社会福祉協議会総会」をはじめ、
「中央区体育振興会総会」「防犯協会中央区支部総会」
「中央区交通安全協会総会」「中央区連合自治会総会」と。

 そして、〆は「伊達市連合自治会協議会」の総会であった。
この総会では、例年、市長が来賓挨拶をする。
 お決まりの冒頭挨拶に続いて、どんなことを話すのか、
例年、私の大きな関心事であった。

 昨年度は、総会の日がたまたまこの協議会の会長を務めるO氏の誕生日だった。
なので、まだ40歳代の市長は、70歳を超えているO氏へ、
「お誕生日おめでとうございます」と挨拶で述べた。

 どこか場違いな気がして、この若い市長にやや失望した。
「市内の全自治会長が集まる貴重な席なのに・・
誕生日おめでとうとは・・! 残念!」
 それが私の本音だった。

 そして、今年度の市長の挨拶は、
「昨年度のこの総会は、O会長の誕生日に行われました。
今年度は違いましたが、つい先日会長は70・歳になられました。
 誠におめでとうございます」って・・・。

 その日と翌日、北海道新聞の地元版には、
この市長による市政運営の特集記事が連載された。

 様々な機会を記者目線で論じたものだったが、
市政の長としての2年間を厳しく総括していた。
 この記事に、今後に不安を感じた市民もいたことだろう。

 2年続けての協議会総会での挨拶に加え、
この特集記事である。
 失望と共に任期を折り返した若い市長に、
「もっとしっかり!」とエールを送りたくなった。

 ふと、校長として勤務していたS区の区長Yさんを思い出した。 
人口40万を越える特別行政区の長なのに、
彼はとても気さくな人柄の方だった。

 区長は、毎年4月の校長会に出席し挨拶をした。
私は,12回もそれを聞いた
 ある年の挨拶が強く心に残っている

 「東京23区のイメージーカラーは何色か。
そんな調査をした結果を見たことがあります。
 皆さんは私たちのS区のイメージカラーが何色がご存じですか。

 お隣のK区は、水色でした。
川や海をイメージする明るい感じがして、いいなあと思いました。

 それに比べ、私たちのS区は『・・色』。
Sの名称からのイメージだとは思いますが、
『・・色』は暗い感じのイメージ色です。
 お隣の水色と比べることはないと思いつつも、
私は悔しくなりました。
 何とか、このイメージを払拭したいと考えています」

 彼は控え目な抑揚で、そう語った。
あの時、少しでもS区を明るいイメージにできないものかと、
私なりに聞いた。
 同時に、彼らしい想いだと思った。

 私が校長会長をしていた年は、
様々な教育関連の席で、区長さんと一緒になった。

 よく来賓控室で言葉を交わした。
強く印象に残ったやり取りがある。
 
 彼は多忙な公務の中で、
来賓として様々な会合に出席していた。
 なので、この日も公用車で会場入りした。

 その時、「公用車」が私との話題になった。
当然、自宅からの通勤は公用車と思っていた。
 ところが、彼は公用車を使っての通勤はしていないと言う。

 「それは、公用車の使用規程に違反するからですか」
遠慮がちに尋ねてみた。
「そんなことに関係なく、区役所まで歩いて30分なんですが、
私には貴重な時間なんですよ」

 彼は、楽しげに話を続けた。
「家から区役所まで、
その日その日いろいろとルートを変えて歩くんです。
 毎朝、違う人とすれ違う。
朝の挨拶を交わす人もいる。
 私に気づかない人もいる。

 だけど1番いいのは、
私に声をかけてくれる人がいることです。
 色々と大切な声がきけるんですよ。

 朝の時間帯だから、
呼び止めた人も長々とは話さない。
 だから、エキスだけ話してくれる。
これが、区政にすごく役に立つんです」

 こんな地道な積み重ねを初めて知った。
彼の凄さの1つを理解した。




     山菜『行者ニンニク』の花
                  ※次回のブログ更新予定は6月14日(土)です
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変わる風潮へ 歩調

