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ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

D I A R Y 25年6月

2025-07-05 12:27:14 | つぶやき
  6月 某日 ①

 そろそろお風呂に入り、就寝を迎える時間だった。
珍しくそんな時間に家デンが鳴った。

 家内が電話に出た。
すぐに明るい声になり、
「ええ、元気ですよ!」
フレンドリーな雰囲気だ。

 若干言葉を交わし、
「お待ち下さい。
今、変わりますから」
 私に受話器を渡した。

 誰なのか検討もつかないまま
「もしもし」と応じる。
 相変わらず、おっとりとした穏やかな声が
「渉、久しぶり!
元気なようだね」。

 2年以上もご無沙汰していても、
彼とは、中学3年からの付き合いである。
 その声はすぐに分かった。
「Y雄も、元気だった?」

 「それがさ、半年くらい前から、
腰が痛くてさ。
 もう仕事は全然していないから、
そっちには迷惑かけないで済んだけれど・・。
 ちょっとの動きでも辛くて、毎日困ってるよ」
しばらく彼の腰の様子に耳を傾けた。

 そして、「渉は腰を痛くしたことないの?」
と訊かれた。
 「俺は、若い頃から腰痛持ちで、
何度もギックリ腰をして、大変だったんだ。
 今もそうだけど、年に何回も痛い時があるよ」。

 その先は、通院して病院や飲んでいる薬の話題で盛り上がる。
ふと気づくと。以前はもっぱら仕事や家族のことが話題だった。

 「お互い、何処が痛いとか悪いとか、そんな話題ばかりだね。
随分と歳とった証拠だね」。

 それを聞いた彼は、同意しながらも急に
「そうそう、今日は僕の誕生日だった。
それを渉にも教えようと思って電話したんだ。
 歳とると駄目だね。
肝心なことが後回しになっちゃった!」だって。

 
  6月 某日 ②

 詩集『海と風と凧と』を発刊したのは、2006年9月だった。
あれから20年が過ぎた。
 
 その年は、東京都の児童文化研究会長をしていた。
月1回、その研究会が某小学校であった。
 毎回、研究大会に向けて2時間余り、活気ある会議を行った。

 会議が終わると、正副会長や事務局のメンバーで、
反省会と称して、小学校の最寄り駅前で一席を設けた。

 いつも同じ暖簾をくぐった。
回を重ねるごとにその店の馴染みになった。
 カウンター席が6つと
4人で囲む小上がりテーブルが5つ程の小さな居酒屋だった。
 ご主人夫婦と妹さん2人が、てきぱきと働いていた。

 詩集を出版した月は、出版祝いを兼ねて盛り上がった。
ご主人が、お祝いにとビールを何本が差し入れてくれた。
 嬉しさの余り、「謹呈します」とカバンにあった1冊を、
ご主人に渡した。

 ご主人は、その本を嬉しそうに手に取り、
「そのカウンター席に置いておきます。
 1人飲みのお客さんが手にするかも知れません」。
私は全く期待もせず「ありがとうございます」と、
笑顔を作った。

 ところが、1ヶ月後再び店へ行った日だ。
ワイワイと飲んでいると、
カウンターの隅で1人飲みの男性がいた。
 私からは、その方の背中しか見えなかった。

 トイレから戻った先生が教えてくれた。
「詩集を読みながら、飲んでますよ」。

 それまでのワイワイの声が、やや小さくなった。
私は、その背中が気になって仕方なかった。
 その方は、1時間もすると席を立ち、店を出て行った。

 ご主人は、常連さんだと教えてくれた。
そして、「最近、そこに座るとよく読んでますよ」と。
 胸がジーンと熱くなった。

 さて、そんな経験を覚えていたので、
今回の教育エッセイ出版でも、
そんなお店があれば『謹呈』をと目論んだ。
 
 地元に馴染みの居酒屋はなかった。
理髪店と整骨院に、図々しくお願いしてみた。
 「この本を出版したんですが・・」と、
待合コーナーの本棚を指し、
「もし邪魔でなかったら、
その棚に置いてもらえると嬉しいのですが・・」。

