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ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

D I A R Y 25年4月

2025-04-26 11:03:29 | つぶやき
    4月 某日 ①

 4月からは新しい年度である。
現職の頃は、1日に新顔の先生らを迎えた。
 その初々しい姿を見て、
「いよいよ新しいスタートか!」と実感し、
意気込んだものだ。

 まさか、当地でしかもこの年齢になり、
再び新年度を強く意識するようになるとは、
思ってもいなかった。

 自治会長になり2年が過ぎた。
役員改選の年度であった。

 通常総会があり、1週間後に52もある班の班長会議が、
5つに分け2日間をかけて行われた。
 そのまた1週間後には、定員67名の役員会議があった。

 私は総会で会長に再選され、これらの会議を切り盛りした。
役員の約4分の1が変わった。
 新顔の方々には「是非、自治会の活動に新風を吹き込んでほしい」と、
挨拶でくり返した。
  
 さて、連続した3つの会議の最後、役員会議でのことである。
開会を前に会場の前席に座り、
司会役の副会長さんと進行の打合せをしていた。

 その最中、突然、女性の役員さんが私の前に立った。
何度が朝の散歩で言葉を交わしたことがあり、
お名前も知っていた。

 「お忙しい時にすみません」
驚いて私が顔を上げると、その方は続けた。
 「先日、図書館で会長さんのご本をやっとお借りできました。
お読みしました。
 もう素晴らしくて、私は・・・」
その方は、両手の人差し指を頬にあて、
涙が流れる仕草をした。

 すると私の横にいた副会長さんが、
「やっぱり、皆さん同じですよね。
僕もそうでした」と口を挟んだ。

 その方は、その声に構わず、
「私、ありがとうございました。
それだけ伝えたくて・・、本当に。
 失礼しました」
深々と頭を下げ、去って行った。

 すごく嬉しかった。
恐縮の余り、慌てて立ち上がり、
その後ろ姿に私も頭を下げた。

 「やっぱりそうだよ。そうです。
あの本は、そうですよ!」
 副会長さんは、納得の表情でくり返した。

 
    4月 某日 ②

 教育エッセイを出版すると、
兄は、私からの謹呈とは別に、
10冊を注文してくれた。
 
「俺の弟が書いたんだって、
友だちや知ってる人にあげるんだ」 
 嬉しそうにそう言いながら、
本の代金を差し出した。
 
 私が、そのお金を遠慮すると、
「いいから、自慢しながら渡したいんだから」
と嬉しそうだった。

 お彼岸のお墓参りで、久しぶりにその兄と会った。
帰りに、かかり付けのお医者さんが読んでみたいと言うので、
「例の本を1冊ほしい」と。
 そして、後2人くらいあげたい人がいるとも。

 なので後日、「本代はいいからね」と3冊を持って、
兄の店へ行った。
 
 相変わらず、小まめに動き回り、
店を切り盛りしていた。
 その合間を縫って、しばらく話ができた。

 「そろそろ、この店を終わりにしなければと思って」
それが、話の始まりだった。
 意外な切り出しに、驚いた。

 すでに、店の経営は義理の息子に任せていた。
兄はそれを判断する立場にはなかった。
 それでも、「いつ止めるかを、この頃よく考えるんだ」と言う。
最終的には自分が決めることではないことを兄は承知しているはず。
 でも、兄の言いたいことを聞いて上げようと思った。

 「俺も、もう少しで90になるべ。
動けなくなる日まで何年もないさ。
 だから、動けるうちに止めたいんだよ」

 真意が分からなかった。
「動けなくなったって、
跡継ぎがやるからそれでいいじゃないか!」
 「そうじゃない。
もし,俺が動けなくなってから、
この店が立ちゆかなくなったらって、考えるべ」

 「もしそうなったら、それはそれで仕方ないじゃない」
私がそう言うと、
珍しく兄は強い口調で言った。
 「それが、俺はいやなんだ!」。

 その勢いで続けた。
「俺は、負けたくないんだ。
だから、今だっていい魚を毎朝探して、
美味しいのをと毎日頑張ってる。
 止めるなら、今のまま。
店が傾かない前がいいんだ」