2025-05-24 12:23:29 | 思い
 人生を77年も歩んできた。
その時々、風潮は変わった。

 確かに、その変化に小躍りした時代もあった。
利便性がどんどん向上し、
それと共に文化の高まりもあった。
 音楽や映画、絵画にファッション・グルメと、
良質な広がりにワクワクしたものだ。

 しかし、今は少子高齢化、地球温暖化、
都会と地方の二極化などの課題に直面し、
多様性という価値観が浸透している。

 さて、今への是非はともかく、変わりゆく風潮に
歩調を合わせる大変さを痛感している。
 戸惑いながらも思いつくまま、
刻々と変わる今の幾つかを、スケッチしてみる。


  ① ハラスメントの時代!

 『セクハラ』『パワハラ』そして『カスハラ』など、
『・・ハラスメント』の言葉が飛び交うようになって久しい。

 ▼ 校長職の頃、1番に気をつけたのは『セクハラ』だった。
若い頃は,冗談で受け流された言動が、
しばしば『セクハラ』として問題視される。

 それでも、これくらいなら楽しい会話だろうと、
若い女教師に「いつか一緒に飲みに行こうよ」と言ったらしい。
 ところが、その部分だけ切り取られ、
同じことを2度も3度も校長室で言われたと、
教委に訴えられた校長がいた。

 結局、その校長は退職に追い込まれた。
私の後輩で、期待を寄せていた校長の1人であった。

 彼への同情は許されないのだろうか。
5年前のその時も今も、「時代が変わったのだ」と、
自分を納得させるようにしている。
 「随分と生きづらい時代になった」
と思うのも駄目なのだろうか。

 ▼ 『カスハラ』の場面には、偶然出会ったことがある。
数年前になる。

 スポーツ用品店で買い物を楽しんでいた。
手頃なゴルフウエアーがあり、家内がレジへ向かった。
 その合間、ブラブラと辺りの商品を見て回った。

 陳列ケースを挟んで、
初老の男性と店員がむき合っていた。
 2人の会話が耳に入ってきた。

 初老は,つい先日来店した時にあった品物が欲しいと言った。
しかし、それは売れて品切れになっていた。
 なので「お取り寄せなります」と店員は応じた。

 初老は、
「急に必要になったので、すぐに取り寄せてほしい」
と言う。
 店員は素早くタブレットを操作し、
「5日、かかります」と頭を下げた。

 ここでその初老は、声を荒げた。
「5日かかる!? 
君じゃ駄目だ。上の者を呼びなさい!」
 「お客様、5日間は誰に頼んでも、誰が調べても同じでございます。
申し訳ございません」
 店員は、深々と頭を下げた。

 「なんだと!
すぐには取り寄せられない。
 上の者は呼ばない。
そんな店員がいるか。
 君のような者は、駄目だ。
すぐにやめなさい!」

 初老は、その後も
「店員失格だ。やめろ、やめろ!」
 大声でくり返した。

 私は、居たたまれずその場を去った。
これが「カスハラか」と理解した。

 なんてギスギスした時代なんだ!
しばらくは気持ちが沈んだままになった。

 
 ② 一家団欒はどこへ

 同世代のメンバーでの会合を終えた道々、
よく孫のことが話題になる。
 そんな折り、今時の子育て世代に話が及んだ。

 お母さんも何かしら仕事をしている家庭が多くなった。
そして、子供は、いくつかの習い事をしている。

 当地の場合、習い事は親が車で送迎するのが常だ。
兄弟によって習い事が違う場合は、車での送迎はほぼ毎日のこと。
 日によっては,2度も3度ものことが・・・。

 それがもっぱら母親の役目になり、
その忙しさは並大抵のものではない。

 合間を縫っての夕食準備だ。
当然のことだが、手作りよりお店の総菜に頼ることが多くなる。
 時間を合わせて家族がそろう一家団欒など稀なことに・・。

 子どもは習い事の時間にあわせて、1人で夕ご飯を食べる。
お母さんはその送りから戻ってから、お父さんの帰宅に合わせることなく、
迎えに行くまでの間に夕食を済ませる。
 