 馴染みの客からの厚かましい頼みである。
真意は別として、2つ返事で引き受けてくれた。

 それから理髪店にも整骨院にも何度か行った。
本棚に置かれた私の本は、定位置から動いた気配がなかった。

 ところが今日の整骨院は違った。
治療を済ませ待合コーナーに戻ると、
珍しく3人が長椅子に座っていた。

 空いている席に腰をおろすと、
隣の女性が、私の本を手にしているのに気づいた。
 突然、背筋がすっと伸びた。
  
 すぐに女性は治療に呼ばれた。
返事をした後、
読んでいたページにしおり紐を移し、
本棚に立てかけ、女性は治療へ向かった。

 「きっと続きを読んでくれる」
そう信じた。
 20年前同様、胸がジーンと熱くなった。


  6月 某日 ③

 家内は昔の同僚何人かと、
定期的に近況報告のメール交換をしている。

 「Cさんからのメールなんだけど・・」と、
スマホを見せてくれた。

 そこには、こんなことが書いてあった。
最近主人の物忘れがひどくなりました。
 仕事先で回りに迷惑をかけていないか心配です。
なので、大きな病院の『物忘れ外来』へ行くことにして予約しました。 
  
 ご主人はとても気さくで、なかなかの人格者であった。
意気投合して、楽しいお酒を飲んだことも。
 それだけに『物忘れ外来』の予約に、
私もショックを受けた。

 『これ以上、症状が進まないよう願うばかりです』
メールに記されたCさんの想いが、心に刺さった。
 「明日は我が身かも!」と思いつつも、
「辛い!」できごとである。




      アジサイが開花
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大らかに 寛容に

2025-06-14 10:54:01 | つぶやき
 今までの経験などの先入観で子どもを見る。
あるいは、いくつかの視点だけで子どもを解釈する。
 これでは、その子を理解したことにはならない。

 だから、
あるがままの姿を受け入れて、
360度の視野で子どもを見て理解に努める。
 そして、常に肯定的に受容する。

 一人一人の子どもを理解するために、
現職の頃に、心がけたことだ。

 そして今も、子どもに限らず、
どんな人にも同様の視点でふれ合いたいと努めている。

 ところが、老いだろうか。
穏やかさや、柔軟さ、豊かさが薄れ、
狭い視野と勝手な解釈で、
周りの方を見るようになった気がしてならない。

 戒めを込め、最近の私の『負』を記す。

 ▼ 長男が、「休暇がとれたので」と旅行に誘ってくれた。
色々と検討した結果、
今回は、八戸駅で落ち合い、奥入瀬渓流から十和田湖。
 翌日は、三内丸山遺跡と、
青森県立美術館の棟方志功作品を見学することにした。
 八戸からの全行程は、レンタカーで私が運転することにした。 

 さて、そのレンタカー店でのことである。
ここ数年、旅先で何度かレンタカーを利用してきた。
 ところが今回は、利用手続きが完全にタッチパネル化されていた。

 入店すると、利用手続きの機器の前に、
女性店員が立っていた。

 「ご予約のお客様ですか?」
店員は突然早口で言った。
 驚きながらうなずくと、
「運転はどなたですか?」
 「私!」
「こちらへどうぞ」
 目の前の機器へ手招きした。

 私がそこに立つと
「画面の指示に従って、手続きをしてください」。

 店に入ってからここまで、どれだけの時間だっただろうか。
「1分?」、2分はかかっていないと思う。

 とにかく、想像もしない早い展開。
店内は決して混んでいなかった。
 家内と長男の方を振り向くと、
まだ、椅子に腰掛けるまでに至っていなかった。

 私は、誰かに急かされているように、
氏名や電話番号を慌てて入力した。
 そして、機器の指示に従い、
運転免許証のコピーをとった。

 すると次にその機器は、顔写真の撮影を求めた。
レンタカーの手続きで、顔写真を求められたことがなかった。

 なので、私は一瞬躊躇した。
その一瞬をついて、近くにいた早口の店員が、
「そのまま真っ直ぐ前を見て、
下の赤いスイッチを押して下さい。
 それで写ります」。

 言われるままに、赤いスイッチを押と、
「では、料金の支払いを済ませてください。
 それで手続きは完了です。
後は、あちらのカウンターへ行ってください」

 ついに、私がカウンターでレンタカーのキーを貰うまで、 
その女性店員から一度も「ありがとうございます」の言葉はなかった。

 それよりも、「手続きを急いでください!」。
そんな声がくりかえされているようで、
私は落ち着きを失い、不快感だけが残った。
 
 ▼ 2ヶ月ごとに眼科へ通院している。
行く度に診察の前に、視力だけでなくいくつかの検査をする。
 その時によって、検査の種類も若干違う。
検査は、看護師さんが進めてくれる。