 兄は言う。
「俺が動けなくなってからでも、
やっぱりあの店もだめだったかと言われたくないんだ。
 負けて店を終わりにしたくないんだ」。

 「つまりは、惜しまれて店をたたみたい。
自分が動けるうちなら、
同じようにお客さんに来てもらえる。
 ならば止めても負けたことにならいと言う訳か」
 
 兄は私を正視し「そうだ!」と強く言った。
なのに、私は偉そうに言ってしまった。

 「負けたっていいじゃないか。
負け組と勝ち組ってよく色分けするけど、
負け組のほうが圧倒的に多いんだ。
 ほどんどみんな、負け組だよ。
それで人生終わっているんだよ。
 多くの人が、本当はそうなんだよ」

 「でもなあ、
俺はずっと負けたくなかったから、
ここまで頑張ってきたんだ。
 お前は、こうして立派な本を世に出したべ。
普通なかなか出来ないことをやってのけたさ。
 羨ましいくらいだけど、凄いし自慢だ。
お前らしく頑張ったからだよ。
 俺だって、やっぱりお前にじゃないけど、
負けずに終わりたいんだ。
 分かるべ、なぁ!」

 泣きそうで声にならなかった。
兄の強さも優しさも浸みた。
 精一杯うなずき、
目の前にあった冷たくなったお茶を、ゆっくりと飲んだ。
 



   柳 も 芽 吹 く ~だて歴史の杜公園
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D I A R Y 25年2・3月

2025-03-29 10:40:27 | つぶやき
    2月 某日

 出版したエッセイ集を謹呈した大先輩から、
お手紙が届いた。
 私の稚拙な書に対し、
『全体を通して教職・更に自分の人生を筋を通し
信念で生き続ける力強さを感じました。
 私も卒寿をすぎましたが、
読みながら反省しきり、
今からでも遅くない。
 まわりの人々、
そして自分が豊かな気持ちで生きるため、
少しでも努力しなければと思いました』
と、身にあまる感想を頂いた。

 そんな喜びもつかの間、
この手紙の末尾には、こんな一文が記されていた。

 『世界中不透明、
TVには一日中トランプの顔がうつります。
 「強い者は力の行使を許されており
   弱い者はそれを受け入れざるを得ない」
頻繁に引用されている警句が頭をよぎります』

 以来、厳しい現実に対するこの『警句』が心から離れず、
ただただ無力な自身に唇を噛むだけだった。

 そんな矢先、某紙の文化欄に、
室蘭市在住・大石弘氏のエッセイがあった。
 少々意を強くし、前を向いた。
転記する。

  *     *     *     * 

     一 寸 い い 話 
  
 これは、何かの投稿記事で読んだ記憶がある。
東京の中心の地下街での事。
 「スーツを着た立派な紳士が落ちていた紙クズを
何気なく拾いポケットへ入れた」
というのである。
 それを見ていた筆者はまだまだ日本も捨てたものではない、
と思った、と。

 なかなか出来るものではない。
私も散歩するが道路のゴミを拾うのには勇気がいる。
 良く火ばさみを持ってゴミ拾いをしている人を見かけるが、
背広のポケットへ何気なく入れる姿は見た事はない。

 多少異なるかもしれないが、最近の私の経験である。

 近所の郵便局で用が終わり、
紙クズを捨てようとした。
 ゴミ箱はフタを押すと開いてゴミを入れる様になっている物。
私は捨てようと思ってしゃがみ込もうとすると、
側の椅子に坐っていた学生風の青年が
そのフタを手で押して開けてくれた。
 私は礼を言ってゴミを捨てたがその青年も微笑んでいた。
私は何かとても心温まる気がして、うれしかった。

 又、その帰途である。
保育園帰りであろうと思われる若い父親が、
左手に荷物を持ち、
小さな子を前ひもだっこをし、
大きい4歳くらいの子の手を引いて歩いた。
 と、大きい子が疲れたのか立ち止まってしまった。
父親はその子をおんぶして歩きだした。
 私はそれを見ていて、「頑張れ頑張れ」と内心叫んでいた。