 お父さんの帰宅など構わず、他の子供らも夕食を始める。
つまりは、家族がそれぞれバラバラに、交代で1人での夕食なのだ。

 私は、こんな家庭が多いことを知り、愕然となった。
「暮らしの豊かさ、潤いが、今や絵空事では・・!」
 肩を落とす私に、次のいち矢が飛んできた。
「それだけじゃないよ」
付け加えた方が現れた。

 習い事のために急いで、
夕食を並べてくれるお母さんを見て、
「お母さんもお腹すいているはず」
と子供は気を利かせた。

 取り皿を1枚持ってきて、
お母さんの分もとテーブルのおかずを取り分けようとした。
 ところが、それを見たお母さんが早口で、
「やめなさい。
 そのお皿を使ったら洗い物が増えるでしょ!」

 心が凍えそうになった。
お母さんのその言葉は、稀な事例と思うことにした。
 それでも・・・。
 

  ③ タブレット依存・・

 学校の始業は、朝の健康観察から始まった。
私の若かった頃は、「朝の会」で学級の一人一人を呼名した。
 自分の名前を呼ばれたら、返事をして起立した。
その立ち姿を見て、その子の健康状態を把握した。

 やがて、それでは不十分だとなり、
返事は「ハイ」から
「ハイ、元気です」「ハイ、少し風邪気味です」
などと、自分の健康状態を短く言うようになった。
 
 ところが、今の学校はタブレット全盛の時代である。
子供は、一人1台のタブレットを持ち、
学習道具として定着しつつある。

 なので、毎朝の健康観察もこれを使っていると聞いた。
登校するとタブレットを起動し、健康観察に答える仕組みだ。

 画面に『今日の健康』などのタイトルが現れる。
「元気」「元気がない」「すこし調子が悪い」
などの項目から選び回答するのだ。  
 先生はそれを見て、健康状態を把握するらしい。

 その上、そこには、
「先生に相談したいことがあります」の項もある。
 「これが、いじめの早期発見の手立てになっている」
と先生は言う。
 
 さて、その項を正直に子供はクリックできるだろうか。
どの子も、必要な場合はそうしてほしいが・・・。

 それより、クリックしたくてもそうできない子に気づく。
そんな教師の感性を磨いて欲しいと願うのは、
古いタイプの教師魂だからなのだろうか。
 



      『イベリス』満開 ~マイガーデン
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探しもの・・! どこに? 

2025-05-17 09:47:38 | 思い
 『探しものは何ですか?
見つけにくいものですか?
 カバンの中も、つくえの中も
探したけれど、見つからないのに』
 若い頃よく耳にした
井上陽水「夢の中へ」の歌いだしである。

 「また、探しもの!」。
これは年齢とともに決して笑えない事実。
 切実で、大きな問題である。

 最近は富に、何かを毎日のように探している。
いつものところに車のキーがない。
 冬は、出がけの寸前に毎回毎回「手袋はどこだ!」。
この時季は花粉症で、
残っているはずのティッシュが、「見当たらない!」。
 そして、1日に何回も「スマホをどこに置いたっけ!?」だ。

 そんな近況の中から、
フード付きウインドブレーカーに絞って、
「探しもの」エピソードを記す。

 ウオーキングクローゼットには、
現在4着のウインドブレーカーがかかっている。
 どれも、フード付きである。
フード付きなのは、
「少しでも若く見えるように」との見栄・・・。

 その中の3着についてだ。
1着目は、紺地に細い斜めの格子柄が入ったもの。
 色も柄もかなり若い感じがする。
それだけに、着用すると少しテンションが上がる。

 昨年の秋だ。
やや肌寒くなり、久しぶりにこのブレーカーで出かけようとした。
 てっきりクローゼットのハンガーにあると・・・。

 ところが、当てが外れた。
家内に訊いても、「かかってないの?」の答え。
 それから先は、慌ててタンスの引き出し、和室や2階の押し入れ・・。
思いつくまま家中を捜索した。
 どこにもなく、「見当たらない!」と大声。