 先日は、左目の写真撮影があった。
その機器の前へは、よく見る顔の看護師が案内してくれた。
 機器の向こうには、すでに別の看護師さんが座っていた。

 私は、付き添いの看護師さんに言われるまま、
その機器の椅子に座ろうとした。
 ところが、その椅子がやけに高い腰掛けになっていた。
私の身長に合っていなかった。

 それでも、背伸びをして座った。
しばらくして椅子はゆっくりと低くなった。
 最初から低くしておいて欲しいと思った。

 その後、機器に顎を乗せ、左目でレンズを覗いた。
ところが、覗いた先のピントがなかなか合わないのだ。

 乗せた顎の台を左右に動かしたり、
椅子が上下したり、機器が前後したり、
何度も同じことをくり返した。
 それでも、撮影できるような状態にならなかった。
 機器の前で操作する看護師さんが、
不慣れなのがありありと分かった。
 私は、それに黙ってつきあった。

 ところが、左目で覗いていたレンズが、
前に動き私の目に当たった。
 その時、初めてその看護師さんから指示があった。
「目を開けていてください!」

 つい強い口調になってしまった。
「レンズが目に当たっていて、無理!」

 付き添った看護師さんが、慌てて機器操作を交代した。
その後は、手早くピントを合わせ、撮影が終了した。
 そして、何事もなかったかのように、
「では、待合室でお待ち下さい」
 私は言われるままに、無言で移動した。

 「こんな時に、ご迷惑をおかけしましたくらい、
言えないんですか」
 そう言いたいのを必死でこらえた。

 ▼ 来店への謝意を言葉にしないまま、
急かし続けたレンタカーの女性店員。
 操作に不慣れで検査に手間取ったが、
それを不問にしたままの看護師。
 それらは、きっとレアなケースだろうと、心を静めた私。

 いいや、そうじゃない。
それは、私の理解の仕方が固いから、感じたこと。
 以前の私なら、軽く笑い流せたはずのこと。
だから今は、
「もっと大らかに、もっと寛容で」
と自分を叱る。




     槐(さいかち)の新緑   
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D I A R Y 25年5月

2025-05-31 11:15:49 | つぶやき
  5月 某日 ①

 私が会長を務める自治会には、830世帯が入会している。
市内では、大規模な自治会である。

 それだけに、全世帯を対象にした親睦交流は大事にしたい事業である。
この事業は5月の『観桜会』と8月の『夏まつり』の2回が、毎年計画されている。

 4月の自治会総会終了直後から『観桜会』の準備は始まる。
今年度は、初めてカラオケ大会をプログラムに入れた。
 マイクを握ってくれる方が何人現れるか、
今までにない取り組みなので、見当がつかなかった。

 でも、エントリーが少ないときは、
「役員が歌えばいい」と決めて、当日を迎えた。

 カラオケ機器と音響は、地元業者に委託した。
どうやら業者は不慣れだったようで、
セッティングに手間取った。
 やっと音が出るようになったのは、
11時の開会直前だった。

 カラオケ大会が始まる相当前から、
2人の司会者は、入れ替わり立ち替わり、
カラオケへのエントリーを呼びかけた。
 私もエントリーの動向がすごく気になった。

 尻込みする中から、何人かがマイクを握ってくれた。
そして徐々に、歌い手が現れ次第に盛り上がった。

 参加した役員OBが、
「私もカラオケをやりたいと思っていて、
できなかったんだけど、
こんなに盛り上がるとは、本当によかったね」。
と、帰り際に笑顔で言った。

 それにしても、
カラオケについて予想もしなかった声が2つあった。
 「これには、参った!」

 観桜会の数日前、 顔馴染みの奥さんと立ち話をした。
「今度カラオケをするんですね。
 だけど、曲はどうするんですか。
歌いたい曲のCDを持って行って、歌うんですか」
 奥さんは真顔だった。