 別の日、同じ家族と思われる子ども2人を、
前に小さい子、後ろに大きい子、
母親は荷物を背負って一生懸命自転車をこいでいた。
 子育て真っ最中である若者、
頑張っている姿は美しいものである。

 又、私は昨年仙台へ行き電車に乗った時、
よく、若者に席を譲られた。
 これは、単に私が、よぼよぼだっただけにすぎないか-。

 ところで、裏金だ、闇バイトだ,自分さえよければ、
自分の国さえよければ、ましてや他国へ侵攻(戦争)し、
等の暗いニュースばかりである。
 しかし、こんな「小さな、良い話」を
拡大・再生産して行けば愚かな社会悪も消えないか、
と期待したいものである。
 一寸(ちょっと)楽観的か?

  *     *     *     *


  3月 某日

 約半年ぶりになるが、
室蘭民報に『楽書きの会』同人の1人として、
執筆したエッセイが載った。

  *     *     *     *

       心躍る 秋 

 市内の主な通りには、街路樹がある。
通りによって樹木の種類が違う。
 なので木の大きさや形状が異なり、
通りの趣を変えている。
 当然、紅葉の華やかさも違う。

 今秋、特に目を惹いたのは、
『山法師』が並ぶ嘉右衛門坂通りだった。
 濃い紅色が通りの両側を飾り、例年以上の鮮やかさ。
思わず足を止め、
小さな幸福感を味わったのは私だけではないのでは。

 そして、今年も期待を裏切らなかったのは、
インター通りと青柳通り交差点から見る秋色だ。
 ここに立ち、まずインター通りに顔を向けると、
両側には真っ黄色に色づいた『イチョウ』が凜とした姿で立ち並ぶ。
 深まり行く秋そのままに、
1日1日歩道も車道も黄金色に覆われていく。
その美しさを共有してか、人も車も穏やかに行き交う。

 今度は、同じ場所から青柳通りへ向きを変える。
そこは『もみじ』が続く並木道。文字どおり、
赤を基調とした紅葉。
 そのグラデーションが、
日により時により空により色を変える。
 思わず「これは天然のイルミネーション!」と今年も呟いていた。

 ふと、秋を迎えた数年前を思い出した。
顔馴染みの方に挨拶と一緒に、
日ごとに輝きを増す当地の紅葉を話題にした。
 すると、地元生まれ地元育ちのその方は、
不思議そうな表情を浮かべ、
「そうですか。そう言われると確かに綺麗かも。
 でも、秋だもの毎年のことでしょ」と。

 あの時、返す言葉を失った。
だが、今年もこうして秋に心躍る私でいる。
 そう、私はまだまだ枯れたりしない。

  *     *     *     *  

 今回に限らず、私のエッセイが掲載されると、
その紙面の写真を、首都圏にいる2人の息子にLINEメールしている。
 多くの場合、それを読んだ率直な感想メールが返ってくる。

 何を隠そう。
私は、いつもそれを心待ちしている。
 好評でも不評でも構わない。
嬉しいものである。
 
 今回の2人のメールも、実に楽しかった。

 『読みました。
中盤までの情景描写がとても良かった、
が、最後が唐突だったかな。
 「まだまだ枯れるには早いことを実感できた気がした」
とかではどうですか。
 むしろ狙って唐突感を出したとか?』

 『私は、こういうキレイな描写系の文章の良さが
全く感じられない人間なんですよ、、、、。
 たぶん、上手な文章なんだと思いますよ~。
小説読まない私みたいな人は、
風景描写はなかなか付いていけないんですよね~』




         陽 春 の 候
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D I A R Y 24年10・11月

2024-11-30 14:55:40 | つぶやき
  10月 某日

 昨年11月、5歳違いの姉は、
横浜の大きな病院で,心臓の手術を受けた。
 そこは、姉の娘が看護師をしており、
それを頼っての療養だった。

 手術は当初予想よりも時間がかかったが、
その後は順調な経過だった。
 しかし、年齢が年齢である。
一時は、もう1度若干の手術が必要かもと、
医師から告げられたこともあった。