 その日の夕食時に、最後に着用したのはいつだったか、
家内と一緒に振り返った。

 すると春先にさかのぼることになってしまった。
春、きっとどこかに置き忘れてきた。
 ならば「もう4ヶ月も前のこと!」。
諦めるしかないと私は思った。

 ところが、それから数日して、
パークゴルフの例会があった。
 その帰りに、パークゴルフ場の管理人さんに家内が尋ねた。

 「春に、ウインドブレーカーの忘れ物はなかったですか?」
「忘れ物なら、そこにみんなかけてあるけど」。
 屋外休憩所の壁に、忘れ物が数点かけてあった。
 
 4ヶ月が過ぎていたのに、
紺地のウインドブレーカーがぶら下がっていた。

 お礼も忘れて持ち帰り、翌日早速洗濯した。
驚いたことに、洗濯機には数匹のカメムシの死骸が浮かんだ。
 きっとポケットに入っていたのだ。
探しものはあったが、気分は曇った。
 
 2着目は、1番お気に入りのウインドブレーカーだ。
黒無地に、真っ白いAdidasのロゴが片方の上腕にあった。
 とてもシンプルなものだが、
ここ3年程の使用頻度はダントツ。

 ところが、ゴールデンウイークの最中である。
時には、食料品の買い物に付き合おうと、
そのブレーカーを取りに行った。
 ところが、クローゼットの定位置にないのだ。
その周辺を探してもない。

 「どうしてないの!」。
探しものが日常化しているとは言え、
1番のお気に入りが・・・。。
 イライラ感が高まった。
買い物に付き合う気持ちも失せた。

 買い物を後回しにして、
家内も一緒になって、家中をくまなく探した。
 まさかと思いつつも、
愛車の車内もトランクも見た。
 どこにもない。

 後は、どこかに置き忘れてきた以外にない。
「去年の紺色のようなことも・・」
 10日前からの出かけ先を振り返った。
忘れそうな所が3箇所あった。

 1つ目は、自治会の会議があったT会館。
私はそこのキーを保管していた。
 車で行って、解錠し室内を探した。
忘れ物らしいものは何一つなかった。

 2つ目は、室蘭市内のゴルフショップだ。
手頃な長袖シャツを買い求めに行った。
 その試着の時、忘れたかも知れない。
お店に電話した。
 忙しいだろうに、時間をかけて丁寧に対応してくれた。
答えは、「ノー!」だった。

 3つ目は、よく通う整骨院だ。
4月初めに、軽いギックリ腰になった。
 それから、週に2回程度通院していた。
連休で休みと知っていたが、電話してみた。
 私の問いに、
「ああ、ないですね」
いつもと違って、素っ気ない声だった。
 「休みの日に、すみませんでした」
と電話を切った。

 もう探しようがなかった。
すっかり諦めかけたその時、
ウオーキングクロゼットの奥から、
「ありました!」
家内の声が飛んできた。

 行ってみると、洋箪笥の扉が開いていた。
そして、ブレザーをかける木製のハンガーにそれはかかっていた。
 考えごとでもしながら、私が木製ハンガーにかけたに違いない。
「ああ、ボケたな!」
 思わず口をついた。

 3着目は、この春に買ったばかりだった。
ゴルフで風除けにと、やや派手な薄茶と白のツートン柄だ。
 
 それを着て、ゴルフへと意気込んだ。
これまた、いつもの場所にない。

 Adidasの黒同様に家中を捜索し、車も見た。
そして、まさかと思いつつも洋箪笥の扉も開いてみた。
 「そんなことはないだろうが、でも」と、
ゴルフのキャディーバッグの中も見た。
 もう私自身を信じられなくなった。
結局、見つけらまま2日が過ぎた。