 「いやいや、カラオケ機器をレンタルしましたので、
どんな曲もすぐ歌えますよ」
 そう答えると
「そうですか。
そうじゃないとね。
 できませんよね」。
奥さんはそう言いながら、
しばらくビックリした顔のままだった。

 そして、当日の会場では・・・。
受付を済ませたご主人2人に、挨拶がてら声をかけた。 

 「今年からカラオケを始めました。
是非、エントリーして好きな曲を歌ってください」
 すると、すまなそうに
「会長! 俺さ、CD持って来なかったから、歌えないわ」。

 「やっぱりか、そう思っていたのか!」
ため息しながら、大きなギャップを感じた。


  5月 某日 ②

 連休が明けてから、自治会に関連する様々な団体の総会が続いた。
私が副会長をする「中央区社会福祉協議会総会」をはじめ、
「中央区体育振興会総会」「防犯協会中央区支部総会」
「中央区交通安全協会総会」「中央区連合自治会総会」と。

 そして、〆は「伊達市連合自治会協議会」の総会であった。
この総会では、例年、市長が来賓挨拶をする。
 お決まりの冒頭挨拶に続いて、どんなことを話すのか、
例年、私の大きな関心事であった。

 昨年度は、総会の日がたまたまこの協議会の会長を務めるO氏の誕生日だった。
なので、まだ40歳代の市長は、70歳を超えているO氏へ、
「お誕生日おめでとうございます」と挨拶で述べた。

 どこか場違いな気がして、この若い市長にやや失望した。
「市内の全自治会長が集まる貴重な席なのに・・
誕生日おめでとうとは・・! 残念!」
 それが私の本音だった。

 そして、今年度の市長の挨拶は、
「昨年度のこの総会は、O会長の誕生日に行われました。
今年度は違いましたが、つい先日会長は70・歳になられました。
 誠におめでとうございます」って・・・。

 その日と翌日、北海道新聞の地元版には、
この市長による市政運営の特集記事が連載された。

 様々な機会を記者目線で論じたものだったが、
市政の長としての2年間を厳しく総括していた。
 この記事に、今後に不安を感じた市民もいたことだろう。

 2年続けての協議会総会での挨拶に加え、
この特集記事である。
 失望と共に任期を折り返した若い市長に、
「もっとしっかり!」とエールを送りたくなった。

 ふと、校長として勤務していたS区の区長Yさんを思い出した。 
人口40万を越える特別行政区の長なのに、
彼はとても気さくな人柄の方だった。

 区長は、毎年4月の校長会に出席し挨拶をした。
私は,12回もそれを聞いた
 ある年の挨拶が強く心に残っている

 「東京23区のイメージーカラーは何色か。
そんな調査をした結果を見たことがあります。
 皆さんは私たちのS区のイメージカラーが何色がご存じですか。

 お隣のK区は、水色でした。
川や海をイメージする明るい感じがして、いいなあと思いました。

 それに比べ、私たちのS区は『・・色』。
Sの名称からのイメージだとは思いますが、
『・・色』は暗い感じのイメージ色です。
 お隣の水色と比べることはないと思いつつも、
私は悔しくなりました。
 何とか、このイメージを払拭したいと考えています」

 彼は控え目な抑揚で、そう語った。
あの時、少しでもS区を明るいイメージにできないものかと、
私なりに聞いた。
 同時に、彼らしい想いだと思った。

 私が校長会長をしていた年は、
様々な教育関連の席で、区長さんと一緒になった。

 よく来賓控室で言葉を交わした。
強く印象に残ったやり取りがある。
 
 彼は多忙な公務の中で、
来賓として様々な会合に出席していた。
 なので、この日も公用車で会場入りした。

 その時、「公用車」が私との話題になった。
当然、自宅からの通勤は公用車と思っていた。
 ところが、彼は公用車を使っての通勤はしていないと言う。

 「それは、公用車の使用規程に違反するからですか」
遠慮がちに尋ねてみた。
「そんなことに関係なく、区役所まで歩いて30分なんですが、
私には貴重な時間なんですよ」