 しかし、激減した体重も徐々に回復し、
今夏には、投薬もゼロになり、定期的な診断のみに。
 そして、遂に10月、全快にこぎ着けた。

 手術前の姉は、登別温泉の有名旅館で事務スタッフをしていた。
女将は、「お姉様は私の片腕同然、頼りにしてるんですよ」と私に言った。
 とは言え、11ヶ月に及ぶ病休である。
仕事復帰は、難しいと私は思い込んでいた。
 ところが、旅館からは1日でも早く復帰してほしいとのこと。

 1週間程前、連絡を受け、
新千歳空港まで、迎えに行った。
 横浜での日常品は全て宅配便で送り、
姉はハンドバック1つで、到着ロビーから現れた。
 そして、「明日から、働く」と言った。

 私は、5人兄弟である。
長女と長男はすでに他界しているが、
86歳の二男は、今も毎朝、魚市場に出向き、
仕入れた魚の身下ろしをし、開店と同時に接客に立っている。
 
 そして、健康を回復した81歳の二女は、
休む間もなく、明日から仕事に出ると・・。
 2人は口を揃えて明るく言う。
「何もしないで、家でブラブラしているよりもいいもん」
  
 私は、何もしないでブラブラと毎日を過ごしている訳ではないが、
2人を見てると、少し恥ずかしくなる。


  11月 某日 ①

 ここ2,3年のことだが、
道内では名の通ったラーメンの暖簾がかかる店で、
ラーメンではなく、あんかけ焼きそばをよく注文する。

 その店では、ずっと味噌ラーメンだが、
いつ頃からか、家内は特別メニューのような
あんかけ焼きそばを食べ始めた。

 ここはラーメンで有名な店だ。
なのに違う注文をすることに、当初私は不快な気分だった。
 だが、「そんなに美味しいのなら」と、
一度だけのつもりでオーダーしてみた。
 以来、私もラーメンから方針転換をした。

 しかし、あんかけ焼きそばを他店で食べたことがなかった。 

 そこで、東京に来た貴重な機会だと、
デパートの最上階にあった高級中華料理店で食べてみることにした。
 メニューを見て、まずその価格の違いに驚いた。
いつも食べている約3倍の値がした。

 そして、出てきたあんかけ焼きそばの美味しいこと。
その値段に十分納得した。

 さて、家内と私がその中華料理店へ入ったのは、
まだランチメニューの時間帯だった。
 やや空席はあったが、多くのお客さんで席が埋まっていた。

 窓側の席に案内された私の所から、
丁度、2人用のテーブル席が2つ並んでいるのが見えた。
 そこに、初老の男性と女性が1人ずつ着席していた。

 注文したものを待つ間に、2人が注文した昼食が届いた。
やや遠慮しながら2人の様子を見た。
 高級中華料理店で、
1人で中華を食べていることが気になった。

 テーブルがやや離れていたので、当然2人は別々の客である。
その2人が、同じ方向を向いて食べていた。
 やや不思議な気持ちで、
美味しそうに食べる2人を遠慮しながら、ちら見した。

 東京でも、高齢化は間違いなく進んでいる。
だから、このような高級店でも高齢の単身者が食事を楽しんで当然だ。
 なのに、見慣れない私には、異様な光景のように映ってしまった。
同時に、そんな目で見ていることに、申し訳ない気持ちにもなっていた。


  11月 某日 ②

 高級中華料理店での昼食の翌日だ。
コロナ禍前まで、年に1回は一緒にゴルフをしていたOご夫妻と、
夕ご飯を共にすることになっていた。
 お酒の好きなお二人だった。
夕方、錦糸町のおそば屋さんで待ち合わせをした。