 その日の朝は、3日に一度の洗濯日だった。
朝食後、家内がそれを干しにかかった。
 
 ここで、若干横道に逸れる。
北海道では、洗濯物を外に干す家庭は少ない。
 多くの家が、四季に関わらず家干しである。

 我が家もそれにならって、外に物干しはない。
代わって、別棟の物置ではなく、
家の中に、倉庫を兼ねた狭い物干し部屋がある。

 その部屋から、家内の大きな声が
「ねえ、あったよ!」。
 急いで、ドアを開けた。
部屋の物干し竿に、
ハンガーにかかったウインドブレーカーがさがっていた。

 急に思い出した。
2日前の朝、散歩に出た。
 10分もしないうちに、急に強い雨になった。
こんな時はフード付きが便利。
 頭を濡らすことなく、引き返した。

 家に着くとすぐに、
ウインドブレーカーの雨粒を落とし、
そこに干したのだ。
 それをすっかり忘れ、思い出せなかった。

 「それは、認知症の初歩です。
お気をつけて下さい!」
 誰かにそう言われそうで、怖くなった。




     八重桜 「華やか!」
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   友    

2025-05-03 12:11:45 | 思い
 ▽ Rチャンについては、このブログに記したことがある。
私にとって、初めての友だちだった。
 中学生時代の一時期、毎日登下校を共にした。

 楽しいことがある訳じゃないが、
毎日決まった時間に迎えに来てくれた。
 帰りも必ず校門で待っていてくれた。
それが凄く嬉しかった。
 友だちっていいなあと思った。

 Rチャンのお父さんが癌で亡くなり、
お母さんの実家がある他県へ引っ越した。
 その日、汽車に乗るRチャンを離れた所から見送った。
以来、便りの1つも交換したことがない。
 会ったこともない。
でも、今もRチャンを時々思い出す。

 ▽ 中学3年の時、5人のグループができた。
勉強の成績もそこそこ同レベルで、
住まいも遠くなかった。

 この条件なら、もう1人グループに加わってもいい男子がいた。
しかし、どういう訳か彼は最初からいなかった。
 何故か5人とも、彼が仲間入りしないことに、
安堵していたかも知れない。
 特に意地悪をした覚えはない。
 
 高校生になり、違う学校に行ってからも、
度々一緒に遊んだ。
 夏休みのキャンプ、室蘭から洞爺湖までのサイクリング、
冬は温泉に宿泊しスキーもした。
 年越しの深夜には5人揃って、神社に行き、
除夜の鐘を待ってお参りした。

 20歳の年、Y君が東京で急逝した。
連絡がとれず、私は葬儀に出られなかった。
 1周忌の帰り、バス停まで歩きながら、
「Y君の分も生きよう」と4人で約束した。

 S君は、若くして電機工事会社を設立し、
今は、息子がそれを引き継いでいる。

 O君は、地元の商社に勤務していたが、
ある時脱サラを決め、
1年間修行をしてからラーメン店を開いた。
 修行した店は、T君のご両親のところだった。

 そのT君とは、偶然だが一時期千葉で同じ団地で暮らしていた。
彼の世話で最初のマイカーも購入した。
 転職し、札幌勤務になったが、
その後、次々と病に見舞われた。
 5年前に亡くなった。
後日、ストレスの多い仕事だったと奥さんから聞いた。

 私を含め4人とも、時にはY君を思い出し、
「彼の分も・・」と頑張ってきた。
    
 ▽ 高校時代は、活気にあふれていた。
誰もが、人付き合いは広く浅い年頃だった。

 でも、誰もそばにいない時、
1人でいるU君にいつも声をかけた。
 U君は、そんな適当な私に嫌な顔もしないで、
気軽に応じてくれた。

 U君の家は、登別の先の虎杖浜にあった。
当時としては遠距離通学者だった。
 彼が暮らす虎杖浜に興味が湧いた。

 「今度の休みの日においで!」と言ってくれた。
他に誘う人もなく、1人で虎杖浜駅へ行った。
 迎えに来てくれたU君と、
国道36線沿いを歩き彼の家に向かった。
 
 当時、私が暮らしていた街は、いつも人が行き交っていた。
なのに虎杖浜の国道沿いには、
行き来きする人の姿はなく閑散としていた。
 U君まで寂しそうに見えた。
明日から頻繁に声をかけようと思った。