 彼は、楽しげに話を続けた。
「家から区役所まで、
その日その日いろいろとルートを変えて歩くんです。
 毎朝、違う人とすれ違う。
朝の挨拶を交わす人もいる。
 私に気づかない人もいる。

 だけど1番いいのは、
私に声をかけてくれる人がいることです。
 色々と大切な声がきけるんですよ。

 朝の時間帯だから、
呼び止めた人も長々とは話さない。
 だから、エキスだけ話してくれる。
これが、区政にすごく役に立つんです」

 こんな地道な積み重ねを初めて知った。
彼の凄さの1つを理解した。




     山菜『行者ニンニク』の花
                  ※次回のブログ更新予定は6月14日(土)です
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D I A R Y 25年4月

2025-04-26 11:03:29 | つぶやき
    4月 某日 ①

 4月からは新しい年度である。
現職の頃は、1日に新顔の先生らを迎えた。
 その初々しい姿を見て、
「いよいよ新しいスタートか!」と実感し、
意気込んだものだ。

 まさか、当地でしかもこの年齢になり、
再び新年度を強く意識するようになるとは、
思ってもいなかった。

 自治会長になり2年が過ぎた。
役員改選の年度であった。

 通常総会があり、1週間後に52もある班の班長会議が、
5つに分け2日間をかけて行われた。
 そのまた1週間後には、定員67名の役員会議があった。

 私は総会で会長に再選され、これらの会議を切り盛りした。
役員の約4分の1が変わった。
 新顔の方々には「是非、自治会の活動に新風を吹き込んでほしい」と、
挨拶でくり返した。
  
 さて、連続した3つの会議の最後、役員会議でのことである。
開会を前に会場の前席に座り、
司会役の副会長さんと進行の打合せをしていた。

 その最中、突然、女性の役員さんが私の前に立った。
何度が朝の散歩で言葉を交わしたことがあり、
お名前も知っていた。

 「お忙しい時にすみません」
驚いて私が顔を上げると、その方は続けた。
 「先日、図書館で会長さんのご本をやっとお借りできました。
お読みしました。
 もう素晴らしくて、私は・・・」
その方は、両手の人差し指を頬にあて、
涙が流れる仕草をした。

 すると私の横にいた副会長さんが、
「やっぱり、皆さん同じですよね。
僕もそうでした」と口を挟んだ。

 その方は、その声に構わず、
「私、ありがとうございました。
それだけ伝えたくて・・、本当に。
 失礼しました」
深々と頭を下げ、去って行った。

 すごく嬉しかった。
恐縮の余り、慌てて立ち上がり、
その後ろ姿に私も頭を下げた。

 「やっぱりそうだよ。そうです。
あの本は、そうですよ!」
 副会長さんは、納得の表情でくり返した。

 
    4月 某日 ②

 教育エッセイを出版すると、
兄は、私からの謹呈とは別に、
10冊を注文してくれた。
 
「俺の弟が書いたんだって、
友だちや知ってる人にあげるんだ」 
 嬉しそうにそう言いながら、
本の代金を差し出した。
 
 私が、そのお金を遠慮すると、
「いいから、自慢しながら渡したいんだから」
と嬉しそうだった。

 お彼岸のお墓参りで、久しぶりにその兄と会った。
帰りに、かかり付けのお医者さんが読んでみたいと言うので、
「例の本を1冊ほしい」と。
 そして、後2人くらいあげたい人がいるとも。

 なので後日、「本代はいいからね」と3冊を持って、
兄の店へ行った。
 
 相変わらず、小まめに動き回り、
店を切り盛りしていた。
 その合間を縫って、しばらく話ができた。

 「そろそろ、この店を終わりにしなければと思って」
それが、話の始まりだった。
 意外な切り出しに、驚いた。

 すでに、店の経営は義理の息子に任せていた。
兄はそれを判断する立場にはなかった。
 それでも、「いつ止めるかを、この頃よく考えるんだ」と言う。
最終的には自分が決めることではないことを兄は承知しているはず。
 でも、兄の言いたいことを聞いて上げようと思った。