 1週間ほど前、4人のグループLINEに、
待ち合わせ時間とおそば屋の名前の知らせが届いた。
 
 そのおそば屋は現職の頃、よく利用した。
落ち着いた雰囲気で、居酒屋とは違い、
数人で飲むには最高の店だった。
 しかし、2年前からそこには店がなくなっていた。

 でもOさんは、その店を指定してきた。
もしかしたら、近くに移転したのかもと思い、
ネットで検索してみた。
 案の定であった。
駅の反対側のビルに、その店はあった。

 さて、待ち合わせ時間の少し前に店に着いた。
でも、Oさん夫妻がなかなか現れない。
 5分が過ぎた。
LINEメールが来た。
 「おそば屋さんが無くなっています。
今、どこにいますか?」
 移転に気づかず、店を指定したのだ。

 「お店は、移転しました。
駅の反対側Rビルの2階にあります。
 店の前にいます」
メールで返信しながら、笑いがこみ上げた。

 だって、移転にいち早く気づいたのは、
東京に住む現地の方ではなくて、
北海道の私たちだったのだもの・・・。

 その後の4人でのお酒を囲んでの食事は、
しばらくの間、このことで盛り上がった。 


 

     晩秋の色・ナナカマドの実
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D I A R Y 24年9月

2024-10-12 10:50:53 | つぶやき
 どうしても優先したいことがあり、
先週は予告もなくブログをお休みした。

 この2週間で、めっきり秋が深まった。
それを象徴するかのように、日の入りの早いこと。
 5時をすぎると暗くなり、街路灯が点灯する。
その早さはどんどんと加速していく。
 毎年のことだが、
この時季になると寂しさを覚えるのは私だけだろうか。

 さて、9月から2つを記す。
残暑で、まだエアコンの恩恵を受けていた時だった。
 今では、それ自体が懐かしく思える。


  9月 某日 ①
 近隣14自治会で『中央区』という連合組織を作っている。
その連合を基にした社会福祉協議会(中央社協)がある。

 前自治会長がその副会長であったため、
私が引き継ぐことになり、昨年度からその役を務めている。
 多くの企画運営は、
手慣れた会長と事務局長の2人で進めてくれる。
 大助かりである。

 ところが、今年度は突然困りごとが発生した。
臨時三役会が招集になった。

 毎年、『お楽しみ昼食会』を実施していた。
これは、75歳以上の単身者を対象に希望をつのり、
昼食をとりながら、楽しい時間を過ごそうと言うイベントである。

 コロナ禍での中止はあったが、昨年度までは、
当地では唯一ディナーが楽しめるRホテルで行っていた。
 ところが、7月にそのRホテルが突然倒産した。

 例年50人以上の参加者がある。
その人数に飲食を提供する会場が市内からなくなったのだ。
 イベントの中止もテーマになったが、
ともかく今年は何とかして、実施しようと決めた。

 よく会議などで利用する『市民活動センター』の多目的室で、
お弁当とアルコール以外の飲み物で行うことにした。

 今回実施してみて、あまりにも参加者が少なかった場合は
来年度からの実施は見送ろう。
 そんなことも考えた。

 ところが、参加募集をすると例年より参加が多かった。
会場は決して広くない。
 ホテルに比べ、食事もイマイチ。
ところが、それが高齢者にはよかったらしい。

 取り寄せたお弁当が、口にあった。
「美味しい」の声が、聞こえてきた。

 そして、こんな声も、
「ホテルなら着ていく服に困るけど、
ここなら気楽にこれて、いいよね!」

 それを裏付けるように、
会場には、和気あいあいとした雰囲気があった。

 「これも、またいいもんだ!」
私もそう思ってしまった。


  9月 某日 ②
 今年度2回目の学校運営協議会があった。
最初に、午後の授業を見せてもらった。
 低学年はすでに下校していたので、
3年生以上の教室を回った。

 学校は、今年度から新校舎になった。
4階建てで、中央に広い廊下があり両側に教室がある造りだった。
 エアコンも設置したと聞いた。

 最初の驚きは、廊下の天井にエアコンがあったことだ。
廊下の冷気を教室に送るシステムらしいのだ。
 教室の窓側の席は、さほど涼しくないように思えた。

 設置方法に違和感があった。
各教室に設置すればいいのに、「どうして?」。

 さて、授業だが学年が進むにつれ、
タブレットを使った学習展開が目についた。
 子供らは、学習ソフトからの情報を基に、
タブレットと向き合い、それぞれのペースで学習を進めていた。