 しかし、当時の私は、生徒会活動に夢中だった。
イベントが続き、その準備に忙しい日を過ごしていた。

 でも、イベントを終えた翌日、
ふと教室を見回すといつもの席にU君がいた。
 何気なく近づくと「ご苦労さん!」と必ず言ってくれた。
友達っていいなあと思えた。

 ▽ 友だちとの楽しさそして大切さは、
中学・高校で知った。
 そんな私は、大学生活でも多くの友だちに恵まれた。
おかげで、様々な壁を彼らの力を借りて乗り越えた。
 
 そして、教職に就いた。
学校が変わる度に、いい先生方に出会った。
 先輩や後輩に刺激を受けながら、
教師としての充実した日々を過ごした。
  
 結婚し家族もできた。
子育ての責任と楽しさに振り回された。

 気づくと友だちといえる人はできなかった。
そのことに違和感はなかった。

 ▽ しかし、管理職になると、
学校内には一緒に仕事をする仲間がいなかった。
 東京には、友だちがいないことに気づいた。
自分が、いびつな人間に思えた。

 そんな時、同じ年齢で一緒に教頭に昇進したSさんを知った。
たまたま同じ研究会に所属していることが分かった。
 互いに教頭として難しいポジションを初めて体験していた。
一気に意気投合した。

 「大学を出てから、友だちらしい友だちがいなくて」
お酒を酌み交わしながら、そんな話題で盛り上がった。

 以来、ゴルフを共通の趣味にしながら、
校内の困りごとを相談し合ったり、励まし合ったりした。
 酒量も同程度だったことも好都合だった。
2年間の再任用校長も一緒に務め、同じ年度に退職した。  

 そして、もう一人。
Yさんとは、校長に着任した日に初めて出会った。
 その年、教頭から校長に昇任しS区に着任したのは、
Yさんと私の2人だけだった。
 その上、Yさんは私の学校で1年前まで教頭をしていた。
不思議な縁を感じた。

 同じく区内には校長の知り合いがいなかった。
なので、遠慮しながらもYさんに電話で色々と尋ねた。
 同じく新米校長だが、6歳も上だった。
それだけで心強かった。

 月に1,2回は、「いつもの蕎麦屋で」と、
退勤後の一時を過ごした。
 話題は、学校や教育に限らなかった。
Yさんは空手の師範という別の顔を持っていた。
 楽しい時間だった。

 「アンタは、頭もいいし、よく気が利く。
先生方も安心してついてくるよ」
 不安だらけの私をそういって励ましたくれたことを、
昨日のことにように思い出すことができる。

 ▽ さて、ここまで長々と旧友のことを綴るつもりはなかった。
だが、振り返るとその時々、
書き切れないほど多くの友に恵まれてきた。
 ここに記したのは、ほんの一端にしか過ぎない。

 13年前、この地に居を構える時、
新しい出会いを無条件に信じていた。
 「きっと、新しい友だちができる」
疑わなかった。
 「今までがそうだったから・・・」
確信があった。

 ところが、「誤算!」。
今、私に友だちと言える人はいない。

 確かに、ご近所には親しく言葉を交わす方々はいる。
自治会のことを一緒に進めようとする人たちもいる。
 お裾分けをもって、インターホンを押してくれる方も多い。

 しかし、先日会議の合間に聞いた言葉が心に刺さった。
「僕らは情報を交換し合うことはするけど、
気持ちを言いあうことをしない。
 だから、友だちができないんですよ」。
黙って、うなずくだけだった。

 「今からでも遅くない!」。
もう一度、友だち造りの努力をしてみようと思った。


  

     い ま 桜 爛 漫
               ※次回ブログ更新の予定は5月17日(土)です 
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