 「俺も、もう少しで90になるべ。
動けなくなる日まで何年もないさ。
 だから、動けるうちに止めたいんだよ」

 真意が分からなかった。
「動けなくなったって、
跡継ぎがやるからそれでいいじゃないか!」
 「そうじゃない。
もし,俺が動けなくなってから、
この店が立ちゆかなくなったらって、考えるべ」

 「もしそうなったら、それはそれで仕方ないじゃない」
私がそう言うと、
珍しく兄は強い口調で言った。
 「それが、俺はいやなんだ!」。

 その勢いで続けた。
「俺は、負けたくないんだ。
だから、今だっていい魚を毎朝探して、
美味しいのをと毎日頑張ってる。
 止めるなら、今のまま。
店が傾かない前がいいんだ」

 兄は言う。
「俺が動けなくなってからでも、
やっぱりあの店もだめだったかと言われたくないんだ。
 負けて店を終わりにしたくないんだ」。

 「つまりは、惜しまれて店をたたみたい。
自分が動けるうちなら、
同じようにお客さんに来てもらえる。
 ならば止めても負けたことにならいと言う訳か」
 
 兄は私を正視し「そうだ!」と強く言った。
なのに、私は偉そうに言ってしまった。

 「負けたっていいじゃないか。
負け組と勝ち組ってよく色分けするけど、
負け組のほうが圧倒的に多いんだ。
 ほどんどみんな、負け組だよ。
それで人生終わっているんだよ。
 多くの人が、本当はそうなんだよ」

 「でもなあ、
俺はずっと負けたくなかったから、
ここまで頑張ってきたんだ。
 お前は、こうして立派な本を世に出したべ。
普通なかなか出来ないことをやってのけたさ。
 羨ましいくらいだけど、凄いし自慢だ。
お前らしく頑張ったからだよ。
 俺だって、やっぱりお前にじゃないけど、
負けずに終わりたいんだ。
 分かるべ、なぁ!」

 泣きそうで声にならなかった。
兄の強さも優しさも浸みた。
 精一杯うなずき、
目の前にあった冷たくなったお茶を、ゆっくりと飲んだ。
 



   柳 も 芽 吹 く ~だて歴史の杜公園
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D I A R Y 25年2・3月

2025-03-29 10:40:27 | つぶやき
    2月 某日

 出版したエッセイ集を謹呈した大先輩から、
お手紙が届いた。
 私の稚拙な書に対し、
『全体を通して教職・更に自分の人生を筋を通し
信念で生き続ける力強さを感じました。
 私も卒寿をすぎましたが、
読みながら反省しきり、
今からでも遅くない。
 まわりの人々、
そして自分が豊かな気持ちで生きるため、
少しでも努力しなければと思いました』
と、身にあまる感想を頂いた。

 そんな喜びもつかの間、
この手紙の末尾には、こんな一文が記されていた。

 『世界中不透明、
TVには一日中トランプの顔がうつります。
 「強い者は力の行使を許されており
   弱い者はそれを受け入れざるを得ない」
頻繁に引用されている警句が頭をよぎります』

 以来、厳しい現実に対するこの『警句』が心から離れず、
ただただ無力な自身に唇を噛むだけだった。

 そんな矢先、某紙の文化欄に、
室蘭市在住・大石弘氏のエッセイがあった。
 少々意を強くし、前を向いた。
転記する。

  *     *     *     * 

     一 寸 い い 話 
  
 これは、何かの投稿記事で読んだ記憶がある。
東京の中心の地下街での事。
 「スーツを着た立派な紳士が落ちていた紙クズを
何気なく拾いポケットへ入れた」
というのである。
 それを見ていた筆者はまだまだ日本も捨てたものではない、
と思った、と。

 なかなか出来るものではない。
私も散歩するが道路のゴミを拾うのには勇気がいる。
 良く火ばさみを持ってゴミ拾いをしている人を見かけるが、
背広のポケットへ何気なく入れる姿は見た事はない。

 多少異なるかもしれないが、最近の私の経験である。

 近所の郵便局で用が終わり、
紙クズを捨てようとした。
 ゴミ箱はフタを押すと開いてゴミを入れる様になっている物。
私は捨てようと思ってしゃがみ込もうとすると、
側の椅子に坐っていた学生風の青年が
そのフタを手で押して開けてくれた。
 私は礼を言ってゴミを捨てたがその青年も微笑んでいた。
私は何かとても心温まる気がして、うれしかった。