 先生は、タブレットの載った机間を巡視しながら、
専ら明るく励ましの声をかけていた。
 学習につまづいている子を見つけ、
その子への個別指導をする姿を、
私が見ることはなかった。
 そもそもタブレットの情報で、
つまづきに気づくのは困難だと思った。

 それよりも、
「一人一人の子どもの理解には差があります。
 だから、一斉に同じように学習を進めること自体に無理があるのです。
一人一人の個別の学習を援助することが重要なんです」と、
学習塾などで聞きそうな理念が、学校に持ち込まれているように思えた。

 私は、腑に落ちなかった。
「きっと私が時代遅れなのだろう!?」
 必死に考えてみたが・・・「無理!」。

 さて、大きな戸惑いがもう1つあった。
学校は、新校舎の完成と共に旧校舎を解体した。
 それによってできた更地を、駐車場にする工事が進んでいた。

 その駐車場予定地の片隅に、
学校の歴史を感じさせる『二宮金次郎像』と『校訓を刻んだ石碑』があった。
 それを撤去し、別の場所に設置するか、廃棄するか。
どちらかにしなければならないとのことだった。

 校長・教頭の2人は、工事業者から「どうすのか」と迫られていた。
撤去し廃棄するのは、簡単だった。
 移動し設置するには、それなりの工事費用が必要だった。

 いずれにしても、像と石碑をどうするかの計画がないまま、
工事は進んできたようであった。
 
 学校における歴史的な施設設備をどう扱うかは、
設置者にとって重要な問題である。
 それは工事計画を立案する上で欠かせない事項であるはずだ。

 それをせずに、工事途中でその措置を校長と教頭の2人に託すとは・・・。 
奇妙なことである。
 なんとも2人には「気の毒!」としか言えなかった。

 


         秋 深まる
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D I A R Y 24年8月

2024-09-14 12:15:40 | つぶやき
  8月 某日 ①

 暑い日が続いていても、無性にラーメンが食べたくなる。
丁度、コーヒー豆も切れる頃だったので、
「室蘭のスタバまで行くついでに」
と、元祖室蘭ラーメンと称する『清洋軒』へ行くことにした。
 「そこの塩ラーメンが大好き!」。

 家内を誘い、猛暑の昼下がり、
室蘭の市街地からはやや離れた、
町外れの一角にあるその店に行った。

 当地も室蘭も、ラーメン店は家族経営が多い。
ここも老夫婦と息子で切り盛りしているが、
最近はご主人の姿がなく、老いた母と息子だけ。

 駐車場は2台がやっとのスペースで、
私はいつも路駐である。

 店の近くまで行くと、
珍しく、道の両側に路駐が5台もあった。
 店内は,カウンター7席とテーブル席1つで、
11人で満席になる。
 案の定、店に入れない客が6人も、
暖簾の外に並んでいた。

 驚いて、路駐の車を見ると、
3台がレンタカーだと分かった。
 きっと旅行ガイドなどで紹介されたのだと思った。

 待ち時間30分を覚悟し、列に並ぶことにした。
話し声と雰囲気で、前に立っている方々が、
アジア系の外国人だと分かった。
 そして、店内で食べている人も同じ仲間だと推測できた。
町外れのこの店で、外国人と一緒になるのは初めてだった。
 インバウンドがここまで広がっていることにも驚いた。

 さて、予想通り30分後、
テーブル席に座った私たちにやっとラーメンが届いた。
 カウンター席では、アジア系の方が7人、
自国語で会話しながら、のんびりとラーメンを食べていた。

 待ちに待った塩ラーメンを食べながら、
彼らの様子が気になった。
 すぐそばの女性は、箸が進まないようだった。
少し食べては、コショウをふったり、
ニンニクを加えたりしていた。  