 又、その帰途である。
保育園帰りであろうと思われる若い父親が、
左手に荷物を持ち、
小さな子を前ひもだっこをし、
大きい4歳くらいの子の手を引いて歩いた。
 と、大きい子が疲れたのか立ち止まってしまった。
父親はその子をおんぶして歩きだした。
 私はそれを見ていて、「頑張れ頑張れ」と内心叫んでいた。

 別の日、同じ家族と思われる子ども2人を、
前に小さい子、後ろに大きい子、
母親は荷物を背負って一生懸命自転車をこいでいた。
 子育て真っ最中である若者、
頑張っている姿は美しいものである。

 又、私は昨年仙台へ行き電車に乗った時、
よく、若者に席を譲られた。
 これは、単に私が、よぼよぼだっただけにすぎないか-。

 ところで、裏金だ、闇バイトだ,自分さえよければ、
自分の国さえよければ、ましてや他国へ侵攻(戦争)し、
等の暗いニュースばかりである。
 しかし、こんな「小さな、良い話」を
拡大・再生産して行けば愚かな社会悪も消えないか、
と期待したいものである。
 一寸(ちょっと)楽観的か?

  *     *     *     *


  3月 某日

 約半年ぶりになるが、
室蘭民報に『楽書きの会』同人の1人として、
執筆したエッセイが載った。

  *     *     *     *

       心躍る 秋 

 市内の主な通りには、街路樹がある。
通りによって樹木の種類が違う。
 なので木の大きさや形状が異なり、
通りの趣を変えている。
 当然、紅葉の華やかさも違う。

 今秋、特に目を惹いたのは、
『山法師』が並ぶ嘉右衛門坂通りだった。
 濃い紅色が通りの両側を飾り、例年以上の鮮やかさ。
思わず足を止め、
小さな幸福感を味わったのは私だけではないのでは。

 そして、今年も期待を裏切らなかったのは、
インター通りと青柳通り交差点から見る秋色だ。
 ここに立ち、まずインター通りに顔を向けると、
両側には真っ黄色に色づいた『イチョウ』が凜とした姿で立ち並ぶ。
 深まり行く秋そのままに、
1日1日歩道も車道も黄金色に覆われていく。
その美しさを共有してか、人も車も穏やかに行き交う。

 今度は、同じ場所から青柳通りへ向きを変える。
そこは『もみじ』が続く並木道。文字どおり、
赤を基調とした紅葉。
 そのグラデーションが、
日により時により空により色を変える。
 思わず「これは天然のイルミネーション!」と今年も呟いていた。

 ふと、秋を迎えた数年前を思い出した。
顔馴染みの方に挨拶と一緒に、
日ごとに輝きを増す当地の紅葉を話題にした。
 すると、地元生まれ地元育ちのその方は、
不思議そうな表情を浮かべ、
「そうですか。そう言われると確かに綺麗かも。
 でも、秋だもの毎年のことでしょ」と。

 あの時、返す言葉を失った。
だが、今年もこうして秋に心躍る私でいる。
 そう、私はまだまだ枯れたりしない。

  *     *     *     *  

 今回に限らず、私のエッセイが掲載されると、
その紙面の写真を、首都圏にいる2人の息子にLINEメールしている。
 多くの場合、それを読んだ率直な感想メールが返ってくる。

 何を隠そう。
私は、いつもそれを心待ちしている。
 好評でも不評でも構わない。
嬉しいものである。
 
 今回の2人のメールも、実に楽しかった。

 『読みました。
中盤までの情景描写がとても良かった、
が、最後が唐突だったかな。
 「まだまだ枯れるには早いことを実感できた気がした」
とかではどうですか。
 むしろ狙って唐突感を出したとか?』

 『私は、こういうキレイな描写系の文章の良さが
全く感じられない人間なんですよ、、、、。
 たぶん、上手な文章なんだと思いますよ~。
小説読まない私みたいな人は、
風景描写はなかなか付いていけないんですよね~』




         陽 春 の 候
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