 その隣りも、少し食べては箸を止め、
また少しといった具合だった。
 きっと口に合わないのだと思った。

 どこの国かは分からないが、
濃い味に慣れているのなら、
このラーメンの薄味は物足りないのかも知れない。

 そう思いながら、私は「相変わらず美味しい!」と、
音を立てながらラーメンをすすった。
 ふっと、気づくと向かい席の家内も、
美味しそうに音を立てながらラーメンを食べていた。

 でも、カウンター席の7人からは、
すする音が聞こえてこなかった。
 ゆっくりゆっくりしか食べていないことに納得した。

 それにしても、市街地から離れたラーメン店まで、
レンタカーで乗り付け、食べたラーメンの味は、
どうだったのだろう。
 あの様子から推測すると、 
「ううーん! 残念!」と言うところだろうか・・・。 


  8月 某日 ②

 芦別で、家内の両親が眠るお墓参りを済ませた翌日、
W市で大学時代の友人とパークゴルフをした。

 昨年、彼とは私の街で一緒にパークゴルフを楽しんだ。
そのお返しで、今回は彼の住まいがある地でとなったのだ。

 昨年は、地の利で私たち2人が勝ったが、
今回は彼のリベンジであった。

 さて、ラウンド後は市内のホテルでランチを予定していた。
ところが、行ってみるとレストランはお盆休み。

 そこで、車をホテルの駐車場に置いたまま、
市街を散策し、適当な食事処を探すことにした。

 ここは大学4年間を過ごした街である。
家内は同窓会で何度か来ていたが、
私がここを歩くのは大学卒業以来であった。

 歩いてみると、街は長い時間が流れて、
大きく変化していた。
 友人に、デパートのあった場所を尋ねた。
よくお酒を飲んで盛り上がった炉端焼きの居酒屋の場所も訊いた。
 冬のバイト先だった郵便局も・・・。
もやしと味噌の味が大好きだったラーメン屋も・・・。
 次々と知りたかった。

 そして、歩きながらふっと思い出したのが、
新入生歓迎コンパや卒業コンパで使った店だった。

 大学卒業後も彼は、マイホームをこの地に構えていた。
時には異動で離れた時期もあったが、多くをここで過ごしている。
 私の問いに、懐かしさを込めながら応じてくれた。

 そして、
「そうだ! コンパで使ったあの店だけど、
 今は,別の場所でレストランをやっているんだ。
あの頃と同じCという名前でね。
 そこで、ランチにしようよ!」。

 もう半世紀以上も忘れていた『C』の名前だった。
「今度のコンパも、Cで5時からです」
 そんな連絡が、50年ぶりに脳裏に蘇った。

 早速、そのレストランへ向かった。
私が知っているコンパ会場『C』は、
通りから直接2階へ行くことができた。
 そして、現在の『C』は3階建ての小洒落たビルの2階にあった。

 まったく様変わりしていたが、
ここも通りから直接階段で2階へ行けた。
 そんな共通項に気づいただけで嬉しくなった。

 お盆休みも手伝ってと閑散とした街中だったが、
それに反して店内は混み合っていた。
 私たちの3人席だけが空いていた。
豊富なメニューから3人ともカレーライスをオーダーした。

 やや時間をおいて届いたその盛りの多さに、
3人で目を丸くした。
 毎日、空腹感で過ごした学生時代、
『C』で出された盛りのいいコンパ料理を思い出した。

 あの頃と同じで、味も良かった。
だけど、明らかに私の方が違っていた。
 食後のコーヒーを持ってきた店員さんに、正直に言った。
「若い頃に食べた『C』と同じで、すごく美味しかったです。
でも、もうあの頃のようには食べられなくなりました。
 残してごめんね」。
店員さんは笑顔で、私と同じように食べ残した
家内のものも一緒にさげてくれた。 
 懐かしい時間が流れていた。




         秋   空
              ※次回のブログ更新予定は9月28日(土)です  
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